表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/101

【第6話 旧街道の村】


 夜明け前の空は、思っていたより冷たかった。


 王都の外で迎える二度目の朝。


 まだ太陽は地平の向こうに隠れていて、空の端だけが淡く白み始めている。林の木々は黒い影のまま立ち並び、葉の先についた朝露が、焚き火の残り火を受けて微かに光っていた。


 昨日の夜、三人で囲んだ小さな焚き火は、もうほとんど灰になっている。


 ぱち、と最後の枝が小さく鳴った。


 その音で、アレックスは顔を上げた。


 膝の上には、抜いていない雷の刃。


 夜番の間、ずっと手元に置いていた。


 眠気はある。


 疲れもある。


 でも、不思議と頭は冴えていた。


 王都の寝台で目覚める朝とは、まるで違う。


 薄い布越しに差し込む朝日もなければ、侍従が茶を運んでくることもない。柔らかな寝具もないし、朝食の匂いもない。


 あるのは、湿った土の匂い。


 草の匂い。


 灰の匂い。


 そして、隣で丸まって眠るマーガレットの寝息。


「……んむ」


 彼女は外套にくるまり、やけに幸せそうな顔をしていた。


 寝る前は、あれほど怒って、笑って、食べて、また怒っていたのに、眠ってしまえば子どもみたいだ。


 背負っている大地のハルバードは、すぐ手が届く場所に置かれている。


 無防備に見えて、そうではない。


 何かあれば、きっと寝起きでも振り回す。


 そして、おそらく周囲の木が数本犠牲になる。


 アレックスはその光景を想像して、少しだけ笑った。


「何を笑っているのですか」


 背後から声がした。


 レクスターだった。


 彼は外套を肩にかけたまま、木の根元に腰を下ろしている。


 水の本は膝の上。


 開かれてはいない。


 だが、いつでも使える位置にある。


「マーガレットが寝起きでハルバード振り回したら、木が折れるなって」


「三本は折れますね」


「具体的だな」


「位置関係からの推測です」


「そこまで考えるのか」


「考えなくても分かります」


「それはそれでひどい」


 レクスターは眼鏡を指で押し上げた。


 朝の薄闇の中でも、その表情はいつも通り淡々としている。


 だが目元には、わずかに疲れがあった。


「少し寝た?」


 アレックスが聞く。


「十分ではありませんが、必要最低限は」


「無理してない?」


「しています」


「即答だな」


「無理をしていない者はいません」


 レクスターは静かに焚き火の灰を見る。


「追放され、王都外へ出され、刺客と戦い、野営をした翌朝です。無理をしていないと答える方が不誠実でしょう」


「それもそうか」


「あなたもでしょう」


「うん」


 アレックスは素直に頷いた。


「眠れた気はしない。でも、少し楽になった」


「なぜです」


「夜が明けたから」


 言ってから、少しだけ照れたように笑う。


「単純かな」


「単純です」


「切るなあ」


「ですが、正しい」


 レクスターはそう言った。


「夜が明けるという事実には意味があります。暗闇で肥大化した不安は、朝になると多少輪郭を取り戻す」


「レクスターも、そういうこと思うんだな」


「私を何だと思っているのですか」


「冷静で、物事をズバッと切る人」


「正しい認識です」


「自分で言った」


 アレックスは笑った。


