【第6話 旧街道の村】
夜明け前の空は、思っていたより冷たかった。
王都の外で迎える二度目の朝。
まだ太陽は地平の向こうに隠れていて、空の端だけが淡く白み始めている。林の木々は黒い影のまま立ち並び、葉の先についた朝露が、焚き火の残り火を受けて微かに光っていた。
昨日の夜、三人で囲んだ小さな焚き火は、もうほとんど灰になっている。
ぱち、と最後の枝が小さく鳴った。
その音で、アレックスは顔を上げた。
膝の上には、抜いていない雷の刃。
夜番の間、ずっと手元に置いていた。
眠気はある。
疲れもある。
でも、不思議と頭は冴えていた。
王都の寝台で目覚める朝とは、まるで違う。
薄い布越しに差し込む朝日もなければ、侍従が茶を運んでくることもない。柔らかな寝具もないし、朝食の匂いもない。
あるのは、湿った土の匂い。
草の匂い。
灰の匂い。
そして、隣で丸まって眠るマーガレットの寝息。
「……んむ」
彼女は外套にくるまり、やけに幸せそうな顔をしていた。
寝る前は、あれほど怒って、笑って、食べて、また怒っていたのに、眠ってしまえば子どもみたいだ。
背負っている大地のハルバードは、すぐ手が届く場所に置かれている。
無防備に見えて、そうではない。
何かあれば、きっと寝起きでも振り回す。
そして、おそらく周囲の木が数本犠牲になる。
アレックスはその光景を想像して、少しだけ笑った。
「何を笑っているのですか」
背後から声がした。
レクスターだった。
彼は外套を肩にかけたまま、木の根元に腰を下ろしている。
水の本は膝の上。
開かれてはいない。
だが、いつでも使える位置にある。
「マーガレットが寝起きでハルバード振り回したら、木が折れるなって」
「三本は折れますね」
「具体的だな」
「位置関係からの推測です」
「そこまで考えるのか」
「考えなくても分かります」
「それはそれでひどい」
レクスターは眼鏡を指で押し上げた。
朝の薄闇の中でも、その表情はいつも通り淡々としている。
だが目元には、わずかに疲れがあった。
「少し寝た?」
アレックスが聞く。
「十分ではありませんが、必要最低限は」
「無理してない?」
「しています」
「即答だな」
「無理をしていない者はいません」
レクスターは静かに焚き火の灰を見る。
「追放され、王都外へ出され、刺客と戦い、野営をした翌朝です。無理をしていないと答える方が不誠実でしょう」
「それもそうか」
「あなたもでしょう」
「うん」
アレックスは素直に頷いた。
「眠れた気はしない。でも、少し楽になった」
「なぜです」
「夜が明けたから」
言ってから、少しだけ照れたように笑う。
「単純かな」
「単純です」
「切るなあ」
「ですが、正しい」
レクスターはそう言った。
「夜が明けるという事実には意味があります。暗闇で肥大化した不安は、朝になると多少輪郭を取り戻す」
「レクスターも、そういうこと思うんだな」
「私を何だと思っているのですか」
「冷静で、物事をズバッと切る人」
「正しい認識です」
「自分で言った」
アレックスは笑った。
その笑い声に反応したのか、マーガレットが外套の中でもぞもぞ動いた。
「……ごはん……?」
第一声がそれだった。
アレックスとレクスターは、同時に彼女を見る。
マーガレットはまだ目を閉じている。
「ごはん、ある……?」
「起きて最初の言葉がそれか」
アレックスが笑う。
「夢と現実の境界が胃袋ですね」
レクスターが言う。
マーガレットが薄く目を開けた。
「……今、なんか悪口言われた気がする」
「気のせいです」
「レクスターの“気のせい”はだいたい気のせいじゃない……」
「賢くなりましたね」
「やっぱり言ってた!」
マーガレットはむくりと起き上がる。
髪が少し跳ねていた。
彼女はそれを気にせず、まず周囲を見る。
林。
焚き火の灰。
二人。
そして、自分のハルバード。
それを確認してから、ほっと息を吐いた。
「……そっか」
小さな声だった。
「王都じゃないんだ」
その一言で、朝の空気が少しだけ静かになった。
昨日の夜は、焚き火と会話でなんとか誤魔化せた。
