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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第7話 眠れない村】


 ラドナ村の空気は、揺れのあとさらに重くなった。


 ほんの一瞬の振動だった。


 家が崩れるほどでもない。


 井戸が割れたわけでもない。


 畑が裂けたわけでもない。


 けれど、村人たちの反応は明らかに異常だった。


 誰も驚きだけで済ませていない。


 誰も「地震か」と笑っていない。


 誰も空を見上げない。


 皆、顔を伏せる。


 唇を噛む。


 小さな子どもを家へ引き込む。


 畑にいた者は手を止め、鍬を握りしめたまま動かない。


 井戸のそばにいた老婆は、こぼれそうになった水桶を抱え、祈るように目を閉じていた。


 それは、初めての恐怖ではなかった。


 繰り返されている恐怖だ。


 慣れてしまった恐怖だ。


 そして、慣れているのにまだ怖いものだった。


「……今のが、何度も起きてるんだね」


 マーガレットが小声で言った。


 いつもの勢いはなかった。


 彼女は大地のハルバードへ手を添えたまま、村の人々を見ている。


 子どもたちが家の中からこちらを覗き、すぐに大人の手に引かれて隠れる。


 その目が、妙に焼きついた。


 怖がっている。


 自分たちをではない。


 この村そのものに染みついた何かを怖がっている。


「ええ」


 レクスターが地面に片膝をついたまま答える。


 指先は土に触れている。


 彼の水の本はまだ開かれていない。


 だが、周囲の湿気や土中の水分を感じ取るように、彼の目は細く鋭い。


「自然な地震の揺れ方ではありません。下から突き上げるような振動。規模は小さいですが、発生源が浅い」


「浅いって?」


「地下深くではなく、村の周辺か直下に原因がある可能性が高いということです」


「え、じゃあこの村の下に何かあるってこと?」


「可能性はあります」


「それ、めちゃくちゃ嫌なやつじゃん」


「同感です」


 レクスターが同感と言う時は、大抵かなり悪い。


 マーガレットはそれを知っているから、余計に顔をしかめた。


 アレックスは村の中心から、外れの丘を見ていた。


 さっき青白い光が見えた場所。


 一瞬だった。


 本当にまばたきほどの短い時間。


 だが見間違いではない。


 地面の奥で何かが脈を打つように光った。


 それを見た瞬間、村人たちは一斉に顔を背けた。


 誰も丘を見ようとしなかった。


 その反応が、何より奇妙だった。


「まず話を聞こう」


 アレックスが言った。


「誰に?」


 マーガレットが聞く。


「さっきの男の人」


「鍬持ってた人?」


「うん。たぶん、村のまとめ役だ」


「めっちゃ感じ悪かったよ?」


「余裕がないだけだと思う」


「アレックスはすぐそうやって良い方に見る」


「悪い方に見ても解決しないから」


 マーガレットは言い返そうとして、やめた。


 アレックスらしい。


 優しいというより、相手が悪い人間ではない可能性を捨てるのが遅い。


 そのせいで損をする。


 でも、そのおかげで救われる人もいる。


 昨日の刺客相手にもそうだった。


 マーガレットとしては、もう少し怒って、もう少し疑ってほしいと思う。


 でも、そのままのアレックスだからついてきたのも事実だった。


「ただし」


 レクスターが立ち上がりながら言った。


「聞き方は慎重に。村人は極度に警戒しています。こちらが善意を押しつける形になると、拒絶されます」


「分かってる」


 マーガレットが答える。


「勢いで“全部解決する!”とは言わない」


「よろしい」


「でも、心の中では言ってる」


「表に出さなければ、今は許容します」


「許容された!」


 アレックスは少し笑った。


 三人は井戸から少し離れ、畑の方へ向かった。


 初老の男は、畑の畝の前に立っていた。


 鍬を片手に、動かない。


 揺れのあとも仕事に戻るでもなく、かといって家へ逃げ込むでもない。


 ただ畑を見下ろしている。


 その背中には疲れが滲んでいた。


 怒りより、諦め。


 苛立ちより、長く削られた人間の重さ。


 アレックスは距離を置いて声をかけた。


「少し、話を聞いてもいいですか」


 男は振り返らなかった。


「話すことはない」


「さっきの揺れについてです」


「知らん」


「知らない反応には見えませんでした」


 男の肩が、わずかに動いた。


 マーガレットが息を止める。


 レクスターは黙ったまま、男の横顔を観察している。


 男はしばらく沈黙した。


 畑を渡る風が、しおれた葉を揺らす。


