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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第8話 地の下で脈打つもの】


 ラドナ村の昼は、静かすぎた。


 王都で暮らしていた頃、昼という時間はいつも騒がしかった。


 市場では商人が声を張り上げ、石畳には荷車の車輪が鳴り、鍛冶屋からは槌音が響き、城の中では役人や侍従たちが足早に行き交っていた。


 けれど、この村にはそれがない。


 風が畑を撫でる音。


 どこかで家畜が低く鳴く声。


 井戸の縄が軋む音。


 それだけが、妙にはっきり聞こえる。


 人はいる。


 家もある。


 畑もある。


 生活は続いている。


 なのに、村全体が息を潜めていた。


 夜を待っているのではない。


 夜を恐れている。


 その恐怖が、昼のうちから村に染み込んでいた。


「……嫌な静けさだね」


 マーガレットがぽつりと言った。


 彼女は大地のハルバードを納屋の壁に立てかけ、両手を空けていた。


 レクスターの指示だ。


 子どもや女性陣に話を聞くなら、いかにも危険そうな武器を背負ったまま近づくべきではない。


 本人はかなり不満そうだったが、ダンが少しだけ近づきやすくなったのを見て、素直に従った。


「静けさには種類があります」


 レクスターが井戸水を小瓶に移しながら言う。


「穏やかな静けさ。眠っている静けさ。終わった静けさ。そして、怯えている静けさ」


「この村は?」


「最後です」


「だよね」


 マーガレットは小さく息を吐いた。


 アレックスは井戸の縁に手を置き、水面を見下ろしていた。


 水は澄んでいる。


 底も見える。


 だが、匂いが悪い。


 鉄のような、土の奥から染み出したような匂いが混じっている。


 口に含むには抵抗があった。


 村人たちはこれを日常的に飲んでいる。


 そう考えると、胸の奥が重くなる。


「水、どれくらい悪い?」


 アレックスが聞く。


 レクスターは小瓶を光に透かしながら答えた。


「すぐに毒というわけではありません。ですが、長期的には体調不良の原因になります。鉄分過多だけではない。微細な鉱物成分が混じっている可能性が高い」


「地下から?」


「おそらく」


「丘の異常と関係あると思う?」


「高確率で」


 レクスターはきっぱり言った。


「水脈が地下の異常に触れている。あるいは、地下にある何かが水脈を汚染している」


「何か、か」


 アレックスは外れの丘を見る。


 昼間の丘は、ただの丘だった。


 草が生え、低木が点々とあり、古い石積みの残骸のようなものが一部見えるだけ。


 青白い光はない。


 地面も揺れていない。


 けれど、村人たちは誰も近づかない。


 畑仕事をする者も、丘に背を向けている。


 家畜小屋の扉も、丘とは逆側へ補強されていた。


 そこだけ、村から切り離されているようだった。


「ねえ」


 マーガレットが小声で言う。


「あの丘、昔からあったんだよね?」


「村人の話ではそうです」


 レクスターが答える。


「古くからある丘。ただし、半年ほど前から夜に光り、振動が起きるようになった」


「急に?」


「ええ。何かきっかけがあった可能性があります」


「きっかけ……」


 アレックスは考える。


 半年。


 王都ではその頃、南西街道の補修予算が削られた。


 地方からの税収報告に異常が出始めた時期でもある。


 偶然かもしれない。


 でも、今のアレックスには、その偶然をすぐには信じられなかった。


「レクスター」


「はい」


「王都で、南西方面の異常報告はあった?」


「ありました」


 即答だった。


「ただし、断片的です。畑の収穫減。水質の苦情。家畜の急死。夜間の地鳴り。子どもの体調不良。いずれも個別報告として処理され、関連づけられていませんでした」


「誰かが関連づけなかった?」


「その可能性もありますし、本当に見落としただけの可能性もあります」


 レクスターの声が冷える。


「ただ、王都の役人がここへ来て、何もせず帰ったという話が事実なら、見落としでは済みません」


「無視した?」


「あるいは、見てはいけないものを見た」


