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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第80話 写しを託す朝】


 ハルダ村に、二度目の朝が来た。


 黒い畑は、まだ黒い。


 昨日立てた木札は、夜露を受けて少し湿っている。


 “残す畑”


 “水をかけるな”


 “黒土注意”


 “ここより南、立入禁止”


 村人たちの震える字が、朝の光の中で静かに並んでいた。


 それらは頼りない木札だった。


 強い柵ではない。


 鉄の壁でもない。


 だが、誰もそれを軽く見なかった。


 木札一本ごとに、村人の手がある。


 灰を撒いた者がいる。


 土を踏まないように子どもを止めた者がいる。


 何度も泣きながら、それでも文字を書いた者がいる。


 それは、ハルダ村が自分自身に引いた線だった。


 もうこれ以上、奪わせないための線。


 朝の風が吹くと、木札が小さく鳴った。


 かた。


 かた。


 黒い畑の軋みとは違う音だった。


 人が立てた音。


 村が残した音。


 アレックスは、石蔵の前でその音を聞いていた。


 背中にはグレイルの帳簿写し。


 そして石蔵の中には、ハルダ村で作られた証言の束がある。


 昨日一日で、村人たちは多くのものを書いた。


 書けない者は語った。


 語れない子どもは絵を描いた。


 白ヤギが水を飲まなかった日のこと。


 祠の花が黒くなった日のこと。


 豆畑に最初の黒い筋が出た日のこと。


 サヴィルが灰色の外套で村に来た時のこと。


 王都の印がある書類を見せられた時のこと。


 村長オルグの名が勝手に使われたこと。


 巡察が水車小屋へ行って戻らなかったこと。


 カイが父を呼んだこと。


 ミラを水車小屋から助けたこと。


 黒い樽を灰と石灰で封じたこと。


 旧水路へ清水を流したこと。


 北畑を残すと決めたこと。


 全部、紙に残した。


 紙にできないものも、地図にした。


 地図にできないものは、木札にした。


 木札にできないものは、名前で呼んだ。


 ハルダ村は、昨日までとは違っていた。


 傷は深い。


 戻らない畑もある。


 まだ歩けない者もいる。


 それでも、ただ震えている村ではなくなっていた。


 証言を残す村になった。


 アレックスは石蔵の中へ入った。


 石蔵には、朝から人が集まっている。


 中央の作業台には、証言の束。


 その横に、南道の馬車から回収した書類箱。


 王都外郭管理局農地再編課の承認書。


 グレイ商会の契約書。


 リゼット宛ての封書。


 すべて、防水布に包まれている。


 レクスターが、その前で最後の確認をしていた。


 いつものように背筋を伸ばしているが、目の下には疲れが残っている。


 それでも筆は正確に動く。


 原本。


 写し一。


 写し二。


 写し三。


 彼はそれぞれを束ね、紐の色を変えていた。


 マーガレットが横で見ている。


 水の本はもう返してある。


 ただし、レクスターが無理をしないか監視する役は続けているらしい。


「レクスター、それ何色?」


「赤紐は原本。青紐は巡察小屋へ送る写し。黄紐はグレイルへ送る写し。白紐はアレックスたちが保持する写しです」


「色分け!」


「混同を防ぐためです」


「すごい」


「基本です」


「でもすごい」


 レクスターは少しだけ目を逸らした。


「……ありがとうございます」


 マーガレットは嬉しそうに笑った。


 その後ろでは、カイが自分の描いた地図を見ていた。


 彼の地図も、写しに含められる。


 最初は下手だと言っていた。


 けれど、村人たちが口々に場所を補足し、トーマが畔の曲がりを直し、ミラが豆畑の位置を足し、ミレ婆が古い水路を教え、村長が水車と集会倉庫の位置を確認したことで、地図は少しずつ村の形を取り戻していた。


 カイはその地図へ、最後に小さな字を書き加えた。


 “残す畑”