 土は乾いている。


 近くで見ると、ひび割れの隙間に白っぽい粉が浮いていた。


 肥料とは違う。


 何かが染み出した跡のようにも見える。


「……旅人」


 男が低く言った。


「はい」


「余計なことはするな」


「困っているように見えます」


「困っていない村などない」


「でも、この村は違う」


 男がようやく振り向いた。


 鋭い目だった。


「何が分かる」


 アレックスはすぐには答えなかった。


 男の怒りを正面から受け止める。


 その目の奥にあるものを見ようとする。


 疲れ。


 警戒。


 失望。


 そして、助けを求めることを諦めた人間の硬さ。


「分かりません」


 アレックスは正直に答えた。


 男の眉が動く。


「でも、分かりたいと思っています」


「……」


「水が変です。畑も弱っています。村の人はあの揺れに慣れている。でも慣れているのに怯えている。丘の光を見ないようにしている」


 アレックスは一つずつ言った。


 責めるのではなく、確認するように。


「何かが起きているなら、教えてほしい」


「教えてどうする」


「できることがあるなら、やります」


 マーガレットが口を開きかける。


 言いたい。


 私たちが助ける、と。


 でも、レクスターに言われたことを思い出し、必死に飲み込む。


 そのかわり、拳だけを握った。


 男はアレックスをしばらく見ていた。


「……綺麗な言葉だな」


 吐き捨てるように言う。


「王都の連中が好きそうな言葉だ」


 マーガレットの目が鋭くなる。


「ちょっと」


 アレックスが手で制した。


 男は続ける。


「できることがあるならやる。助けたい。話を聞きたい。そんなことを言う奴は何度か来た」


「来たんですか」


 レクスターが初めて口を挟む。


「役人。商人。祈祷師まがい。王都の調査員だとか言う連中もいた」


「それで?」


「水を飲んで、畑を見て、丘を遠くから眺めて、気味悪がって帰った」


 男の声は淡々としていた。


 だが、その淡々の下に怒りが沈んでいる。


「何人かは、助けると言った。報告すると言った。対策を取ると言った」


「何もなかった」


 アレックスが言う。


 男は笑った。


 乾いた笑いだった。


「何もなかった」


 沈黙が落ちる。


 マーガレットは唇を噛んだ。


 王都。


 また王都だ。


 華やかで、綺麗で、偉そうな言葉ばかりある場所。


 でも、ここには届いていない。


 この村には、何も届いていない。


「だから言っただろ」


 男は鍬を握り直した。


「余計なことはするな。期待させるな。村の連中はもう疲れてる」


「あなたは?」


 アレックスが聞いた。


 男が目を細める。


「あなたは、疲れていないんですか」


 その問いに、男は答えなかった。


 風が吹く。


 畑の土が乾いた音を立てる。


 遠くで家畜が低く鳴いた。


 男はしばらく黙ったあと、低く言った。


「……疲れてるに決まってるだろ」


 声は小さかった。


「毎晩、地面が鳴る。水は日に日にまずくなる。畑は痩せる。子どもは夜に泣く。家畜は丘の方を見て暴れる。若い連中は出ていき、残った者は老いと子どもばかりだ」


 マーガレットの表情が変わる。


 怒りではなく、胸を締めつけられた顔。


「毎晩……?」


「毎晩じゃない。三日に一度だった。それが二日に一度になり、今はほとんど毎晩だ」


 レクスターの目が鋭くなる。


「頻度が上がっている」


「ああ」


「最初はいつ頃ですか」


「半年ほど前」


「丘の光も?」


「最初は見間違いかと思った。だが、そのうち子どもまで見たと言い始めた」


 男は丘の方を見なかった。


 見ないようにしている。


「それから村の者は、夜になると丘を見るなと言い合うようになった」


「なぜ?」


 アレックスが聞く。


 男の顔に影が落ちた。


「見に行った者が、帰ってこなかったからだ」


 マーガレットが息を呑む。


「誰が?」


 男は答える前に、少しだけ目を閉じた。


「村の男が三人。原因を見に行くと言ってな」


「戻らなかった?」


「二人は戻った」


 レクスターが眉を動かす。


「二人は?」


「朝、村の入口で倒れていた。怪我だらけで、何も覚えていなかった。丘へ行ったことも、何を見たのかも」


「残りの一人は」


「戻らない」


 空気が重くなった。


 畑の向こう、家の陰から誰かがこちらを見ている。


 さっきの母親だ。


 ダンを家の中へ入れたまま、戸口でじっとこちらを見ている。


 男はそちらへ一瞬だけ視線を向けた。


「あの女の兄だ」


 アレックスはゆっくり息を吸った。


 母親の顔に疲れがある理由。


 ダンが怯えていた理由。