けれど朝は、誤魔化しが効かない。
目覚めた時に見える景色が、現実を突きつけてくる。
天井ではなく空。
寝台ではなく地面。
侍女の声ではなく鳥の鳴き声。
王城ではなく、街道脇の林。
マーガレットは膝を抱えた。
「変なの」
「うん」
アレックスが静かに答える。
「昨日のこと、夢だったらよかったのにって思った?」
「ちょっと」
「私も」
マーガレットはそこで、はっとする。
「あ、私もって言っちゃった。アレックスの方がもっときついのに」
「比べなくていいよ」
アレックスは柔らかく言った。
「俺の方がきついとか、マーガレットの方が楽とか、そういう話じゃない。マーガレットだって、王都に色々置いてきた」
「……うん」
「怒ってくれてたけど、マーガレットも傷ついたんだろ?」
マーガレットは黙った。
少しの間、何も言わなかった。
朝露が葉から落ちる音がした。
遠くで鳥が鳴いた。
「……うん」
ようやく、彼女は小さく頷いた。
「傷ついた」
「うん」
「アレックスをあんなふうに言われて、すごく嫌だった。王都の人たちが拍手してるのも嫌だった。セレスティア様が何も言わなかったのも嫌だった。アーサー殿下が勝ったみたいな顔してたのも嫌だった」
「うん」
「でも、それだけじゃなくて」
マーガレットは言葉を探す。
いつものように勢いで言い切れない。
自分の中にある感情が、うまく形にならない。
「私も、あそこにいたんだなって」
彼女は言った。
「アレックスの護衛として、学園にもいて、王城にも出入りして、王都のご飯も食べて、祭りも見て、知ってる人もいて。なのに、昨日で急に全部遠くなった」
声が少し震えた。
「私、平民だからさ。もともと王城が自分の場所じゃないのは分かってた。でも、アレックスがいたから、そこにいてもいい気がしてた」
アレックスは何も言わなかった。
レクスターも口を挟まなかった。
マーガレットは膝を抱える手に力を込める。
「だから、追放って聞いた時、アレックスが追い出されるのが嫌だったのに、同時に、自分の居場所も消える感じがした」
沈黙。
長い沈黙だった。
朝の林に、三人の呼吸だけがある。
アレックスはゆっくりと息を吸い、それから言った。
「ごめん」
「違う!」
マーガレットはすぐ顔を上げた。
「違うから! アレックスが謝ることじゃない!」
「でも、巻き込んだ」
「巻き込まれに行ったの! 私が自分で決めたの!」
彼女は勢いよく言う。
「そこ間違えないで。私、アレックスに連れてこられたんじゃない。自分でついてきたの。だから、謝られると困る」
「……そっか」
「そう!」
マーガレットは大きく頷く。
「だから、代わりにご飯ちょうだい」
「急だな」
「お腹空いたら悲しくなる!」
「それは一理あります」
レクスターが言った。
「空腹は感情制御を鈍らせます。朝食にしましょう」
「やった!」
「ただし量は控えめに」
「やったじゃなかった!」
朝食は、固いパンの残りと干し肉、そして昨日の商人にもらった焼き菓子の最後の欠片だった。
マーガレットは焼き菓子を見つめ、深刻な顔をした。
「これ、三人で分ける?」
「当然です」
レクスターが言う。
「でも小さい」
「小さくても三等分です」
「四等分して私が二つ食べる案は?」
「却下」
「検討早い!」
「検討の余地がありません」
アレックスが笑いながら、焼き菓子をできるだけ均等に割った。
不器用な三等分になった。
マーガレットが真剣に見比べる。
「これ、アレックスのやつ少し大きくない?」
「じゃあ俺のを」
「いや、いい。アレックス昨日頑張ったから」
「マーガレットも頑張っただろ」
「私も頑張った。レクスターも頑張った」
「では、全員頑張ったので均等です」
レクスターが一番小さそうな欠片を取った。
マーガレットがそれを見て、少し眉を寄せる。
「レクスター、それ小さくない?」
「誤差です」
「ほんと?」
「ほんとです」
「嘘っぽい」
「なら交換しますか」
「……ううん。いい」
マーガレットは自分の分をかじった。
「おいしい」
