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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第10話 雷の刃】


 ラドナ村は、夜の底で揺れていた。


 どん。


 どん。


 どん。


 地面の奥から響く音は、もう小さな地鳴りではなかった。


 それは鼓動だった。


 大地そのものが心臓を持ち、丘の下で何かを押し出そうとしている。


 そんな錯覚を抱かせるほど、規則的で、重く、嫌な響きだった。


 青白い光が丘から噴き上がるたび、村の家々の影が歪む。


 木造の壁が軋み、窓の薄板が震え、井戸の水面が波打った。


 村人たちは、広場へ集まり始めていた。


 泣きじゃくる子どもを抱いた母親。


 杖をついた老人の腕を支える若者。


 家財を抱えて出てきた女。


 震える手で家畜小屋の縄を解く男。


 何が起きているのか分からないまま、それでも「広場へ」というバルドの怒声に従って動いている。


 誰もが顔を強張らせていた。


 けれど、その顔には今までとは違うものが混じっていた。


 完全な絶望ではない。


 恐怖の中に、ほんの少しだけ、何かを待つ色がある。


 地下から戻ってきた男たち。


 帰らないと思われていたダンの叔父。


 それを背負って戻ってきた三人。


 村人たちは見てしまった。


 このよそ者たちは、ただ口だけではないのだと。


 だから、動いた。


 疑いながら。


 怯えながら。


 それでも、動き始めた。


「急げ! 家の中に残るな!」


 バルドの声が夜に響く。


 鍬を片手に持ったまま、彼は広場の中央で人々を誘導していた。


「荷物は最低限でいい! 戸締まりなんぞ後だ! 子どもと年寄りを先にしろ!」


「でも、食料が――!」


「命が先だ!」


 普段なら誰も逆らえないほどの怒声だった。


 だがその声にも、今夜は焦りが混じっている。


 彼も怖いのだ。


 村の誰よりも恐怖を知っているからこそ、叫んでいる。


 広場の端では、ダンの母親が兄の手を握って泣いていた。


 地下から救い出された男は、まだ意識がはっきりしない。


 顔色は悪く、呼吸も浅い。


 それでも、かすかに指が動き、妹の手を握り返した。


「兄さん……兄さん……!」


 女の声は震えていた。


 ダンは泣きながら、叔父の腕にしがみついている。


「おじちゃん……帰ってきた……」


 その小さな声を聞いた時、マーガレットは一瞬だけ目を閉じた。


 よかった。


 そう思った。


 心の底から。


 けれど、それで終わらない。


 終われない。


 丘から漏れる青白い光が、村の上へまだ伸びている。


 その光は、誰かの再会すら祝ってくれない。


 ただ淡々と、次の揺れを生もうとしている。


「マーガレット!」


 アレックスの声が飛ぶ。


 彼女はすぐ振り返った。


「うん!」


「北側の家を見てくれ! まだ人がいる!」


 マーガレットは一瞬で走った。


 大地のハルバードを背に、広場を駆け抜ける。


 途中、逃げ遅れた老婆が足をもつれさせた。


「危ない!」


 マーガレットは速度を落とさず、片腕で老婆を抱え上げる。


「え、ええ!?」


「ごめんね! ちょっと揺れるよ!」


「ちょっとじゃ――」


 老婆の言葉が終わる前に、マーガレットは広場の中央まで駆け戻り、近くの村人へ預けた。


「お願い!」


「お、おう!」


 村人は呆然としながら老婆を支える。


「なんなんだ、あの娘……」


「人を荷物みたいに……」


「助かったんだからいいだろ!」


 別の男が叫ぶ。


 その声には、驚きと感謝が混じっていた。


 マーガレットはもう次の家へ走っている。


 北側の小さな家。


 戸が半分開いている。


 中から、子どもの泣き声が聞こえた。


「いる!?」


 返事はない。


 マーガレットは躊躇わず中へ入った。


 部屋の中は暗い。


 倒れた棚が入口近くを塞ぎ、奥で小さな女の子が泣いていた。


 足元には割れた皿。


 棚の下敷きになってはいないが、恐怖で動けなくなっている。


「大丈夫!」


 マーガレットは声を明るくした。


 自分の不安を、子どもに渡さないように。


「お姉ちゃんが来たよ!」


「う、うう……」


「怖かったね。でも、もう大丈夫。ほら、こっちおいで」


「足……動かない……」


 女の子は震えていた。


 怪我ではない。


 恐怖で足がすくんでいる。


 マーガレットは棚を片手で持ち上げ、横へどかした。


 木が軋む音がする。


 女の子が目を丸くする。


「お姉ちゃん……強い……」


「でしょ?」


 マーガレットは笑った。


「だから安心して」


 女の子を抱き上げる。


 その瞬間、地面がまた揺れた。


 どん――!


