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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第13話 旧街道の森】


 旧街道は、森の中へ静かに沈んでいた。


 ラドナ村を出た時には、まだ空が広かった。


 畑の向こうに丘があり、遠くに村の屋根が見えて、風には土と煙の匂いが混じっていた。


 けれど、森へ入ると空は狭くなった。


 高い木々が左右から枝を伸ばし、葉が重なり合って昼の光を細かく砕いている。


 地面には古い石畳の名残がある。


 だが、ほとんどは苔と土に覆われ、ところどころで木の根が石を押し上げていた。


 道の端には、欠けた石標。


 倒れた標識。


 朽ちた柵。


 かつて交易路だった痕跡は残っているが、今は人の気配が薄い。


 鳥の声も少ない。


 代わりに、葉擦れの音と、どこか遠くの水音だけが聞こえていた。


「……思ってたより暗いね」


 マーガレットが小声で言った。


 彼女は大地のハルバードを背負い直しながら、周囲を見回している。


 いつもなら「森だ!」「木が多い!」くらいの勢いで騒ぎそうなものだが、今は自然と声が落ちていた。


 この森には、そうさせる空気がある。


 暗いだけではない。


 静かすぎる。


 人が通らない森というより、人が通ることを拒んでいる森のようだった。


「旧街道とは名ばかりですね」


 レクスターが足元を見ながら言う。


「少なくとも、ここ数か月まともな整備はされていません」


「分かるの?」


「石畳の隙間の苔、倒木の位置、轍の薄さ」


「轍?」


「荷車の跡です」


「ああ」


「最近通った荷車は少ない。徒歩の旅人も多くない。交易路としてはほぼ死んでいます」


「言い方」


「事実です」


 アレックスは道の先を見た。


 木々の間に、細く続く道。


 そこには、黒外套が残したかもしれない青白い魔力痕がある。


 目で見えるわけではない。


 だが、レクスターが時折水の本を開き、空気中の微かな流れを読んでいる。


 欠片の残滓。


 村を蝕んでいた青白い光の欠片。


 それが、南西へ伸びている。


 追わなければならない。


 ラドナ村に戻るために。


「レクスター」


「はい」


「痕跡は?」


「まだ拾えます」


「薄い?」


「薄いですね」


「急いだ方がいい?」


「はい」


 レクスターは本を閉じる。


「ただし、急ぎすぎると罠を踏みます」


「難しいな」


「追跡とはそういうものです」


 マーガレットが顔をしかめる。


「私はさ、追いかけるなら全力で走る方が好き」


「でしょうね」


「即答!」


「あなたの性格からして当然です」


「でも罠は嫌」


「罠もあなたを嫌がるでしょう」


「どういう意味!?」


「踏まれたら壊されるので」


「それ、私が強いってこと?」


「雑に言えば」


「よし!」


「雑すぎる理解ですね」


 アレックスは笑った。


 森の空気が少しだけ柔らかくなる。


 それでも、すぐにまた静けさが戻った。


 三人の足音。


 葉が揺れる音。


 遠くの水音。


 それだけ。


 王都を出てから、何度も感じた。


 世界は広い。


 そして、広い分だけ静かな場所がある。


 声を上げなければ誰にも届かない場所。


 苦しんでいても、報告書の端にしか載らない場所。


 ラドナ村もそうだった。


 この森の先にも、きっとそういう場所がある。


 アレックスは懐に入れた布のお守りに、そっと指を触れた。


 ダンがくれたお守り。


 剣と、ハルバードと、本。


 三人の絵。


 拙い線なのに、なぜか胸に残る。


「……重いな」


 無意識に呟いていた。


 マーガレットが横を見る。


「荷物?」


「いや」


 アレックスは少し笑った。


「お守り」


「ああ、ダンの」


「うん」


「軽いでしょ?」


「物はね」


「……気持ちが?」


「うん」


 マーガレットは少し黙った。


 レクスターも何も言わない。


 森の中に、三人の沈黙が落ちる。


 それは、急かす沈黙ではなかった。


 アレックスが言葉を続けるのを待つ沈黙だった。


「王都を出た時は、追放されて、どうしようかって思ってた」


「うん」


「それでも、二人がいたから歩けた」


