【第12話 南西へ向かう道】
朝のラドナ村は、昨日より少しだけ人の声が多かった。
それは、賑やかというほどではない。
祭りのような明るさでもない。
家々は傷つき、畑はまだ痩せ、井戸水も完全には戻っていない。
丘の亀裂は黒く口を開けたままで、村人たちの胸から不安が消えたわけでもない。
けれど、それでも。
村は動いていた。
「そっちの板、まだ使えるぞ!」
「井戸の水は煮てからだ! レクスターさんが言ってただろ!」
「子どもらを丘に近づけるな!」
「ダン! 走るな! 転ぶ!」
声がある。
昨日までのように、ただ息を潜めているだけではない。
壊れた家の壁を直す男たち。
汚れた桶を洗う女たち。
広場の端で芋を切る老人。
小さな子どもたちは、まだ大人の目の届く範囲から離れないが、それでも少しだけ走り回るようになっていた。
その中心に、マーガレットがいた。
「これ、どこ置けばいい!?」
彼女は両腕に木材を抱えている。
一本ではない。
三本。
普通の村人なら二人がかりで運ぶような太い梁を、当たり前の顔で抱えている。
村の男がぎょっとする。
「ま、待て待て! そんなに持つな! 床が抜ける!」
「えっ、これくらいなら平気だよ?」
「お前さんが平気でも床が平気じゃない!」
「あ、そっか!」
マーガレットは慌てて木材を下ろす。
地面が、どん、と揺れた。
近くの村人たちが一瞬びくりとする。
だが、それが地鳴りではなくマーガレットが木材を置いた音だと分かると、誰かが吹き出した。
「おい、心臓に悪いぞ!」
「ごめん!」
「いや、助かってるけどな!」
「ならよかった!」
マーガレットは笑った。
その笑顔につられるように、近くの子どもが笑う。
大人も苦笑する。
ラドナ村に戻ってきた小さな笑い。
アレックスはそれを少し離れた場所から見ていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
昨日、丘の下で結晶の暴走を止めた。
今夜は揺れなかった。
子どもたちは眠れた。
村人たちは朝を迎えた。
それだけで、この村は少しだけ息を吹き返した。
完全に救えたわけではない。
むしろ、本当の意味ではまだ何も終わっていない。
欠片は奪われたまま。
地下の装置は一時的に安定しているだけ。
黒外套の正体も目的も分からない。
それでも、今この瞬間、村人たちは動けている。
その事実を、アレックスは静かに噛みしめていた。
「また遠い顔をしていますね」
背後からレクスターの声がした。
振り返ると、彼は水の本を抱え、相変わらず少し眠そうな目で立っていた。
いや、眠そうというより、疲労を理性で押さえ込んでいる顔だった。
「遠い顔?」
「はい」
「そんな顔してた?」
「していました」
「どんな?」
「自分の感情を確認しつつ、周囲を見て安心し、同時にまだ終わっていない現実を思い出して勝手に責任を背負っている顔です」
アレックスは瞬きした。
「……細かいな」
「観察結果です」
「そこまで顔に出てる?」
「あなたは出ています」
「隠すの下手か」
「下手です」
容赦がない。
アレックスは苦笑した。
「そうか」
「はい」
「でも、だいたい合ってる」
「でしょうね」
レクスターは村の様子を見る。
彼の目は、マーガレットのように感情で揺れてはいない。
だが、冷たくもなかった。
動き出した村を、現実的に見ている。
どの家が壊れているか。
井戸の周りに人が集まりすぎていないか。
子どもが丘の方へ近づいていないか。
救出した男たちの容態はどうか。
彼は全部見ている。
「村の応急処置は、昼までには終わります」
レクスターが言った。
「水の煮沸は徹底するよう伝えました。黒ずんだ作物は廃棄。丘の亀裂周辺には簡易の柵を作る。地下へ入ることは厳禁。救出者三名は最低三日は安静」
「三日で大丈夫?」
「保証はできません」
「だよな」
「ですが、村の環境を考えれば、それ以上の安静を強制するのは困難です。労働力が足りない」
レクスターの声は淡々としている。
それがかえって重い。
人手が足りない。
食料も足りない。
水も完全ではない。
村は今、薄い板の上に立っている。
欠片を戻さなければ、また崩れる。
「南西へ行く」
アレックスが言った。
「はい」
「今日中に出る」
「遅くとも昼過ぎには」
「村の人たちには?」
「説明は必要です」
「バルドさんにも」
「当然です」
レクスターはアレックスを見る。
「言いにくいでしょうね」
「うん」