 その笑い声に反応したのか、マーガレットが外套の中でもぞもぞ動いた。


「……ごはん……?」


 第一声がそれだった。


 アレックスとレクスターは、同時に彼女を見る。


 マーガレットはまだ目を閉じている。


「ごはん、ある……?」


「起きて最初の言葉がそれか」


 アレックスが笑う。


「夢と現実の境界が胃袋ですね」


 レクスターが言う。


 マーガレットが薄く目を開けた。


「……今、なんか悪口言われた気がする」


「気のせいです」


「レクスターの“気のせい”はだいたい気のせいじゃない……」


「賢くなりましたね」


「やっぱり言ってた!」


 マーガレットはむくりと起き上がる。


 髪が少し跳ねていた。


 彼女はそれを気にせず、まず周囲を見る。


 林。


 焚き火の灰。


 二人。


 そして、自分のハルバード。


 それを確認してから、ほっと息を吐いた。


「……そっか」


 小さな声だった。


「王都じゃないんだ」


 その一言で、朝の空気が少しだけ静かになった。


 昨日の夜は、焚き火と会話でなんとか誤魔化せた。


 けれど朝は、誤魔化しが効かない。


 目覚めた時に見える景色が、現実を突きつけてくる。


 天井ではなく空。


 寝台ではなく地面。


 侍女の声ではなく鳥の鳴き声。


 王城ではなく、街道脇の林。


 マーガレットは膝を抱えた。


「変なの」


「うん」


 アレックスが静かに答える。


「昨日のこと、夢だったらよかったのにって思った?」


「ちょっと」


「私も」


 マーガレットはそこで、はっとする。


「あ、私もって言っちゃった。アレックスの方がもっときついのに」


「比べなくていいよ」


 アレックスは柔らかく言った。


「俺の方がきついとか、マーガレットの方が楽とか、そういう話じゃない。マーガレットだって、王都に色々置いてきた」


「……うん」


「怒ってくれてたけど、マーガレットも傷ついたんだろ?」


 マーガレットは黙った。


 少しの間、何も言わなかった。


 朝露が葉から落ちる音がした。


 遠くで鳥が鳴いた。


「……うん」


 ようやく、彼女は小さく頷いた。


「傷ついた」


「うん」


「アレックスをあんなふうに言われて、すごく嫌だった。王都の人たちが拍手してるのも嫌だった。セレスティア様が何も言わなかったのも嫌だった。アーサー殿下が勝ったみたいな顔してたのも嫌だった」


「うん」


「でも、それだけじゃなくて」


 マーガレットは言葉を探す。


 いつものように勢いで言い切れない。


 自分の中にある感情が、うまく形にならない。


「私も、あそこにいたんだなって」


 彼女は言った。


「アレックスの護衛として、学園にもいて、王城にも出入りして、王都のご飯も食べて、祭りも見て、知ってる人もいて。なのに、昨日で急に全部遠くなった」


 声が少し震えた。


「私、平民だからさ。もともと王城が自分の場所じゃないのは分かってた。でも、アレックスがいたから、そこにいてもいい気がしてた」


 アレックスは何も言わなかった。


 レクスターも口を挟まなかった。


 マーガレットは膝を抱える手に力を込める。


「だから、追放って聞いた時、アレックスが追い出されるのが嫌だったのに、同時に、自分の居場所も消える感じがした」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 朝の林に、三人の呼吸だけがある。


