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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第83話 合図を決める夜】



 ハルダ村から東宿場へ向かったエルマとハンスの背中が見えなくなってから、村には奇妙な静けさが残った。


 誰も、すぐには動けなかった。


 石蔵の前に集まった村人たちは、二人が消えた道をしばらく見つめていた。


 豆袋の底に、ハルダ村の声が入っている。


 グレイルへ送る写し。


 エイナへの報告。


 ルミアたちへの手紙。


 カイの一文。


 マーガレットの絵。


 ミレ婆が託した豆種。


 それらが、村の外へ出ていった。


 それは希望だった。


 同時に、不安でもあった。


 届くだろうか。


 途中で奪われないだろうか。


 東宿場にいるという塩商人ルベンに気づかれないだろうか。


 宿の主人は、ちゃんと受け取ってくれるだろうか。


 誰も声には出さない。


 けれど、全員の胸に同じ問いがあった。


 カイは、木札のそばに立っていた。


 さっきまで「届く」と言っていた。


 アレックスも、マーガレットも、レクスターも、届くと言った。


 でも、見えなくなった背中を前にすると、その言葉だけでは心が支えきれない瞬間がある。


 カイは拳を握って、東宿場へ続く道を見つめた。


「届くよな」


 小さな声だった。


 アレックスは隣に立った。


「届く」


「……うん」


「心配か」


「心配」


 カイは正直に言った。


「でも、俺が走って追いかけても意味ないんだよな」


「ああ」


「ここでやることがある」


「ああ」


「分かってる」


 カイは自分に言い聞かせるように頷いた。


「分かってるけど、変な感じだ」


「託すのは、難しい」


 アレックスが言うと、カイは少し驚いたように見た。


「アレックスでも?」


「俺でも」


「王子なのに?」


「王子でも」


「追放王子だし?」


「それは関係あるかもしれない」


 カイは少しだけ笑った。


 けれど、すぐに表情を戻す。


「俺、待つの苦手だ」


「知ってる」


「だよな」


「でも、昨日より待ててる」


「……そうかな」


「そうだ」


 カイは木札を見る。


 “避難線”


