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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第9話 村を喰う震源】


 地下へ降りた瞬間、空気が変わった。


 冷たい。


 ただ肌寒いだけではない。


 地面の奥に閉じ込められていたものが、何年も、何十年も、息を殺して腐らずに残っていたような冷たさだった。


 土の匂い。


 湿った石の匂い。


 鉄に似た匂い。


 それから、かすかに甘い匂い。


 その甘さが、妙に気持ち悪かった。


 花でもない。


 果実でもない。


 血が古くなった匂いに、鉱物の冷たさが混ざったような、そんな匂いだった。


「……うわ」


 マーガレットが小さく声を漏らす。


 普段なら、暗い場所でもそれなりに明るく騒ぐ彼女が、今は声を潜めていた。


 背中の大地のハルバードは、狭い亀裂の中では振り回せない。


 だから彼女は柄を短く持ち、穂先を後ろへ流すようにして進んでいる。


 それでも、金属が石壁に触れないよう気を遣っているのが分かった。


「狭い」


 マーガレットが言う。


「文句を言うなら、壁を壊さないでください」


 最後尾のレクスターが即座に返した。


「壊さないよ!」


「信用度は四割です」


「低い!」


「この状況で四割なら高い方です」


「私の扱い!」


 小声のやり取りだった。


 でも、その声があるだけで少し呼吸がしやすくなる。


 アレックスは先頭を進みながら、左手で壁に触れた。


 土ではない。


 石だ。


 ただの自然洞窟ではない。


 亀裂から入った先は、崩れかけているものの、明らかに人の手が入った通路だった。


 壁の一部には古い石組みが残り、足元には階段の名残らしき段差がある。


 長い年月で崩れ、土に埋もれ、草木の根に裂かれ、それでもまだ形を保っている。


 ここは、誰かが造った場所だ。


「レクスター」


「はい」


「遺跡か?」


「可能性は高いです」


 レクスターの声が、狭い通路に低く響く。


「石の加工が古い。王国式ではありません。少なくとも現王朝のものではない」


「王国より前?」


「その可能性もあります」


「そんなものが、村の下に?」


「村が後からできたのでしょう」


 レクスターは壁に刻まれた薄い線へ視線を向ける。


 光は少ない。


 だが、地下から漏れる青白い脈動が、時折通路を淡く照らした。


 その光に合わせて、削れた文様が浮かび上がる。


 円。


 波。


 植物の根のような線。


 そして、中心へ落ちる星のような印。


「……星」


 マーガレットが呟いた。


「ダンが言ってたやつ?」


 青い星が丘に落ちる。


 地面の下で誰かが泣いている。


 子どもたちが見た夢。


 その言葉が、ここに来て急に現実味を帯びる。


 アレックスは足を止めずに言った。


「夢じゃなかったのかもしれない」


「え?」


「子どもたちは、何かを見てる」


 その言葉に、マーガレットは唇を結んだ。


「……怖いね」


「うん」


「でも、怖いだけじゃない」


 マーガレットは自分に言い聞かせるように続けた。


「もし本当に誰かが泣いてるなら、見つけないと」


 レクスターが静かに言う。


「その“誰か”が人間とは限りません」


「それでも」


「敵の可能性もあります」


「それでも」


 マーガレットの声は強かった。


 振り返らなくても、アレックスには分かる。


 彼女は怖がっている。


 だが、怖いから引く性格ではない。


 泣いているものがあるなら、まず確かめる。


 そういう少女だ。


「いい判断とは言えませんね」


 レクスターが言う。


「でも、マーガレットらしい」


 アレックスが続ける。


「でしょ?」


 マーガレットが少しだけ笑った。


「アレックスは分かってくれる」


「分かってはいます」


 レクスターが冷静に言う。


「同意するかは別ですが」


「そこ同意してよ!」


「現実主義なので」


「もう!」


 その時。


 どん、と。


 通路全体が震えた。


 頭上から砂が落ちる。


