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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第85話 処理人の沈黙】



 鐘の余韻は、なかなか消えなかった。


 実際の音はもう止んでいる。


 カイの手も縄から離れている。


 古い鐘台は、夕暮れの中で静かに立っているだけだった。


 けれど、ハルダ村の人々の耳には、まだあの低い音が残っていた。


 ごぉん。


 ごぉん。


 ごぉん。


 逃げろ、と告げる音。


 生きろ、と告げる音。


 恐怖を広げるためではなく、恐怖の中で動くための音。


 その鐘が鳴ったから、村人たちは動けた。


 石蔵の中にいた子どもたちは、練習通りに北側の避難線へ移動した。


 担架も遅れながら運ばれた。


 赤紐の原本も、青紐の写しも守られた。


 誰も黒い畑へ走り込まなかった。


 誰も置き去りにされなかった。


 完璧ではなかった。


 泣いた子どももいた。


 転びかけた者もいた。


 ガロンは立ち上がろうとして膝をつき、レクスターにきつく叱られた。


 トーマの担架は一度石に引っかかり、ミラが息を詰めた。


 それでも、全員が生きていた。


 それだけで、石蔵の前には重い安堵が漂っていた。


 カイは、石蔵の壁にもたれて座っていた。


 両手には布が巻かれている。


 縄で擦れた手のひらが赤く腫れ、ところどころ皮が剥けていた。


 レクスターが薬草を塗り、清潔な布で巻いた。


 治る傷だ。


 だが、痛いものは痛い。


 カイは時々指を動かして、顔をしかめていた。


「痛いか」


 アレックスが聞くと、カイは少しだけ強がった顔をした。


「ちょっと」


「ちょっとじゃない顔だ」


「……けっこう痛い」


「正直でいい」


「レクスターにも言われた」


 カイは少しむくれた。


 それでも、以前のように「平気だ」と押し切ろうとはしない。


 痛いと認めること。


 怖いと認めること。


 それも、この村で彼が覚えたことだった。


 マーガレットはカイの前にしゃがみ込んでいた。


「手、ほんとに大丈夫?」


「大丈夫」


「今の大丈夫は信用度どれくらい?」


「……六割」


「低い!」


「じゃあ七割」


「アレックスみたいなこと言わないで!」


 アレックスは苦笑した。


「俺のせいか」


「そう!」


 カイは少し笑った。


 笑った後で、鐘台の方を見た。


 その表情が少しだけ変わる。


 誇らしさ。


 怖さ。


 まだ震えている心。


 それらが混ざっている。


「俺、鳴らしてよかったんだよな」


 小さな声だった。


 マーガレットがすぐ頷く。


「よかった」


「でも、鳴らしたらみんな怖がった」


「鳴らさなかったら、もっと怖いことになってた」


 アレックスも言った。


「君が鳴らしたから、みんな動けた」


「……」


「判断は正しかった」


 レクスターが石蔵の入口から静かに言う。


「合図の発令タイミングは適切でした。黒根の活性化、商会戦闘員の小瓶使用、村人の避難未完了。それらを考えると、連続鐘への移行は妥当です」


 カイはしばらく黙っていた。


 そして、小さく笑った。


「レクスターに言われると、ほんとっぽい」


「本当です」


「うん」


 カイは巻かれた手を見つめた。


「じゃあ、この手も役に立ったんだな」


 マーガレットの目が潤む。


「うん」


「泣くなよ」


「無理」


「早い」


「だって……」


 マーガレットは鼻をすすった。


「手、痛そうなのに、ちゃんと鳴らしたから」


「泣くほど?」


「泣くほど!」


 カイは困ったように笑った。


 その笑いを見て、ミラが担架の上で目を細める。


 トーマも、布越しに息子の方へ手を伸ばした。


「……カイ」


「何、父ちゃん」


「……よくやった」


 それだけだった。


 短い言葉。


 けれど、カイの顔は一瞬で崩れた。


「……うん」


 彼は俯いた。


 泣くのをこらえている。


 ミラが優しく言う。


「怖かったわね」


「……怖かった」


「うん」


「でも、みんな逃げたから」


「うん」


「父ちゃんも母ちゃんも、逃げられたから」


「うん」


「なら、よかった」


 ミラの目にも涙が浮かんだ。


「ありがとう、カイ」


 カイは何も言えなかった。


 ただ、頷いた。


 石蔵の前には、その親子の沈黙を邪魔しない空気があった。


 だが、長く浸ってはいられなかった。


 道具小屋の前では、捕らえた覆面の男が縄で縛られている。


 商会の処理人。


 サヴィルを助けるためではなく、消すために来た可能性が高い男。


 南道から来た回収班は一度退いたが、また来ない保証はない。


 黒い草は活性化した後、アレックスとレクスターの処置で止まっている。


 しかし、南側の汚染は再び少し濃くなった。


