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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第11話 眠れた朝】


 ラドナ村に、朝が来た。


 それは、ただ太陽が昇ったというだけの朝ではなかった。


 昨日までのこの村にとって、夜は終わらないものだった。


 地面の奥から響く不気味な鼓動。


 丘から漏れる青白い光。


 眠りを破る揺れ。


 泣き出す子ども。


 家畜の怯えた鳴き声。


 何かが来るかもしれないという恐怖。


 何もできないまま朝を待つしかない無力感。


 そのすべてが、村人たちの身体に染み込んでいた。


 けれど、その夜は違った。


 揺れは止まった。


 丘の光は弱まり、地鳴りは聞こえなくなった。


 広場で身を寄せ合っていた人々は、最初こそ誰も眠ろうとしなかった。


 また揺れるかもしれない。


 また光るかもしれない。


 また誰かがいなくなるかもしれない。


 そう思って、目を閉じられなかった。


 それでも、夜が深くなり、何も起きない時間が続き、子どもがひとり、母親の腕の中で眠った。


 それを見た別の子どもが、安心したように眠った。


 老人が壁にもたれて目を閉じた。


 女が泣き疲れて眠り、男が鍬を抱えたままうとうとした。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 ラドナ村は、眠った。


 半年ぶりに、恐怖に叩き起こされない夜を過ごした。


 そして朝。


 東の空が白み始めた頃、広場には静かな寝息が満ちていた。


 家の中ではない。


 広場の上。


 毛布も足りず、藁束や外套を敷いただけの場所。


 それでも村人たちは、まるで長い戦いのあとみたいに眠っていた。


 子どもは母親に抱かれ、老人は若者の肩に寄りかかり、村の男たちは疲れ切った顔で地面に横になっている。


 その光景を、アレックスは広場の端から見ていた。


 空気は冷たい。


 夜明けの湿気が、頬に触れる。


 焚き火の煙が細く上がり、朝の薄明かりの中で揺れている。


 王都の朝とは違う。


 鐘の音もない。


 侍従の足音もない。


 焼きたてのパンの香りもない。


 あるのは、土の匂いと、冷えた灰の匂いと、人々の疲れた寝息だけだ。


 でも、それが今はひどく尊く思えた。


「……眠れたんだな」


 アレックスが小さく呟く。


 隣で、マーガレットが膝を抱えて座っていた。


 彼女は昨夜ほとんど眠っていない。


 広場の端で、子どもたちが寒くないよう毛布を運び、崩れかけた家から使えそうな布を探し、ダンの母親を手伝って救出された男たちを寝かせる場所を作っていた。


 そのせいで目元には疲れがある。


 それでも、彼女は村人たちを見ながら、少しだけ笑っていた。


「うん」


 声は静かだった。


「よかったね」


「うん」


「ほんとに、よかった」


 その言葉のあと、マーガレットは鼻をすすった。


 アレックスが横を見る。


「泣いてる?」


「泣いてない」


「泣いてる声だ」


「泣いてない!」


 小声で怒る。


 だが、目元は赤い。


 アレックスはそれ以上からかわなかった。


 マーガレットは涙をこぼさないように、ぐっと唇を結んでいる。


 泣きたいのだろう。


 でも、今は泣くより先に、目の前の人たちを見ていたい。


 そういう顔だった。


 少し離れた場所で、レクスターが井戸水の入った小瓶を朝日に透かしていた。


 彼もまた寝不足だ。


 昨日の夜、広場の地盤を水術で補強し、救出された男たちの体内に残った魔力汚染を少しでも薄めるために水の術式を使い続けた。


 淡々としているが、さすがに疲れている。


 眼鏡の奥の目が、いつもより少しだけ重い。


 それでも彼は、手を止めない。


「レクスター」


 アレックスが声をかける。


「休んだ方がいい」


「あなたに言われたくありません」


 即答だった。


 マーガレットが小さく笑う。


「それはそう」


「マーガレットにも言われたくありません」


「私も!?」


「あなたもほぼ寝ていません」


「でも、私は元気!」


「元気と健康は別です」


「うわ、正論」


 レクスターは小瓶を軽く揺らした。


「水質は少し改善しています」


