【第84話 初めての鐘】
南道の向こうから、車輪の音が近づいていた。
ごと。
ごと。
ごと。
それは、黒い畑の軋みとは違う音だった。
ぎし、と土の下で鳴る音ではない。
人が作った車輪が、道の凹凸を踏む音。
荷の重みで軸が揺れ、古い轍を辿り、村へ近づいてくる音。
普段なら、何でもない音だったのかもしれない。
野菜を運ぶ荷車。
麦を積んだ馬車。
宿場へ向かう商人。
旅人。
そんなありふれたものだったのかもしれない。
けれど今、ハルダ村にとってその音は、胸の奥を冷たく掴むものだった。
南道は黒い。
畑は汚染されている。
村の異変を知る者なら、普通は近づかない。
それでも来る者がいる。
それは、偶然とは思えなかった。
石蔵の前で、村人たちが固まっていた。
子どもたちの顔が強張る。
ルダはミレ婆の服の裾を握りしめ、サムは木札を持ったまま動けなくなっている。
トーマとミラは担架の上で身を起こそうとして、痛みに顔を歪めた。
村長オルグは杖を握り、震える手で地図を指そうとしている。
巡察ダンは立ち上がろうとして、レクスターの鋭い視線で止まった。
「動かないでください」
「しかし」
「あなたが倒れたら、指示役が減ります」
ダンは歯を食いしばり、座ったまま拳を握った。
「……分かった」
アレックスは南道の方を見ていた。
音はまだ遠い。
だが、確かに近づいている。
馬の蹄の音も混じっている。
一頭か。
二頭か。
荷車ではなく馬車。
サヴィルの言った回収班。
その可能性が高い。
マーガレットはハルバードを握りしめていた。
いつもなら前へ出る。
だが、今はカイの横にいる。
カイは地図を抱えて立っていた。
顔色は白い。
唇も震えている。
けれど、足は動いていない。
逃げてはいない。
アレックスは低く言った。
「確認が必要だ」
レクスターが頷く。
「鐘一つは人影確認後。現時点では準備段階です」
カイが息を吸う。
「俺、鐘の縄のところへ行く」
「一人では行かない」
マーガレットが即座に言った。
「分かってる」
「私が行く」
アレックスは二人を見た。
「マーガレット、カイを連れて鐘の縄へ。人影が確認できたら一度。商会と判別できたら二度。危険が迫れば連続」
「了解」
マーガレットの声はいつもより低い。
「カイ、行くよ」
「うん」
カイは一歩踏み出した。
その瞬間、ミラの声がした。
「カイ」
カイは振り返る。
ミラは担架の上で、布越しに手を伸ばしていた。
動けない。
立ち上がれない。
それでも、母の目で息子を見ている。
「……怖かったら……」
カイは言葉を引き継いだ。
「名前を呼ぶ」
「……うん」
「戻る」
「……うん」
トーマも、かすれた声で言った。
「……走るなよ」
カイは、ほんの少しだけ笑った。
「今それ?」
「……大事だ……」
「分かってる」
カイは頷いた。
「行ってくる」
その言葉に、ミラは目を閉じ、涙をこぼした。
マーガレットがカイの隣に立つ。
「大丈夫。私がいる」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「私も怖い」
カイが少し驚く。
「マーガも?」
「うん」
マーガレットは笑わなかった。
真面目に言った。
「でも、やる」
カイは地図を抱え直した。
「うん。やる」
二人は鐘の縄が引かれている場所へ向かった。
石蔵から少し離れた、旧水路の手前。
そこに、昨日張った縄の端がある。
鐘台は南側にあるが、ここからなら危険区域へ近づかずに鳴らせる。
カイは縄の前に立つ。
手を伸ばす。
指が震えている。
マーガレットは何も言わず、その隣に立った。
手は出さない。
カイが自分で握るのを待った。
やがて、カイは縄を掴んだ。
ぎゅっと。
爪が食い込むほど強く。
「まだ鳴らさない」
レクスターの声が石蔵側から届く。
「確認後です」
「分かってる!」
カイは声を返した。
アレックスは、レクスターとともに南道へ少し進んだ。
前へ出すぎない。
黒い草の濃い場所へは入らない。
村人たちから離れすぎない。