 やることは山ほどある。


 アレックスは立ち上がった。


「処理人から話を聞く」


 カイが顔を上げる。


「俺も――」


 言いかけて、止まった。


 自分の手を見る。


 疲れた身体を見る。


 父と母を見る。


 そして、深く息を吐いた。


「……俺は、ここにいる」


 マーガレットが驚く。


「カイ」


「行きたいけど、たぶん今行ったら怒る」


「うん」


「手も痛いし」


「うん」


「だから、ここで地図直す」


 カイは少し悔しそうに言った。


「南の黒い草、また増えたんだろ。地図に描かなきゃ」


 レクスターが静かに頷いた。


「非常に重要です」


「じゃあやる」


 アレックスはカイを見る。


「頼む」


「うん」


 カイは地図を引き寄せた。


 痛む手で筆を持とうとして、顔をしかめる。


 ミラが心配そうに声をかけた。


「無理しないで」


「大丈夫……じゃなくて、左手でやる」


 カイは照れたように言った。


 その言葉に、トーマが弱く笑う。


「……字がさらに読みにくくなるな……」


「父ちゃんよりは読める!」


 石蔵に笑いが戻った。


 アレックス、マーガレット、レクスター、そして巡察ダンは道具小屋へ向かった。


 ダンは歩くことを禁じられているため、本来なら同行できない。


 だが、今回は巡察として尋問の立会いが必要だと本人が主張した。


 レクスターは条件を出した。


「道具小屋までは担架です」


「歩ける」


「担架です」


「……分かった」


 ダンは渋々担架に乗せられた。


 マーガレットがそれを見て、少し笑いそうになった。


「巡察さんもレクスターに勝てないね」


「勝てる者がいるのか?」


 ダンが聞く。


 アレックスとマーガレットは少し考えた。


「……いないかも」


「いませんね」


 レクスターが淡々と答えた。


 道具小屋の前には、ロイドとハンスが見張りに立っていた。


 ロイドは頭に布を巻いている。


 処理人に殴られた傷だ。


 浅いが、痛むはずだった。


「大丈夫ですか」


 アレックスが聞くと、ロイドは苦笑した。


「頭は痛い。だが、立てる」


 レクスターが目を細める。


「後で再確認します」


「分かってる。逃げない」


「なら結構です」


 ハンスは、縄で縛られた処理人を見下ろしていた。


 処理人は黙っている。


 覆面は外されていた。


 年齢は四十前後。


 短く刈った髪。


 頬に古い傷。


 目は冷たい。


 サヴィルのような商人の笑みはない。


 感情を消したような顔だった。


 サヴィルは道具小屋の中で、相変わらず縛られたまま座っている。


 処理人を見ても、助かった顔はしていない。


 むしろ、苦々しい表情だった。


「この男は?」


 アレックスが聞く。


 サヴィルは少し黙った。


「商会の処理人だ」


「名前は」


「……ギース」


 処理人は動かない。


 ギース。


 その名を聞いても、表情を変えなかった。


 レクスターが記録する。


「所属は」


 サヴィルが答える前に、ギースが低く言った。


「所属などない」


 初めての声だった。


 乾いた、低い声。


「商会の命令で動くだけだ」


 ダンが担架の上で眉をひそめる。


「つまり、非公式部隊か」


 ギースは答えない。


 レクスターが冷静に言う。


「あなたはサヴィルを救出しようとしたのではなく、拘束を切った後に処分する予定でしたね」


 ギースは無言。


 サヴィルが顔を歪める。


「そうだろうな」


 アレックスはサヴィルを見る。


「仲間ではないのか」


「商会に仲間などいない」


 サヴィルは吐き捨てるように言った。


 その言葉には、初めて本物の嫌悪が混じっていた。


「役割があるだけだ。成果を出せば使われ、失敗すれば処分される」


 マーガレットが眉を寄せる。


「あなたもそれを村にやったんでしょ」


 サヴィルは黙った。


 マーガレットは続ける。


「村を資源って言った。畑を数字で見た。人を使えるかどうかで見た」


 サヴィルの顔がかすかに歪む。


「自分が同じように処分されそうになって、やっと嫌だった?」


 沈黙。


 ギースは無表情のまま。


 サヴィルは答えなかった。


 だが、その沈黙はこれまでと違った。


 言い返せない沈黙だった。


 アレックスはギースへ向き直る。


「南道の回収班は何人だ」


 ギースは答えない。


「目的は」


 無言。


「サヴィルの口封じか」


 無言。


 レクスターが静かに言う。


「黙秘するなら、こちらは観察情報から判断します」


 ギースの目が少し動いた。


 レクスターは続けた。


「あなたはサヴィルの拘束を切る際、救出用の手順ではなく、背後から喉を狙える位置取りをしていました。小瓶も持っていた。拘束を切った後、汚染反応を発生させ、死亡を黒根による事故に見せる予定だった可能性が高い」