 家の壁が大きく軋む。


 天井から土埃が落ち、梁が嫌な音を立てた。


「まずっ」


 マーガレットは女の子を抱えたまま、床を蹴った。


 出口へ走る。


 背後で棚が倒れる。


 梁が落ちる。


 最後の一歩で外へ飛び出した直後、家の一部が崩れた。


 土煙が舞う。


 広場から悲鳴が上がる。


「マーガレット!」


 アレックスの声。


 マーガレットは土煙の中から立ち上がり、抱えていた女の子を高く掲げた。


「無事!」


 広場から安堵の声が広がった。


「ああ……!」


「よかった……!」


「助かった……!」


 女の子の母親らしき女性が駆け寄り、泣きながら娘を抱きしめる。


「ありがとうございます! ありがとうございます!」


「いいのいいの!」


 マーガレットは笑う。


 額には汗。


 頬には土。


 でもその笑顔は、夜の中でひどく明るかった。


 アレックスはそれを確認し、すぐに視線を戻した。


 広場の中央。


 村人の避難はまだ完全ではない。


 家畜を連れてきた者もいる。


 荷物を捨てられない老人もいる。


 泣く子どもがいる。


 混乱し、動けない者がいる。


 このまま次の大きな揺れが来れば、広場でも危ない。


「レクスター!」


「分かっています!」


 レクスターは広場の端で水の本を開いていた。


 青い革表紙が光を帯び、ページが風もないのにめくれる。


 彼は井戸の方へ手を伸ばした。


「水脈を使います」


「何するの!?」


 マーガレットが走り戻りながら聞く。


「地面の浅い亀裂を一時的に固定する」


「できるの!?」


「できます」


「すご!」


「ただし広場全体は無理です。中央の安全範囲だけ」


 レクスターの声は早い。


 いつもの淡々とした口調のまま、思考だけが高速で回っている。


「アレックス、村人を井戸から十五歩以内に集めてください。井戸周りの石組みは古いが、地盤が比較的安定している。周辺の水分を使って土を締めます」


「分かった!」


 アレックスは広場の中央へ走った。


「全員、井戸の周りへ! 壁際に寄らないで! 家から離れて!」


 声を張る。


 王族として命令しているのではない。


 ただ、今この場で人を救うために声を出している。


 その声はよく通った。


 混乱していた村人たちが、はっとして彼を見る。


 若い男が叫ぶ。


「聞け! 井戸の周りだ!」


「老人を先に!」


「子どもをこっちへ!」


 動きが生まれる。


 ばらばらだった群衆が、少しずつ流れを持つ。


 アレックスは走りながら、一人の老人の荷物を肩から外した。


「それは置いて」


「だ、だがこれは……」


「命より重いなら持ってください。でも、そうでないなら置いて」


 優しい声だった。


 だが、不思議と逆らえない。


 老人は震える手で荷物を下ろした。


「……すまん」


「大丈夫」


 アレックスは笑う。


「また取りに戻れるようにします」


 その言葉に、老人の目が揺れた。


 戻れる。


 その言葉が、今の村人たちにとってどれほど重いか。


 アレックス自身も分かっていた。


 軽く言ってはいけない言葉だ。


 それでも言った。


 戻れる場所を残すために戦うのだと、自分にも言い聞かせるように。


 レクスターが本へ手をかざす。


「水鎖固定」


 井戸の水面が揺れた。


 そこから細い水の線が何本も伸び、地面へ染み込んでいく。


 見た目には頼りない。


 だが、広場の土がわずかに締まり、亀裂の進行が遅くなる。


 水が土を繋ぎ、揺れに対する粘りを生む。


 魔術というより、土木と水術を合わせた応急処置だった。


 レクスターの額に汗が浮かぶ。


「……長くは持ちません」


「どれくらい?」


 アレックスが聞く。


「次の大きな揺れ一回分。二回目は保証できません」


「十分だ」


「十分ではありません」


「今は十分だ」


 レクスターは一瞬だけアレックスを見た。


 そして、少しだけ口元を緩める。


「そういうことにしておきます」


 どん。


 丘が鳴った。


 青白い光が強まる。


 広場の村人たちが一斉に息を呑む。


 子どもが泣き、大人が抱きしめる。


 バルドが鍬を握りしめ、丘を睨んでいる。


 この揺れが収まっても、また来る。


 地下の結晶が暴走している限り。


 黒外套が持ち去った欠片。


 壊れた装置。