 アレックスの表情が変わる。


「本当か」


「はい。ただし、完全ではありません。鉄臭さは残っている。魔力汚染の濃度が下がった程度です」


「飲める?」


「煮沸すれば昨日よりは安全です」


「よかった」


 アレックスは息を吐いた。


 その一言に、レクスターは少しだけ眉を上げた。


「よかった、で済ませるのは早いです」


「分かってる」


「結晶は一時停止しただけです。欠片が戻らなければ再発します」


「うん」


「追う必要があります」


「うん」


「ただし、今すぐ追えば全員倒れます」


「それも分かってる」


 アレックスは村人たちを見る。


「今日は村の復旧を手伝う。救出した人たちの処置も必要だ。丘も安定してるか確認しないといけない」


「珍しく現実的ですね」


「レクスターが移ったかも」


「それは不本意です」


「不本意なんだ」


 マーガレットが笑った。


 その笑い声は小さい。


 けれど、朝の広場にはよく響いた。


 近くで眠っていたダンが、少し身じろぎする。


 彼は母親と、救出された叔父のそばで眠っていた。


 叔父の手を握ったまま。


 その手は、眠っていても離れていない。


 マーガレットはそれを見て、また泣きそうな顔になった。


「ダン、よかったね」


「うん」


「昨日、ずっと我慢してたんだね」


「子どもが我慢しなければならない環境は、良くありません」


 レクスターが静かに言った。


 その声は、いつもより少しだけ冷たかった。


 誰かを責めるための冷たさではない。


 そういう状況を作ったものへの怒りだった。


「レクスター、怒ってる?」


 マーガレットが聞く。


「怒っています」


 即答。


 マーガレットが少し驚いた顔をする。


「素直」


「怒る理由がありますから」


 レクスターは小瓶をしまい、丘の方へ視線を向ける。


「本来、あの地下装置は村を守るものだった可能性が高い。水脈を整え、土壌を支え、土地を安定させる。そういう役割です」


「それを黒外套が壊した」


「欠片を抜いたことで、均衡が崩れた。結果として村は半年かけて蝕まれた」


 マーガレットの拳が震える。


「やっぱり許せない」


「同感です」


「レクスターが同感って言うと、本気度高いね」


「私は常に本気です」


「そうだった」


 アレックスは丘を見た。


 朝の光の中で見る丘は、昨夜の恐ろしさが嘘みたいに静かだった。


 青白い光はもう見えない。


 だが、中腹に開いた亀裂は残っている。


 周囲の草は黒く変色し、土は裂けていた。


 昨日、自分たちはあそこで雷の刃を振るった。


 マーガレットは大地を押さえた。


 レクスターは水脈を繋いだ。


 村は、ひとまず夜を越えた。


 だが、本当に救われたわけではない。


 それを、アレックスは誰よりも理解していた。


「……欠片を取り戻す」


 彼は小さく言った。


 マーガレットも、レクスターも、何も言わなかった。


 言わなくても分かっている。


 もう、それは三人の目的になりつつある。


 王都から逃げる旅。


 ただの放浪旅。


 そう思っていた道は、最初の村で変わり始めていた。


 その時、広場の反対側で誰かが起き上がった。


 バルドだった。


 彼は鍬を抱えたまま眠っていたらしく、身体を起こすと、しばらくぼんやりと周囲を見た。


 そして、地面が揺れていないことに気づいた。


 次に、子どもたちが眠っていることに気づいた。


 さらに、丘が静かなことに気づいた。


 その顔に、言葉にならない感情が浮かぶ。


 安堵。


 信じられなさ。


 恐怖の名残。


 そして、遅れてくる疲労。


 バルドはゆっくり立ち上がり、アレックスたちの方へ歩いてきた。


「……朝か」


「はい」


 アレックスが答える。


「揺れは?」


「止まっています」


「……そうか」


 バルドは広場を見回した。


 眠る村人たち。


 抱き合ったまま眠る家族。


 久しぶりに、夜を越えた村。


 彼の顔が、少し歪んだ。


 泣きそうなのを堪えているのかもしれない。


「半年だ」


 低い声だった。


「半年、夜に怯えた」


「……はい」


「子どもが寝つくたび、また揺れるんじゃないかと思った。家畜が暴れるたび、丘を見に行った奴のことを思い出した。井戸の水を飲むたび、この村はもう駄目なんじゃないかと思った」