 石壁が低く唸る。


 足元が、わずかに浮いたような感覚があった。


 マーガレットが壁へ手をつく。


「うわっ!」


「止まるな」


 アレックスが言う。


「崩れるなら進んだ方がいい」


「その判断、結構怖いんだけど!」


「戻る方が危険です」


 レクスターも即座に答える。


「入口付近は土が緩い。揺れが続けば塞がる可能性があります」


「やだそれ!」


「だから進みます」


「現実がずっと嫌!」


 三人は足を速めた。


 通路は下へ続いている。


 階段だったものは半分崩れ、足場は悪い。


 時折、青白い光が壁の隙間から漏れ、そのたびに石材の影が大きく歪む。


 まるで、地下そのものが呼吸しているようだった。


 どん。


 また鳴る。


 今度は少し近い。


 鼓動。


 そう表現するしかない音。


 地面の下に巨大な心臓があり、その拍動が村全体を揺らしている。


 アレックスは、王都の中では聞いたことのない音だと思った。


 城の鐘。


 軍靴。


 拍手。


 式典の楽隊。


 王の声。


 それらとはまるで違う。


 ここにあるのは、土地そのものの悲鳴だった。


「……村の人たちは」


 アレックスが低く言う。


「半年、これを聞いてたんだな」


 誰もすぐには答えなかった。


 マーガレットの足音が少しだけ重くなる。


 レクスターも本を抱える手に力を込めた。


「毎晩ではないにせよ」


 レクスターが言う。


「頻度が上がっているなら、精神的負荷は相当です。眠れない。水も悪い。畑も枯れる。原因も分からない。助けも来ない」


 彼の声は冷静だった。


 だが、冷たいだけではなかった。


「村が壊れかけるのは当然です」


 アレックスは奥歯を噛んだ。


 王都の会議室なら、この件は何行で処理されただろう。


 南西部小村にて軽度振動報告。


 水質調査要請。


 収穫減少。


 確認中。


 調査保留。


 予算不足。


 次期対応。


 そんな言葉に置き換えられて、誰かの震える夜も、子どもの悪夢も、帰らなかった男も、ただの報告になる。


 それが政治だと言われればそうかもしれない。


 でも、ここに来た今、その距離がたまらなく嫌だった。


「アレックス」


 マーガレットが声をかけた。


「うん」


「顔、怖い」


「そう?」


「うん。怒ってる顔」


「……そっか」


「いいと思う」


 マーガレットは短く言った。


「今は怒っていいと思う」


 アレックスは少しだけ息を吐いた。


「ありがとう」


「うん」


 レクスターが淡々と言う。


「怒るのは構いませんが、視界は狭めないでください」


「分かってる」


「あなたは怒ると逆に優しくなろうとする悪癖があります」


「そんな癖あるか?」


「あります」


 マーガレットも頷いた。


「ある」


「二人に言われた」


「反省してください」


「するよ」


 そんな会話をしながら、三人はついに通路の終わりへ出た。


 そこは、広い地下空間だった。


 最初に感じたのは、高さだった。


 思ったより天井が遠い。


 地上の丘の内側に、ぽっかりと大きな空洞がある。


 壁は自然の岩肌と人工の石壁が混ざっており、ところどころに古い柱が立っていた。


 柱の半分は折れ、床には崩れた石材が散らばっている。


 だが、完全な廃墟ではない。


 中央に、円形の祭壇のようなものがあった。


 その祭壇の下から、青白い光が脈打っている。


 一度。


 二度。


 三度。


 それに合わせて、空洞全体がかすかに震えた。


 そして、祭壇の周囲には、黒く変色した根のようなものが広がっていた。


 木の根ではない。


 石の隙間から伸びる、鉱物の血管のようなもの。


 それが床を這い、壁へ伸び、空洞の奥へ絡みついている。


 マーガレットは息を呑む。


「……なに、これ」


 レクスターの表情も硬い。


「魔力脈、に近いものです」


「魔力脈?」


「地中に流れる魔力の経路。ただし、これは自然のものではありません。人工的に集められ、固定され、そして壊れかけている」


 アレックスは祭壇を見る。


 中央には、割れた石の器のようなものがあった。