 太い字で書かれた札。


 昨日まではなかったもの。


 村の逃げ道。


 村を守るための線。


「じゃあ、合図決める」


 カイは顔を上げた。


「待つだけじゃなくて、準備する」


 その声は少し震えていた。


 でも、しっかり前を向いていた。


 アレックスは頷いた。


「行こう」


 石蔵の中では、すでにレクスターが地図を広げていた。


 マーガレットはその横で木札の束を揃えている。


 ミレ婆は子どもたちを石蔵の奥へ座らせ、トーマとミラは担架の上から地図を覗き込んでいた。


 村長オルグはまだ体を起こすだけで辛そうだったが、村長として話を聞くために作業台の近くへ移されている。


 巡察ダンも入口近くに座り、片足を伸ばしたまま地図を見ていた。


 全員が万全ではない。


 それでも、全員が関わっていた。


 レクスターが言う。


「商会回収班の到着可能性は、サヴィルの証言では三日以内です」


 石蔵に重い沈黙が落ちる。


「ただし、これはサヴィルの証言です。早まる可能性も、遅れる可能性もあります」


 マーガレットが眉を寄せる。


「今日来ることもある?」


「否定できません」


「嫌な答え」


「事実です」


 ダンが低く言った。


「商会が来るなら、まず南道だろう。サヴィルの馬車があった場所を確認し、そこから村へ入る」


「南道は汚染が濃い」


 アレックスが言う。


「相手がそれを知っているなら、対策して来る可能性がある」


 レクスターが頷く。


「はい。グレイ商会は薬剤の扱いに慣れている。黒い草を避ける道具、あるいは抑制灰のようなものを持っている可能性があります」


 マーガレットがハルバードを握る。


「じゃあ、こっちの黒い畑が壁になるとは限らない」


「はい」


 石蔵の空気がさらに重くなる。


 黒い畑は危険だ。


 村人たちにとっては近づけない場所。


 しかし、商会側にとっては自分たちが仕掛けたものだ。


 完全ではなくとも扱いを知っているかもしれない。


 カイが地図へ身を乗り出した。


「南道から来るなら、最初に見えるのは水車小屋じゃなくて集会倉庫だ」


 ダンが頷く。


「そうだな」


「でも、集会倉庫の手前に古い鐘台がある」


「鐘台?」


 マーガレットが聞く。


「昔、畑で火事があった時に鳴らす鐘。今は使ってないけど、柱は残ってる」


 ミレ婆が頷く。


「あるね。音はもう悪いだろうけど、鳴るはずだよ」


 レクスターがすぐ地図に印をつける。


「合図候補です」


 カイの目が少し光る。


「南道側で誰かが見張って、商会が見えたら鐘を鳴らす?」


 ダンが首を横に振る。


「近すぎる。見張りが捕まる危険がある」


「じゃあ、もっと手前?」


 アレックスが言った。


「鐘台には近づかなくても、紐で鳴らせるかもしれない」


 カイが顔を上げる。


「紐?」


「鐘の舌に縄を結んで、離れた場所から引く」


 レクスターが考える。


「可能です。鐘台から石蔵側へ縄を引けば、危険区域に近づかず合図を出せる」


 マーガレットが手を上げる。


「縄、ある!」


 ガロンが言う。


「道具小屋に古い縄があるはずだ。サヴィルを入れた小屋じゃなくて、石蔵の裏にも少し残ってる」


 レクスターが頷く。


「では、鐘台に縄を結ぶ班が必要です」


 マーガレットが即答する。


「私行く!」


 レクスターが言う。


「力が必要なので適任です」


「やった!」


「ただし、鐘を壊さないように」


「……八分の一?」


「鐘の状態を見て判断します」


「怖い!」


 カイが言う。


「俺も行く。鐘台の場所知ってる」


 ミラがすぐ顔を上げる。


「カイ……」


「一人じゃ行かない。マーガとアレックスと行く」


 カイは母の目を見る。


「走らない。黒い草に近づかない。ちゃんと指示聞く」


 ミラは心配そうに唇を噛んだ。


 トーマも何か言いたげだった。


 だが、村長オルグが静かに言った。


「カイは、今の村の道を一番よく見ている」


 石蔵が静まる。


「無理はさせられん。だが、必要な役だ」


 ミラは目を伏せた。


 それから、カイを見る。


「怖かったら」


「名前を呼ぶ」


「……うん」


「戻るから」


「絶対よ」


「うん」


 カイは頷いた。


 今度は軽く言わなかった。


 絶対に戻る。


 その言葉の重さを、彼はもう知っている。


 合図は三種類に決まった。


 一つ。


 鐘を一度鳴らす。


 南道に人影。


 二つ。


 鐘を二度鳴らす。


 商会の可能性が高い。


 三つ。


 鐘を連続して鳴らす。


 即時避難。


 石蔵から北側の避難線へ移動。


 子どもと負傷者を優先。


 証拠の白紐と赤紐を別々の者が持つ。


 黒い樽には近づかない。


 サヴィルは道具小屋に残し、見張りは撤退する。


「サヴィルを置いていくのか」


 ガロンが聞いた。


 石蔵の空気がまた重くなる。


 レクスターは答えた。


「緊急避難時には、村人の命が最優先です」


「でも証人だろ」


「はい。しかし、商会回収班が来た場合、サヴィルの奪還または口封じが目的の可能性が高い。見張りが巻き込まれる危険があります」


 ダンが低く言う。