 沈黙。


 マーガレットが腕を組む。


「王都ってさ」


「うん」


「思ってたより、外のこと見てないんだね」


 アレックスはすぐに答えられなかった。


 自分も王都にいた。


 報告書を読んでいた。


 問題提起もした。


 でも、ここに来るまで、この村の顔は知らなかった。


 ダンの怯えた目も、母親の疲れ切った声も、バルドの限界も知らなかった。


 知っているつもりだった。


 それが一番痛い。


「俺も、見てなかった」


 アレックスは言った。


 マーガレットが慌てて首を振る。


「アレックスだけのせいじゃないよ」


「うん。でも、見てなかったのは本当だ」


 彼は井戸から手を離す。


「だから見る。今からでも」


 その声は明るくはなかった。


 でも、沈んでもいなかった。


 決めた声だった。


 レクスターは小さく頷く。


「では、見るべきものを増やしましょう」


「次は?」


「畑です」


 畑へ向かうと、村人たちの視線がまた集まった。


 完全な拒絶ではない。


 だが、歓迎でもない。


 さっきバルドと話したことで、多少は近づく余地ができた。


 それでも、村の人々は慎重だった。


 彼らは期待することに疲れている。


 だから、三人を見る目にも警戒が残る。


 アレックスはその視線を受け止めながら、畑の端にしゃがみ込んだ。


 土を指でつまむ。


 乾いている。


 表面だけでなく、中まで水気が少ない。


 だが完全な干ばつとは違う。


 妙に重い。


 指についた土が、細かい粉のように残った。


 レクスターも隣へしゃがみ、土を調べる。


「……やはり変ですね」


「何が?」


 マーガレットが聞く。


「表面は乾いているのに、下層に水分が残っています。水はある。しかし作物が吸い上げられていない」


「どういうこと?」


「根が弱っているか、土中の成分が根を阻害している」


「つまり畑が病気?」


「雑ですが、近いです」


「近かった!」


 マーガレットが少し嬉しそうにする。


 レクスターは畑の奥を見る。


 そこでは、年配の女が腰を曲げて作物を見ていた。


 その顔には疲労が濃い。


 マーガレットは少し迷ったあと、ハルバードを置いて近づいた。


「こんにちは」


 女は警戒したように顔を上げる。


「……旅の人かい」


「うん。マーガレットっていうの」


「そうかい」


「畑、大変?」


 あまりにも直球だった。


 アレックスが少し目を見開く。


 レクスターは額に手を当てた。


「直球すぎます」


「でも、悪くない」


 アレックスが小声で言う。


「あなたは彼女に甘い」


「そうかな」


「そうです」


 年配の女は、しばらくマーガレットを見ていた。


 天真爛漫で、隠し事が苦手そうで、目の前の畑を本当に心配している少女。


 その雰囲気が、少しだけ警戒を緩めたのかもしれない。


「大変だよ」


 女はため息をついた。


「去年の秋から、急に育ちが悪くなった。水をやっても駄目。肥料を変えても駄目。根が黒くなる」


「根が?」


「掘ってみるかい」


 女はしおれかけた株を一本抜いた。


 根の一部が黒ずんでいる。


 腐っているというより、焼けたような黒さだった。


 マーガレットの顔がしかめられる。


「これ、痛そう」


「作物に痛覚は確認されていません」


 レクスターが言う。


「でも痛そうなの!」


「感覚表現としては理解できます」


 アレックスは根を見つめる。


「これも地下から?」


「おそらく」


 レクスターは根の黒ずみを慎重に確認する。


「水や土壌を通じて、何らかの魔力残滓が吸い上げられている可能性があります」


「魔力?」


 年配の女が不安そうに聞く。


 レクスターは少し考え、言葉を選んだ。


 普段の彼なら容赦なく言い切るところだが、今は村人相手だ。


「まだ断定はできません。ただの病ではないかもしれない、という話です」


「……そうかい」


 女は畑を見る。


「このままだと、冬が越せない」


 その言葉は重かった。


 マーガレットは息を呑む。


「食べ物、足りなくなるってこと?」


「もう足りてないよ」


 女は乾いた笑みを浮かべる。