 村を守るはずだったものが、村を喰っている。


 止めなければならない。


 アレックスは雷の刃を握った。


「レクスター」


「はい」


「結晶を止める方法は?」


「現時点で三つ」


 レクスターは息を整えながら答える。


「一つ、残った結晶を完全破壊する。ただし、水脈と土壌への反動が大きい。村の土地が死ぬ可能性があります」


「却下」


 アレックスは即答した。


「早いですね」


「村を救うために村を殺すなら意味がない」


「同意します」


「二つ目は?」


「欠片を取り戻し、結晶へ戻す」


「黒外套を追う?」


「今は不可能です」


「じゃあ三つ目」


「残った結晶の暴走を一時的に抑え、村から切り離す」


「できる?」


「理論上は」


 マーガレットが戻ってくる。


「理論上って嫌な響き」


「成功率が不明という意味です」


「もっと嫌!」


「ですが、現実的にはそれしかありません」


 アレックスは丘を見る。


「どうやる」


「結晶へ直接干渉します。私が水脈を通して術式を組む。ただし、暴走した魔力が流れ込むため、私一人では耐えきれません」


「俺が斬る?」


「斬るのではなく、流れを断つ。あなたの雷は瞬間的な切断力が高い。暴走している魔力経路を断てる可能性があります」


「私は?」


 マーガレットが聞く。


「地面を抑える役です」


「地面?」


「結晶を切り離す瞬間、丘そのものが崩れる可能性がある。あなたの大地の力で崩落を抑えてください」


「おお……」


 マーガレットは目を輝かせる。


「なんか大事な役!」


「非常に大事です」


「ほんとに?」


「本当です」


「よし!」


「ただし力任せに叩くのではありません」


「えっ」


「抑えるのです。壊すのではなく」


「……難しいやつだ」


「あなたにとっては特に」


「レクスター!」


 いつものやり取り。


 でも、緊張は解けない。


 むしろ、その軽口すら張り詰めた空気の中に浮かんでいた。


 アレックスはバルドの方へ向かった。


 バルドは村人を広場へ集めながらも、こちらを見ていた。


「バルドさん」


「何だ」


「もう一度、丘へ行きます」


「……止めても行くんだろう」


「はい」


「なら聞くな」


「村の人たちをお願いします」


 バルドは苦い顔をした。


「よそ者に言われるまでもない」


「はい」


「だが」


 彼は少しだけ言葉を詰まらせた。


 広場に集まった村人たちを見る。


 泣く子ども。


 震える老人。


 帰ってきた男へすがる家族。


 そのすべてを見たあと、アレックスへ向き直った。


「戻れ」


 短い言葉だった。


 命令ではない。


 願いだった。


「戻ってこい」


 アレックスは微笑んだ。


「はい」


 マーガレットが横から顔を出す。


「任せて! 絶対戻る!」


「お前は特に暴れるな」


「なんで!?」


「村が壊れる」


「私、そんな扱い!?」


 レクスターが静かに言う。


「妥当です」


「味方がいない!」


 そのやり取りに、近くの村人が小さく笑った。


 ほんの少し。


 恐怖の中でこぼれた、かすかな笑い。


 それが広場に小さく広がる。


「あの子、ほんとに大丈夫なのか」


「でも、さっき家から子ども助けたぞ」


「兄さんも、連れて帰ってきてくれた……」


「信じるしかないだろ」


「信じていいのか」


「もう、信じたいよ」


 群衆のざわめきが、恐怖だけではなくなっていく。


 それを感じながら、アレックスは深く息を吸った。


 責任が増える。


 期待が増える。


 それは怖い。


 追放されたばかりの自分に、誰かの命を背負う資格があるのか。


 そんな問いが胸をよぎる。


 だが、資格を考えている時間はない。


 目の前に命がある。


 なら、動くしかない。


 三人は再び丘へ向かった。


 今度は地下へ降りるためではない。


 暴走する結晶を止めるために。


 丘の中腹に開いた亀裂は、さっきより広がっていた。


 青白い光が強く漏れ、周囲の草は黒く変色している。


 地面に走る細い根のようなものも増えていた。


 まるで、地下から何かが地上へ伸びようとしている。


「うわ、さっきより気持ち悪い」


 マーガレットが顔をしかめる。


「魔力汚染が進行しています」


 レクスターが本を開く。


「長引くほど不利です」