 バルドはアレックスを見る。


「それが、昨夜は止まった」


「完全ではありません」


「分かってる」


 バルドは首を振った。


「だが、止まった」


 その一言に、広場の朝の空気が震えた。


 バルドは深く頭を下げた。


「礼を言う」


 マーガレットが慌てる。


「あ、いや、そんな! まだ終わってないし!」


「それでもだ」


 バルドは頭を上げない。


「村の者が眠れた。それだけで、礼を言う理由には十分だ」


 アレックスは少しだけ困った顔をした。


 こういう礼は、慣れていない。


 王子だった頃、感謝されることはあった。


 だがそれは、立場に向けられた礼が多かった。


 王家に。


 制度に。


 支援に。


 今、目の前の男は、アレックス個人に頭を下げている。


 その重さが、胸に響く。


「……顔を上げてください」


 アレックスが言った。


「俺たちも、助けられました」


 バルドが顔を上げる。


「何をだ」


「村の人たちに」


「俺たちが?」


「はい」


 アレックスは広場を見る。


「王都を出て、最初に来た村です。ここで、俺は何を見るべきか少し分かりました」


 バルドは黙った。


 マーガレットも、レクスターも静かに聞いている。


「俺は王都にいた頃、外のことを知っているつもりでした。でも、この村に来て、知らなかったと分かった。水が悪くなる怖さも、畑が弱る不安も、子どもが同じ悪夢を見る気持ち悪さも、助けを呼んでも来ない絶望も」