だが、車輪の正体を確認するためには、ある程度近づく必要がある。
レクスターが水の本を開き、周囲の汚染を見ている。
「ここから先、右側の黒草が反応しています」
「左へ寄る」
「左も水溜まりがあります」
「真ん中か」
「はい。ただし轍に注意」
アレックスは慎重に歩いた。
南道の空気は重い。
昨日、サヴィルの馬車から書類を回収した場所に近い。
梨の木の周囲には、まだ黒い粉が残っている可能性がある。
風向きも気になる。
アレックスは口元の布を締め直した。
車輪の音が近づく。
ごと。
ごと。
ごと。
そして、見えた。
黒い畑の向こう。
南道の曲がり角から、灰色の馬車が現れた。
一台。
馬は二頭。
御者台に一人。
後ろに幌付きの荷台。
荷台の横に、二人の男が乗っている。
服装は商人風だが、動きが商人ではない。
腰に短剣。
背には棒状の道具。
そして、馬車の側面に、小さな印があった。
グレイ商会。
アレックスの目が細くなる。
「商会だ」
レクスターも確認する。
「印あり。人数、少なくとも三。荷台内部は不明」
「鐘二つだな」
「はい」
アレックスは手を上げて合図した。
石蔵側。
カイが見ている。
アレックスの手が、二本立つ。
カイの顔が強張った。
マーガレットが隣で頷く。
「二回」
「うん」
カイは縄を引いた。
ごぉん。
一つ目。
鐘の音が村へ広がる。
石蔵で村人たちが動き始める。
子どもたちを中央へ。
負傷者の担架を確認。
赤紐をミレ婆へ。
青紐をダンへ。
白紐はアレックスが持っている。
鐘が二度目を鳴らす。
ごぉん。
商会の可能性高し。
いや、ほぼ確定。
村人たちの顔が青ざめる。
だが、練習の通りに動いた。
ルダが泣きそうになりながらミレ婆の手を握る。
サムは木札を置いて、石蔵の奥へ走りかけた。
カイが遠くから叫ぶ。
「走るな! 足元!」
サムはびくっと止まる。
そして、歩いた。
震えながら。
それを見たカイが、縄を握ったまま小さく息を吐いた。
マーガレットが言う。
「届いてるよ」
「うん」
アレックスは南道へ向き直った。
馬車は止まらない。
こちらに気づいているはずだ。
それでも進んでくる。
御者台の男が、手を上げた。
親しげな仕草。
だが、目は笑っていない。
「そこの方!」
男が声を張る。
「我々はグレイ商会の者です! ハルダ村へ置いてある荷の確認に参りました!」
アレックスは返事をしない。
レクスターが小声で言う。
「“荷の確認”と言いました」
「黒い樽か、サヴィルか、書類か」
「全てでしょう」
馬車は、一定の距離で止まった。
黒い草が濃い場所の手前。
彼らも危険区域を把握している。
御者台の男は降りた。
年齢は三十代半ば。
整った髭。
商人のような笑み。
だが、足運びに隙が少ない。
背後の二人も降りる。
一人は大柄。
一人は細身。
どちらも腰の短剣に手を近づけている。
「これはこれは」
髭の男が笑った。
「旅の方でしょうか。村の者ではありませんな」
アレックスは静かに答えた。
「ハルダ村は現在、汚染対処中だ。外部者の立ち入りは許可できない」
「汚染?」
男はわざとらしく眉を上げる。
「それは困りました。我々の商会も、村の農地再生事業に関わっておりましてね。確認すべき資材があります」
レクスターが低く言う。
「資材ではなく、証拠隠滅対象では」
男の笑みが少し固まった。
「失礼、そちらの方は?」
「記録係です」
「ほう」
男はアレックスの顔をじっと見た。
何かを確かめるように。
そして、目を細める。
「……追放王子殿、でしょうか」
石蔵側で、マーガレットの身体が強張る。
カイも縄を握る手に力を込めた。
アレックスは表情を変えない。
「誰に聞いた」
「商会は情報を扱います」
「なら、サヴィルが拘束されていることも知っているか」
男の笑みが消えかけた。
だが、すぐに戻る。
「サヴィル? 我が商会の者がこちらに?」
「知らないふりは下手だな」
男は軽く笑った。