「期待させた村を置いていくことになります」
「うん」
「ですが、欠片を追わなければ根本解決にならない」
「分かってる」
「分かっているなら、言うしかありません」
「冷たいな」
「冷たくする役です」
アレックスは少し笑った。
「助かる」
「礼は不要です」
「でも言う」
「あなたは本当に……」
レクスターは途中で言葉を切った。
何を言おうとしたのかは分からない。
面倒、だったかもしれない。
甘い、だったかもしれない。
だが、彼は言わなかった。
「村長役のバルドに話しましょう」
「そうだな」
二人が歩き出すと、マーガレットが木材の山から顔を上げた。
「あれ? どこ行くの?」
「バルドさんに話してくる」
アレックスが答える。
「出発の話?」
「うん」
マーガレットの顔から笑顔が少し消えた。
村の子どもたちに囲まれ、村人たちに頼られ、ようやく少し明るくなった場所を離れる。
そのことに、彼女も胸を痛めているのだろう。
「私も行く」
彼女はすぐに木材を置こうとした。
村の男が慌てる。
「おいおい、それはこっちでやるから!」
「大丈夫?」
「大丈夫だ! お前さんが持つと感覚が狂う!」
「え、そう?」
「ああ、普通の人間は梁を三本持たん」
「そっか!」
マーガレットは納得したように頷き、アレックスたちの方へ走ってきた。
その背中を見て、村の男たちが笑う。
「変な娘だな」
「でも、いい娘だ」
「力は怖いけどな」
「助かるだろ」
「ああ、助かる」
その言葉に、マーガレットは少しだけ嬉しそうに振り返った。
「聞こえてるよ!」
「聞こえるように言ったんだ!」
「ありがと!」
彼女は笑って手を振った。
それから、アレックスの横へ並ぶ。
「行こう」
「うん」
バルドは丘の麓にいた。
昨日のうちに作り始めた簡易柵の状態を確認している。
数人の男たちが杭を打ち込み、縄を張っている。
亀裂から距離を取るように、大きく囲む形だ。
あまり近づきすぎると危険だと、レクスターが強く言ったからだ。
バルドは三人が近づくと、何かを察したように顔を上げた。
「行くのか」
先に言われた。
アレックスは一瞬だけ息を止め、それから頷く。
「はい」
バルドは杭を打っていた男たちへ視線を向けた。
「少し外せ」
「バルドさん」
「いい。続きは後で見る」
男たちは三人を見て、何か言いたげな顔をした。
しかし何も言わず、少し離れた場所へ移動した。
バルドは丘の亀裂を見上げる。
「欠片を追うんだな」
「はい」
「南西だったか」
「そうです」
レクスターが答える。
「魔力痕は薄れています。今日中に出なければ追跡精度は落ちる」
「難しい言い方をする」
「簡単に言えば、急ぐ必要があります」
「最初からそう言え」
「あなたが理解できるか確認しました」
「口が悪いな」
「事実を言っています」
「そうかい」
バルドは少しだけ笑った。
昨日なら、その言い方に怒っていたかもしれない。
だが今は違う。
この冷静な青年が、昨夜ずっと村のために動いていたことを知っている。
口は悪い。
だが、手は抜かない。
それを知ったから、腹は立っても信じられる。
「村は、しばらく大丈夫なのか」
バルドが聞いた。
レクスターはすぐに答えなかった。
それが答えでもあった。
「絶対とは言えません」
彼は言う。
「昨夜の処置で暴走は抑えました。水質も少し改善しています。ただし欠片が欠けた状態である以上、安定は一時的です」
「どれくらい持つ」
「数日から十日ほど。状況次第です」
「短いな」
「はい」
バルドの顔が険しくなる。
だが、取り乱しはしなかった。
彼はもう、知らない恐怖より、分かった危険の方がまだましだと知っている。
「やることは?」
「井戸水の煮沸。黒ずんだ作物の除去。丘への立入禁止。夜間は一か所に集まれる準備。再び揺れが始まったら、広場へ避難」
レクスターは一つずつ伝える。
バルドは頷く。
「覚えた」
「紙にもまとめます」
「助かる」
「あなたが倒れると村が止まります。睡眠を取ってください」
バルドが眉をひそめる。
「お前、俺にまで言うのか」
「言います」
「若造に寝ろと言われるとはな」
「年齢と合理性は関係ありません」
「ほんと口が悪い」
マーガレットが横から笑う。
「でも、レクスターの言うことはだいたい合ってるよ」
「だいたいではなく、かなり合っています」
レクスターが訂正する。
「そこ訂正する?」
「します」
バルドは呆れたように息を吐いた。
そして、アレックスを見る。
「戻ると言ったな」
「はい」