 アレックスは苦笑する。


「知らないことばかりでした」


「……」


「だから、俺たちも助けられたんです。見ないまま通り過ぎずに済んだ」


 バルドはしばらくアレックスを見ていた。


「変な奴だな」


「よく言われます」


「誰に」


「主に二人に」


「私は正確に言っています」


 レクスターが即座に言った。


「変というより、面倒です」


「レクスター、朝から切るね」


 マーガレットが言う。


「事実です」


 バルドは少しだけ笑った。


 それは初めて見る笑顔だった。


 不器用で、疲れていて、でも確かに笑っていた。


「……変で面倒な奴か」


「まとめられた」


 アレックスが笑う。


「だが、悪くはない」


 バルドのその言葉に、マーガレットがにやりとする。


「ね、アレックス」


「何?」


「褒められたね」


「そうかな」


「褒めてるよね?」


 バルドは顔を背ける。


「知らん」


「照れた!」


「照れてない!」


「バルドさん、レクスターと同じ反応する!」


「一緒にしないでください」


 レクスターが即座に抗議する。


「そこは抗議するんだ」


 アレックスが笑った。


 その声で、近くの村人が何人か目を覚ました。


 最初はぼんやりしている。


 次に、揺れていないことに気づく。


 そして、朝になっていることに気づく。


「……朝?」


「揺れなかった……?」


「本当に……?」


 ざわめきが少しずつ広がった。


 眠っていた村人たちが起き上がる。


 誰かが泣いた。


 誰かが空を見上げた。


 子どもが「眠れた」と呟き、母親がその子を抱きしめた。


 その光景は派手ではなかった。


 大歓声でもない。


 勝利の宴でもない。


 ただ、人々が眠れた朝を確かめる光景。


 けれど、アレックスにはそれが何より大きな勝利に見えた。


 しばらくして、村の人々は動き出した。


 まず、救出された男たちの手当て。


 レクスターが中心になり、井戸水を煮沸し、汚染の薄い水で傷口を洗う。


 魔力汚染に触れすぎた部位には、水術で循環を促した。


「これは治療ではなく応急処置です」


 レクスターは周囲の村人に説明した。


「体力が戻るまで安静に。無理に歩かせない。水は必ず煮沸してください。生水は避ける」


 母親たちが真剣に頷く。


「食べ物は?」


「消化しやすいものを少量から。干し肉をそのまま与えるのは馬鹿です」


 村の女が目を丸くする。


 マーガレットが横から慌てる。


「レクスター! 馬鹿って言い方!」


「では、極めて不適切です」


「硬くなった!」


 そのやり取りに、村の女たちが少し笑った。


 レクスターは気にせず続ける。


「熱が出る可能性があります。誰か一人は必ず見ていてください」


「分かりました」


「それと、黒い結晶片のようなものが傷口についていた場合、素手で触れないこと」


「黒い結晶……」


 女たちの顔が強張る。


 レクスターは淡々と言う。


「怖がるのは構いません。ですが、触れないこと。恐怖より行動が重要です」


「……はい」


 その切り捨てるような現実的な言葉は、なぜか村人たちを落ち着かせた。


 曖昧な励ましではない。


 何をすればいいかが分かる。


 それだけで、人は少し動ける。


 一方、マーガレットは崩れた家の片づけを手伝っていた。


 彼女はとにかく力がある。


 倒れた梁を持ち上げ、崩れた壁材を運び、家畜小屋の補強まで手伝う。


 村の男たちが最初は驚き、次に呆れ、最後には半ば頼りにするようになった。


「嬢ちゃん、それ持てるか?」


「持てる!」


「じゃあこっち頼む!」


「任せて!」


「いや、二人分持つな! 床が抜ける!」


「あ、ごめん!」


 マーガレットが慌てて荷物を下ろすと、周囲から笑いが起きた。


 昨日まで笑い声がほとんどなかった村に、笑いが戻っている。


 それが嬉しくて、彼女はさらに張り切る。


 張り切りすぎて、レクスターに三度注意された。


「力加減」


「はい!」


「建材は投げない」


「はい!」


「返事だけは良いですね」


「褒めてる?」


「褒めていません」


「ですよね!」


 アレックスはバルドと共に丘の周辺を確認していた。


 亀裂はまだ残っている。


 近づくと、微かに冷たい空気が上がってくる。


 青白い光は弱い。


 だが完全に消えていない。


 バルドはその亀裂を見下ろし、低く言った。


「ここに、あいつらがいたのか」


「はい」


「帰ってこなかった奴も」


「生きていました」


「……そうか」


 バルドの声は震えていた。


「あいつは、俺の弟みたいなもんだった」


 アレックスは黙って聞く。