「行こう」


 アレックスが言う。


 その瞬間、亀裂の奥から黒い根が飛び出した。


 アレックスは雷の刃を抜く。


 一閃。


 根が焼き切れる。


 だが次の根が、さらに三本伸びる。


「増えた!」


「反応しています!」


 レクスターが叫ぶ。


「結晶が防衛本能のようにこちらを排除しようとしている!」


「つまり敵!」


 マーガレットがハルバードを構える。


「分かりやすくて助かる!」


「助かりません!」


 根が地面を這い、マーガレットの脚を狙う。


 彼女はハルバードの石突を地面に叩き込んだ。


「止まれ!」


 大地の力が広がる。


 地面が低く鳴り、根の動きが一瞬鈍る。


 壊すのではなく、抑える。


 レクスターに言われた通りにやろうとしている。


 しかし、彼女の力は本来、抑えるより壊す方が得意だ。


 加減が難しい。


 地面にひびが入りかける。


「マーガレット、強すぎです!」


「分かってる! 今、優しくしてる!」


「地面に優しくしてください!」


「難しい!」


 アレックスは根を斬りながら、亀裂へ近づく。


 雷の刃が青白く光る。


 地下から噴き上がる光と混じり、視界がちらつく。


 耳の奥で、鼓動の音が鳴っている。


 どん。


 どん。


 どん。


 近い。


 村にいた時とは違う。


 今は、その心臓の真上に立っている。


「レクスター!」


「準備しています!」


 レクスターは水の本を大きく開いた。


 ページが激しくめくれる。


 周囲の水分が細い線となり、亀裂の中へ伸びていく。


 井戸水。


 地下水脈。


 空気中の湿気。


 それらを繋ぎ、暴走している魔力の流れを探る。


 レクスターの顔が歪む。


「……これは」


「どうした!」


「流れが滅茶苦茶です! 本来は村の水脈と畑へ穏やかに分配されるはずの魔力が、欠片を抜かれたことで逆流している!」


「止められる?」


「止めます!」


 珍しく、言い切った。


 レクスターの声に、わずかな怒りがあった。


「本来守るためのものを、こんな形に壊した相手には腹が立ちます」


 マーガレットがにやりと笑う。


「レクスターが怒ってる」


「怒っています」


「分かりやすくていいね!」


「茶化さないでください」


「ごめん!」


 アレックスは亀裂の縁に立った。


 中に、青白い結晶が見える。


 祭壇ごと崩れた一部が、地上近くまで迫っている。


 黒外套が欠片を抜いたせいで、残った結晶は不安定に脈打ち、周囲の魔力を吸い上げている。


 村を守るはずだった装置。


 土地の恵みを支えるはずだったもの。


 それが今、村を喰っている。


「……可哀想だな」


 アレックスが呟いた。


「え?」


 マーガレットが聞き返す。


「これも、壊されたんだろ」


 黒い根が迫る。


 アレックスはそれを斬る。


「村も苦しんでる。人も苦しんでる。でも、これも本来は守るためのものだったなら」


 雷の刃が光る。


「壊された側だ」


 レクスターは一瞬だけ目を細めた。


「あなたは本当に……」


「甘い?」


「いえ」


 彼は静かに言った。


「面倒です」


「そっちか」


「ですが、今はその面倒さが必要かもしれません」


 アレックスは結晶を見る。


「壊さず止める」


「難易度は高いです」


「やろう」


「当然のように言いますね」


「当然じゃない。でも、やりたい」


 マーガレットがハルバードを地面へ押しつけながら笑った。


「じゃあやろう!」


「あなたは本当に単純ですね!」


「今は単純でいい!」


 レクスターが息を吸う。


「アレックス、私が水脈を固定します。その瞬間、暴走している魔力経路が見えるはずです。青白い光の中に、黒く濁った線がある」


「それを斬る」


「はい。ただし結晶本体は斬らないでください」


「分かった」


「一瞬です」


「十分」


「外せば爆発します」


「外さない」


 短い答え。


 レクスターはそれを聞いて、なぜか少しだけ安心した。


 マーガレットが叫ぶ。


「こっちは押さえるよ!」


「三秒持たせてください!」


「三秒!? 余裕!」


「あなたの余裕は信用しませんが、頼みます!」


「任せて!」


 黒い根が一斉に暴れた。


 地面が裂ける。


 丘の斜面が崩れかける。