「でも、足りないと言っても増えないからね」


 その声には、諦めが染みていた。


 マーガレットはすぐに「なんとかする」と言いそうになった。


 でも、止めた。


 言葉だけでは、もうこの村は救えない。


 だから、ぐっと拳を握る。


「……見てくる」


 代わりにそう言った。


「何をだい」


「原因」


 マーガレットの声は明るい。


 でも、軽くはなかった。


「見てくる。ちゃんと」


 女はしばらく彼女を見て、少しだけ目を細めた。


「若いねえ」


「よく言われる!」


「褒め言葉かは分かりませんね」


 レクスターが言う。


「今のは褒め言葉!」


「判断が早い」


 女が少し笑った。


 その小さな笑いに、近くで見ていた村人たちが驚いた顔をする。


 この村で笑い声を聞くのは、久しぶりなのかもしれない。


 そう思うと、アレックスの胸が少しだけ痛んだ。


 昼が過ぎる頃、三人は村のあちこちを回った。


 井戸。


 畑。


 家畜小屋。


 壊れた風車。


 子どもたちのいる家。


 それぞれで、少しずつ話を聞いた。


 家畜は夜になると丘の方を見て暴れる。


 犬は月のない夜ほど吠える。


 井戸水は二月ほど前から急に鉄臭くなった。


 風車は風が吹いているのに回らなくなった。


 子どもたちは同じ夢を見る。


 青い星が落ちる夢。


 地面の下で誰かが泣く夢。


 帰ってこない人が丘の向こうから呼ぶ夢。


 最初は、大人たちも子どもの悪夢だと思っていたらしい。


 だが、複数の子が同じことを言うようになってから、村はその話を避けるようになった。


 怖いから。


 意味が分からないから。


 説明できないものは、口にしない方がまだ耐えられるから。


 マーガレットは、子どもたちの話を聞くたびに表情を曇らせた。


 彼女は子ども相手だと分かりやすいほど柔らかくなる。


 ダンを含めた数人の子どもたちは、最初こそ警戒していたが、マーガレットがハルバードを「重いけど振るとすごい」と説明し始めると、少しずつ近づいてきた。


「持てる?」


 ダンが聞いた。


「危ないから、持つのはだめ。でも触るだけなら」


 マーガレットが柄の端を支える。


 ダンが恐る恐る指で触れる。


「つめたい」


「かっこいいでしょ」


「うん」


「これで悪いやつをどーんってする」


「どーん?」


「どーん!」


 マーガレットが両手を広げる。


 子どもたちが少し笑った。


 その笑い声は小さい。


 けれど、確かに笑い声だった。


 家の奥で見ていた母親たちの顔にも、ほんの少しだけ力が抜ける。


 アレックスはその様子を見ながら思った。


 マーガレットはすごい。


 理屈ではない。


 言葉を選ぶのが上手いわけでもない。


 むしろ真っ直ぐすぎて危なっかしい。


 でも、人の冷えた心へ火を灯す力がある。


 自分にはできないやり方だ。


「見ていますね」


 レクスターが横から言った。


「うん」


「嬉しそうに」


「そうかな」


「そうです」


「マーガレットはすごいなって」


「同感です」


 レクスターは即答した。


 アレックスが少し驚く。


「素直だな」


「事実です」


「どこが?」


「子どもと疲弊した村人の警戒を短時間で緩めています。あれは才能です」


「本人に言えば喜ぶ」


「言いません」


「なぜ」


「調子に乗ります」


「確かに」


 アレックスは笑った。


 夕方が近づくにつれ、村の空気はまた変わっていった。


 昼間、少しだけ緩んだ空気が、太陽が傾くにつれて硬くなる。


 家々の戸が早めに閉められる。


 家畜小屋の補強が確認される。


 井戸から水を汲む人々の動きが急ぎ足になる。


 子どもたちは外から戻される。


 村人たちは口数を減らし、何度も丘の方を見そうになっては、顔を背けた。


 夜が近づいている。


 それだけで、村全体が怯えていた。


 バルドが三人のもとへやってきた。


「納屋を使え」


 短く言う。


「ありがとうございます」


 アレックスが頭を下げる。


「礼はいらん。余ってるだけだ」


「それでも助かります」


「……勝手にしろ」


 バルドは相変わらずぶっきらぼうだった。


 だが、最初ほどの拒絶はない。