 ギースは答えない。


 だが、サヴィルの顔色が少し悪くなった。


 レクスターは筆を動かす。


「沈黙は否定ではありません」


 マーガレットが小声で言う。


「レクスター、怖い」


「尋問ですので」


「うん、味方でよかった」


 ダンが低く言う。


「南道の回収班は一度退いた。だが、また来るか」


 ギースは無言。


 ダンは続ける。


「来るなら、こちらは村人を逃がす。戦うつもりはない。だが、村に手を出すなら止める」


 ギースの口元がわずかに動いた。


「止められると思うのか」


 アレックスの目が鋭くなる。


「止めた」


「一度だけだ」


「次も止める」


「商会は諦めない」


 ギースは低く言った。


「証拠を残した村は、面倒だ。証人を残した村は、もっと面倒だ。だから、潰す」


 マーガレットの手がハルバードを握りしめる。


「村を潰すって、そんな簡単に言うな」


 ギースは彼女を見る。


「簡単だ」


「簡単じゃない」


「火を使えばいい」


 空気が凍った。


 レクスターの顔が一気に険しくなる。


「火?」


 ギースは無表情のまま言う。


「黒い粉が残っている。火を入れれば、畑も証拠も村人も混ざる」


 マーガレットが一歩前へ出た。


 アレックスが止める。


「マーガレット」


「だって!」


「分かってる」


 アレックスの声も低かった。


 火。


 レクスターが警戒していた最悪の手。


 黒い樽の成分が気化し、黒い粉が畑に残っている今、火を使われれば被害は読めない。


 村を焼く。


 証拠を消す。


 事故に見せる。


 商会ならやりかねない。


 ダンが歯を食いしばる。


「外道が……」


 ギースは淡々と言う。


「処理だ」


 その言葉を聞いた瞬間、サヴィルが低く笑った。


 笑いというより、喉の奥で壊れた音だった。


「そうだ。処理。そう呼ぶんだ、お前たちは」


 ギースはサヴィルを見た。


「お前もそう呼んでいた」


「……」


「村を処理した。畑を処理した。支障を処理した。失敗したから、お前も処理対象になっただけだ」


 サヴィルは黙った。


 その顔には、怒りではない何かが浮かんでいた。


 恐怖。


 屈辱。


 そして、わずかな理解。


 自分が使ってきた言葉が、自分に返ってきた時の顔だった。


 アレックスはギースへ問う。


「火を使う予定だったのか」


 ギースは答えない。


 レクスターが冷静に言う。


「可能性は高い。南道の馬車に火種や油があるか確認が必要です」


「馬車は退いた」


 マーガレットが言う。


「でも、また来るかも」


「はい」


 ダンが言った。


「火への備えを避難線に追加する必要がある」


「水は使えない場所が多い」


 アレックスが言う。


 レクスターが頷く。


「黒い粉に直接水をかけると拡散する恐れがあります。火災対策には、乾燥土、砂、灰を使うべきです」


 マーガレットがすぐ言う。


「砂袋作る!」


「はい」


 レクスターは記録しながら続ける。


「石蔵周囲、北畑境界、道具小屋周辺、集会倉庫の黒い樽周辺に乾燥土袋を配置。火が出た場合、火元を覆う。水をかけない」


 アレックスは頷く。


「村へ戻って伝える」


 ギースが低く言った。


「間に合うか?」


 アレックスは彼を見た。


「間に合わせる」


「村人を使うのか」


「一緒にやる」


「同じことだ」


「違う」


 アレックスは静かに言った。