 マーガレットはハルバードを地面へ深く突き立てた。


「大地よ、踏ん張れぇぇっ!」


 彼女の足元から鈍い光が広がる。


 土が締まり、崩れかけた斜面が一瞬だけ踏みとどまる。


 壊す力ではない。


 支える力。


 いつもの彼女とは違う、繊細で、必死な力だった。


「っ、重い……!」


 マーガレットの腕が震える。


「こいつ、めちゃくちゃ暴れる!」


「あと少し!」


 レクスターが水の本を掲げる。


「水脈固定――流路展開!」


 青い線が地面の中を走った。


 見えないはずの水脈が、光の線となって浮かび上がる。


 村へ向かう流れ。


 畑へ向かう流れ。


 井戸へ向かう流れ。


 その中に、黒く濁った線があった。


 暴走した魔力。


 結晶から逆流し、村を蝕む線。


 アレックスの目がそれを捉える。


 世界が一瞬、静かになった。


 村の悲鳴も。


 地鳴りも。


 マーガレットの叫びも。


 レクスターの声も。


 すべてが遠くなる。


 見えるのは、黒い線。


 斬るべきもの。


 雷の刃が鳴った。


 ぱちり、と。


 アレックスは息を吸う。


 王子だった自分。


 追放された自分。


 優しすぎると言われた自分。


 甘いと切り捨てられた自分。


 それでも、今ここで斬るものは分かっている。


 人ではない。


 村でもない。


 壊された守護でもない。


 村を喰う、歪んだ流れだ。


「――雷閃」


 刃が走った。


 青白い雷が、黒い線を正確に断つ。


 瞬間。


 丘全体が叫んだ。


 轟音。


 地面が大きく跳ねる。


 マーガレットが歯を食いしばる。


「う、あああああっ!」


 崩れようとする大地を、ハルバードで押さえ込む。


 レクスターが水の線を維持する。


「まだです! 戻りが来る!」


「アレックス!」


 マーガレットが叫ぶ。


 切断された黒い流れが、再び繋がろうとしている。


 アレックスは二撃目の体勢に入っていた。


 雷が刃に集まる。


 今度は斬るのではなく、焼き払う。


「もう一度!」


「はい!」


 レクスターが術式を引き締める。


 マーガレットが地面を支える。


 アレックスが踏み込む。


「雷牙」


 雷の刃が黒い流れの残滓を焼き切った。


 青白い光が爆ぜる。


 一瞬、夜空が昼のように明るくなった。


 広場の村人たちが叫ぶ。


「丘が!」


「光が!」


「伏せろ!」


 バルドが怒鳴る。


 子どもたちが泣く。


 大人たちが抱きしめる。


 そして。


 どん、と最後に大きく地面が鳴った。


 そのあと、急に静かになった。


 あれほど響いていた鼓動が、止まった。


 青白い光が弱まり、丘の亀裂から漏れる光も細くなる。


 黒い根の動きが止まる。


 風が戻る。


 夜の虫の声が、遠くで聞こえた。


 マーガレットはハルバードに寄りかかるようにして、荒く息を吐いた。


「……止まった?」


 レクスターは地面に手を当てる。


 長い沈黙。


 彼は目を閉じ、地下の水脈を探る。


 アレックスも、村も、誰もがその答えを待っていた。


 やがてレクスターは息を吐いた。


「一時的には」


 マーガレットが顔を上げる。


「一時的?」


「暴走は止めました。ただし、欠片が戻っていない以上、完全な修復ではありません」


「つまり?」


「村は今夜を越えられます」


 その言葉が届いた瞬間、広場から歓声が上がった。


 最初は小さく。


 次第に大きく。


 泣き声と混じりながら。


「止まった……!」


「揺れが……!」


「助かったのか……?」


「今夜は、眠れるのか……?」


 誰かが泣き崩れた。


 誰かが子どもを抱きしめた。


 バルドは丘の方を見たまま、しばらく動かなかった。


 その顔には信じられないものを見た人間の表情があった。


 半年間、毎晩のように村を苦しめてきた音が、今、止まっている。


 完全ではない。


 けれど、今夜は止まった。


 それだけで、村人たちには十分すぎるほど大きかった。


 マーガレットは力が抜けたように座り込んだ。


「つっかれたぁ……!」


「お疲れ」


 アレックスが手を差し出す。


「いや、ほんと大地押さえるの難しい! 壊す方が百倍楽!」


「でしょうね」


 レクスターが膝に手をつきながら言う。


「でも、よく抑えました」


 マーガレットが目を丸くする。