「子どもの頃から無茶ばかりする奴でな。丘を見ると言い出した時も止めた。だが、村がこのままじゃ駄目だと聞かなかった」


「……」


「俺は止めきれなかった」


 その言葉には、長い後悔が詰まっていた。


 バルドは自分を責めている。


 村を守る立場でありながら、人を失ったことを。


 原因を止められなかったことを。


 諦めるしかなかった自分を。


「止めきれなかったことを、ずっと背負っていたんですね」


 アレックスが言う。


 バルドは顔をしかめた。


「若造が、分かったようなことを言うな」


「すみません」


「……だが」


 彼は亀裂を見たまま続ける。


「その通りだ」


 沈黙。


 風が丘を撫でる。


 黒く変色した草が、かさりと音を立てた。


「アレックス」


 バルドが初めて名前を呼んだ。


「はい」


「この村は、まだ助かるのか」


 その問いは重かった。


 嘘は言えない。


 安易な希望も、軽い励ましも、この男には届かない。


 アレックスは少し考えた。


 そして正直に答える。


「まだ分かりません」


 バルドは黙る。


「でも、助ける方法はあります。欠片を取り戻せば、地下の装置を修復できるかもしれない」


「欠片か」


「はい」


「あの黒い奴が持っていった」


「そうです」


「追うのか」


「追います」


 アレックスは南西の空を見る。


 昨夜、レクスターが魔力痕を追った方角。


「ただ、今すぐではありません。村の応急処置をしてから」


 バルドは少しだけ目を細めた。


「すぐ追わないのか」


「追いたいです」


「ならなぜ」


「ここを放ったまま行けば、また揺れるかもしれない。村の人たちが不安のままになる」


 アレックスは微笑む。


「追うためにも、戻ってこられる場所を整えたいんです」


「戻ってくる気か」


「はい」


 バルドは長く、長く黙った。


 そして、呆れたように息を吐く。


「本当に面倒な奴だな」


「今日二回目です」


「もっと言われるだろう」


「多分」


 少しだけ、二人の間に笑いが生まれた。


 昼頃、村では簡単な炊き出しが始まった。


 食料は少ない。


 それでも、村人たちは少しずつ持ち寄った。


 薄い粥。


 硬い芋。


 干した野菜。


 決して豪華ではない。


 むしろ貧しい食事だった。


 それでも、広場で皆が同じ鍋を囲む光景には、昨夜までの閉じた恐怖とは違う温度があった。


 マーガレットは粥の椀を受け取り、目を輝かせた。


「いいの!?」


 村の女が笑う。


「手伝ってくれたからね」


「ありがとう!」


「おかわりはないよ」


「分かった!」


 レクスターが横から言う。


「本当に分かっていますか」


「分かってる!」


「あなたの“分かった”は食事に関して信用度が低い」


「低くない!」


「過去の実績が」


「また実績!」


 周囲の村人が笑う。


 ダンも笑っていた。


 叔父が戻ってきたからか、昨日より表情が明るい。


 まだ不安は残っている。


 でも、子どもの顔に少しだけ子どもらしさが戻っていた。


 ダンはマーガレットの隣に座る。


「まーが、いっぱい食べる?」


「食べたい!」


「でも、おかわりないって」


「我慢する!」


「えらい」


「ダンに褒められた!」


 マーガレットは嬉しそうに笑った。


 アレックスは薄い粥を口に運ぶ。


 味は薄い。


 塩気も少ない。


 だが温かい。


 それだけで十分だった。


 隣でバルドが座る。


「王都の飯とは違うだろ」


「違います」


 アレックスは素直に答える。


「でも、美味しいです」


「気を遣わなくていい」


「遣ってません」


「薄いだろ」


「はい」


「まずいだろ」


「まずくはないです」


「正直に言え」


「温かいです」


 バルドは一瞬黙り、それから小さく笑った。


「変な褒め方だ」


「でも本当です」


「そうか」


 バルドは自分の椀を見る。


「温かいだけで助かる時もある」


「はい」


 その言葉は、食事だけの話ではないように聞こえた。


 午後になると、レクスターは村の水場と畑を再確認した。


 アレックスはバルドと男衆を集め、今後数日の注意点を確認する。


 マーガレットは子どもたちを見ながら、家財の運び出しを手伝う。


 少しずつ、村は動き始めていた。


 完全に元通りではない。


 むしろ壊れた箇所の方が目立つ。


 畑は弱ったまま。


 井戸も完全には戻らない。


 丘の亀裂も残っている。


 欠片は奪われたままだ。


 でも、人々の足が動いていた。


 それが大きかった。


 夕方近く。


 レクスターが三人を納屋の前に集めた。


 彼は地図と、自分で描いた簡単な図を広げる。