「うん」


「ラドナ村で、待ってるって言われた」


 アレックスは前を見る。


「戻るって言った」


「言ったね」


「思っていたより、重かった」


 マーガレットは頷いた。


「重いよね」


「うん」


「でもさ」


 彼女は少し明るい声で言った。


「重いってことは、大事ってことじゃん」


 アレックスは横を見る。


 マーガレットは前を向いたまま続ける。


「どうでもいい約束なら重くないよ。忘れたって痛くない。守れなくても悔しくない。でも、戻るって言った時、アレックスは本気だったでしょ?」


「うん」


「だったら重くていいんじゃない?」


 その言葉は、単純だった。


 でも、深かった。


 レクスターが静かに言う。


「雑ですが、否定はしません」


「レクスターが否定しない!」


「重責を軽く見積もるよりは健全です」


「ほら、褒めてる!」


「半分ほど」


「出た、半分!」


 アレックスは少し笑った。


「ありがとう」


「うん!」


「二人とも」


 レクスターが目を細める。


「私も含まれましたか」


「もちろん」


「なら受け取っておきます」


 少しだけ、胸が軽くなった。


 重さは消えない。


 でも、重いまま歩けばいい。


 そう思えた。


 森の道は、しばらく緩やかに続いた。


 途中、壊れた荷車の残骸を見つけた。


 車輪は割れ、荷台は半分苔に沈んでいる。


 古いものだ。


 アレックスが足を止める。


「襲われた跡か?」


 レクスターが残骸を調べる。


「少なくとも数か月以上前です。木材の劣化から見て、半年から一年」


「ラドナ村の異変と時期が近い?」


「可能性はあります」


 マーガレットが残骸の周りを見る。


「人は?」


「骨などは見当たりません」


「よかった……のかな」


「判断不能です。逃げたのか、運ばれたのか、あるいは別の場所で」


「それ以上言わないで」


「現実ですが」


「今はいい」


 レクスターはそれ以上言わなかった。


 珍しいことだった。


 マーガレットは少し驚き、彼を見た。


「止めてくれた?」


「あなたの精神状態を考慮しました」


「優しいじゃん」


「合理的判断です」


「そういうことにしとく」


 アレックスは荷車の近くにしゃがみ込む。


 地面に残った古い傷。


 木の幹に刻まれた爪痕のような跡。


 それを指でなぞる。


「獣?」


「大型獣の可能性が高いですが、通常の狼や熊とは爪幅が違います」


 レクスターが言う。


「汚染獣?」


「可能性は高い」


 マーガレットの顔が曇る。


「ラドナ村の丘にいたやつみたいな?」


「はい」


「……嫌だな」


 彼女は低く言った。


 昨日、地下へ向かう途中で出会った狼のような獣。


 黒い結晶に侵食され、痛みも分からないように襲ってきた存在。


 アレックスが苦しまないように斬った。


 その姿が、三人の記憶に残っている。


「黒外套が通ったあとにも、同じことが起きるのかな」


 マーガレットが言う。


「欠片の影響が周囲に漏れれば、起き得ます」


 レクスターの声は冷たい。


「最悪の場合、通過した土地や獣を汚染しながら移動している可能性があります」


「やっぱり急いだ方がいいじゃん」


「はい」


「でも罠があるかもしれない」


「はい」


「うう……」


 マーガレットが頭を抱える。


「考えること多い!」


「考えるのは私が担当します」


 レクスターが言う。


「あなたは足元と周囲の警戒を」


「分かった!」


「分かったと同時に前しか見ていません」


「見てる!」


「右」


「え?」


 マーガレットが右を見る。


 木の影から、小さな影が飛び出してきた。


 兎のような獣。


 ただし、目が青白く光っている。


 足の一部に黒い結晶が浮いている。


「うわっ!」


 マーガレットは反射的にハルバードを構えた。


 しかし、その獣は襲ってこなかった。


 ふらふらと走り、すぐに倒れた。


 小さく痙攣している。


 マーガレットの顔が強張る。


「……この子」


 アレックスはゆっくり近づく。


 獣は苦しそうに息をしている。


 普通なら人間を見れば逃げるはずなのに、逃げる力もない。


 黒い結晶が脚から体へ広がっている。


「助けられるか」


