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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第81話 手紙に乗せる声】


 朝の石蔵には、紙の匂いがした。


 土の匂い。


 種の匂い。


 乾いた灰の匂い。


 薬の苦い残り香。


 それらに混じって、紙と墨の匂いが、静かに広がっていた。


 ハルダ村の朝は、まだ完全には穏やかではない。


 黒い畑は村の南側に残っている。


 水車小屋も、集会倉庫も、道具小屋に隔離されたサヴィルも、見張りが必要だった。


 北畑へ流した旧水路は、夜の間も細く水を運び続けていたが、いつ詰まるか分からない。


 黒い樽の封鎖も仮のものだ。


 乾燥灰と石灰で反応を抑えているだけで、消えたわけではない。


 だから村人たちは、朝から交代で動いていた。


 水路を見る者。


 木札を見る者。


 石蔵で負傷者を看る者。


 黒い畑に近づかないよう子どもたちを止める者。


 そして、証言の写しを整える者。


 石蔵の中央には、四つの束が並んでいる。


 赤紐。


 青紐。


 黄紐。


 白紐。


 赤紐は、ハルダ村に残す原本。


 青紐は、巡察小屋へ送る写し。


 黄紐は、グレイルへ送る写し。


 白紐は、アレックスたちが持って旅を続ける写し。


 そのどれもが、昨日より少し重く見えた。


 紙の枚数が増えたからではない。


 村人たちの声が入ったからだ。


 カイの地図。


 サムの白ヤギさんの絵。


 ルダの避難小屋の灯り。


 オルグの本物の署名。


 ダンの巡察証言。


 ガロンの後悔。


 ミレ婆の祠の記憶。


 トーマの畑の境界。


 ミラの水車小屋で見た黒い樽。


 それらが、細い紐で束ねられている。


 アレックスはそれを見るたびに、胸の奥が少し痛んだ。


 紙は軽い。


 だが、背負うには重い。


 それをまた旅袋へ入れるのだと思うと、肩の紐が先に痛んだような気がした。


「アレックス」


 声をかけたのはカイだった。


 彼は作業台の前に立ち、黄紐の束をじっと見ている。


「これ、グレイルに行くんだよな」


「ああ」


「ルミアって子にも?」


「直接全部を見せるかは分からない。でも、手紙は送る」


「ルミア、字読めるの?」


「練習中だ」


「そっか」


 カイは少し考えた。


「じゃあ、絵もいるな」


 その言葉に、横で待っていたマーガレットが勢いよく顔を上げた。


「そう! 絵いるよね!」


「うん。字がまだなら、絵があった方がいい」


「カイ、分かってる!」


「別に……」


 カイは少し照れたように目を逸らした。


 マーガレットはすでに紙を何枚も広げていた。


 黄紐の写しには証言書類が入っている。


 それとは別に、グレイルへ送る手紙を書くことになっていた。


 宛先はエイナ。


 組合長。


 老女。


 そして、ルミア、ニナ、セラ。


 全員に同じ内容を送るわけではない。


 エイナたちには、グレイ商会と王都外郭管理局に関する実務的な報告。


 ルミアたちには、ハルダ村で出会った人々と、村がまだ終わっていないこと。


 怖い話ばかりではなく、白ヤギさんと残す畑と旧水路のことも。


 マーガレットはその区別を聞いた時、少し難しそうな顔をした。


「じゃあ、怖い樽の絵は描かない?」


 レクスターが即答する。


「ルミア宛てには不要です」


「でも、ハルダ村のことなら」


「黒い樽は刺激が強すぎます」


「そっか……」


「代わりに、石蔵、種袋、北畑、白ヤギさん、旧水路を描いてください」


「白ヤギさんは許可出た!」


「有用な情報です」


「やった!」


 カイが横から言う。


「白ヤギさん、そんなに大事か?」


 レクスターは真面目に答えた。


「初期異常の確認対象として重要です」


 マーガレットは胸を張る。


「ほら!」


「いや、そういう意味かよ」


 カイは呆れた顔をしながらも、少し笑った。


 その笑いを見て、アレックスは安心する。


 カイはまだ疲れている。


 父と母は動けず、村も傷だらけだ。


 でも、笑う余地が少しずつ戻ってきている。


 それは大きい。


 レクスターは、実務用の手紙を書き始めた。


 筆先は迷わない。


 疲労はあるが、記録になると彼は強い。


 最初の一文を、声に出して確認する。


「グレイルのエイナ殿、組合長殿、老女殿へ。ハルダ村における土壌および水路汚染事件について、至急共有すべき情報を送付します」


 マーガレットが隣で眉を寄せる。


「硬い」


「実務文です」


「エイナ、読めるかな」


「読めます」


「ルミアちゃんは無理」


「ルミア宛ては別です」


「よし」


 レクスターは続ける。


「グレイ商会調整役サヴィルを拘束。ハルダ村にて、王都外郭管理局農地再編課の承認印が押された土壌改変剤試験書類を回収。書類上、村長オルグの署名が偽造されている疑いが濃厚」