 その中に、青白い結晶が埋まっている。


 拳ほどの大きさ。


 透明ではない。


 内部に光が渦巻き、まるで生きているように明滅している。


「あれが原因か」


「おそらく」


 レクスターが一歩踏み出す。


「不用意に触らないでください」


「触るつもりはない」


「あなたは困っているものを見ると触りに行く傾向があります」


「さすがにこれは」


「念のためです」


 マーガレットが小声で言う。


「ちょっと分かる」


「マーガレットまで」


「だってアレックス、絶対“痛いのか?”とか言いながら近づきそう」


「言いそうです」


 レクスターが同意する。


「言わないよ」


 アレックスは少し笑った。


 だが、その笑みはすぐ消える。


 祭壇の奥。


 壁際に、人影があった。


 一人ではない。


 二人。


 いや、三人。


 倒れている。


「人だ!」


 マーガレットが駆け出そうとする。


「待て!」


 アレックスが腕を掴んだ。


 マーガレットは振り返る。


「でも!」


「周囲を確認してからだ」


「……っ、うん」


 彼女は焦りを飲み込む。


 レクスターが目を細め、水の本を開いた。


「動体反応は弱い。少なくとも一人は生きています」


「急ごう」


「ただし慎重に」


 三人はゆっくりと倒れている人影へ近づいた。


 近づくほど、状況が見えてくる。


 村の男たちだった。


 ひとりは年配。


 ひとりは若い。


 もうひとりは、三十代ほど。


 服は泥と土にまみれ、手足には擦り傷がある。


 呼吸はある。


 だが、意識はない。


 マーガレットが膝をつく。


「この人たち……丘に行って戻ってきたって言ってた人?」


「戻った二人とは別かもしれません」


 レクスターが確認する。


「いや、服の劣化具合から見て、長期間ここにいた者がいます」


 アレックスの胸が重くなる。


「帰ってこなかった人か」


「可能性があります」


 マーガレットの手が震えた。


「生きてる?」


 レクスターは水の術式で脈と体温を確かめる。


「……弱いですが、生きています」


「よかった……!」


 マーガレットの顔が少し明るくなる。


 だが、レクスターは厳しい表情のままだった。


「ただし、体内に魔力汚染があります。この空間に長くいたせいでしょう。すぐに地上へ運ぶ必要があります」


「なら運ぼう」


 アレックスが言う。


「その前に」


 レクスターが祭壇を見る。


「この祭壇の反応が不安定です。人を動かした瞬間、何かが起きる可能性がある」


「罠?」


「罠というより、維持装置の暴走」


「どっちにしろ嫌なやつ」


 マーガレットが言う。


 その時、倒れていた三十代の男がかすかに呻いた。


「……う……」


 マーガレットがすぐに顔を近づける。


「聞こえる? 大丈夫?」


 男のまぶたが震える。


 ひび割れた唇が動いた。


「……にげ……」


「え?」


「逃げろ……欠片が……起きる……」


 欠片。


 その言葉に、レクスターの表情が変わった。


「欠片?」


 男は答えない。


 再び意識が沈みかける。


 アレックスが肩に手を添えた。


「あなたは、ダンの叔父さんですか」


 男の目がわずかに開く。


 焦点の合わない目が、アレックスを見る。


「……ダン……?」


「村にいます。無事です」


「……ああ……」


 男の目元から、涙が一筋流れた。


「よか……った……」


 その言葉だけで、マーガレットの胸が詰まった。


 帰りたかったのだ。


 この人は。


 村へ。


 家族のところへ。


 それなのに、ずっとここにいた。


 誰にも見つけられず、地の下で、青白い光に晒されながら。


「連れて帰る」


 マーガレットが言った。


 声が震えていた。


「絶対、連れて帰る」


 アレックスも頷く。


「うん」


 レクスターは厳しい顔で祭壇を見続けている。


「急ぐべきです。脈動が強くなっています」


 その言葉通り、青白い結晶の光が強まっていた。


 どん。


 空洞が震える。


 床に這う黒い根のようなものが、ぴくりと動いた。