 アレックスが聞く。


 レクスターは膝をつき、布越しに確認した。


 長い沈黙。


 それから、首を振る。


「無理です」


 マーガレットが唇を噛む。


「……そっか」


「汚染が内臓まで達しています。取り除けば死ぬ。放置しても苦しむだけです」


 アレックスは目を伏せた。


 雷の刃に手をかける。


「俺がやる」


 マーガレットは何も言わなかった。


 レクスターも。


 アレックスは膝をつき、兎のような獣へ静かに声をかけた。


「ごめん」


 雷が一瞬だけ走る。


 獣は、音もなく動かなくなった。


 森に、静けさが戻る。


 マーガレットは拳を握りしめていた。


「黒外套、絶対許さない」


「うん」


 アレックスの声も低い。


「欠片が原因なら、止める」


 レクスターは周囲を見回す。


「ここで汚染獣が出たということは、黒外套はこの近くを通っています」


「近い?」


「少なくとも痕跡は強くなっています」


「だったら」


 マーガレットが顔を上げる。


 その時だった。


 森の奥から、枝が折れる音がした。


 ぱきり。


 小さな音。


 だが、三人は同時に止まった。


 アレックスが雷の刃に手をかける。


 マーガレットがハルバードを構える。


 レクスターが水の本を開く。


「……人?」


 マーガレットが小声で言う。


「足音が軽い」


 レクスターが答える。


「獣ではありません。少なくとも二人」


「黒外套?」


「断定不能」


 アレックスは静かに前へ出る。


「出てきてください」


 森の中に声が通る。


 返事はない。


 ただ、葉擦れの音だけが返ってくる。


「こちらに敵意はありません」


 アレックスは続けた。


「ですが、隠れたままなら警戒します」


 しばらく沈黙。


 そして、木の陰から小さな人影が出てきた。


 子どもだった。


 十歳くらいの少年。


 服は泥だらけで、頬には小さな傷がある。


 手には短い木の棒。


 武器のつもりなのだろう。


 その後ろに、さらに幼い少女が隠れている。


 兄妹かもしれない。


 マーガレットの表情が一瞬で柔らかくなる。


「あ、子ども……」


「近づきすぎないでください」


 レクスターが小声で止める。


「怖がらせます」


「分かってる」


 マーガレットはハルバードをゆっくり下ろした。


 少年は警戒したまま、棒を構える。


「来るな」


 声が震えていた。


「近づかないよ」


 アレックスは膝を折り、目線を少し下げた。


「怪我してる?」


「してない」


「頬から血が出てる」


「してない!」


「分かった。してないことにする」


 マーガレットが小声で言う。


「アレックス、子ども相手上手いね」


「上手いというより、相手の否定を無理に折らないだけです」


 レクスターが言う。


「レクスターもできる?」


「必要なら」


「やってみて」


「今は必要ありません」


「逃げた」


「戦略的撤退です」


 少年は三人を睨んでいる。


「王都の人間か」


 その言葉に、アレックスの胸が少しだけ痛む。


「王都から来たけど、今は違う」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


「王都のやつはみんなそう言う」


 少年の声には、強い不信があった。


 ラドナ村でも似た目を見た。


 王都への失望。


 外から来る者への警戒。


 この森の子どもまで、それを知っている。


「君たちはどこの子?」


 アレックスが聞く。


 少年は答えない。


 後ろの少女が兄の服を握っている。


 彼女の顔は青ざめていて、足元がふらついていた。


 レクスターが目を細める。


「妹さん、熱がありますね」


 少年がすぐに棒を構える。


「見るな!」


「見るなと言われても、明らかに体温が高い。歩かせるべきではありません」


「うるさい!」


「放置すれば倒れます」


「うるさい!」


 少年の声が震える。


 怒っているのではない。


 怖いのだ。


 誰かに頼れば奪われる。


 助けを求めれば裏切られる。


 そういう経験をした子どもの声だった。


 マーガレットはたまらず一歩前へ出かけた。


 だが、止まった。


 自分が勢いで近づけば、この少年はさらに怯える。