「物騒ですな。誤解があるようです。彼は我が商会の調整役です。もしこちらにいるなら、引き渡していただきたい」
「断る」
「なぜ?」
「証人だからだ」
「証人?」
「ハルダ村を汚染した件で」
男の後ろの大柄な男が、短剣に手をかけた。
アレックスは雷の刃に手を添える。
レクスターは水の本を開いた。
空気が張り詰める。
髭の男は片手を上げ、背後の男を止めた。
「乱暴はいけません」
その声は穏やかだったが、目は冷たい。
「追放王子殿。我々は正規の商会です。王都外郭管理局の承認も受けております。辺境の農地再編は、王国の方針でもある」
「その書類で村長の署名が偽造されていた」
男の笑みが一瞬止まった。
アレックスは続ける。
「馬車にあった書類も回収した。リゼット宛ての手紙も」
男の目から笑みが消えた。
完全に。
「……馬車を開けたのですか」
「罠も解除した」
レクスターが淡々と言った。
男はレクスターを見た。
その目に、明確な敵意が宿る。
「余計なことを」
マーガレットが遠くでハルバードを握る。
今すぐ走り出したい。
だが、カイが鐘の縄を握っている。
村人たちの避難が進んでいる。
自分がここを離れれば、カイの護衛が薄くなる。
マーガレットは歯を食いしばった。
カイが小さく言う。
「マーガ」
「何?」
「俺、大丈夫。行くなら」
「行かない」
マーガレットは即答した。
「今の私の役は、ここ」
カイは少し驚いた。
そして、頷いた。
「うん」
南道では、髭の男が一歩前へ出た。
「その書類は、商会の機密です。返却していただきたい」
「村を壊した証拠だ」
「試験中の事故です」
「事故ではない」
「判断するのは王都です」
「王都に関係者がいることも分かっている」
男の顔が険しくなる。
沈黙。
風が黒い草を揺らす。
青白い粉がわずかに舞う。
レクスターが警告する。
「風下です。長時間の対話は危険」
「分かった」
アレックスは男へ言った。
「ここから引け。村へは入れない」
「断れば?」
「止める」
「三人で?」
男はちらりと石蔵の方を見る。
「村人たちを守りながら?」
その視線に、アレックスの胸が冷える。
相手は見ている。
村人が避難していること。
鐘が鳴ったこと。
石蔵が拠点だということ。
狙いを変える可能性がある。
レクスターが小声で言った。
「時間を稼ぎます。避難完了まで」
「あと?」
「確認が必要」
アレックスは手を上げ、石蔵側へ合図した。
避難状況。
カイが振り返る。
ミレ婆が赤紐を抱え、子どもたちを石蔵奥へ集めている。
担架はまだ移動準備中。
トーマとミラの担架が重い。
ガロンとロイドが支えているが、時間がかかる。
カイはアレックスへ首を横に振った。
まだ。
アレックスは頷き返す。
時間を稼ぐ。
髭の男が言った。
「こちらも荒事は望みません。サヴィルと樽、書類を返してください。村には補償を用意します」
マーガレットが遠くで怒鳴りそうになったが、飲み込んだ。
アレックスは静かに言う。
「補償?」
「金銭、食糧、種。望むなら新しい土地の紹介も」
「土地を壊して、別の土地を売るのか」
「再編です」
「奪うことを綺麗な言葉で言うな」
男の顔から、商人の笑みが消えた。
「王子殿。あなたは立場をお分かりでない」
「追放されたからな」
「なら、なおさらです。王都に戻る道を探しているなら、商会を敵に回すべきではない」
「戻るために旅しているわけじゃない」
「では何のために?」
アレックスは少しだけ黙った。
背中に、白紐の写しがある。
グレイルの帳簿がある。
石蔵には赤紐の原本がある。
カイの地図がある。
ルミアへの手紙は、もう豆袋の底に隠れて東宿場へ向かっている。
この旅が何のためか。
答えは、もう何度も見てきた。
「灯りを守るためだ」
アレックスは言った。
髭の男は眉をひそめる。
「詩的ですな」
「分からなくていい」
「では、交渉は不成立と」
「そうだ」
男は背後の二人へ目配せした。
大柄な男が荷台から筒のようなものを取り出す。
レクスターの顔が変わった。
「散布筒!」
「何だ」