 マーガレットが目を見開く。


「今、動いた?」


「動きました」


 レクスターが水の本を開く。


「生体ではありませんが、反応しています」


「つまり?」


「こちらを認識した可能性があります」


「最悪!」


 アレックスは雷の刃を抜いた。


 刀身に青白い雷が走る。


 空洞の光と混ざり、一瞬だけ壁の文様が鮮明に浮かび上がった。


 そこに描かれていたのは、村だった。


 丘。


 水脈。


 畑。


 そして、中央に落ちる青い欠片。


「……これは」


 レクスターが目を細める。


「土地を守るための装置だったのかもしれません」


「守る?」


 マーガレットが振り返る。


「これが?」


「本来は、地下水脈と土壌を安定させるもの。村の加護に近い役割だった可能性があります」


「でも今は村を苦しめてる」


「壊れているのでしょう」


 レクスターの声が低くなる。


「あるいは、誰かが壊した」


 その瞬間。


 祭壇の奥で、何かが笑った。


 かすかな音だった。


 人の声にも聞こえた。


 石が軋む音にも聞こえた。


 でも、三人は同時にそちらを見た。


 祭壇の陰。


 青白い光の向こうに、黒い外套の影が立っていた。


 人だ。


 いつからそこにいたのか分からない。


 顔は布で半分隠れている。


 背は高くない。


 男か女かも判別しにくい。


 その手には、小さな青い結晶片が握られていた。


「へえ」


 その人物は、軽い声で言った。


「もうここまで来たんだ」


 マーガレットがハルバードを構える。


「誰!?」


 レクスターが目を細める。


「村人ではありませんね」


「もちろん」


 黒外套は軽く肩をすくめた。


「村人なら、こんな場所で平気な顔して立ってないよ」


 アレックスは雷の刃を向けた。


「何をした」


「質問が早いね」


「答えろ」


「怖いなあ。さっきまで優しそうな顔してたのに」


 黒外套は楽しそうに笑った。


「でも、いいよ。簡単に言うと、この欠片を少しもらっただけ」


 手の中の青い結晶片が、淡く光る。


 その瞬間、祭壇の中央の結晶が大きく脈打った。


 どん。


 空洞が震える。


 地上の村まで揺れたのか、遠くからかすかに悲鳴のような音が響いた。


「もらっただけ?」


 マーガレットの声が低くなる。


「この村、めちゃくちゃになってるんだけど」


「うん。そうみたいだね」


「そうみたい、じゃない!」


 マーガレットが一歩踏み出す。


 アレックスが手で制した。


 黒外套は彼女を見て、首を傾げる。


「怒りやすいんだ」


「当たり前でしょ!」


「その当たり前、いいね」


「ふざけないで」


 アレックスの声は静かだった。


 だが、明らかに怒りがあった。


「村人が苦しんでる。水も畑も壊れてる。人も閉じ込められてた」


「うん」


「君がやったのか」


 黒外套は少し考えるように黙った。


 それから、軽く言う。


「全部じゃないよ」


「……」


「元々、ここは壊れかけてた。私は少し早めただけ」


 沈黙。


 マーガレットの握るハルバードの柄が、ぎしりと鳴った。


 レクスターの声が冷える。


「あなたは、この装置の構造を理解していた」


「少しね」


「欠片を抜けば、均衡が崩れることも」


「知ってた」


「村への影響も」


「予想はしてた」


「なら、あなたは加害者です」


 レクスターの言葉に、黒外套は笑った。


「ズバッと言うね」


「事実です」


「嫌いじゃないよ、そういうの」


「私は嫌いです」


「残念」


 アレックスは一歩前へ出た。


「その欠片を返せ」


「無理」


「なぜ」


「必要だから」


「何に」


 黒外套は答えなかった。


 代わりに、手の中の結晶片を握る。


 青白い光が強くなる。


 祭壇の結晶が、それに反応するように大きく脈打った。


 どん。


 また揺れる。


 倒れている村人たちが苦しそうに呻く。


 マーガレットが叫ぶ。


「やめて!」


「じゃあ止めてみる?」


 黒外套の足元で、黒い根が持ち上がった。