「悔しいが、見張りを死なせるわけにはいかない」


 アレックスは頷いた。


「緊急時は、サヴィルより村人を優先する」


 マーガレットは少し苦い顔をした。


「サヴィルを守るために村の人が危なくなるのは違うもんね」


「はい」


 レクスターが静かに言う。


「ただし、可能なら拘束したまま移動させます。あくまで優先順位です」


 カイが小さく言った。


「また選ぶ話だ」


 アレックスは彼を見た。


 カイは地図を見つめている。


「でも、今回は先に決めてる」


「ああ」


「だから、その時に迷わない」


「そうだ」


 カイは深く息を吐いた。


「嫌だけど、大事なんだな」


 レクスターが頷く。


「はい。事前に決めることで、助けられる命が増えます」


 カイはもう一度地図を見た。


「じゃあ、描く」


 彼は避難線の横に、合図の印を書き足した。


 一つ丸。


 二つ丸。


 連続線。


 子どもにも分かるように。


 老人にも分かるように。


 文字が読めなくても、見て分かるように。


 マーガレットがそれを見て言った。


「すごい分かりやすい」


「本当?」


「うん。私でも分かる」


「それ褒めてる?」


「褒めてる!」


 レクスターも頷いた。


「視覚記号として有効です」


「難しいけど、褒めてる?」


「褒めています」


 カイは少し照れた。


 その後、鐘台へ縄を結ぶ作業に向かった。


 メンバーはアレックス、マーガレット、レクスター、カイ。


 レクスターは汚染確認役。


 マーガレットは縄と鐘台の確認。


 アレックスは黒根の剥離。


 カイは道案内。


 鐘台は、集会倉庫から少し離れた場所に立っていた。


 木製の柱が二本。


 その上に、古い金属の鐘。


 昔は畑の火事や獣害の時に鳴らしていたらしい。


 今は苔と錆で覆われ、周囲には黒い草が点々と生えている。


 カイは立ち止まった。


「ここ、昔は祭りの時にも鳴らした」


「祭り?」


 マーガレットが聞く。


「収穫祭。子どもが鳴らすと怒られた」


「鳴らした?」


「……ちょっとだけ」


 カイは気まずそうに目を逸らす。


 マーガレットが笑う。


「鳴らしたんだ」


「小さい時だよ」


「どんな音?」


「もっと明るかった。今は……」


 カイは錆びた鐘を見上げた。


 黒い畑の中に立つ古い鐘。


 村の危機を知らせるために、また使われることになる。


 祭りではなく、避難のために。


 それが少し悲しかった。


 レクスターが周囲を確認する。


「黒い草は薄いですが、柱の根元に黒根があります。先に処理します」


 アレックスが雷糸を伸ばす。


 黒根は古い柱に絡みついていた。


 まるで鐘台を倒そうとしているようにも見える。


 強く切れば柱を傷める。


 だから、ゆっくり剥がす。


 一本。


 二本。


 三本。


 カイは黙って見ていた。


 マーガレットは縄を握り、いつでも支えられるよう構えている。


「柱、倒れない?」


 彼女が聞く。


「今のところ大丈夫です」


 レクスターが答える。


「ただし老朽化しています。強い力をかけないでください」


「何分の一?」


「十分の一」


「増えた!」


「鐘台が古いためです」


「了解……!」


 マーガレットは、まるで卵を扱うように縄を持った。


 アレックスが根を剥がし終える。


 レクスターが灰を撒く。


 黒根が動きを止める。


「よし」


 アレックスが言う。


「縄を」


 マーガレットが慎重に柱へ登ろうとした。


 だが、レクスターが止める。


「柱に体重をかけないでください」


「じゃあどうするの?」


「ハルバードで縄を引っ掛ける」


「できるかな」


「あなたなら可能です」


「信頼!」


「技術面で」


「それでも!」


 マーガレットは真剣な顔で縄をハルバードの先に結び、鐘の舌へ引っ掛けた。


 一回目は外れた。


 二回目は鐘の縁に当たり、鈍い音がした。


 ごん。


 カイが肩を震わせる。


 昔とは違う、重く錆びた音だった。


「ごめん!」


 マーガレットが慌てる。


「大丈夫」


 カイは言った。


「鳴るって分かった」


 三回目。


 縄が鐘の舌へかかった。


 マーガレットがゆっくり引く。


 鐘が揺れる。


 ごん。


 音はまだ鈍い。


 だが、鳴った。


 村まで届くかどうかは分からない。


 レクスターが耳を澄ませる。


「距離を考えると、石蔵で聞こえるか微妙です。もう少し強く鳴らす必要があります」


「鐘、壊れない?」


「確認します」


 アレックスが柱を見た。


 古いが、根を剥がしたことで安定している。


「一度だけ強めに」


 マーガレットは頷いた。


「十分の一から、どれくらい?」


「五分の一」


 レクスターが言う。


「五分の一なら得意!」


「得意なのか」


 カイが呟く。


 マーガレットは縄を引いた。


 ごぉん。


 今度は、低い音が村へ広がった。


 黒い畑の上を渡り、集会倉庫を越え、石蔵の方へ伸びていく。


 鳥が数羽、遠くの木から飛び立った。


 カイは、その音を聞いて立ち尽くした。