 アレックスはゆっくりと息を吸い、それから言った。


「ごめん」


「違う!」


 マーガレットはすぐ顔を上げた。


「違うから! アレックスが謝ることじゃない!」


「でも、巻き込んだ」


「巻き込まれに行ったの! 私が自分で決めたの!」


 彼女は勢いよく言う。


「そこ間違えないで。私、アレックスに連れてこられたんじゃない。自分でついてきたの。だから、謝られると困る」


「……そっか」


「そう!」


 マーガレットは大きく頷く。


「だから、代わりにご飯ちょうだい」


「急だな」


「お腹空いたら悲しくなる!」


「それは一理あります」


 レクスターが言った。


「空腹は感情制御を鈍らせます。朝食にしましょう」


「やった!」


「ただし量は控えめに」


「やったじゃなかった!」


 朝食は、固いパンの残りと干し肉、そして昨日の商人にもらった焼き菓子の最後の欠片だった。


 マーガレットは焼き菓子を見つめ、深刻な顔をした。


「これ、三人で分ける?」


「当然です」


 レクスターが言う。


「でも小さい」


「小さくても三等分です」


「四等分して私が二つ食べる案は?」


「却下」


「検討早い!」


「検討の余地がありません」


 アレックスが笑いながら、焼き菓子をできるだけ均等に割った。


 不器用な三等分になった。


 マーガレットが真剣に見比べる。


「これ、アレックスのやつ少し大きくない?」


「じゃあ俺のを」


「いや、いい。アレックス昨日頑張ったから」


「マーガレットも頑張っただろ」


「私も頑張った。レクスターも頑張った」


「では、全員頑張ったので均等です」


 レクスターが一番小さそうな欠片を取った。


 マーガレットがそれを見て、少し眉を寄せる。


「レクスター、それ小さくない?」


「誤差です」


「ほんと?」


「ほんとです」


「嘘っぽい」


「なら交換しますか」


「……ううん。いい」


 マーガレットは自分の分をかじった。


「おいしい」


「昨日より美味しく感じるな」


 アレックスも口に入れる。


 少し湿気ている。


 でも、確かに美味しかった。


「空腹補正です」


 レクスターが言う。


「言い方」


「事実です」


「でも、おいしいならいいじゃん」


「それも事実です」


 朝食を終えると、三人は野営の跡を片づけた。


 焚き火の灰を散らし、燃え残りを土で隠す。


 踏み荒らした草を軽く整える。


 レクスターの指示で、足跡もできる範囲でぼかした。


「ここまでするの?」


 マーガレットがしゃがみ込みながら聞く。


「追手がいます」


 レクスターは短く答える。


「痕跡は少ない方がいい」


「昨日の刺客、置いてきたよね」


「ええ」


「情報、持って帰るかな」


「持って帰るでしょうね」


「うわー……」


「ただし、情報を持ち帰らせたことにも利点はあります」


 アレックスが顔を上げる。


「利点?」


「こちらが弱っていないと伝わる」


 レクスターは水の本を鞄に収めながら言った。


「王都側が次に送る相手は慎重になるでしょう。雑な刺客では足りないと理解したはずです」


「つまり、もっと強いのが来る?」


 マーガレットが嫌そうに言う。


「そうです」


「利点なの、それ?」


「弱い刺客が何度も来るより、相手の出方が見えやすくなる可能性があります」


「なんか難しい」


「簡単に言えば」


 レクスターは眼鏡を押し上げる。


「面倒な敵が来ます」


「簡単にしても嫌だった!」


 アレックスは苦笑した。


「なら、こっちも準備しないとな」


「はい」


「まずは服装を変える」


「同意します」


 レクスターはアレックスを上から下まで見た。


「あなたはまだ“元王族です”という雰囲気が強い」


「そんなに?」


「かなり」


「私も?」


 マーガレットが自分を指差す。


「あなたは“元気な危険物です”という雰囲気が強い」


「ひどい!」


「ハルバードを背負っている時点で否定困難です」


「まあ、それはそう」


「認めるのか」


 アレックスが笑う。


 レクスターは続ける。


「次の村か宿場で外套を買いましょう。色は地味なもの。アレックスの髪と顔は隠しきれませんが、雰囲気は緩和できます」


「顔を隠す?」


「変装とまでは言いません。ですが、王都近郊であなたの顔を知る者はいます」


「そっか」


「あと、笑顔を控えてください」


「え?」


 アレックスが目を丸くする。


「なぜ」


「目立つからです」


「笑顔が?」


「人当たりの良い元王子感が滲み出ています」


「そんなものが」


「あります」


 マーガレットが大きく頷く。


「あるある。アレックス、知らない人にもすぐ優しく笑うもん」


「駄目かな」


「駄目じゃないけど、目立つ」


「じゃあ、無表情でいくか」


 アレックスは試しに無表情を作った。


 マーガレットが数秒見て、吹き出す。