「戻れなかったら?」
重い問いだった。
マーガレットが息を呑む。
レクスターも黙る。
アレックスは逃げなかった。
「戻ります」
「だから、戻れなかったらと聞いている」
「戻れるようにします」
「軽く聞こえるぞ」
「軽くは言っていません」
アレックスはまっすぐバルドを見た。
「でも、戻れない可能性を前提にした約束はしたくありません」
「……」
「この村は、俺たちが戻る場所です。勝手にそう決めました。だから戻ります」
バルドは長く黙った。
風が丘を撫でる。
亀裂を囲む縄が、かすかに揺れる。
「勝手な奴だ」
「すみません」
「謝るな。余計に腹が立つ」
「じゃあ、謝りません」
「素直なのか図太いのか分からん」
「よく言われます」
「だろうな」
バルドは少しだけ顔を背けた。
表情を見せたくなかったのかもしれない。
「……なら戻れ」
低い声。
「欠片を取り戻して、ここに戻れ」
「はい」
「村の連中には、俺から話す」
「いいんですか」
「お前が言うと、変に期待させる」
アレックスは苦笑した。
「そうですか」
「お前は顔が優しすぎる」
「また言われた」
マーガレットが笑う。
「ほら、アレックス。やっぱり目立つんだよ」
「笑顔控える練習するか」
「無理」
「早い」
レクスターも言う。
「諦めてください」
「二人に否定された」
バルドは小さく笑った。
そして表情を引き締める。
「ただ、出る前に広場へ来い」
「なぜですか」
「村の連中が、礼を言いたがってる」
アレックスは少し戸惑った。
「礼なら、もう十分」
「十分かどうかは、言う側が決める」
バルドの言葉は強かった。
「昨日までの俺なら、そんなことも言えなかったがな」
アレックスはしばらく彼を見て、頷いた。
「分かりました」
広場に戻る頃には、村人たちが自然と集まり始めていた。
誰が呼んだわけでもない。
バルドが数人へ伝え、その数人がまた別の家へ声をかけたのだろう。
やがて、広場には多くの村人が立っていた。
昨日、恐怖で身を寄せ合っていた場所。
今日、同じ場所に集まった人々の顔には、疲れと不安と、そして感謝があった。
子どもたちは前の方にいる。
ダンもいた。
彼の叔父はまだ横になっているため来られないが、母親が代わりに深く頭を下げていた。
アレックスはその光景に少しだけ足を止めた。
「……多いな」
「村人全員に近いですね」
レクスターが言う。
「逃げる?」
マーガレットが小声で聞く。
「逃げません」
「アレックス、人前苦手じゃないの?」
「王子だったから慣れてるはずなんだけど」
「だけど?」
「これは違う」
式典の視線ではない。
貴族の値踏みでもない。
拍手のために整えられた人々でもない。
ここにいるのは、昨日まで眠れなかった村人たちだ。
そして今、彼らはアレックスたちを見ている。
その視線の重さは、王都の大講堂よりずっと胸に響いた。
バルドが広場の中央へ立つ。
「みんな、聞け」
村人たちのざわめきが静まる。
「この三人は、欠片を取り戻しに行く」
ざわり、と空気が動いた。
「行くのか……?」
「もう?」
「村は大丈夫なのか?」
「でも、欠片がないとまた……」
不安の声が広がる。
アレックスは前へ出た。
その瞬間、ざわめきが少しだけ収まる。
「完全に大丈夫とは、まだ言えません」
アレックスは正直に言った。
村人たちの顔がこわばる。
「昨日、地下の暴走は一時的に止めました。でも、欠片が戻らない限り、また同じことが起きるかもしれない」
誰かが息を呑む。
子どもが母親の服を握る。
アレックスは続ける。
「だから、俺たちは欠片を追います」
静かな声。
けれど、広場の端まで届いた。
「黒い外套の人物が、南西へ向かった可能性があります。必ず追いつけるとは限りません。すぐに戻れる保証もありません」
マーガレットが横で拳を握る。
レクスターは目を伏せない。
アレックスは村人たちを見る。
「でも、戻ります」
その一言で、広場が静かになった。
「この村に戻ります。欠片を取り戻して、地下の装置をちゃんと直すために」
沈黙。
それから、ダンが前へ出た。
「ほんと?」
小さな声だった。
アレックスは膝を折り、目線を合わせる。
「ほんと」
「まーがも?」
「もちろん!」
マーガレットが胸を張る。
「レクスターも?」
ダンが少し緊張しながら聞く。
レクスターは眼鏡を押し上げる。
「戻ります」
「ほんと?」
「嘘をつく理由がありません」
「レクスター、子ども相手にその返し」
マーガレットが小声で言う。