「昨日より美味しく感じるな」
アレックスも口に入れる。
少し湿気ている。
でも、確かに美味しかった。
「空腹補正です」
レクスターが言う。
「言い方」
「事実です」
「でも、おいしいならいいじゃん」
「それも事実です」
朝食を終えると、三人は野営の跡を片づけた。
焚き火の灰を散らし、燃え残りを土で隠す。
踏み荒らした草を軽く整える。
レクスターの指示で、足跡もできる範囲でぼかした。
「ここまでするの?」
マーガレットがしゃがみ込みながら聞く。
「追手がいます」
レクスターは短く答える。
「痕跡は少ない方がいい」
「昨日の刺客、置いてきたよね」
「ええ」
「情報、持って帰るかな」
「持って帰るでしょうね」
「うわー……」
「ただし、情報を持ち帰らせたことにも利点はあります」
アレックスが顔を上げる。
「利点?」
「こちらが弱っていないと伝わる」
レクスターは水の本を鞄に収めながら言った。
「王都側が次に送る相手は慎重になるでしょう。雑な刺客では足りないと理解したはずです」
「つまり、もっと強いのが来る?」
マーガレットが嫌そうに言う。
「そうです」
「利点なの、それ?」
「弱い刺客が何度も来るより、相手の出方が見えやすくなる可能性があります」
「なんか難しい」
「簡単に言えば」
レクスターは眼鏡を押し上げる。
「面倒な敵が来ます」
「簡単にしても嫌だった!」
アレックスは苦笑した。
「なら、こっちも準備しないとな」
「はい」
「まずは服装を変える」
「同意します」
レクスターはアレックスを上から下まで見た。
「あなたはまだ“元王族です”という雰囲気が強い」
「そんなに?」
「かなり」
「私も?」
マーガレットが自分を指差す。
「あなたは“元気な危険物です”という雰囲気が強い」
「ひどい!」
「ハルバードを背負っている時点で否定困難です」
「まあ、それはそう」
「認めるのか」
アレックスが笑う。
レクスターは続ける。
「次の村か宿場で外套を買いましょう。色は地味なもの。アレックスの髪と顔は隠しきれませんが、雰囲気は緩和できます」
「顔を隠す?」
「変装とまでは言いません。ですが、王都近郊であなたの顔を知る者はいます」
「そっか」
「あと、笑顔を控えてください」
「え?」
アレックスが目を丸くする。
「なぜ」
「目立つからです」
「笑顔が?」
「人当たりの良い元王子感が滲み出ています」
「そんなものが」
「あります」
マーガレットが大きく頷く。
「あるある。アレックス、知らない人にもすぐ優しく笑うもん」
「駄目かな」
「駄目じゃないけど、目立つ」
「じゃあ、無表情でいくか」
アレックスは試しに無表情を作った。
マーガレットが数秒見て、吹き出す。
「無理!」
「そんなに?」
「なんか、頑張って無表情にしてる優しい人!」
「評価が細かいな」
レクスターも冷静に見る。
「不自然です。諦めましょう」
「早いな」
「笑顔を完全に消すより、旅人らしい疲れを演出した方が自然です」
「疲れは本物だよ」
「では問題ありません」
「問題あるけどな」
三人は荷を背負い直し、林を出た。
朝日が昇り始めていた。
草原に薄い金色の光が広がる。
露が光り、街道がぼんやりと白く浮かぶ。
王都の外の朝は、想像以上に美しい。
それなのに、胸の奥には不安がある。
美しい景色と、不安。
その二つが同時にあることが、旅なのかもしれない。
歩き出してしばらくすると、街道は少しずつ寂れていった。
王都近郊の整った石畳は途切れ、道幅も狭くなる。
草が道の端から侵食し、古い轍がいくつも重なっていた。
遠くには低い丘。
その向こうには、細い煙が上がっている。
「村?」
マーガレットが目を細める。
「おそらく」
レクスターが地図を確認する。
「旧街道沿いの小村があります。名前は、ラドナ村」
「ラドナ村」
アレックスが繰り返す。
「規模は小さいですが、水場があり、最低限の物資補給ができる可能性があります」
「宿は?」
マーガレットが期待を込めて聞く。
「ありません」
「即答!」