「無理!」


「そんなに?」


「なんか、頑張って無表情にしてる優しい人!」


「評価が細かいな」


 レクスターも冷静に見る。


「不自然です。諦めましょう」


「早いな」


「笑顔を完全に消すより、旅人らしい疲れを演出した方が自然です」


「疲れは本物だよ」


「では問題ありません」


「問題あるけどな」


 三人は荷を背負い直し、林を出た。


 朝日が昇り始めていた。


 草原に薄い金色の光が広がる。


 露が光り、街道がぼんやりと白く浮かぶ。


 王都の外の朝は、想像以上に美しい。


 それなのに、胸の奥には不安がある。


 美しい景色と、不安。


 その二つが同時にあることが、旅なのかもしれない。


 歩き出してしばらくすると、街道は少しずつ寂れていった。


 王都近郊の整った石畳は途切れ、道幅も狭くなる。


 草が道の端から侵食し、古い轍がいくつも重なっていた。


 遠くには低い丘。


 その向こうには、細い煙が上がっている。


「村?」


 マーガレットが目を細める。


「おそらく」


 レクスターが地図を確認する。


「旧街道沿いの小村があります。名前は、ラドナ村」


「ラドナ村」


 アレックスが繰り返す。


「規模は小さいですが、水場があり、最低限の物資補給ができる可能性があります」


「宿は?」


 マーガレットが期待を込めて聞く。


「ありません」


「即答!」


「村の規模から見て、旅人向けの宿は期待できません」


「じゃあご飯は?」


「交渉次第です」


「よし、交渉しよう!」


「あなたは前に出ないでください」


「なんで!?」


「食料交渉で目が輝きすぎます」


「そんなに?」


「はい」


 アレックスは笑いながら、遠くの煙を見た。


 初めての村。


 王都を出てから、最初に訪れる人の暮らし。


 胸が少しだけ高鳴る。


 同時に、緊張もあった。


 王子としてではなく、ただの旅人として村に入る。


 自分はちゃんと話せるだろうか。


 肩書きなしで、人と向き合えるだろうか。


 そんなことを考えていると、レクスターが隣に来た。


「緊張していますね」


「分かる?」


「分かります」


「顔に出てる?」


「少し」


「笑顔控えた方がいいんだろ?」


「今は自然です」


「基準が難しいな」


「あなたの場合、完全に隠すより自然にしていた方が不審ではありません」


「ならそうする」


「ただし、困っている人を見つけて即座に手伝いに行くのは控えてください」


「なぜ?」


「食料交渉の前に村中の問題を背負う可能性がある」


 マーガレットが横から笑った。


「ありそう!」


「そんなに?」


「あるよ。アレックス、絶対困ってる人見たら行くもん」


「行かない努力をする」


「努力なんだ」


「うん」


 レクスターはため息をつく。


「まあ、完全に止めるのは不可能でしょう。なら、せめて状況確認をしてからにしてください」


「分かった」


「今の返事、信用度六割です」


「高いのか低いのか」


「あなたにしては高い」


「それは褒めてる?」


「半分ほど」


「レクスターの半分、久しぶりに出た!」


 マーガレットが楽しそうに言う。


 そんな会話をしながら、三人はラドナ村へ近づいていった。


 近づくほどに、空気が少し変わる。


 最初に気づいたのは、レクスターだった。


「……妙ですね」


「何が?」


 マーガレットが聞く。


「煙が少ない」


「煙?」


「この時間なら、朝食や作業準備で家々から煙が上がるはずです。村の規模を考えると、もう少し多くていい」


 アレックスも目を凝らす。


 たしかに、村らしき場所から上がる煙は二本ほどしかない。


 家屋の数に対して少ない。


「人が少ないのかな」


「可能性はあります」


 さらに進むと、畑が見えてきた。


 広いとは言えないが、村の周囲にいくつかの畑がある。


 しかし、様子がおかしい。


 作物の色が悪い。


 畝は整えられているのに、葉はしおれ、土は乾き、ところどころひび割れている。


 マーガレットの表情が曇る。


「……元気ないね」


「畑が?」


「うん。なんか、苦しそう」


 レクスターは畑の土を見ながら言う。


「水不足か、土壌不良。あるいは人手不足」


「そんなの見て分かるの?」


「ある程度は」


「便利だなあ」


「便利ではなく観察です」


 村の入口に門はなかった。


 簡単な木柵があるだけだ。


 その木柵も一部壊れている。


 人影はある。


 だが、活気はない。


 井戸の近くで老婆が桶を持って立っている。


 家の陰から子どもがこちらを見て、すぐ隠れた。


 畑にいる男が手を止め、三人を見る。


 その視線は、歓迎ではなかった。


 警戒。


 疲労。


 そして、少しの恐れ。


 マーガレットが小声で言う。


「……なんか、見られてる」


「よそ者ですから」


 レクスターが答える。


「それだけじゃない気がする」