「正直です」
ダンは少し考えてから、こくんと頷いた。
「じゃあ、待ってる」
その言葉が、広場に落ちた。
待ってる。
それは単純で、重い言葉だった。
村人たちの間に、静かな空気が広がる。
ダンの母親が涙をこらえながら頭を下げる。
「どうか、お気をつけて」
年配の女が言う。
「無茶はしないでおくれよ。あんたたちは、もうこの村の恩人なんだから」
「恩人……」
マーガレットが少し照れた顔をする。
「なんか、むずむずする」
「慣れてください」
レクスターが言う。
「慣れるものなの?」
「知りません」
「知らないのに言った!」
村人たちの間に笑いが起きる。
昨日とは違う笑いだった。
恐怖を紛らわせるためではない。
心から少しだけ温まった時の笑い。
バルドが歩み出て、アレックスに小さな布袋を差し出した。
「持っていけ」
「これは?」
「干し芋と豆だ。大した量じゃない」
「受け取れません」
アレックスはすぐに言った。
「村も足りないでしょう」
「足りない」
バルドは即答した。
「だが、持っていけ」
「でも」
「受け取れ」
強い声だった。
「俺たちは何もできん。欠片を追うことも、黒外套を探すこともできん。なら、せめてこれくらいはさせろ」
アレックスは言葉に詰まった。
マーガレットも黙った。
レクスターも、今回は何も言わなかった。
バルドの手にある布袋は軽い。
きっと本当に、大した量ではない。
でも、この村にとっては軽くない。
差し出す余裕などないはずだ。
それでも差し出している。
アレックスはゆっくりと布袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「必ず戻れ」
「はい」
次に、ダンが走ってきた。
手には、昨日渡した木剣とは別のものがある。
小さな布切れ。
そこに、幼い字で何かが書かれていた。
「これも」
「何?」
「おまもり」
布には、曲がった線で剣のような絵と、丸い顔が三つ描かれていた。
一人は剣。
一人は大きな斧のようなもの。
一人は本。
アレックスは思わず笑った。
「俺たち?」
「うん」
「上手いな」
「ほんと?」
「うん」
マーガレットが覗き込む。
「私これ? ハルバード大きい!」
「まーが、強いから」
「分かってるね!」
レクスターも見た。
「私の本が四角すぎますね」
「レクスター!」
「ですが、特徴は捉えています」
「素直に褒めて!」
「上手です」
ダンが嬉しそうに笑う。
レクスターは少しだけ目を細めた。
アレックスはその布を丁寧に折り、懐に入れた。
「大事にする」
「うん!」
出発の準備は静かに進んだ。
レクスターが村人たちへ注意事項を書いた紙を渡し、バルドがそれを受け取る。
マーガレットは子どもたち一人ひとりに手を振り、何度も「またね」と言う。
アレックスは救出された男たちの容態を見てから、最後にダンの叔父のそばへ行った。
まだ顔色は悪いが、意識は少し戻っている。
彼はアレックスを見ると、かすかに唇を動かした。
「……ありが……とう」
「まだ安静にしてください」
「ダンを……」
「元気です」
アレックスは笑う。
「あなたが帰ってきて、すごく喜んでいました」
男の目元に涙が滲む。
「……よかっ……た」
「欠片を取り戻して戻ります」
男は弱く頷いた。
その手を、妹がそっと握っている。
アレックスは静かに頭を下げ、立ち上がった。
昼前。
三人は村の南西側の出口に立っていた。
旧街道は、そこから森へ向かって伸びている。
道は細い。
草に半分覆われ、最近はあまり使われていないのが分かる。
その先に、黒外套がいるかもしれない。
欠片があるかもしれない。
さらに先には、まだ知らない町がある。
危険もある。
王都の追手も、どこかで動いているだろう。
それでも、進むしかない。
バルドが最後に言った。
「南西へ半日進むと、古い森に入る。夜は避けろ」
「なぜ?」
レクスターが聞く。
「道が悪い。獣も出る。昔は交易路だったが、今は人が少ない」
「分かりました」
「森を抜ければ、小さな交易町がある。名前はグレイル」
「グレイル」
アレックスが繰り返す。
「そこなら情報が集まるかもしれん」
「ありがとうございます」
マーガレットが手を振る。
「じゃあ行ってくる!」
ダンが叫ぶ。
「まーが! またね!」
「またね!」
「お兄ちゃんも!」
「うん。また」
「レクスターも!」
レクスターは少しだけ間を置く。
「……また」
マーガレットがにやにやする。
「照れた?」