「村の規模から見て、旅人向けの宿は期待できません」
「じゃあご飯は?」
「交渉次第です」
「よし、交渉しよう!」
「あなたは前に出ないでください」
「なんで!?」
「食料交渉で目が輝きすぎます」
「そんなに?」
「はい」
アレックスは笑いながら、遠くの煙を見た。
初めての村。
王都を出てから、最初に訪れる人の暮らし。
胸が少しだけ高鳴る。
同時に、緊張もあった。
王子としてではなく、ただの旅人として村に入る。
自分はちゃんと話せるだろうか。
肩書きなしで、人と向き合えるだろうか。
そんなことを考えていると、レクスターが隣に来た。
「緊張していますね」
「分かる?」
「分かります」
「顔に出てる?」
「少し」
「笑顔控えた方がいいんだろ?」
「今は自然です」
「基準が難しいな」
「あなたの場合、完全に隠すより自然にしていた方が不審ではありません」
「ならそうする」
「ただし、困っている人を見つけて即座に手伝いに行くのは控えてください」
「なぜ?」
「食料交渉の前に村中の問題を背負う可能性がある」
マーガレットが横から笑った。
「ありそう!」
「そんなに?」
「あるよ。アレックス、絶対困ってる人見たら行くもん」
「行かない努力をする」
「努力なんだ」
「うん」
レクスターはため息をつく。
「まあ、完全に止めるのは不可能でしょう。なら、せめて状況確認をしてからにしてください」
「分かった」
「今の返事、信用度六割です」
「高いのか低いのか」
「あなたにしては高い」
「それは褒めてる?」
「半分ほど」
「レクスターの半分、久しぶりに出た!」
マーガレットが楽しそうに言う。
そんな会話をしながら、三人はラドナ村へ近づいていった。
近づくほどに、空気が少し変わる。
最初に気づいたのは、レクスターだった。
「……妙ですね」
「何が?」
マーガレットが聞く。
「煙が少ない」
「煙?」
「この時間なら、朝食や作業準備で家々から煙が上がるはずです。村の規模を考えると、もう少し多くていい」
アレックスも目を凝らす。
たしかに、村らしき場所から上がる煙は二本ほどしかない。
家屋の数に対して少ない。
「人が少ないのかな」
「可能性はあります」
さらに進むと、畑が見えてきた。
広いとは言えないが、村の周囲にいくつかの畑がある。
しかし、様子がおかしい。
作物の色が悪い。
畝は整えられているのに、葉はしおれ、土は乾き、ところどころひび割れている。
マーガレットの表情が曇る。
「……元気ないね」
「畑が?」
「うん。なんか、苦しそう」
レクスターは畑の土を見ながら言う。
「水不足か、土壌不良。あるいは人手不足」
「そんなの見て分かるの?」
「ある程度は」
「便利だなあ」
「便利ではなく観察です」
村の入口に門はなかった。
簡単な木柵があるだけだ。
その木柵も一部壊れている。
人影はある。
だが、活気はない。
井戸の近くで老婆が桶を持って立っている。
家の陰から子どもがこちらを見て、すぐ隠れた。
畑にいる男が手を止め、三人を見る。
その視線は、歓迎ではなかった。
警戒。
疲労。
そして、少しの恐れ。
マーガレットが小声で言う。
「……なんか、見られてる」
「よそ者ですから」
レクスターが答える。
「それだけじゃない気がする」
「同感です」
アレックスは村の中央へ向かって歩いた。
できるだけゆっくり。
威圧しないように。
笑顔も自然に。
だが、村人たちの視線は硬いままだった。
井戸の近くまで来ると、鍬を持った初老の男が前へ出てきた。
日に焼けた顔。
深い皺。
鋭い目。
村のまとめ役だろう。
男は三人を上から下まで見た。
「旅人か」
「はい」
アレックスが答える。
「王都から?」
一瞬、空気が止まる。
マーガレットがわずかに身構えた。
レクスターは表情を変えない。
アレックスは、少しだけ間を置いてから頷いた。
「王都方面から来ました」
「方面、ね」
男の目が細くなる。
「貴族か?」
「違います」
アレックスは穏やかに答える。
「もう、違います」
その言葉に、男の眉がわずかに動いた。
何かを察したのかもしれない。