「状況を整理します」


「きた」


 マーガレットが少し身構える。


「レクスターの整理時間」


「聞いてください」


「はい」


「まず、地下装置は土地の水脈と土壌を安定させるものだった可能性が高い。中央部に青い結晶があり、その一部――欠片が黒外套に持ち去られました」


「うん」


「欠片が抜けたことで装置が暴走。村を蝕む形で魔力が逆流していた」


「それを昨日止めた」


「一時的に」


「そこ大事だね」


「非常に大事です」


 レクスターは地図の南西を指す。


「黒外套の魔力痕は南西へ向かっています。旧街道の先には森、その先に小さな交易町があります」


「そこへ行った?」


「可能性はあります。ただ、相手が足跡を消す術を持っているため、確定ではありません」


「追える?」


「痕は薄い。時間が経てば消えます」


 マーガレットが拳を握る。


「じゃあ早く行かないと」


「その通りです」


 レクスターは続ける。


「ですが、出発前に最低限の処置が必要です。井戸は煮沸徹底。畑は黒ずんだ根の株を処分。丘の亀裂周辺は立入禁止。地下へは絶対に入らせない」


「村の人に伝える」


 アレックスが言う。


「はい。明日の朝までに終わらせ、昼前には出発するのが現実的です」


「今夜は?」


「休みます」


 マーガレットが何か言いかけた。


 レクスターが先に睨む。


「休みます」


「二回言った」


「重要だからです」


「分かったよ」


「あなたは特に休んでください。昨日から肉体労働量が異常です」


「だって手伝いたかったし」


「分かっています。だから休むべきです」


「……はい」


 マーガレットは素直に頷いた。


 レクスターはアレックスを見る。


「あなたもです」


「うん」


「うん、ではなく本当に」


「分かってる」


「あなたは“分かってる”と言いながら夜中に丘を見に行きそうです」


「行かないよ」


「信用度五割です」


「少し上がったな」


「村人の目があるので」


「俺の信用じゃないのか」


「はい」


 アレックスは苦笑した。


 その夜。


 ラドナ村には、小さな灯りがともった。


 昨日ほど多くはない。


 食料も燃料も余裕はない。


 それでも、広場の中央に小さな焚き火が作られ、村人たちはその周りに集まった。


 宴ではない。


 大騒ぎでもない。


 ただ、久しぶりに皆で同じ火を見る時間だった。


 子どもたちは眠そうにしながらも、マーガレットの周りに集まっている。


「まーが、それ持って!」


「ハルバード?」


「うん!」


「危ないから振らないよ?」


「見るだけ!」


 マーガレットが大地のハルバードを持ち上げると、子どもたちが歓声を上げる。


「おおー!」


「でかい!」


「重そう!」


「重いよ!」


「まーが強い!」


「そうだよ!」


「自分で言った」


 アレックスが笑う。


 レクスターは焚き火のそばで水の本を閉じていた。


 珍しく何もしていない。


 マーガレットがそれに気づく。


「レクスター、暇?」


「休息中です」


「暇ってこと?」


「違います」


「じゃあ子どもたちに何か見せてあげてよ」


「なぜ私が」


「水の本、きれいじゃん」


「見世物ではありません」


「お願い」


 マーガレットが手を合わせる。


 子どもたちも期待の目を向ける。


 レクスターはしばらく沈黙した。


 長い沈黙。


 そして、ため息。


「一度だけです」


「やった!」


 彼は水の本を開いた。


 ページが淡く光る。


 空気中の水分が小さな球になり、焚き火の上へ浮かぶ。


 水の玉は火の光を受けてきらきら輝き、やがて小さな魚の形になった。


 子どもたちが目を輝かせる。


「魚!」


「水の魚!」


「すごい!」


 レクスターは無表情のまま、水の魚を空中で一周させた。


 最後にぱしゃん、と小さく弾けて、霧になって消える。


 子どもたちが歓声を上げた。


 マーガレットも拍手する。


「すごい! レクスター、やればできる!」


「その言い方は不適切です」


「照れてる?」


「照れていません」


 アレックスは笑う。


「いいもの見た」


「あなたまで」


「ありがとう」


「……礼は不要です」


 その時、ダンがアレックスのそばに来た。


 小さな手に、何かを握っている。


「お兄ちゃん」


「うん?」


「これ」


 差し出されたのは、小さな木片だった。


 削って、剣のような形にしてある。


 不格好で、曲がっていて、刃も柄も曖昧だ。


 でも、子どもなりに一生懸命作ったものだと分かる。


「くれるの?」


 ダンは頷いた。


「おじちゃん連れてきてくれたから」


 アレックスは木剣を受け取った。