「鳴った」


「うん」


 マーガレットがそっと言う。


「ちゃんと鳴った」


 カイの目が潤む。


「祭りの音じゃないけど」


「うん」


「でも、村を守る音だ」


「うん」


 アレックスは、鐘の音が消えていく空を見ていた。


 警戒の音。


 避難の音。


 けれど、それは恐怖だけの音ではない。


 準備した者の音だった。


 戻ると、石蔵では皆が鐘の音を聞いていた。


 ミレ婆が頷く。


「聞こえたよ」


 ダンも言う。


「あれなら合図になる」


 カイは少し誇らしそうに胸を張った。


「縄、結べた」


「マーガレット殿が?」


 ミレ婆が聞く。


 カイは少し考えた。


「マーガが結んで、アレックスが根を剥がして、レクスターが確認して、俺が場所案内した」


 ミレ婆は笑った。


「いい答えだ」


「え?」


「一人でやったと言わないのが、いい」


 カイは少し照れた。


「一人じゃできないし」


 その言葉に、アレックスは静かに頷いた。


 本当に、その通りだった。


 夕方までに、合図の練習が行われた。


 鐘一つ。


 村人たちは持ち場へ移動準備。


 鐘二つ。


 子どもと負傷者を石蔵内へ集める。


 鐘連続。


 避難線へ移動開始。


 実際に何度か動いてみる。


 最初は混乱した。


 サムが木札を忘れ、ルダが毛布を取りに戻ろうとし、ガロンが立ち上がろうとしてレクスターに怒られ、マーガレットが担架を持ち上げすぎて天井にぶつけそうになった。


「ごめん!」


「だから五分の一です!」


「担架は何分の一!?」


「人命優先で安定を!」


「数字じゃない!」


 そんな混乱もあった。


 けれど、二度目には少し整った。


 三度目には、子どもたちが自分の場所を覚えた。


 ミレ婆は毛布をまとめ、エルマの子を抱く準備をした。


 カイは地図を持って先導位置へ立った。


 ダンは座ったまま、人数確認をした。


 トーマとミラは担架の上で、カイへ静かに頷いた。


 村長オルグは、赤紐の原本を守る者を指名した。


「原本はミレ婆。青紐はダン。白紐はアレックス殿。黄紐は使者が持った」


 レクスターが確認する。


「良い分散です」


 マーガレットが小声で言う。


「赤、青、白、黄色。覚えやすいね」


「色分けの効果です」


「すごい」


「基本です」


 日が傾く頃、練習は一区切りになった。


 村人たちは疲れ切っていた。


 だが、表情は朝より少し落ち着いていた。


 もし何かあったら、どう動けばいいか分かる。


 それだけで、恐怖は少し形を変える。


 漠然とした闇ではなく、対処すべきものになる。


 石蔵の外で、カイは鐘台の方を見ていた。


 マーガレットが隣に立つ。


「疲れた?」


「疲れた」


「正直」


「嘘つく元気ない」


「いいこと」


 カイは少し笑った。


 それから、小さく言った。


「エルマさんたち、宿場に着いたかな」


「まだ途中かも」


「そっか」


「でも、道は知ってるんだよね」


「うん」


「ハンスさんもいる」


「うん」


「届くよ」


 カイは頷いた。


「うん」


 その時だった。


 南道の方から、かすかな音が聞こえた。


 鐘ではない。


 黒い畑の軋みでもない。


 車輪。


 遠く、土の道を車輪が踏む音。


 ごと。


 ごと。


 ごと。


 アレックスが即座に顔を上げた。


 レクスターも水の本を開く。


 マーガレットがハルバードを握る。


 カイの顔から血の気が引いた。


「……馬車?」


 誰もすぐには答えなかった。


 音はまだ遠い。


 だが、南道の方から近づいている。


 サヴィルが言った三日以内。


 それより早い。


 もしかすると、ただの荷車かもしれない。


 だが、南道を今通る者など普通はいない。


 黒い畑がある。


 村は危険だと知られている。


 それでも来るなら。


 レクスターが低く言った。


「合図準備」


 カイが地図を握りしめる。


「鐘」


 アレックスは頷いた。


「まだ鳴らすな。確認してからだ」


「でも」


「一つ目は人影確認」


 カイは息を飲み、頷いた。


「分かった」


 マーガレットがカイの肩に手を置く。


「大丈夫。練習した」


「うん」


「怖い?」


「怖い」


「名前」


 カイは小さく息を吸った。


「カイ。トーマ。ミラ。ハルダ村」


 彼の声は震えていた。


 だが、立っている。


 南道の車輪音は、少しずつ近づいてきた。


 ごと。


 ごと。


 ごと。


 夕暮れのハルダ村に、新しい緊張が走る。


 石蔵の中で、子どもたちが大人の顔を見上げる。


 ダンが身を起こそうとして、痛みに顔を歪める。


 ミレ婆が赤紐の束を抱く。


 村長オルグが震える手で杖を握る。


 アレックスは南道を見た。


 黒い畑の向こう。


 夕日の影の中。


 確かに、何かが近づいている。


 ハルダ村が決めた合図が、初めて本当に使われるかもしれない。


 避難線を引いた夜は、まだ終わっていなかった。

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