 床を這っていた鉱物の血管のようなものが、鞭のように伸びる。


 アレックスが雷の刃を振る。


 青白い斬撃が根を断ち切る。


 だが、切られた先からまた別の根が伸びた。


「再生します!」


 レクスターが叫ぶ。


「祭壇本体と接続している!」


「じゃあ本体を止める!」


 マーガレットが踏み込む。


 ハルバードを振り上げ、床から迫る根をまとめて叩き潰す。


 大地の力が走り、石床がひび割れた。


「道、開ける!」


「壊しすぎないでください!」


「無理かも!」


「努力してください!」


 アレックスは黒外套へ向かって走る。


 雷の刃が空気を裂く。


 だが、黒外套は軽く後ろへ跳んだ。


 速い。


 体の動きが戦士のものではない。


 踊るように軽く、重心を感じさせない。


 アレックスの斬撃を紙一重で避け、祭壇の縁へ立つ。


「速いね」


「逃げるな」


「今はまだ遊びたいけど、時間がないんだ」


「何をする気だ」


「集める」


 黒外套は言った。


「欠片を」


 その言葉だけで、レクスターの目が鋭くなる。


「他にもあるのですか」


「あるよ」


 黒外套は笑った。


「世界中に」


 どん。


 祭壇が大きく脈打つ。


 空洞の天井から石片が落ちる。


 地上の村から、今度ははっきり悲鳴が聞こえた。


「村が!」


 マーガレットが振り返る。


 アレックスの判断は早かった。


「村人を運ぶ!」


「でも欠片が!」


「ここで追っても村が潰れる!」


 黒外套が軽く手を振る。


「正解」


 その態度に、マーガレットが怒りで震える。


「絶対あとでぶん殴る!」


「覚えておくよ」


 黒外套の足元の影が揺れた。


 いや、影ではない。


 床の亀裂から青白い光が噴き上がり、その光に紛れて黒外套の姿が薄れていく。


「待て!」


 アレックスが雷を纏って踏み込む。


 だが、伸び上がった根が壁のように立ちはだかった。


 一瞬。


 たった一瞬だが、足止めされる。


 次に光が収まった時、黒外套の姿はなかった。


 残されたのは、祭壇で激しく脈打つ青い結晶と、倒れた村人たち。


 そして、崩れ始める地下空間。


「……っ」


 アレックスは歯を食いしばる。


 逃がした。


 けれど、今は追えない。


「レクスター!」


「村人を運びます。魔力汚染が強い者から優先」


「マーガレット!」


「任せて!」


 マーガレットは倒れていた三十代の男を慎重に背負った。


 いつもの豪快さとは違い、驚くほど丁寧だった。


「大丈夫。帰ろうね」


 彼女は小さく言う。


「ダンが待ってるよ」


 男は意識のないまま、かすかに息をした。


 アレックスも別の男を抱える。


 軽い。


 成人男性のはずなのに、長く地下にいたせいか、ひどく軽く感じた。


 レクスターは水の術式で残る一人の体を浮かせるように支えた。


「急ぎます」


 その時、祭壇がまた脈打った。


 どん。


 床に亀裂が走る。


 青白い結晶から、ひび割れるような音がした。


 レクスターの顔色が変わる。


「まずい」


「何だ」


「欠片を抜かれたせいで、残った結晶が暴走しています。このままでは地下空間ごと崩れる」


「止められる?」


「今は無理です。人命優先」


「分かった」


 三人は来た通路へ向かって走った。


 背中に村人を抱え、崩れる地下を駆け抜ける。


 通路は揺れていた。


 石段が崩れ、土砂が落ちる。


 マーガレットは背中の男を庇いながら、迫る岩をハルバードの柄で弾く。


「邪魔ぁ!」


「壊しすぎないで!」


 レクスターが叫ぶ。


「壊れてるのは向こう!」


「反論不能です!」


 アレックスは先頭で道を切り開く。


 雷の刃で伸びてくる黒い根を斬り、崩れた石を避ける。


 腕の中の男が呻く。


「もう少しです」


 アレックスは言った。


 聞こえているか分からない。


 それでも言った。


「村へ戻ります」


 地上へ続く亀裂が見えた。


 夜気が流れ込んでいる。


 外の空気。


 村の灯り。


 かすかな悲鳴。


 アレックスは最後の段差を駆け上がった。


 地上へ出る。