しかし深くは聞かなかった。
「ここに宿はない」
「分かっています。水と、できれば少し食料を分けてもらえないかと思って」
「金はあるのか」
「少しなら」
男は黙った。
村の空気が、さらに重くなる。
家の中からも人がこちらを見ている。
子ども。
女。
老人。
皆、痩せているというほどではないが、顔に疲れがある。
アレックスはその視線を受けながら、胸の奥が少し痛んだ。
ここには余裕がない。
それは明らかだった。
男は低く言った。
「水は井戸から汲め。金はいらん」
「ありがとうございます」
「食料は売れん」
マーガレットが口を開きかけたが、レクスターが視線で止めた。
男は続ける。
「余ってない」
短い言葉。
それだけで十分だった。
アレックスは頷く。
「分かりました。水だけいただきます」
「長居はするな」
「……はい」
男は背を向けた。
マーガレットが小声で言う。
「感じ悪い」
「余裕がないのです」
レクスターが静かに言う。
「余裕がない人間は、よそ者に優しくする余力もありません」
「それは分かるけど……」
アレックスは井戸へ向かった。
桶を下ろし、水を汲む。
井戸水は澄んでいた。
だが、匂いが少し変だった。
「……ん?」
アレックスが桶を覗き込む。
レクスターも近づき、指先で水を少しすくった。
匂いを確かめ、表情をわずかに変える。
「鉄臭いですね」
「飲める?」
「煮沸すれば。ただ、長期的に飲むには良くない」
マーガレットが顔をしかめる。
「村の人、これ飲んでるの?」
「おそらく」
その時だった。
近くで、小さな泣き声が聞こえた。
三人が振り向く。
井戸の反対側。
小さな男の子が、桶を倒して尻もちをついていた。
水が地面に広がっている。
その子は泣くのを我慢しているように唇を震わせていた。
すぐに母親らしき女が家から飛び出してくる。
「ダン!」
「ご、ごめんなさい……」
「何やってるの!」
女は男の子を抱き起こし、こぼれた水を見て顔を歪めた。
ただの水ではない。
この村では、汲むだけでも労力が必要な水だ。
マーガレットがすぐに駆け寄った。
「大丈夫?」
女がびくりと身を引く。
マーガレットは慌てて両手を上げた。
「あ、ごめん。怖がらせるつもりじゃなくて」
男の子はマーガレットを見上げる。
涙目のまま、彼女の背中のハルバードを見て、さらに目を丸くした。
「お姉ちゃん……それ、重くないの?」
「え? これ?」
マーガレットはハルバードを軽く持ち上げる。
「平気!」
「すごい……」
男の子の目が一瞬だけ輝いた。
だが母親はすぐに彼を抱き寄せる。
「すみません。失礼します」
「待って」
マーガレットは倒れた桶を拾った。
「水、また汲むよ」
「いえ、結構です」
「でも」
「結構です」
女の声は硬かった。
拒絶。
それ以上踏み込むなという線。
マーガレットは手を止める。
アレックスがそっと近づき、穏やかに言った。
「無理にとは言いません。ただ、こぼれた分くらいは」
女はアレックスを見る。
その顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。
優しい声だったからだ。
旅人にしては丁寧で、貴族にしては近すぎる。
不思議な青年。
女は迷い、やがて小さく頷いた。
「……お願いします」
「はい」
アレックスが桶を受け取り、井戸から水を汲む。
マーガレットが男の子に笑いかけた。
「ダンっていうの?」
男の子は母親の後ろに隠れながら頷く。
「うん」
「私はマーガレット」
「まーがれっと?」
「そう! 長いから、マーガでいいよ!」
「まーが」
「かわいい!」
「あなたが喜んでどうするのですか」
レクスターが横から言う。
「いいじゃん!」
アレックスが水を汲み終えて桶を渡す。
女は頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
アレックスは少しだけ笑う。
「気をつけて」
女はもう一度小さく礼をして、男の子を連れて家へ戻っていった。