 カイの顔が曇る。


 オルグの偽造署名。


 その話題になるたび、村人たちの空気は重くなる。


 名前を勝手に使われること。


 自分の意思とは違う形で村を売ったことにされること。


 それは、ハルダ村にとって大きな傷だった。


 レクスターは声を少し落としながらも、書く手を止めない。


「南道に放置されたグレイ商会馬車より、契約書、水路図、薬剤輸送記録、リゼット宛て未送付または控え書簡を回収。リゼットの旧施療院式水路拡散理論との関連が疑われる」


 アレックスはその言葉を聞きながら、グレイルを思い出した。


 旧施療院の湿った匂い。


 ルミアの水槽。


 リゼットの声。


 名前を邪魔だと言った者。


 その影が、ハルダ村にも伸びていた。


 道は繋がっている。


 嫌になるほど、繋がっている。


 レクスターは一度筆を止め、アレックスを見た。


「この部分は、エイナにとって重要です」


「ああ」


「グレイルの帳簿と照合してもらう必要があります」


「エイナならやる」


「はい」


 マーガレットが小さく言う。


「無理しないかな、エイナ」


「しますね」


 レクスターが即答する。


「だよね」


「なので、老女殿にも同封します。監視してもらいましょう」


「それいい!」


 アレックスは思わず笑った。


 エイナが「監視される側」になる姿が少し想像できた。


 グレイルに残った彼女は、きっと無茶をしている。


 リクの記録、旧施療院、町の立て直し。


 そこへハルダの報告が届く。


 彼女はまた動こうとするだろう。


 だから、老女の目が必要だ。


 旅先にいても、そういう気遣いができるようになっている。


 それもまた、三人がグレイルで得た繋がりだった。


 実務の手紙を書き終えると、次はルミアたちへの手紙だった。


 これは、誰が書くかで少し揉めた。


 マーガレットは自分が書くと言った。


 レクスターは「字の可読性」を理由に自分が書くべきだと言った。


 アレックスは二人の間で少し笑っていた。


「字、読めるもん!」


 マーガレットが言う。


「読めますが、形が躍動的です」


 レクスターが返す。


「躍動的って褒めてる?」


「今回は褒めていません」


「ひどい!」


 カイが横から紙を覗く。


「マーガの字、見たい」


「いいよ!」


 マーガレットは試しに自分の名前を書いた。


 大きく、力強く、少し斜めに。


 カイはしばらく見た。


「……元気な字」


「褒めてる!?」


「たぶん」


「たぶん多い!」


 レクスターが冷静に言う。


「ルミアが読むには、もう少し整った字の方が良いでしょう」


 マーガレットはむう、と頬を膨らませた。


 だが、少し考えた後、言った。


「じゃあ、文章はレクスター。最後に私も一言書く」


「それなら良いと思います」


「絵も描く」


「はい」


「いっぱい描く」


「余白の範囲内で」


「余白広くして!」


「紙は有限です」


「うう……」


 結局、ルミアたちへの手紙はレクスターが本文を書き、マーガレットが絵と短い一言を添え、アレックスが最後に署名することになった。


 カイも、少しだけ参加することになった。


「俺も?」


 カイは驚いた。


 マーガレットが頷く。


「ルミアちゃんにハルダ村のこと、教えてあげて」


「会ったことない」


「でも、名前を取り戻した子だよ」


「……」


「カイも名前を呼んで、村の人たち戻したでしょ。きっと分かると思う」


 カイは少し黙った。


 そして、紙の端を見つめた。


「何書けばいいか分かんない」


「一言でいい」


 アレックスが言う。


「ハルダ村のカイです、って」


「それだけ?」


「それだけでも、名前が届く」


 カイはその言葉に、少しだけ目を伏せた。


 名前が届く。


 グレイルからハルダへ。


 ハルダからグレイルへ。


 会ったことのない子どもたちの名前が、紙の上で繋がる。


 カイは筆を持った。


 手が少し震えている。


 けれど、逃げない。


 ゆっくりと書いた。


 “ハルダ村のカイです。”