「え、褒めた?」


「褒めました」


「ほんとに?」


「はい」


「もう一回言って!」


「嫌です」


「なんで!」


「一度で十分です」


 アレックスは笑った。


 だが、その笑みの奥には疲れがある。


 雷の刃を鞘に戻す手が、わずかに震えていた。


 レクスターはそれに気づく。


「無理をしましたね」


「した」


「珍しく素直です」


「隠してもばれるだろ」


「正解です」


 マーガレットが立ち上がり、アレックスの顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「半分くらい」


「半分かぁ」


「でも立てる」


「じゃあ支える」


 マーガレットは当然のように隣へ立った。


 アレックスは少し笑う。


「ありがとう」


「どういたしまして!」


 三人は丘を下りた。


 広場の村人たちが、静かに道を開ける。


 さっきまでの警戒は、もうそこにはなかった。


 完全な信頼というにはまだ早い。


 でも、明らかに違う。


 恐怖に押し潰されていた人々が、三人を見る目に、感謝と戸惑いと、少しの希望を宿していた。


 ダンが母親の手を振りほどき、走ってくる。


「まーが!」


 マーガレットは驚いた顔をして、それからしゃがみ込んだ。


「ダン!」


 ダンは彼女に抱きついた。


「おじちゃん、帰ってきた! 揺れ、止まった!」


「うん」


 マーガレットはそっと抱き返す。


「よかったね」


「うん……!」


 その声に、彼女の目が少し潤んだ。


 アレックスはその横で、バルドと向き合った。


 バルドはしばらく何も言わなかった。


 鍬を握る手に力が入っている。


 やがて、深く頭を下げた。


「……助かった」


 その一言は、重かった。


 村の責任を背負い、期待することを恐れ、怒鳴ることでしか村を支えられなかった男の、精一杯の感謝だった。


 アレックスも頭を下げる。


「まだ終わっていません」


「分かってる」


 バルドは顔を上げる。


「だが、今夜は……今夜だけは、村の者が眠れるかもしれん」


 その声は震えていた。


 アレックスは静かに頷く。


「それなら、よかった」


 その時だった。


 レクスターがふと丘の方を見た。


 表情が戻る。


 警戒の顔。


「……アレックス」


「何だ」


「今の衝撃で、欠片を持ち去った人物の魔力痕が少し浮きました」


 マーガレットが顔を上げる。


「黒いやつ?」


「はい」


「追える?」


「今すぐなら、方向だけは」


「どこ」


 アレックスが聞く。


 レクスターは南西の闇を見た。


 旧街道のさらに先。


 森と丘の向こう。


「南西です」


 沈黙。


 アレックスはその方角を見た。


 村を救うために止めた今夜。


 けれど、黒外套は欠片を持って逃げた。


 そして、その欠片が戻らなければ、ラドナ村は完全には救われない。


 放浪旅は、ただの旅ではなくなった。


 王都から逃げるだけでもない。


 この世界のどこかで、同じような歪みが起きているかもしれない。


 欠片を集める者がいる。


 土地を壊し、人を苦しめ、それでも平然と笑う者がいる。


 マーガレットが拳を握る。


「追おう」


 レクスターが静かに言う。


「今夜は休むべきです」


「でも」


「追えば倒れます。村もまだ不安定です。救助者の処置も必要。あなたも限界です」


「う……」


「感情で動けば負けます」


 厳しい言葉だった。


 しかし、今は必要だった。


 アレックスも頷く。


「今夜は村を立て直す」


「アレックス……」


「でも、追う」


 彼は南西の闇を見た。


「必ず」


 青白い光の残滓が、丘の上で弱く瞬いている。


 村人たちの安堵の声。


 泣き声。


 再会の声。


 そのすべての向こうで、まだ終わっていないものがある。


 アレックスは雷の刃に手を添えた。


 優しく明るい彼の顔に、静かな決意が宿る。


「欠片を取り戻す」


 その言葉を、マーガレットとレクスターは黙って受け取った。


 ラドナ村の夜は、ようやく少しだけ静かになった。


 だが、三人の旅はここで終わらない。


 むしろ、ここから本当の意味で始まろうとしていた。

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