「お前たちは人を使い捨てる。俺たちは役割を分ける」


 ギースは無言。


 サヴィルが目を伏せた。


 マーガレットは、サヴィルを見た。


「あなたも、何か知ってるなら言って」


 サヴィルは少し黙った。


 そして、低く言った。


「南道の回収班には火油を扱う者がいる。名前はネイグ。髭の男だ」


 アレックスは思い出す。


 あの髭の男。


 交渉役のように見せていた男。


「ネイグ」


 レクスターが記録する。


「火を使う可能性がある」


「高い」


 サヴィルは苦々しく言った。


「彼は証拠が残るくらいなら、全て焼く。私がまだ生きているなら、なおさら」


「なぜ今話す」


 ダンが問う。


 サヴィルは少し笑った。


 疲れた笑みだった。


「私も焼かれたくない」


 マーガレットが睨む。


「自分のためだけ?」


「ああ」


 サヴィルは正直に答えた。


「だが、情報は使えるだろう」


 レクスターが静かに言う。


「使います」


 アレックスも頷いた。


「理由はどうでもいい。村を守る」


 尋問はそこで一度切られた。


 ギースは黙秘を続けたが、火を使う可能性は十分すぎるほど分かった。


 サヴィルからは、ネイグという名前が出た。


 南道の回収班は、ただサヴィルを回収するためではない。


 証拠を消し、場合によっては村ごと焼く。


 その現実が、石蔵へ戻ったアレックスたちの表情を重くしていた。


 村人たちへ説明すると、石蔵の中は一瞬で静まり返った。


 火。


 農村にとって、火は身近で恐ろしいものだった。


 竈の火。


 祭りの火。


 畑を焼く火。


 そして、家を奪う火。


 黒い粉と薬が残る今、それはさらに危険なものになる。


 ルダが泣き出した。


 サムも顔を青くする。


 エルマの子どもは、母が東宿場へ行っている不安もあって、ミレ婆にしがみついた。


 カイは地図を握りしめていた。


「火……」


 声が震えている。


 トーマが担架から言った。


「……カイ」


「何」


「……火の時は……風を見る……」


「風?」


「……畑火事の時……父ちゃんに教わった……風上へ逃げる……煙を吸うな……」


 ミラも続ける。


「濡れ布は、今は使えない場所もあるでしょうけど、煙を避ける布は必要よ」


 レクスターが頷く。


「安全水で湿らせた布を、石蔵内に準備します。ただし汚染区域には持ち込まない」


 ガロンが立ち上がりかけた。


 レクスターが見る。


 ガロンはすぐ座り直した。


「……座って言う。乾いた土なら、北の畑小屋にある。砂も少しある」


 ミレ婆が言う。


「灰は石蔵裏に集めてある」


 ロイドが頭の布を押さえながら言う。


「土袋を作るなら、古い麻袋が使える」


 ハンスが続ける。


「俺が詰める」


 ダンが言う。


「配置は地図で決める。火元を想定して、南道、集会倉庫、道具小屋の三方向」


 レクスターがすぐ地図を広げた。


 村人たちが集まる。


 恐怖で固まっていた空気が、少しずつ作業の空気へ変わっていく。


 怖い。


 でも、やることがある。


 それが、今のハルダ村を支えていた。


 マーガレットは麻袋を手に取る。


「土袋、作ろう」


 カイも立ち上がった。


「俺も」


 ミラが心配する。


「手が」


「結ぶのは無理。でも場所は分かる」


 カイは地図を広げた。


「ここ、風が通る。ここは煙が溜まる。昔、祭りの煙で咳出たから分かる」