 字は不器用だった。


 でも、読めた。


 マーガレットが拍手しそうになり、レクスターに目で止められた。


 カイが恥ずかしそうに言う。


「変?」


「変じゃない」


 アレックスが答える。


「いい字だ」


「……うん」


 カイは紙を見つめ、少しだけ笑った。


 ルミア宛ての手紙には、こう書かれた。


 ハルダ村で黒い水と黒い畑の問題が起きたこと。


 怖いこともあったが、村の人たちが名前を呼び合い、助け合ったこと。


 カイという少年が、父と母、村人たちの名前を呼んだこと。


 石蔵に種が残っていたこと。


 旧水路にきれいな水が流れたこと。


 北畑に“残す畑”という木札を立てたこと。


 そして、白ヤギさんが最初に異常を教えてくれたこと。


 マーガレットは、白ヤギさんを少し大きめに描いた。


 レクスターはそれを見て、しばらく黙った。


「大きすぎませんか」


「大事だから!」


「本文との比率が」


「白ヤギさん大事!」


 カイも横から言った。


「白ヤギさんは大事だな」


「カイもそう言うなら」


 レクスターは諦めたように頷いた。


「では、そのままで」


 マーガレットは満足そうに笑った。


 手紙を書き終えた頃、石蔵の入口にミレ婆が来た。


 彼女は小さな布袋を持っていた。


「これも、グレイルへ送っておくれ」


 アレックスは受け取る。


 中には、乾いた豆が少し入っていた。


「これは」


「汚れていない豆だよ。石蔵に残っていたものだ」


「大事な種では」


「全部じゃない。ほんの少しだ」


 ミレ婆は笑った。


「ハルダ村はまだ終わっていないって、豆にも言わせたいんだよ」


 マーガレットの目が潤む。


「ミレ婆さん……」


「泣くんじゃないよ」


「もう遅いです」


「早いねえ」


 ミレ婆は少し笑い、それから真剣な顔になった。


「グレイルという町も、大変だったんだろう?」


「はい」


「なら、うちの豆を少し分けるくらい、いいじゃないか。種は残すものだけど、繋ぐものでもある」


 レクスターが静かに頷いた。


「記録します。ハルダ村より、汚染されていない豆種少量をグレイルへ贈る、と」


「硬いねえ」


「実務です」


「でも、頼もしいよ」


 ミレ婆はそう言って、レクスターの肩を軽く叩いた。


 レクスターは少し驚いた顔をしたが、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 昼前には、グレイル行きの黄紐の写しと手紙が完成した。