 彼は少し迷ったあと、低く言った。


「夜になったら、外へ出るな」


「丘が光るからですか」


 アレックスが聞く。


 バルドの顔が険しくなる。


「分かっているなら聞くな」


「見たいんです」


「馬鹿か」


「よく言われます」


「言われるのか」


「主にレクスターに」


「私はそこまで頻繁には言っていません」


 レクスターが言う。


「類似表現は多用していますが」


「同じだよ!」


 マーガレットが突っ込む。


 バルドは呆れたように三人を見る。


「……お前ら、緊張感があるのかないのか分からんな」


「あります」


 アレックスが答える。


「でも、怖がって黙っていても変わらないので」


 バルドは何も言わなかった。


 その顔には、まだ信じきれないものがある。


 しかし同時に、ほんの少しだけ羨ましそうにも見えた。


 怖がって黙るしかなかった村。


 怖くても話し、動こうとする三人。


 その違いを見ているようだった。


「……勝手にしろ」


 バルドはまた同じ言葉を繰り返した。


 だが今度は、少しだけ意味が違った。


 納屋は村の外れ、丘とは反対側にあった。


 使われなくなった農具や古い藁束が置かれている。


 雨風はしのげる。


 寝床としては十分だった。


 マーガレットは藁を見て、少し嬉しそうな顔をする。


「地面より柔らかい!」


「虫はいます」


 レクスターが言う。


「言わないで!」


「現実です」


「現実を黙らせたい!」


 アレックスは小さく笑いながら荷物を下ろす。


 納屋の隙間から、村の様子が見えた。


 夕焼けが家々を赤く染めている。


 煙突から細い煙が上がっている。


 それでも、夕餉の匂いは薄い。


 食べ物が少ないのだろう。


 王都の外。


 最初の村。


 ここで、自分は何を見ているのか。


 アレックスは胸の中で、その問いを何度も噛みしめた。


 夜を待つことになった。


 三人は納屋の中で簡単な食事を取る。


 村から食料はもらわなかった。


 余裕がないのは分かっている。


 自分たちの携行食を少しずつ分ける。


 マーガレットは文句を言いながらも、量を抑えた。


「村の人たち、もっと食べられてないもんね」


 彼女はそう言った。


 アレックスは何も言わず頷いた。


 レクスターは水の本を開き、今日集めた情報を小さな紙にまとめている。


「水質異常、土壌変質、家畜興奮、共通夢、失踪、記憶喪失、地下振動、青白い光」


「並べると怖いね」


 マーガレットが膝を抱える。


「ええ。かなり」


「原因、絞れそう?」


「いくつか仮説はあります」


「聞かせて」


 アレックスが言う。


 レクスターは紙を見ながら淡々と話す。


「一つ目。地下に魔物が巣を作り、その影響が周辺に出ている」


「ありそう」


「二つ目。古い魔術遺構が暴走している」


「遺構?」


「この地域は旧街道沿いです。王国成立以前の遺跡や祠が残っていても不思議ではありません」


「三つ目は?」


「人為的な実験」


 納屋の空気が冷えた。


 マーガレットの顔から笑みが消える。


「実験って、誰かが村をこんなにしてるってこと?」


「可能性です」


「もしそうなら」


 マーガレットの声が低くなる。


「絶対許さない」


 アレックスも静かに頷いた。


「俺もだ」


 その時だった。


 外で、犬が吠えた。


 一匹ではない。


 村のあちこちから、犬の吠え声が上がる。


 続いて家畜小屋が騒がしくなる。


 牛が低く鳴き、鶏が羽ばたく音がする。


 マーガレットが立ち上がる。


「来た?」


 レクスターが本を閉じる。


「おそらく」


 アレックスは納屋の戸へ向かった。


 隙間から外を見る。


 村は薄闇に沈んでいた。


 家々の窓には小さな灯り。


 だが誰も外に出ていない。


 皆、息を潜めている。


 そして。


 どん。


 地面が揺れた。


 昼より強い。


 納屋の壁が軋み、吊るされた古い農具がかたかた鳴る。


 マーガレットがハルバードを掴む。


「……来た」


 どん。


 二度目。


 今度は、明らかに下から叩かれる感覚があった。


 レクスターが地面へ手を当てる。