 胸の奥が温かくなる。


「ありがとう」


「お兄ちゃん、王子様みたいだった」


 その言葉に、周囲の空気が少しだけ止まった。


 マーガレットも、レクスターも、バルドも、聞いていた。


 アレックスはダンを見る。


 ダンは何も知らない。


 アレックスが本当に王子だったことも。


 追放されたことも。


 王子失格と言われたことも。


 何も知らずに、ただそう言った。


 王子様みたいだった。


 それは、アレックスの胸に深く刺さった。


 痛みではない。


 でも、軽くもない。


「……そっか」


 アレックスは笑った。


「ありがとう」


「うん!」


 ダンは満足そうに戻っていく。


 マーガレットが隣へ来る。


「今の顔、すごかった」


「どんな顔?」


「泣きそうで、嬉しそうで、困ってた」


「全部だな」


「全部だった」


 レクスターが静かに言う。


「子どもの評価は残酷ですね」


「残酷?」


「純粋だからこそ、余計な忖度がない」


 アレックスは木剣を見る。


「王子失格って言われた日に、王子様みたいって言われるのは……不思議だな」


 マーガレットは少しだけ目を伏せた。


「失格じゃないよ」


「うん」


「私は、そう思う」


「ありがとう」


「私だけじゃないよ」


 彼女は広場を見る。


 村人たちがこちらを見ていた。


 遠巻きに。


 でも、昨日までとは違う目で。


 あの三人は何者なのか。


 ただの旅人なのか。


 元王子なのか。


 そんなことは知らない。


 それでも、村を助けてくれた人たちだと分かっている。


 その視線は、静かな感謝に満ちていた。


 アレックスはその視線を受け止めた。


 逃げなかった。


 怖さはある。


 期待される怖さ。


 また失うかもしれない怖さ。


 自分が本当に応えられるか分からない怖さ。


 でも、目を逸らしたくなかった。


 夜は穏やかに更けていった。


 揺れは来なかった。


 子どもたちはひとり、またひとりと眠った。


 大人たちも、昨夜ほどではないが、少しずつ家へ戻っていった。


 バルドは最後まで広場に残り、焚き火の前に座っていた。


 アレックスが隣へ座る。


「眠らないんですか」


「眠るのが怖い」


 正直な答えだった。


「また揺れるんじゃないかと思う」


「……はい」


「だが、眠らなきゃならん」


 バルドは火を見る。


「明日も村を動かすにはな」


「はい」


「お前も眠れ」


「そうします」


「嘘だな」


「ばれました?」


「顔に出てる」


 アレックスは苦笑した。


「レクスターにも言われました」


「だろうな」


 バルドは少し沈黙したあと、低く言った。


「欠片を追うんだな」


「はい」


「戻ってくると言ったな」


「はい」


「なら、勝手に死ぬな」


 アレックスはバルドを見る。


 バルドは火を見たままだ。


「村の連中が、また期待し始めた」


「……」


「お前らが戻らなければ、また折れる」


 重い言葉だった。


 アレックスはその重さを、黙って受け取った。


 助けるということは、期待させることだ。


 期待させるということは、責任を背負うことだ。


 それを今、改めて突きつけられている。


「戻ります」


 アレックスは言った。


「必ず」


「軽く言うな」


「軽くはありません」


 バルドは少しだけ横目で見る。


「ならいい」


 その夜、アレックスは少しだけ眠った。


 深い眠りではなかった。


 焚き火の残り火。


 遠くの虫の声。


 丘の静けさ。


 それらを感じながら、短く眠った。


 夢を見た。


 王都の大講堂。


 拍手。


 王の声。


 追放。


 そして、ダンの声。


 お兄ちゃん、王子様みたいだった。


 目を覚ますと、夜明け前だった。


 空はまだ暗い。


 だが、東の端がわずかに白い。


 隣ではマーガレットが丸まって眠り、少し離れてレクスターが本を抱えたまま浅く眠っている。


 村は静かだった。


 今度の静けさは、怯えた静けさではない。


 眠っている静けさだった。


 アレックスは木剣を手に取った。


 不格好な、小さな剣。


 でも、それは王冠よりも今の彼には重かった。


「……行こう」


 まだ誰にも聞こえない声で、彼は呟いた。


 南西へ。


 欠片を持ち去った黒外套を追うために。


 ラドナ村を本当に救うために。


 そして、王都の外に広がる世界を、ちゃんと見るために。


 眠れた朝は、終わりではなかった。


 新しい旅立ちの前の、静かな始まりだった。

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