「照れていません」
「顔は変わってないけど、間があった!」
「ありません」
「ありました」
アレックスが笑って言う。
「あなたまで」
村人たちが笑う。
その笑い声を背に、三人は歩き出した。
王都を出た時とは違う。
あの時は、追放されて、行く場所も分からず、ただ前へ歩くしかなかった。
今は違う。
戻る場所ができた。
待っている人ができた。
取り戻すものができた。
その分だけ、背負うものは重くなった。
でも、不思議と足は前へ出た。
しばらく歩いたあと、マーガレットが振り返った。
村の入口に、人々がまだ立っている。
小さく手を振る子どもたち。
腕を組んで見送るバルド。
泣きそうな顔の母親たち。
皆が、三人の背中を見ていた。
「……見えなくなるまで手振ってる」
マーガレットの声が少し震えた。
「うん」
アレックスも振り返る。
手を振った。
村人たちがまた手を振り返す。
レクスターは前を見たまま言った。
「足元に注意してください」
「情緒!」
「転倒すれば情緒どころではありません」
「でも、ほら、レクスターも手振って」
「必要ですか」
「必要!」
「……」
レクスターは小さく、ほんの小さく片手を上げた。
村の子どもたちが歓声を上げる。
「レクスター振った!」
「振った!」
「見た!」
マーガレットが吹き出す。
「人気者だね」
「不本意です」
「でも嬉しい?」
「……不本意です」
「二回言った」
アレックスは笑った。
村が少しずつ遠ざかっていく。
やがて、家々の形が小さくなり、広場の人影も点のようになった。
それでも、胸の中には残っている。
眠れた朝。
ダンの木剣。
布のお守り。
バルドの「戻れ」という声。
それらが、アレックスの足を前へ進ませた。
南西の旧街道は、次第に森へ近づいていく。
空気が湿り、木々の匂いが濃くなる。
鳥の声が減り、代わりに葉擦れの音が増えた。
道の端には、古い石標が半ば埋もれている。
かすれた文字は読みづらい。
レクスターが立ち止まり、石標を見る。
「グレイル方面で間違いありません」
「黒外套の痕は?」
アレックスが聞く。
レクスターは水の本を開き、空気中の微かな魔力を探る。
しばらく沈黙。
風が吹き、木々が揺れる。
「……薄いですが、あります」
「追える?」
「今なら」
マーガレットがハルバードを握る。
「よし」
「ただし、気をつけてください」
レクスターの声が低くなる。
「痕跡が残っているということは、相手が消しきれなかった可能性もありますが、逆に残している可能性もあります」
「罠?」
「十分あり得ます」
「黒いやつ、性格悪そうだもんね」
「同感です」
アレックスは森の奥を見る。
薄暗い道。
人の気配はない。
風が木々の間を抜け、遠くで何かの枝が折れる音がした。
「行こう」
彼は言った。
優しい声ではなく、決めた声だった。
「罠でも、進む」
「うん」
マーガレットが頷く。
「罠なら、ぶっ壊す」
「壊す前に確認してください」
レクスターが即座に言う。
「分かってる!」
「信用度三割です」
「低くなった!」
「罠への対応において、あなたの信用度は低い」
「ひどい!」
アレックスは笑う。
その笑いは、王都を出たばかりの頃より少しだけ強くなっていた。
失ったものは戻らない。
追放された事実も消えない。
でも、歩く理由は増えた。
南西へ。
森の奥へ。
欠片を追って。
三人は旧街道へ踏み込んだ。
その背後で、ラドナ村の姿が森の影に隠れていく。
戻ると約束した村。
眠れた朝を取り戻した村。
そして、まだ完全には救えていない村。
アレックスは懐の布のお守りにそっと触れた。
小さな絵。
剣と、ハルバードと、本。
三人の姿。
それを確かめてから、彼は前を向いた。
森の奥で、かすかに青白い光が揺れた気がした。
一瞬だけ。
まるで、誰かがこちらを待っているように。
マーガレットが足を止める。
「今、光った?」
レクスターが目を細める。
「見えました」
アレックスは雷の刃へ手を添えた。
遠く、森の奥から、風とは違う囁きが聞こえた気がした。
――追っておいで。
声だったのか。
ただの葉擦れだったのか。
分からない。
だが、三人は同時に前を見た。
黒外套の影は、もう次の場所へ進んでいる。
欠片を持って。
世界のどこかにある、別の歪みへ向かって。
放浪旅は、逃避行から追跡へ変わった。
そしてその先で、三人はまだ知らない。
王都の外に広がる世界が、ラドナ村だけでは終わらないほど深く、静かに壊れ始めていることを。