「振動源は丘の方向。昼より強い」


 外で、子どもの泣き声が上がった。


 すぐに大人がなだめる声。


 けれど泣き声は止まらない。


「青いの……青いのが来る……!」


 ダンの声だった。


 マーガレットの表情が変わる。


「ダン……!」


 アレックスが戸を開けた。


 外へ出る。


 冷たい夜気が流れ込む。


 村の人々は家の中にいる。


 誰も外へ出ない。


 だが、すべての家から恐怖の気配が漏れていた。


 アレックスは丘を見た。


 最初は何も見えなかった。


 暗い丘。


 草の影。


 低木の黒い輪郭。


 しかし次の瞬間。


 青白い光が、丘の中腹で脈打った。


 一度。


 二度。


 三度。


 まるで地面の下に、巨大な心臓があるみたいに。


 マーガレットが息を呑む。


「……ほんとに、光ってる」


 レクスターの声が低くなる。


「想定以上です」


「何が」


 アレックスが聞く。


「光が地表から漏れている。つまり、地下に空洞か亀裂があります」


「行ける?」


「危険です」


「行けるかどうか」


「行けます」


 マーガレットがハルバードを構える。


「じゃあ行こう」


 アレックスは頷いた。


「うん」


 その時、背後から声が飛んだ。


「行くな!」


 バルドだった。


 家の戸口から、外へ出てきていた。


 顔は青ざめている。


「言っただろう! 夜に丘へ行くな!」


「でも、原因はあそこです」


 アレックスが返す。


「だから行くんです」


「戻ってこられなくなるぞ!」


「戻ります」


「何を根拠に!」


 アレックスは少しだけ笑った。


「二人がいるので」


 マーガレットが胸を張る。


「任せて!」


「根拠としては雑ですが、戦力評価としては間違っていません」


 レクスターが淡々と言う。


「この状況で冗談を言うな!」


 バルドが怒鳴る。


 だが、声は震えていた。


 怒りではなく、恐怖。


 もう誰も失いたくないという恐怖。


 アレックスはその声を受け止める。


「バルドさん」


「何だ!」


「俺たちは、勝手に死にに行くわけじゃありません」


「……」


「村を見ました。水も、畑も、子どもたちの顔も。放っておけません」


 バルドは歯を食いしばる。


「放っておけないで死んだ奴を、俺は知ってる」


 沈黙。


 重い言葉だった。


 アレックスはすぐには返さなかった。


 バルドの失ったもの。


 戻らなかった男。


 その影が、村全体を縛っている。


「……そうですね」


 アレックスは静かに言う。


「だから、戻ります」


 その言葉に、バルドの目が揺れた。


 信じたい。


 だが信じられない。


 期待したい。


 だが期待が怖い。


 その顔を、アレックスは見た。


「行こう」


 彼は二人へ言った。


「うん」


「了解です」


 三人は丘へ向かって歩き出す。


 背後では、村人たちが家の中から見ていた。


 戸の隙間。


 窓の陰。


 灯りの向こう。


 誰も声をかけない。


 誰も止めない。


 ただ見ている。


 それは祈りに似ていた。


 夜の村を抜ける。


 犬が吠える。


 家畜が暴れる。


 地面がまた、どん、と鳴る。


 青白い光が、丘で脈を打つ。


 近づくほど、空気が冷たくなる。


 レクスターが眉をひそめる。


「魔力濃度が上がっています」


「体に悪い?」


 マーガレットが聞く。


「長時間は避けるべきです」


「つまり早く終わらせろってことね」


「雑ですが正解です」


「よし!」


 丘の中腹に差しかかった時、草むらが揺れた。


 三人が同時に止まる。


 アレックスが雷の刃に手をかける。


 マーガレットがハルバードを構える。


 レクスターが水の本を開く。


 草むらの奥から、低い唸り声が聞こえた。


「……獣?」


 マーガレットが声を潜める。


「普通ではありません」


 レクスターが答える。


 青白い光がまた脈打つ。


 その光に照らされて、草むらの中から何かが現れた。


 狼に似ていた。


 だが、狼ではない。


 目が青白く光っている。