アレックスが問う。
「粉末薬を撒く道具です。黒い草を活性化させる可能性があります!」
男が笑った。
「村へ入る必要はないのですよ」
筒が南道の黒い畑へ向けられる。
もし黒い草が再活性化すれば、避難線へ向かう村人たちを襲うかもしれない。
アレックスは即座に動いた。
「レクト!」
「抑えます!」
レクスターの水糸が伸びる。
筒の先を濡らさず、周囲の空気中の湿りで包む。
だが、距離がある。
大柄な男が筒を振る。
青白い粉が舞いかける。
アレックスが雷糸を走らせた。
筒の金具へ。
「雷針!」
微細な雷が金具を弾く。
大柄な男の手が痺れ、筒が落ちる。
粉が地面へこぼれる。
黒い草がざわりと動いた。
「まずい!」
レクスターが叫ぶ。
粉が黒い草に触れた。
草の黒い筋が青白く光り、南道の畑がざわざわと揺れ始める。
カイがそれを見た。
鐘の縄を握る手に力が入る。
避難がまだ完了していない。
でも、黒い草が動いた。
危険が迫る。
判断。
カイは一瞬だけ迷った。
その一瞬に、父と母の声が頭に浮かぶ。
怖かったら名前を呼ぶ。
「カイ」
自分の名前。
「トーマ」
父の名。
「ミラ」
母の名。
「ハルダ村」
村の名。
カイは縄を強く引いた。
ごぉん。
ごぉん。
ごぉん。
連続した鐘の音が、ハルダ村に響いた。
即時避難。
本番。
石蔵の中で、村人たちが動いた。
練習通りに。
いや、完全ではない。
サムが泣く。
ルダがミレ婆の袖を握る。
ガロンが焦って立ち上がりかける。
だが、ダンが叫んだ。
「練習通りだ! 子ども優先! 担架は二組に分けろ!」
ミレ婆が赤紐を抱える。
「サム、ルダ、こっち!」
トーマとミラの担架が動く。
村長オルグの担架も続く。
ロイドとハンスが支える。
ガロンは無理に立たず、座ったまま木札を掴み、避難線の方を指示する。
「そっちじゃない! 北だ!」
カイの鐘が鳴り続ける。
マーガレットはカイの隣で、黒い草の動きを見ていた。
南側の畑が波打っている。
こちらへ来る。
まだ距離はある。
だが、速い。
「カイ、鳴らし続けて!」
「うん!」
カイは必死に縄を引く。
手のひらが痛い。
縄が皮膚を擦る。
それでも離さない。
鐘の音が村を打つ。
ごぉん。
ごぉん。
ごぉん。
アレックスは南道で商会の男たちへ向き直った。
髭の男は舌打ちした。
「予定より反応が早いな」
「お前たち……!」
アレックスが雷の刃を抜く。
商会の大柄な男が短剣を構える。
細身の男は、別の小瓶を取り出す。
レクスターが叫ぶ。
「小瓶!」
アレックスは踏み込んだ。
黒い草が動く前に、小瓶を落とさせる。
雷糸で手首を弾く。
細身の男が小瓶を取り落とす。
だが、髭の男がそれを蹴った。
小瓶が黒い畑へ転がる。
「止めろ!」
アレックスは雷糸を伸ばす。
間に合う。
小瓶が割れる直前。
レクスターの水糸が包む。
衝撃を殺す。
小瓶は割れずに止まった。
しかし、黒い草はすでに活性化している。
南道の畑から、黒い根が伸び始めた。
石蔵へ向かって。
避難線へ向かって。
マーガレットが叫ぶ。
「アレックス! こっちは避難中!」
「分かった!」
アレックスは雷を足元へ走らせる。
黒い根の進行方向を弾く。
直接焼かない。
灰の線へ誘導する。
レクスターが水糸で粉をまとめ、飛散を抑える。
だが、数が多い。
商会の男たちは後退し始めている。
目的は足止めか。
それとも混乱を作ってサヴィルを奪うつもりか。
アレックスは一瞬、道具小屋の方向を見る。
サヴィル。
もし回収班が別動で動いていれば。
「マーガレット!」
アレックスが叫ぶ。
「道具小屋を見ろ!」
マーガレットの顔が変わる。
「カイ!」
「行って!」
カイが叫ぶ。
「俺、鐘鳴らす!」
「でも!」
「行って! サヴィル取られたら困るんだろ!」
マーガレットは歯を食いしばる。
カイを残したくない。
だが、カイは縄を握りしめている。
彼の横には、避難線へ向かう村人たちがいる。
今の彼は、ただ守られるだけの子どもではない。
合図役だ。