 村全体が夜を恐れている理由。


 少しずつ繋がり始める。


「捜索は?」


 レクスターが聞く。


「した。昼間にな。丘の周りを探した。何も見つからなかった」


「地下への入口などは?」


「知らん」


「知らないだけか、ないのか」


「知らんと言った」


 男の声が荒くなる。


 レクスターは引かない。


「あなた方が知らないだけなら、調べる価値があります」


「やめろ」


 男が低く言った。


「夜に丘へ行くな」


「昼なら?」


「昼でも近づくな」


「それでは何も変わりません」


 レクスターの声は冷たい。


 男の目に怒りが浮かぶ。


「お前らみたいな若造に何が分かる」


「分かりません」


 レクスターは即答した。


「だから調べると言っています」


「レクスター」


 マーガレットが小声で止める。


 だがレクスターは続けた。


「あなた方は半年耐えた。しかし事態は悪化している。今後も耐えれば解決するという根拠はありません」


「……っ」


「水質悪化、土壌異常、振動頻度の増加、記憶喪失者、失踪者。全て放置すれば村は終わります」


「そんなことは分かっている!」


 男が怒鳴った。


 畑にいた村人たちが一斉にこちらを見る。


 家の中からも人が顔を出す。


 子どもが泣き出す声がした。


 男は肩で息をしていた。


「分かってる……分かってるんだよ」


 声が落ちる。


「だが、どうすればいい」


 その一言は、怒りではなかった。


 叫びでもなかった。


 ただ、限界だった。


「王都は来ない。役人は帰った。祈祷師は金だけ取った。若い連中は出ていった。残った者で何ができる」


 マーガレットの拳が震えた。


 彼女は前へ出そうになり、止まる。


 今、勢いで「私たちが助ける」と言いたい。


 でも、その言葉は軽くなってしまう気がした。


 この人たちは何度も期待して、裏切られた。


 なら、言葉だけでは駄目だ。


 アレックスは男の前に立った。


「名前を聞いてもいいですか」


 唐突な問いだった。


 男は眉をひそめる。


「……バルド」


「バルドさん」


 アレックスはまっすぐに言った。


「俺たちは王都の役人じゃありません」


「見れば分かる」


「王子でもありません」


 その言葉に、バルドの目がわずかに揺れた。


 アレックスは続ける。


「だから、大きな約束はできません。王都から救援を呼ぶとか、村を豊かにするとか、そういうことは言えません」


「……」


「でも、今この村で何が起きているのかは調べます」


 アレックスの声は優しかった。


 だが、柔らかいだけではなかった。


「危ないなら止めます。誰かが閉じ込められているなら探します。水が悪くなっている理由も見ます。できることしかできません。でも、できることはやります」


 バルドは黙っていた。


 マーガレットも、レクスターも黙る。


 村人たちも、聞いていた。


 戸口から。


 畑から。


 井戸のそばから。


 誰も声を出さない。


 けれど、皆が耳を向けている。


 アレックスは少しだけ笑った。


「それで、駄目ですか」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 バルドはアレックスの顔を見る。


 疑っている。


 まだ信じてはいない。


 信じたい気持ちも、押し殺している。


 期待するのが怖い。


 また裏切られるのが怖い。


 それでも、目の奥にほんのわずかに揺れがあった。


 バルドは深く息を吐いた。


「……勝手にしろ」


 マーガレットの顔がぱっと明るくなる。


 だが、レクスターが即座に彼女の肩を軽く押さえた。


「まだ喜ぶ段階ではありません」


「分かってるけど!」


 バルドは続ける。


「村の外れに、使っていない納屋がある。寝るならそこを使え」


「ありがとうございます」


「食料は出せん」


「水だけで十分です」


「夜になったら、丘へは近づくな」


「調べる必要があれば近づきます」


 アレックスが答えると、バルドは顔をしかめた。


「死ぬぞ」


「死なないようにします」


「軽い」


「本気です」


「本気でそれなら、なお悪い」


 バルドはそう吐き捨て、畑へ戻っていった。


 だが、完全に背を向ける前に一度だけ止まった。


「……夜になると、子どもが泣く」


 ぽつりと。


「星が落ちてくる夢を見る、と言ってな」


 アレックスの表情が変わる。


「星?」


「村の子どもが何人も同じ夢を見る。青い星が丘に落ちる。地面の下で鳴る。そう言って泣く」


 バルドはそれだけ言って、今度こそ歩いていった。


 残された三人は、しばらく黙っていた。


 マーガレットが小さく呟く。


「……怖いね」