 冷たい夜風が一気に体を包む。


 マーガレット、レクスターも続く。


 三人が外へ出た直後、背後の亀裂から青白い光が噴き上がった。


 地面が大きく揺れる。


 丘全体が、唸るように震えた。


 ラドナ村の家々から悲鳴が上がる。


「戻ったぞ!」


 バルドの声が聞こえた。


 彼は丘の下まで来ていた。


 村人たちも、何人か外へ出ている。


 恐怖で震えながら。


 それでも、三人が誰かを背負っているのを見て、目を見開いた。


「人だ!」


「誰かいる!」


「まさか……!」


 マーガレットが背負っていた男を地面にそっと下ろす。


 近くの女が悲鳴のような声を上げた。


「兄さん……?」


 ダンの母親だった。


 彼女は駆け寄り、男の顔を見て膝から崩れ落ちた。


「兄さん……兄さん!」


 ダンも家から飛び出してくる。


「おじちゃん!」


 泣き声。


 叫び。


 驚き。


 村人たちの間に、ざわめきが広がる。


 帰ってこないと思われていた男が戻った。


 地の下から。


 三人に連れられて。


 バルドはその光景を呆然と見ていた。


 彼の口がわずかに震える。


「……本当に」


 声にならない。


 アレックスは息を切らしながら言った。


「まだ終わってません」


 村人たちが一斉に彼を見る。


 青白い光が、丘からさらに強く噴き上がる。


 地面の奥で、何かが暴れている。


 レクスターが厳しい声で告げた。


「地下の結晶が暴走しています。村を揺らしていた原因の一部は分かりましたが、安定していない」


「どうすればいい」


 バルドが問う。


 今度は、拒絶ではなかった。


 初めて、助けを求める声だった。


 アレックスは丘を見る。


 黒外套は逃げた。


 欠片を持って。


 村はまだ危ない。


 でも、戻ってきた人がいる。


 助けられた命がある。


 なら、まだ進める。


「村人を広場へ集めてください」


 アレックスは言った。


「家から離れて。子どもと老人を優先して」


 バルドは一瞬だけアレックスを見る。


 そして、叫んだ。


「聞こえたな! 全員、広場へ出ろ! 子どもと年寄りを先にしろ!」


 村が動き出す。


 恐怖に固まっていた人々が、声に押されて外へ出る。


 泣く子ども。


 荷物を抱える女。


 老人を支える若者。


 家畜小屋へ走る男。


 群衆のざわめきが、夜の村を満たしていく。


 マーガレットがハルバードを握り直した。


「アレックス」


「うん」


「黒いやつ、絶対許さない」


「うん」


「でも今は村だよね」


「うん」


 レクスターが水の本を開く。


「揺れが強くなる前に避難を完了させます。その後、残った結晶を安定化、または破壊する方法を探る」


「できる?」


 アレックスが聞く。


「やるしかありません」


「レクスターにしては珍しい答えだ」


「状況が最悪なので」


「それはそう」


 丘がまた鳴った。


 どん。


 どん。


 どん。


 まるで、地の下で巨大なものが目覚めようとしているように。


 ラドナ村を眠らせなかったもの。


 村を喰い続けていた震源。


 その正体は、まだ完全には姿を見せていない。


 アレックスは雷の刃を握った。


 優しく笑う余裕は、今は少しだけ足りない。


 けれど、立っている。


 隣にはマーガレットがいる。


 後ろにはレクスターがいる。


 目の前には、助けを求める村がある。


 なら、進む理由は十分だった。


「まずは全員を守る」


 アレックスは言った。


「そのあと、地の下の心臓を止める」


 青白い光が、夜のラドナ村を照らした。


 恐怖に震える村人たちの顔。


 泣きながら兄にすがる母親。


 戻ってきた叔父の手を握るダン。


 そして、丘を見上げる三人。


 王都の外で始まった放浪旅は、もうただの逃避行ではなくなっていた。


 見てしまった。


 触れてしまった。


 苦しむ人々を知ってしまった。


 だから、もう戻れない。


 地の下で脈打つものが、次の鼓動を打った。

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