 しかし、誰が届けるかが問題だった。


 アレックスたちが直接戻るには時間がかかる。


 ハルダ村にはまだ滞在が必要だ。


 グレイルへ急ぎで知らせるには、宿場まで使者を出し、そこから信頼できる荷運びに託す必要がある。


 東宿場の主人なら、協力してくれる可能性が高い。


 だが、道中の安全は保証できない。


 巡察ダンが言った。


「宿場へは、俺の部下ロウが回復すれば向かわせる。だが、今日明日は無理だ」


 レクスターが頷く。


「急ぎすぎれば、写しを失う危険があります」


「なら、明日?」


 マーガレットが聞く。


「ロウの状態次第です」


 ダンは悔しそうに拳を握る。


「俺が動ければ……」


「動けません」


 レクスターが即座に言う。


「分かってる」


「本当に」


「本当に分かってる」


 ダンは苦笑した。


「君の仲間たちの気持ちが分かってきた」


 マーガレットが小さく頷く。


「レクスター、厳しいけど助かるよ」


「はい」


 ダンは青紐の写しを見た。


「巡察小屋へ持っていく写しも、焦らず確実に運ぶ。これは俺の仕事だ」


 アレックスは頷いた。


「お願いします」


 ダンはまっすぐ返した。


「必ず」


 その後、サヴィルの移送について話し合いが行われた。


 サヴィル自身は、王都の正式機関へ送れと言っている。


 だが、王都外郭管理局そのものに関係者がいる以上、ただ送れば危険だ。


 巡察へ引き渡すにも、途中で襲撃や口封じの可能性がある。


 村人たちは、サヴィルを村から出すことに複雑な反応を示した。


 出て行ってほしい。


 だが、逃げられたら困る。


 罰を受けてほしい。


 だが、村で裁くわけにもいかない。


 ミレ婆は静かに言った。


「生かしておくのは腹立たしいね」


 石蔵の空気が固まる。


 ミレ婆は続けた。


「でも、あいつの口から出た名前がある。マルセ・リド、ベリオ・ザン。そいつらを引っ張り出すには、あいつが必要なんだろう?」


 レクスターが頷く。


「はい」


「なら、生かして運びな。腹立たしくても」


 カイは黙って聞いていた。


 拳を握っている。


 アレックスは彼を見る。


「カイ」


「分かってる」


 カイは低く言った。


「サヴィルを殴っても、畑は戻らない」


 マーガレットが静かに頷く。


「うん」


「でも、腹立つ」


「うん」


「だから、見張る人がいる」


 カイは顔を上げた。


「俺は見張りに行かない。行ったら、たぶん怒るから」


 その言葉に、石蔵の中が静かになった。


 カイは自分で自分を見ている。


 それは簡単なことではない。


 マーガレットは目を潤ませた。


「カイ、偉い」


「子ども扱いするな」


「これは本当に偉い」


「……うん」


 カイは少しだけ目を逸らした。


 アレックスは言った。


「サヴィルは、しばらく道具小屋で拘束する。写しが分散できるまでは動かさない。証拠が消せない状態になってから、巡察と一緒に移送する」


 レクスターが補足する。


「移送先は慎重に選ぶべきです。王都直送ではなく、まず信頼できる中継点を通す。巡察小屋だけでなく、別領の公的記録所にも写しを預けたい」


 オルグがかすれた声で言った。


「……西隣の領都に、古い記録所がある……領主は堅物だが、王都の外郭管理局とは距離があるはずだ……」


「名前は」


「ベルク領。領主は、ハイマン子爵」


 レクスターが記録する。


「次の目的地候補になります」


 アレックスは頷いた。


 ハルダ村からベルク領へ。


 グレイルへ写しを送りつつ、サヴィル移送と証拠保全のために次の領へ向かう。


 道筋が見えてきた。


 旅はまた、次の場所へ続こうとしている。


 午後、アレックスたちは道具小屋のサヴィルを確認しに行った。


 サヴィルは壁際で座っていた。


 顔色は少し悪い。


 だが、まだ折れてはいない。


 アレックスを見ると、薄く笑う。


「方針は決まったかな」


「写しを分散するまで、お前はここに置く」


「賢明だ」


「その後、ベルク領へ運ぶ可能性がある」


 サヴィルの眉がわずかに動いた。


「ベルク領か」


「知っているのか」


「記録所がある。面倒な場所だ」


「なら、良い場所だな」


 サヴィルは少し苦笑した。


「君たちは本当に面倒な道を選ぶ」


「お前たちが簡単な道を汚したからな」


 マーガレットが低く言う。


 サヴィルは彼女を見たが、何も返さなかった。


 レクスターが問う。


「ベルク領までの道で、グレイ商会が使う監視地点はありますか」


「話すと思うか」


「話せば移送中の生存率が上がります」


「……」


「あなた自身が言ったことです。失敗した調整役に商会は優しくない。なら、黙ることは自分の危険を増やすだけです」


 サヴィルは目を細めた。


 しばらく沈黙する。


 やがて、小さく言った。


「東宿場に一人、商会の連絡員がいる」


 アレックスたちは顔を見合わせた。


 東宿場。


 ハルダ村の避難者を受け入れ、水を分けてくれた場所。


 そこにも商会の目がある。


「名前は」


 レクスターが聞く。