 レクスターがすぐ記録する。


「重要です。煙滞留地点」


「また転んだとか咳出たとかが役に立つ」


「経験は記録資源です」


「資源って言うと嫌だ」


「……経験は記録材料です」


「それならいい」


 カイは小さく笑った。


 作業が始まった。


 麻袋へ乾いた土を詰める。


 灰を分ける。


 砂を運ぶ。


 子どもたちは小さな布を集める。


 老人は煙を避ける古い知恵を話す。


 トーマは畑火事の時の風の見方を教える。


 ミラは煙を吸った時の対処を伝える。


 村長オルグは、村の中で燃えやすい場所を指示する。


 ダンは巡察として、避難時の人数確認をさらに厳密にした。


 レクスターはそれを地図へ落とし込む。


 マーガレットは力加減を間違えないように麻袋を運ぶ。


 アレックスは南道と鐘台周辺の黒根を再確認した。


 忙しい。


 恐怖は消えない。


 だが、誰もただ座って震えてはいなかった。


 日が傾く頃、石蔵の前には土袋が並んだ。


 不格好な袋。


 大小ばらばら。


 口の結び目も不揃い。


 しかし、それは火への備えだった。


 村人たちが自分の手で作った防ぎの壁だった。


 カイは、布の巻かれた手で地図に土袋の位置を書き込んだ。


 少し字が曲がっている。


 それでも、読める。


「ここ、土袋」


 彼は呟く。


「ここ、煙注意」


 線を引く。


「ここ、子どもは通らない」


 また線を引く。


 マーガレットが横で見る。


「地図、すごくなってきたね」


「ごちゃごちゃしてきた」


「でも、村って感じがする」


「村って感じ?」


「うん。危ないところも、逃げるところも、残すところも、全部ある」


 カイは地図を見つめた。


 黒い畑。


 残す畑。


 避難線。


 鐘。


 土袋。


 石蔵。


 道具小屋。


 全部が描かれている。


 ハルダ村の傷と、ハルダ村の手が、同じ地図にある。


「……これ、父ちゃんに見せたらまた直されそう」


「たぶんね」


 マーガレットが笑う。


「でも、いい地図だよ」


「うん」


 カイは小さく頷いた。


 夜が近づく前に、アレックスはもう一度道具小屋へ行った。


 サヴィルとギースは別々に縛られている。


 見張りは増やされた。


 火への備えも置いた。


 サヴィルは、アレックスを見ると静かに言った。


「ネイグはまた来る」


「だろうな」


「彼は失敗を嫌う」


「お前の商会はそういう人間ばかりか」


「そういう人間が残る」


 サヴィルは疲れた顔で言った。


「そうでない者は、処理される」


 アレックスは少し黙った。


「お前は、それを知っていて村を同じ目に遭わせた」


「……ああ」


 初めて、サヴィルは否定しなかった。


 アレックスは彼を見た。


「後悔しているのか」


 サヴィルは長く黙った。


「後悔という言葉は、便利すぎる」


「どういう意味だ」


「後悔したと言えば、何かが変わったように聞こえる。だが、村は戻らない。畑も戻らない。私は自分が焼かれそうになって、初めて仕組みの中にいることを思い出しただけだ」


 彼は自嘲するように笑った。


「卑怯だろう」


 アレックスはすぐには答えなかった。


 サヴィルは続ける。


「私は村を資源と呼んだ。ギースは私を処理対象と呼んだ。同じことだ」


「分かっているなら、話せ」


「話している」


「まだあるはずだ」


 サヴィルは目を伏せた。