「同感です」


 アレックスは村の中央へ向かって歩いた。


 できるだけゆっくり。


 威圧しないように。


 笑顔も自然に。


 だが、村人たちの視線は硬いままだった。


 井戸の近くまで来ると、鍬を持った初老の男が前へ出てきた。


 日に焼けた顔。


 深い皺。


 鋭い目。


 村のまとめ役だろう。


 男は三人を上から下まで見た。


「旅人か」


「はい」


 アレックスが答える。


「王都から?」


 一瞬、空気が止まる。


 マーガレットがわずかに身構えた。


 レクスターは表情を変えない。


 アレックスは、少しだけ間を置いてから頷いた。


「王都方面から来ました」


「方面、ね」


 男の目が細くなる。


「貴族か?」


「違います」


 アレックスは穏やかに答える。


「もう、違います」


 その言葉に、男の眉がわずかに動いた。


 何かを察したのかもしれない。


 しかし深くは聞かなかった。


「ここに宿はない」


「分かっています。水と、できれば少し食料を分けてもらえないかと思って」


「金はあるのか」


「少しなら」


 男は黙った。


 村の空気が、さらに重くなる。


 家の中からも人がこちらを見ている。


 子ども。


 女。


 老人。


 皆、痩せているというほどではないが、顔に疲れがある。


 アレックスはその視線を受けながら、胸の奥が少し痛んだ。


 ここには余裕がない。


 それは明らかだった。


 男は低く言った。


「水は井戸から汲め。金はいらん」


「ありがとうございます」


「食料は売れん」


 マーガレットが口を開きかけたが、レクスターが視線で止めた。


 男は続ける。


「余ってない」


 短い言葉。


 それだけで十分だった。


 アレックスは頷く。


「分かりました。水だけいただきます」


「長居はするな」


「……はい」


 男は背を向けた。


 マーガレットが小声で言う。


「感じ悪い」


「余裕がないのです」


 レクスターが静かに言う。


「余裕がない人間は、よそ者に優しくする余力もありません」


「それは分かるけど……」


 アレックスは井戸へ向かった。


 桶を下ろし、水を汲む。


 井戸水は澄んでいた。


 だが、匂いが少し変だった。


「……ん?」


 アレックスが桶を覗き込む。


 レクスターも近づき、指先で水を少しすくった。


 匂いを確かめ、表情をわずかに変える。


「鉄臭いですね」


「飲める?」


「煮沸すれば。ただ、長期的に飲むには良くない」


 マーガレットが顔をしかめる。


「村の人、これ飲んでるの?」


「おそらく」


 その時だった。


 近くで、小さな泣き声が聞こえた。


 三人が振り向く。


 井戸の反対側。


 小さな男の子が、桶を倒して尻もちをついていた。


 水が地面に広がっている。


 その子は泣くのを我慢しているように唇を震わせていた。


 すぐに母親らしき女が家から飛び出してくる。


「ダン!」


「ご、ごめんなさい……」


「何やってるの!」


 女は男の子を抱き起こし、こぼれた水を見て顔を歪めた。


 ただの水ではない。


 この村では、汲むだけでも労力が必要な水だ。


 マーガレットがすぐに駆け寄った。


「大丈夫?」


 女がびくりと身を引く。


 マーガレットは慌てて両手を上げた。


「あ、ごめん。怖がらせるつもりじゃなくて」


 男の子はマーガレットを見上げる。


 涙目のまま、彼女の背中のハルバードを見て、さらに目を丸くした。


「お姉ちゃん……それ、重くないの?」


「え? これ?」


 マーガレットはハルバードを軽く持ち上げる。


「平気!」


「すごい……」


 男の子の目が一瞬だけ輝いた。


 だが母親はすぐに彼を抱き寄せる。


「すみません。失礼します」


「待って」


 マーガレットは倒れた桶を拾った。


「水、また汲むよ」


「いえ、結構です」


「でも」


「結構です」


 女の声は硬かった。


 拒絶。


 それ以上踏み込むなという線。


 マーガレットは手を止める。


 アレックスがそっと近づき、穏やかに言った。


「無理にとは言いません。ただ、こぼれた分くらいは」


 女はアレックスを見る。


 その顔に、一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。


 優しい声だったからだ。


 旅人にしては丁寧で、貴族にしては近すぎる。


 不思議な青年。


 女は迷い、やがて小さく頷いた。


「……お願いします」


「はい」


 アレックスが桶を受け取り、井戸から水を汲む。


 マーガレットが男の子に笑いかけた。


「ダンっていうの?」


 男の子は母親の後ろに隠れながら頷く。


「うん」


「私はマーガレット」


「まーがれっと?」


「そう! 長いから、マーガでいいよ!」


「まーが」