「ルベン。表向きは塩商人だ」


 レクスターが記録する。


「他には」


「南道は避けろ。梨の木の先に、回収班が来る可能性がある」


「いつ」


「私が戻らなければ、三日以内」


 アレックスの表情が険しくなる。


 三日。


 ハルダ村に残された時間が急に狭まった。


 グレイ商会の回収班が来れば、証拠やサヴィルを狙う可能性がある。


 黒い樽を処理するどころか、村を再び危険にさらすかもしれない。


 マーガレットがハルバードを握る。


「来るなら止める」


 レクスターが静かに言う。


「その前に備える必要があります」


 アレックスは頷いた。


「石蔵へ戻ろう」


 サヴィルは、背を向けるアレックスへ言った。


「追放王子殿」


 アレックスは足を止める。


「君が思っているより、商会は早いよ」


「だから?」


「村を守りたいなら、証拠か村、どちらかを選ぶ場面が来る」


 アレックスは振り返った。


「その手には乗らない」


「現実だ」


「違う」


 アレックスは静かに言った。


「お前たちはいつも、選ばせようとする。水車か村人か。畑か井戸か。証拠か村か」


 サヴィルの目が細くなる。


「でも、俺たちはもう何度も見てきた」


 アレックスは続けた。


「選ばされる前に、手を増やす。声を残す。仲間に託す。全部一人で背負わない」


 マーガレットが頷く。


「そうだよ」


 レクスターも静かに言う。


「選択肢を増やすための記録と分散です」


 サヴィルは黙った。


 アレックスは最後に言った。


「だから、証拠も村も守る」


 道具小屋を出ると、風が吹いていた。


 木札が揺れる。


 北畑の水が光る。


 石蔵の方では、カイが地図を持ってミレ婆に何か確認していた。


 村人たちは、まだ知らない。


 商会の回収班が来るかもしれないこと。


 東宿場にも連絡員がいること。


 新たな危険が近づいていること。


 だが、隠すわけにはいかない。


 アレックスたちは石蔵へ戻り、その情報を共有した。


 空気は重くなった。


 当然だった。


 やっと水路が流れ、証言がまとまり、少しだけ息をつけたところだった。


 そこへ、三日以内に商会の回収班が来る可能性。


 村人たちは青ざめた。


 子どもたちは大人の顔を見て不安そうにした。


 カイも唇を噛んだ。


 だが、ミレ婆が杖を強く床へ突いた。


「なら、三日のうちにやることをやるだけだよ」


 その声が、石蔵に響いた。


「写しを出す。水路を守る。樽を見張る。子どもを石蔵から離さない。来るなら、来る前に準備する」


 ガロンが頷く。


「木札だけじゃなく、道にも印を立てる」


 ダンが言う。


「巡察として、迎撃ではなく防衛線を作る。戦うためじゃない。村人を逃がすための線だ」


 レクスターがすぐ地図を開く。


「防衛線ではなく避難線と呼びましょう。目的を明確にします」


 マーガレットが頷く。


「避難線!」


 カイが地図を持って前へ出た。


「俺の地図、使える?」


 レクスターが頷いた。


「使えます」


「じゃあ描く。石蔵から北畑、旧水路、裏道、全部」


 アレックスは、その姿を見つめた。


 カイはもう、ただ怯えていない。


 怖い。


 それは分かる。


 でも、その怖さの中で地図を握っている。


 ハルダ村は、また一つ強くなった。


 夜が近づく頃、石蔵の中では新しい作業が始まった。


 手紙を包む者。


 写しを防水布で巻く者。


 避難線を地図に足す者。


 木札を追加で書く者。


 乾いた灰を袋に詰める者。


 サヴィルを見張る順番を決める者。


 忙しい。


 不安もある。


 でも、誰も何も知らずに怯えてはいなかった。


 アレックスは、白紐の写しを旅袋へ入れた。


 その隣には、グレイルの帳簿写し。


 二つの声が並ぶ。


 グレイルの名前。


 ハルダの土地。


 どちらも、消されかけたもの。


 それを背負って進む。


 カイがそばへ来た。


「また荷物増えたな」


「ああ」


「重い?」


「重い」


「正直だ」


「怒られるからな」


 カイは少し笑った。


 それから、真剣な顔になる。


「ハルダの声、頼む」


「ああ」


「でも、村も守って」


「もちろん」


「両方、約束」


 アレックスはカイを見る。


 その目には不安がある。


 だが、それ以上に信頼があった。


 アレックスは頷いた。


「両方、約束だ」


 カイは少しだけ安心したように息を吐いた。


 石蔵の外で、黒い畑が小さく鳴った。


 ぎし。


 ぎし。


 その音はまだ消えない。


 だが、石蔵の中の筆の音、布を結ぶ音、地図に線を足す音の方が、今は少しだけ強かった。


 ハルダ村は、次の危機へ備え始めた。


 手紙に乗せる声。


 写しに束ねる証言。


 地図に描く避難線。


 それらは、剣ではない。


 だが、確かに村を守る武器だった。


 そしてアレックスたちは、その声を抱えたまま、次に来るものへ向き合う準備を進めていった。

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