「ネイグが火を使うなら、まず鐘台を狙う」


 アレックスの顔が変わる。


「鐘台?」


「合図を潰す。村人の動きを止める。次に石蔵周辺に煙を入れる」


 アレックスは奥歯を噛んだ。


「なぜ先に言わなかった」


「今、思いついた。彼ならそうする」


 アレックスはすぐ踵を返した。


 鐘台。


 カイが鳴らした鐘。


 村を動かす合図。


 そこを狙われれば、次の避難が遅れる。


 石蔵へ戻ると、アレックスは全員に伝えた。


 カイの顔が一気に青ざめる。


「鐘台を……?」


 マーガレットがハルバードを握る。


「守ろう」


 レクスターが地図を見る。


「鐘台周囲にも土袋と灰袋を配置。縄の予備を作ります。鐘そのものが壊された場合の代替合図も必要です」


「代替?」


 カイが聞く。


「板を打つ音、角笛、声」


 ミレ婆が言う。


「古い角笛が祭具の箱にあるよ」


「使えます」


 レクスターが頷く。


「鐘が鳴らせない場合、角笛を代替合図にします」


 カイは震える手を見た。


 さっきまで、鐘を鳴らした手。


 その鐘が狙われる。


 怖い。


 悔しい。


 でも、彼は顔を上げた。


「予備の合図、決めよう」


 その声は震えていた。


 けれど、折れていなかった。


「鐘がだめでも、村を動かせるように」


 アレックスは頷いた。


「そうしよう」


 夜が来た。


 ハルダ村はまた忙しかった。


 今度は火への備え。


 鐘台の守り。


 角笛の合図。


 土袋の配置。


 見張りの交代。


 村人たちは疲れ切っている。


 それでも、手を動かした。


 初めての鐘で村を守れたからだ。


 自分たちの準備が意味を持ったと、全員が知ったからだ。


 カイは石蔵の中で、角笛を手に取った。


 古く、ひびが少し入っている。


 昔、祭りで使ったものだとミレ婆が言った。


 カイはそれを見つめ、そっと口元へ近づけた。


 まだ吹かない。


 ただ、重さを確かめる。


「次は、これかもしれない」


 小さく呟く。


 マーガレットが隣に座る。


「手、痛いなら私が吹くよ」


「うん。でも、俺も覚える」


「無理しないで」


「無理じゃない。準備」


 マーガレットは少し黙った。


 それから笑った。


「そっか。準備だね」


「うん」


 石蔵の外で、黒い畑が小さく鳴る。


 ぎし。


 ぎし。


 だが、石蔵の中には別の音があった。


 土袋を積む音。


 筆で地図を直す音。


 角笛を布で拭く音。


 人が明日に備える音。


 アレックスは入口に立ち、夜の南道を見ていた。


 ネイグはまた来る。


 火を使うかもしれない。


 鐘台を狙うかもしれない。


 危険は増えた。


 だが、村もまた備えを増やした。


 選ばされる前に、手を増やす。


 声を残す。


 役割を分ける。


 その言葉を、今度は村全体が形にしている。


 ハルダ村は、まだ折れていない。


 アレックスは静かに雷の刃へ手を添えた。


 次に来る火を、必ず止める。


 鐘も、角笛も、地図も、種も、証言も。


 全部、守るために。


 夜の向こうで、遠く馬車の音は聞こえなかった。


 だが、来る。


 その確信だけが、冷たい風のように村の周りを巡っていた。


 ハルダ村は、眠れぬまま次の夜に備えた。

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