マーガレットは短く頷いた。
「すぐ戻る!」
彼女は道具小屋へ走った。
走る道は、避難線とは逆。
黒い草を避けながら、ハルバードを握り、低く構える。
道具小屋の近くには、まだ見張りがいるはずだ。
だが、近づくと、見張りのロイドが倒れているのが見えた。
「ロイドさん!」
意識はある。
頭を押さえている。
「……後ろから……誰か……」
別動。
マーガレットの目が鋭くなる。
道具小屋の扉が開いている。
中から物音。
サヴィルの声。
「遅かったな」
別の男の声。
「黙れ。失敗者が」
マーガレットは踏み込んだ。
道具小屋の中には、黒い覆面の男が一人いた。
サヴィルの拘束を切ろうとしている。
サヴィルは壁際に座ったまま、複雑な顔をしていた。
助けが来たはずなのに、安堵していない。
むしろ、顔色が悪い。
覆面の男はマーガレットを見る。
「女一人か」
マーガレットはハルバードを構えた。
「一人で十分」
声は低い。
怒っている。
だが、冷静だった。
「サヴィルから離れて」
覆面の男は短剣を抜いた。
「邪魔だ」
男が踏み込む。
速い。
商人ではなく、明らかに戦闘員。
マーガレットはハルバードの柄で短剣を受ける。
金属音。
狭い小屋の中では、ハルバードは振りにくい。
男はそれを分かっている。
懐へ潜り込もうとする。
マーガレットは大きく振らない。
柄を短く持ち、石突で男の足を払う。
「近づくな!」
男が体勢を崩す。
だが、倒れない。
短剣がマーガレットの腕をかすめる。
「っ!」
血は浅い。
だが痛い。
男が笑う。
「力任せの女か」
マーガレットの目が細くなる。
「違う」
彼女は足を半歩引いた。
ハルバードを壁に当てず、天井にも当てず、狭い空間で角度を調整する。
グレイルで学んだ。
ハルダで学んだ。
壊さず、狭い場所でも、守るために使う。
「今は、ちゃんと考えてる」
男が再び踏み込む。
マーガレットは短剣を受け流し、柄を男の胸へ押し当てる。
斬らない。
突き飛ばす。
男の背が壁に当たる。
サヴィルが横で低く言った。
「殺すな。そいつは商会の処理人だ。死体になれば面倒が増える」
「あなたに言われなくても!」
マーガレットは叫ぶ。
男が小瓶を取り出そうとする。
マーガレットは即座にハルバードの柄で手首を叩いた。
小瓶が落ちる。
割れる前に、彼女は足で布の上へ転がす。
「レクスターみたいにできた!」
自分で驚いたように言う。
男が顔を歪める。
その隙にマーガレットは男の足を払い、縄で押さえ込んだ。
「ロイドさん! 縄!」
外からロイドがふらつきながら縄を投げる。
マーガレットは男を縛る。
力を入れすぎない。
でも逃がさない。
「これ、何分の一!?」
自分で叫びながら縛る。
ロイドが外から答えた。
「知らねえよ!」
そのやり取りに、サヴィルが一瞬だけ呆れた顔をした。
南道では、アレックスとレクスターが黒い根を抑えていた。
商会の馬車は後退し始めている。
目的の一つは別動によるサヴィル奪還。
それが失敗したなら、長居はしないつもりだろう。
髭の男が叫ぶ。
「撤退!」
大柄な男が粉筒を拾おうとする。
アレックスが雷糸で弾く。
「持っていくな!」
筒が地面へ転がる。
レクスターが水糸で包み、汚染を封じる。
商会の男たちは馬車へ戻り始めた。
アレックスは追いたい衝動を抑えた。
追えば、村から離れる。
黒い根を放置することになる。
今は村。
証拠も村も守る。
そう言ったばかりだ。
アレックスは歯を食いしばり、追撃ではなく黒根の進行を止めた。
「レクト、灰!」
「撒きます!」
レクスターが乾燥灰を広げる。
アレックスが根を誘導する。
黒根が灰に触れ、じゅ、と音を立てて止まる。
鐘はまだ鳴っている。
カイの手は痛みで赤くなっていた。
それでも引く。
避難線では、村人たちの移動がほぼ完了していた。
ミレ婆が赤紐を抱え、子どもたちを北側へ移す。
トーマとミラの担架も動いた。
村長オルグも。
ダンは青紐を胸に抱え、石蔵入口で最後の人数確認をしていた。