「かわいい!」


「あなたが喜んでどうするのですか」


 レクスターが横から言う。


「いいじゃん!」


 アレックスが水を汲み終えて桶を渡す。


 女は頭を下げた。


「……ありがとうございます」


「いえ」


 アレックスは少しだけ笑う。


「気をつけて」


 女はもう一度小さく礼をして、男の子を連れて家へ戻っていった。


 マーガレットはその背中を見ながら、少し寂しそうな顔をした。


「……やっぱり警戒されてる」


「当然です」


 レクスターが言う。


「この村は疲弊しています。疲弊した村にとって、よそ者は危険です」


「でも、子どもまであんな顔」


「子どもは大人の空気を読みます」


「嫌だな」


「ええ」


 レクスターは珍しく、短く同意した。


 アレックスは村を見回した。


 壊れかけた柵。


 活気のない畑。


 鉄臭い井戸水。


 痩せた家畜。


 警戒する村人。


 そして、泣くのを我慢していた子ども。


 王都の外の最初の村。


 そこは、思っていたよりずっと静かで、苦しそうだった。


「……レクスター」


「はい」


「この村、何かあるな」


「ありますね」


「断定早いな」


「水、畑、人の表情、煙の少なさ。偶然では説明しづらい」


「調べたい」


「でしょうね」


 レクスターはため息をついた。


「あなたがそう言うのは予想していました」


「止める?」


「止めても無駄でしょう」


「ごめん」


「謝罪は不要です。ですが、やるなら慎重に」


 マーガレットが拳を握る。


「よし、困ってるなら助けよう!」


「声が大きい」


 レクスターが即座に切る。


「まだ困っている内容も分かっていません」


「でも困ってるのは分かる!」


「それはそうです」


「じゃあ助ける!」


「論理が飛んでいます」


「気持ちは飛んでない!」


 アレックスは笑った。


 そして、村の奥を見た。


 小さな丘がある。


 その向こうに、古い風車のような影が見える。


 風は吹いているのに、羽根は動いていなかった。


 村の空気は重い。


 何かを隠している。


 あるいは、隠す余裕すらないほど疲れている。


 その時だった。


 どん、と。


 足元が、わずかに揺れた。


 小さな揺れ。


 本当に一瞬。


 しかし、三人はすぐに反応した。


 マーガレットがハルバードに手を伸ばし、レクスターが地面を見る。


 アレックスは周囲の村人たちを見た。


 村人たちは驚いていなかった。


 怯えていた。


 またか、という顔だった。


 家の中で誰かが泣き声を上げる。


 家畜が低く鳴く。


 井戸の水面が小さく波打つ。


 そして、先ほどの初老の男が空を見ずに、ただ歯を食いしばっていた。


「……今の」


 マーガレットが小声で言う。


「地震?」


「自然の揺れではないかもしれません」


 レクスターがしゃがみ込み、地面に触れる。


 表情が険しくなる。


「下から叩かれたような振動です」


「下?」


 アレックスが問う。


「地中です」


 村の外れの丘の方で、何かがかすかに光った。


 青白い光。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、草の向こうで脈打つように光った。


 アレックスは目を細める。


「見たか」


「見た」


 マーガレットが答える。


「うん。絶対変なやつ」


「変なやつ、という表現は雑ですが」


 レクスターが立ち上がる。


「否定はできません」


 村人たちは、誰も丘を見ようとしなかった。


 むしろ、見ないようにしている。


 その反応が、何より不気味だった。


 アレックスは静かに息を吸った。


 ただの補給のために寄った村。


 でも、もうそれだけでは済まない。


 王都の外には、王都の中から見えなかったものがある。


 昨日、自分でそう言った。


 なら、見てしまった以上、目を逸らすことはできない。


「レクスター」


「はい」


「今夜、この村に残る方法を考えてくれ」


「予想通りです」


「マーガレット」


「うん」


「まずは村の人たちに話を聞こう」


「任せて!」


「ただし」


 レクスターが鋭く割り込む。


「勢いで“私たちが全部解決する!”などと言わないでください」


 マーガレットが目をそらす。


「……言おうとしてた」


「でしょうね」


「なんで分かるの!?」


「あなたは分かりやすい」


 アレックスは小さく笑う。


 だが、その目はもう村の奥を見ていた。


 青白い光が消えた丘。


 疲れた村。


 怯える人々。


 王都の外で、最初に出会った歪み。


 風が吹く。


 畑のしおれた葉が、かさりと鳴った。


 ラドナ村は、静かに何かを抱えていた。


 そしてその何かは、地の下で、確かに脈打っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