 だから、ぐっと堪えた。


 アレックスは静かに言った。


「妹さんを助けたい」


「信じない」


「うん」


 少年が一瞬、戸惑う。


「信じなくていい」


 アレックスは笑わなかった。


 優しい顔はしていた。


 でも、無理に安心させる笑みではない。


「信じなくていいから、座らせてあげて。ここで倒れたら危ない」


 少年は唇を噛む。


 妹が小さく咳をした。


「兄さん……」


「大丈夫だ」


「でも……」


 少女はふらついた。


 少年が慌てて支える。


 その瞬間、アレックスが動こうとしたが、レクスターが目で止めた。


 今動けば、少年は反射的に逃げる。


 アレックスは踏みとどまった。


 沈黙。


 森の中で、子どもの荒い息だけが聞こえる。


 やがて少年は、震える声で言った。


「薬、あるのか」


「少しなら」


 アレックスが答える。


「ただ、見ないと分からない」


 少年はしばらく睨んでいた。


 それから、妹を木の根元へ座らせた。


「変なことしたら、殴る」


「分かった」


「本気だぞ」


「うん」


「俺、強いからな」


「そうだね」


 マーガレットが小声で言う。


「アレックス、優しい……」


「今は茶化さないでください」


 レクスターが鞄から薬草袋を取り出す。


「私が見ます」


 少年が警戒を強める。


「お前、怖い」


「正しい感想です」


「レクスター!」


 マーガレットが小声で叫ぶ。


「怖くないって言って!」


「嘘は良くありません」


「そういう問題じゃない!」


 レクスターは少女の前にしゃがむ。


 動きはゆっくり。


 目線は合わせすぎず、手元を見せる。


 意外なほど丁寧だった。


「手首に触れます。嫌なら言ってください」


 少女は怯えながらも、小さく頷いた。


 レクスターは脈を取り、額に手をかざす。


 水の本は開かない。


 魔術を使えば怖がらせると判断したのだろう。


「発熱。脱水気味。疲労。軽い外傷」


「治る?」


 少年が聞く。


「休めば」


 レクスターは短く言った。


 少年の肩から力が抜ける。


「ただし、このまま森を歩けば悪化します」


「……」


「水を飲ませます。少しずつ」


 マーガレットがすぐに水袋を出す。


「これ使って」


「一気に飲ませないでください」


「分かってる!」


「信用度六割です」


「上がった!」


 レクスターは薬草を少量水に混ぜ、少女に飲ませた。


 少女は咳き込みながらも、少しずつ飲む。


 少年はずっとその様子を見ていた。


 棒を握る手はまだ緩まない。


 だが、目の険しさは少しだけ薄れている。


「名前は?」


 アレックスが聞いた。


 少年は黙る。


 少女が小さく答えた。


「……ミナ」


「ミナか」


 アレックスは優しく言う。


「いい名前だね」


 少女は少しだけ頬を赤くした。


 少年が眉を吊り上げる。


「勝手に話すな」


「兄さん……」


「俺は、トマ」


 少年は観念したように言った。


「トマだ」


「ありがとう、トマ」


「礼を言うな。気持ち悪い」


「ごめん」


「謝るな」


「難しいな」


 マーガレットが笑いをこらえる。


「なんか、誰かに似てる」


「誰ですか」


 レクスターが聞く。


「ちょっとバルドさん」


「分からなくはありません」


「でしょ?」


 トマが睨む。


「誰の話だ」


「ごめんごめん」


 マーガレットはしゃがみ込む。


「私はマーガレット。マーガでいいよ」


「呼ばない」


「そっか」


「……妹を助けたら、呼んでもいい」


「ほんと?」


「まだ助かってない」


「うん。じゃあ頑張る」


 マーガレットは笑った。


 トマはその笑顔に少しだけ戸惑う。


 こんなふうに真っ直ぐ笑う大人を、最近見ていないのかもしれない。


 アレックスは周囲を見た。


「二人だけ?」


 トマの顔が強張る。


「……」


「答えたくないならいい」


「追われてる」


 トマは小さく言った。


 空気が変わった。


 レクスターの目が鋭くなる。


「誰に」


「知らない」


「大人?」


「大人。黒い服のやつもいた」


 マーガレットが息を呑む。


「黒い服?」


 トマは頷く。


「顔、隠してた。青い石持ってた」