マーガレットはその背中を見ながら、少し寂しそうな顔をした。
「……やっぱり警戒されてる」
「当然です」
レクスターが言う。
「この村は疲弊しています。疲弊した村にとって、よそ者は危険です」
「でも、子どもまであんな顔」
「子どもは大人の空気を読みます」
「嫌だな」
「ええ」
レクスターは珍しく、短く同意した。
アレックスは村を見回した。
壊れかけた柵。
活気のない畑。
鉄臭い井戸水。
痩せた家畜。
警戒する村人。
そして、泣くのを我慢していた子ども。
王都の外の最初の村。
そこは、思っていたよりずっと静かで、苦しそうだった。
「……レクスター」
「はい」
「この村、何かあるな」
「ありますね」
「断定早いな」
「水、畑、人の表情、煙の少なさ。偶然では説明しづらい」
「調べたい」
「でしょうね」
レクスターはため息をついた。
「あなたがそう言うのは予想していました」
「止める?」
「止めても無駄でしょう」
「ごめん」
「謝罪は不要です。ですが、やるなら慎重に」
マーガレットが拳を握る。
「よし、困ってるなら助けよう!」
「声が大きい」
レクスターが即座に切る。
「まだ困っている内容も分かっていません」
「でも困ってるのは分かる!」
「それはそうです」
「じゃあ助ける!」
「論理が飛んでいます」
「気持ちは飛んでない!」
アレックスは笑った。
そして、村の奥を見た。
小さな丘がある。
その向こうに、古い風車のような影が見える。
風は吹いているのに、羽根は動いていなかった。
村の空気は重い。
何かを隠している。
あるいは、隠す余裕すらないほど疲れている。
その時だった。
どん、と。
足元が、わずかに揺れた。
小さな揺れ。
本当に一瞬。
しかし、三人はすぐに反応した。
マーガレットがハルバードに手を伸ばし、レクスターが地面を見る。
アレックスは周囲の村人たちを見た。
村人たちは驚いていなかった。
怯えていた。
またか、という顔だった。
家の中で誰かが泣き声を上げる。
家畜が低く鳴く。
井戸の水面が小さく波打つ。
そして、先ほどの初老の男が空を見ずに、ただ歯を食いしばっていた。
「……今の」
マーガレットが小声で言う。
「地震?」
「自然の揺れではないかもしれません」
レクスターがしゃがみ込み、地面に触れる。
表情が険しくなる。
「下から叩かれたような振動です」
「下?」
アレックスが問う。
「地中です」
村の外れの丘の方で、何かがかすかに光った。
青白い光。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、草の向こうで脈打つように光った。
アレックスは目を細める。
「見たか」
「見た」
マーガレットが答える。
「うん。絶対変なやつ」
「変なやつ、という表現は雑ですが」
レクスターが立ち上がる。
「否定はできません」
村人たちは、誰も丘を見ようとしなかった。
むしろ、見ないようにしている。
その反応が、何より不気味だった。
アレックスは静かに息を吸った。
ただの補給のために寄った村。
でも、もうそれだけでは済まない。
王都の外には、王都の中から見えなかったものがある。
昨日、自分でそう言った。
なら、見てしまった以上、目を逸らすことはできない。
「レクスター」
「はい」
「今夜、この村に残る方法を考えてくれ」
「予想通りです」
「マーガレット」
「うん」
「まずは村の人たちに話を聞こう」
「任せて!」
「ただし」
レクスターが鋭く割り込む。
「勢いで“私たちが全部解決する!”などと言わないでください」
マーガレットが目をそらす。
「……言おうとしてた」
「でしょうね」
「なんで分かるの!?」
「あなたは分かりやすい」
アレックスは小さく笑う。
だが、その目はもう村の奥を見ていた。
青白い光が消えた丘。
疲れた村。
怯える人々。
王都の外で、最初に出会った歪み。
風が吹く。
畑のしおれた葉が、かさりと鳴った。
ラドナ村は、静かに何かを抱えていた。
そしてその何かは、地の下で、確かに脈打っていた。