「ああ」


 アレックスが答える。


「かなり怖いですね」


 レクスターも言う。


「子ども複数人の共通夢。水質と土壌異常。地下振動。記憶欠落。失踪。どれか一つなら偶然で片づけられますが、重なりすぎています」


「原因、分かる?」


「現時点では不明。ただし、自然現象だけでは説明しづらい」


「魔物?」


「可能性はあります。魔術的汚染、地下遺構、封印物、鉱脈異常、あるいは」


「あるいは?」


「人為的な何か」


 マーガレットの目が鋭くなる。


「誰かがやってるってこと?」


「断定はできません」


「でも可能性はある」


「あります」


 アレックスは丘を見た。


 さっき青白く光った場所。


 今は何もない。


 ただ草が風に揺れているだけ。


 それなのに、あの場所だけ、妙に空気が沈んで見えた。


「まずは村の中を見よう」


 アレックスが言う。


「水、畑、家畜、子どもの話。全部確認したい」


「聞き込みですね」


 レクスターが頷く。


「私が水と土を見ます。マーガレットは子どもや女性陣と話した方がいい。あなたはバルドと他の男衆へ」


「私は子ども担当?」


 マーガレットが少し驚く。


「あなたは警戒されづらい」


「さっき怖がられてたけど」


「武器を置けばかなり緩和されます」


「武器置くの不安」


「見える場所に置いてください。背負って近づくよりはましです」


「なるほど」


 アレックスは頷く。


「じゃあ、分かれて動こう。ただし遠くには行かない」


「うん」


「了解です」


 その時、家の陰からダンがこっそり顔を出した。


 マーガレットと目が合う。


 ダンは慌てて隠れようとする。


 マーガレットはしゃがみ込み、手を振った。


「まーがだよ」


 ダンが少しだけ顔を出す。


「……まーが」


「そう!」


 マーガレットはにこっと笑う。


「ねえ、星の夢って、見たことある?」


 その瞬間、ダンの顔から血の気が引いた。


 小さな手が戸の端をぎゅっと握る。


 マーガレットはすぐに表情を柔らかくした。


「ごめん。怖かった?」


 ダンは小さく頷いた。


「……落ちてくる」


「星が?」


「青いの」


 声は震えていた。


「青い星が、丘に落ちてくる。ごおんって鳴って、地面の下で誰かが泣いてる」


 マーガレットの背筋に、冷たいものが走った。


 アレックスも、レクスターも、何も言わなかった。


 ダンは続ける。


「おじちゃんも、そこで呼んでる」


「おじちゃん?」


「帰ってこない、おじちゃん」


 家の奥から、母親の声が飛んだ。


「ダン!」


 ダンはびくっとして、すぐに家の中へ引っ込んだ。


 戸が閉まる。


 マーガレットはしばらく、その戸を見つめていた。


「……今の」


「重要ですね」


 レクスターの声が低くなる。


「夢に失踪者が出ている」


「ただの夢じゃない?」


 アレックスが聞く。


「判断はまだできません。ただ、調査優先度は上がりました」


 マーガレットはハルバードの柄を握る。


「夜まで待つの?」


「日中にできる調査をします」


 レクスターが言う。


「そして夜、揺れと光が再発するか確認する」


「出たら?」


 アレックスが丘を見る。


 風が吹く。


 しおれた畑の向こうで、青白い光の残像が頭から離れない。


「行く」


 短く答えた。


 マーガレットが頷く。


「うん」


 レクスターはため息をついた。


「でしょうね」


「止める?」


「止めません。止めても無駄ですし、私も行くべきだと判断しています」


「じゃあ決まり」


 アレックスは村の中央へ歩き出した。


 村人たちの視線が集まる。


 まだ警戒は解けない。


 信頼には程遠い。


 だが、さっきとは違うものが混じり始めていた。


 このよそ者たちは、何をするのか。


 今度こそ何か変わるのか。


 それともまた、期待だけ残して去るのか。


 無数の視線が、問いかけていた。


 アレックスはその視線から逃げなかった。


 優しく笑うだけでは足りない。


 言葉だけでも足りない。


 この村で、自分たちが何をするのか。


 それを見せなければならない。


 ラドナ村の空は、昼なのに少し暗く見えた。


 風車は止まっている。


 畑は乾いている。


 井戸水は鉄の匂いを帯びている。


 そして外れの丘は、何も語らないまま静かにそこにあった。


 夜になれば、また何かが起きる。


 村人たちはそれを知っている。


 三人も、もう知ってしまった。


 眠れない村。


 その理由は、地の下で静かに脈打っていた。

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