「全員いるか!」
「サム!」
「いる!」
「ルダ!」
「いる!」
「ミレ婆!」
「いるよ!」
「ガロン!」
「いる!」
「カイは!」
カイが鐘の縄を引きながら叫ぶ。
「ここ!」
ダンが頷く。
「避難完了!」
その声がアレックスへ届いた。
アレックスは手を上げる。
カイへ合図。
鐘停止。
カイは縄を握ったまま、しばらく動けなかった。
マーガレットはまだ戻らない。
南道の馬車は後退していく。
黒根は止まりつつある。
でも、身体が震えている。
すると、背後からマーガレットの声がした。
「カイ!」
カイが振り返る。
マーガレットが走って戻ってくる。
腕に浅い傷。
服に土。
でも、立っている。
「サヴィルは?」
カイが聞く。
「無事。処理人一人捕まえた」
「処理人?」
「サヴィルを助けるんじゃなくて、たぶん消す役」
カイの顔が強張る。
「……商会って、本当に」
「うん」
マーガレットはカイの手を見た。
縄で擦れて赤くなっている。
「手」
「平気」
「平気じゃない」
「でも、鳴らせた」
「うん」
マーガレットは涙ぐみながら笑った。
「鳴らせた。すごかった」
カイは顔を歪めた。
泣きそうだった。
でも、泣かなかった。
「みんな逃げられた?」
「逃げられた」
アレックスの声が届いた。
彼は南道から戻ってきていた。
レクスターも一緒だ。
粉筒と小瓶を封じた布袋を持っている。
「村人は全員避難線へ入った。黒根も止めた」
カイの膝から力が抜けた。
マーガレットが支える。
「カイ!」
「……よかった」
カイは小さく言った。
「鐘、鳴らしてよかった」
「ああ」
アレックスは彼の前に膝をついた。
「君の判断で、間に合った」
「……俺、怖かった」
「うん」
「手、痛い」
「うん」
「でも、鳴らした」
「ああ」
カイの目から涙が落ちた。
「俺、ちゃんとできた?」
アレックスは頷いた。
「できた」
マーガレットも言った。
「できたよ」
レクスターも静かに言った。
「合図役として、非常に適切な判断でした」
カイは泣いた。
声を殺そうとしたが、無理だった。
泣きながら、縄から手を離す。
その手は赤く擦れていた。
マーガレットが布を巻く。
レクスターが処置を確認する。
アレックスは、南道の方を見た。
商会の馬車は遠ざかっている。
だが、完全に消えたわけではない。
彼らは引いただけだ。
サヴィル奪還、あるいは口封じは失敗した。
だが、グレイ商会がハルダ村を諦めたとは思えない。
それでも。
初めての鐘は、村を守った。
避難線は機能した。
カイの合図で、村人たちは動けた。
マーガレットはサヴィルを守り、処理人を捕らえた。
アレックスとレクスターは黒根の再活性化を抑えた。
全員で守った。
石蔵の北側から、村人たちが少しずつ戻ってくる。
ミレ婆が赤紐を抱えたまま、カイを見た。
「よく鳴らしたね」
カイは涙を拭く。
「……うん」
トーマとミラの担架も戻ってきた。
ミラは手を伸ばし、布越しにカイの頬へ触れた。
「……よく……戻った……」
トーマも目を細める。
「……走らなかったな……」
カイは泣きながら笑った。
「そこかよ……」
「……大事だ……」
石蔵の前に、少しだけ笑いが生まれた。
怖かった。
本当に怖かった。
それでも、笑いが戻った。
夕暮れのハルダ村で、鐘台の縄が風に揺れていた。
初めて本当に鳴らされた鐘。
祭りの音ではない。
けれど、村を守る音だった。
ハルダ村は、また一つ踏みとどまった。
だが、商会の回収班は存在する。
処理人も捕らえた。
そして、商会がサヴィルを助けるのではなく消そうとしていたことも分かった。
危機は深まった。
証拠の重さも増した。
アレックスは、捕らえた処理人が運ばれてくるのを見ながら、静かに拳を握った。
次は、彼から聞く番だ。
グレイ商会が、どこまでこの村を消そうとしているのか。
そして、どこまで王都へ繋がっているのか。
鐘の余韻が、まだ空に残っていた。
その音は、ハルダ村が生きている証のように、夕闇の中へ消えていった。