 アレックスの手が雷の刃の柄へ動いた。


 黒外套。


 間違いない。


「どこで見た」


 レクスターが聞く。


「森の奥。古い橋の近く」


「距離は?」


「ここから、たぶん半刻くらい」


「近い」


 マーガレットがハルバードを握る。


「追いつける?」


「可能性はあります」


 レクスターはトマを見る。


「君たちは、その黒い人物から逃げてきたのですか」


 トマは首を振った。


「違う。黒いやつは、俺たちを見て笑っただけ」


「笑った?」


「追ってきたのは、別のやつら」


「どんな?」


「商人みたいな服。でも、剣を持ってた。人を捕まえてた」


 アレックスの表情が変わる。


「人を?」


 トマは唇を噛む。


「森の奥に、人が集められてる。子どももいる」


 マーガレットの顔から血の気が引いた。


「子どもも……?」


「うん」


「何のために」


「知らない」


 トマの声が震える。


「でも、青い石の近くに連れていかれた人は、変になる」


 沈黙。


 森の空気が急に冷たくなったようだった。


 レクスターが低く言う。


「欠片を使った汚染実験、あるいは強制労働。どちらにせよ最悪ですね」


「行こう」


 マーガレットが即座に言った。


「今すぐ」


「ミナをどうします」


 レクスターが止める。


「連れていけません。森の戦闘に耐えられない」


「でも置いていけない!」


「だから考える必要があります」


 マーガレットが歯を食いしばる。


 アレックスはトマを見る。


「近くに隠れられる場所は?」


「……古い見張り小屋がある」


「安全?」


「今は誰もいないと思う」


「案内できる?」


 トマは一瞬迷った。


 妹を見る。


 ミナは弱々しく兄の服を掴んでいる。


「……できる」


「ありがとう」


「お前たち、本当に行くのか」


「行く」


 アレックスは立ち上がる。


「人が捕まっているなら、見過ごせない」


「罠かもしれないぞ」


 トマが言う。


「罠でも行く」


「馬鹿なのか」


「よく言われる」


 トマは呆れた顔をした。


「変な大人だ」


「それもよく言われる」


 マーガレットが胸を張る。


「でも強いよ!」


「自分で言うな」


 トマが少しだけ表情を緩めた。


 そのわずかな変化を見て、アレックスは安心する。


 子どもが少しでも表情を戻す。


 それだけで、進む理由になる。


 レクスターは水の本を開き、周囲の気配を探った。


「急ぎましょう。追手が近い可能性があります」


「来てる?」


「まだ遠い。ただし、足跡は複数。トマたちを追っている者がいるなら、ここへ来るでしょう」


 アレックスは頷く。


「まず見張り小屋へ。ミナを隠してから、古い橋へ向かう」


「うん」


 マーガレットが頷く。


「トマ、案内お願い」


「……分かった」


 トマは妹を支えようとする。


 だが、ミナの足はふらついている。


 マーガレットがそっと近づいた。


「私が背負っていい?」


 トマは警戒する。


「……落とすなよ」


「落とさない」


「本当だな」


「うん」


 マーガレットはしゃがみ込み、ミナを背負った。


 その動きは驚くほど優しかった。


 重い梁を三本持ち上げる同じ腕で、今は熱に浮かされた少女を壊れ物みたいに支えている。


 ミナが小さく呟く。


「……あったかい」


 マーガレットの目が少し潤んだ。


「うん。大丈夫だよ」


 トマはその様子を見て、棒を握る手を少しだけ緩めた。


 アレックスは森の奥を見る。


 黒外套。


 青い欠片。


 捕まった人々。


 子どもたち。


 ラドナ村で終わらなかった歪みが、もう次の場所で人を巻き込んでいる。


 放浪旅は、また重くなる。


 だが、足は止まらない。


「行こう」


 アレックスが言った。


 優しい声。


 でも、その奥に雷のような決意があった。


 三人と二人の子どもは、旧街道から外れ、森のさらに深い場所へ踏み込んだ。


 木々の影が濃くなる。


 遠くで、青白い光がまた一度だけ揺れた。


 それは誘うようでもあり、警告するようでもあった。


 そしてそのさらに奥で、誰かの悲鳴が、風に紛れてかすかに聞こえた。

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