 毛並みは土にまみれ、皮膚の一部には黒い結晶のようなものが浮いている。


 口元からは泡のような泥が垂れていた。


 マーガレットが顔をしかめる。


「うわ、気持ち悪い」


「汚染獣、でしょうか」


 レクスターの声が低くなる。


「地下の異常に触れた獣が変質した可能性があります」


「助けられる?」


 アレックスが聞く。


「不明です」


「不明か」


「ただし、今こちらを殺す気です」


「それは分かる」


 狼もどきが唸り、地面を蹴った。


 速い。


 アレックスへ一直線に飛びかかる。


 だが、その前にマーガレットが踏み込んだ。


「させない!」


 大地のハルバードが横薙ぎに振るわれる。


 刃ではなく柄の部分。


 殺さず弾くための一撃。


 それでも衝撃は凄まじく、狼もどきの体が横へ吹き飛ぶ。


 地面を転がり、土を散らす。


「おお、飛んだ」


「感想が軽いですね」


 レクスターが言う。


「でも手加減した!」


「手加減してあれですか」


「うん!」


「恐ろしいですね」


 狼もどきはすぐに起き上がった。


 痛みを感じていないのか、足が変な方向に曲がっているのに走ろうとする。


 マーガレットの顔が曇る。


「……やだな、これ」


「ええ」


 レクスターが本を開く。


「水縛」


 地面の水分が細い縄のように立ち上がり、狼もどきの脚を絡め取る。


 狼もどきは暴れる。


 唸り声が、悲鳴のようにも聞こえた。


 アレックスは近づき、雷の刃を抜く。


「ごめん」


 短く言った。


 刃に青白い雷が走る。


 一瞬。


 首筋を正確に斬る。


 狼もどきの体が力を失い、地面に倒れた。


 静寂。


 マーガレットは目を伏せる。


「助けられなかったね」


「うん」


 アレックスの声も重い。


「でも、これ以上苦しませるよりは」


「そうだね」


 レクスターは倒れた獣を調べる。


 黒い結晶のようなものに触れないよう、布越しに確認した。


「体内から魔力が侵食しています。自然発生ではない」


「丘のせい?」


「かなり濃厚です」


 その時、丘の上で青白い光が強くなった。


 地面が、どん、と大きく鳴る。


 草の間に、細い亀裂が走った。


 その亀裂の奥から、光が漏れている。


 アレックスは息を呑む。


「……入口か」


「あるいは、ただの裂け目」


 レクスターが言う。


「ただし、地下へ繋がっている可能性は高い」


「入れる?」


「危険です」


「行けるかどうか」


「……行けます」


 マーガレットがハルバードを握り直す。


「じゃあ行く」


「即断ですね」


「だって、ここまで来たし」


 彼女は振り返る。


 夜の村が見えた。


 小さな灯りがいくつも震えている。


 窓の向こうから、村人たちがこちらを見ている。


 ダンもいるかもしれない。


 バルドも見ているだろう。


「戻るって言ったもん」


 マーガレットが言う。


「原因見つけて、戻る」


 アレックスは頷いた。


「うん」


 レクスターはため息をつく。


「では、入りましょう。ただし順番は私が決めます。アレックスが前、マーガレットが中央、私が後方」


「私、前じゃないの?」


「あなたが前だと、狭い通路で壁を破壊する可能性があります」


「ないよ!」


「あります」


「アレックス!」


「否定しきれない」


「二人ともひどい!」


 そんなやり取りをしながら、三人は亀裂の前に立った。


 中から冷たい空気が吹き上がる。


 土の匂い。


 鉄の匂い。


 そして、どこか甘いような、不気味な匂い。


 青白い光が、地下から呼吸するように揺れている。


 アレックスは雷の刃を握る。


「行こう」


 短く言う。


 今度は明るくはなかった。


 でも、迷いはなかった。


 三人は、地の下へ続く亀裂の中へ足を踏み入れた。


 ラドナ村を眠らせないもの。


 子どもたちに青い星の夢を見せるもの。


 水を濁し、畑を弱らせ、獣を変えてしまったもの。


 その正体へ近づくために。


 地の下で脈打つ何かが、彼らを待っているように、青白く光っていた。

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