 北畑の端。


 木札と同じ言葉。


 アレックスは、それを見て静かに言った。


「いい地図だ」


 カイは顔を上げる。


「まだ下手だよ」


「でも、分かる」


「……分かるなら、いいか」


「ああ」


 カイは少しだけ笑った。


 笑えるようになった。


 それだけでも、昨日とは違う。


 石蔵の奥では、トーマとミラが並んで横になっていた。


 黒い筋は薄くなっている。


 まだ動けないが、声には少し力が戻っていた。


 トーマは、カイの地図を見ながら言う。


「……北畑の境界……もう少し東だ……」


「また?」


「……畑のことは……正確に……」


「分かってるって」


 カイは文句を言いながら、少し線を直した。


 ミラが微笑む。


「カイ、昨日より字が丁寧になったわね」


「母ちゃんまで見るなよ」


「見るわよ。大事な記録だもの」


「……うん」


 カイは照れながらも、線を整えた。


 その手つきは、初めて地図を描いた時よりずっと慎重だった。


 村長オルグは、作業台のそばに座らされていた。


 本当ならまだ横になっているべきだとレクスターは言ったが、オルグは「村長として署名だけはする」と譲らなかった。


 結局、石蔵の中で座るだけなら、と許可された。


 彼の前には、自分の筆跡で書いた署名がある。


 偽造された署名との比較用だ。


 震えた字。


 不格好な字。


 だが、それが本物だった。


 オルグはその紙を見つめていた。


「……わしの名を、こうして並べる日が来るとはな」


 アレックスは横に座った。


「悔しいですか」


「悔しい」


 オルグは即答した。


「わしの名で、村を売ったことにされた。村長として、これほど恥ずかしいことはない」


 彼は苦しげに息を吸う。


「だが、マーガレット殿が言っただろう。名前を取り戻したのだと」


 少し離れたマーガレットが、照れたように肩を揺らした。


「言いました」


「その通りかもしれん」


 オルグは震える手で、自分の本物の署名を指した。


「これがわしの名だ。なら、偽の名で奪われたものを、この名で取り返さねばならん」


 その声は弱い。


 だが、村長の声だった。


 アレックスは頷いた。


「この署名も、写しに入れます」


「頼む」


「はい」


 巡察ダンは、石蔵の入口で見張りを兼ねて座っていた。


 足はまだ痛む。


 だが、証言は書き終えている。


 巡察小屋に届いた書類。


 王都の印を見て判断が遅れたこと。


 水車小屋で捕らわれたこと。


 サヴィルが笑っていたこと。


 そして、今後は紙より現場を見ると誓ったこと。


 それらも記録された。


 ダンは、青紐の写しを見つめている。


「これを巡察小屋へ持っていくのは、俺の役目だな」


 レクスターが即座に言った。


「まだ歩けません」


「……分かっている」


「少なくとも二日は安静です」


「二日か」


「最低でも」


 ダンは苦笑した。


「厳しいな」


「命に関わります」


「皆、それを言う」


「重要なので」


 ダンは頷いた。


「なら、俺は動けるようになるまで証言を固める。ロウにも書かせる」


「お願いします」


 ダンはアレックスを見る。


「サヴィルの移送は?」


 石蔵の空気が、少し重くなった。


 避けて通れない話だった。


 サヴィルは今も集会倉庫で拘束されている。


 見張りは交代で立てている。


 黒い樽と同じ場所に置いておくのは危険だが、石蔵へ連れてくることもできない。


 村人たちの怒りは強い。


 当然だった。


 だが、サヴィルは重要な証人でもある。


 彼が話した名前。


 マルセ・リド。


 ベリオ・ザン。


 王都外郭管理局農地再編課。


 グレイ商会文書課。


 それらを繋げるためには、彼を生きたまま引き渡す必要がある。


 マーガレットは腕を組んだ。


「正直、石蔵に連れてきたくない」


「同感です」


 レクスターが言う。


「村人の安全と精神的負担を考えると、サヴィルは集会倉庫近くで隔離するべきです。ただし、黒い樽からは離したい」


「別の場所?」


 アレックスが問う。


 カイが地図を見る。


「集会倉庫の裏に、古い道具小屋がある。小さいけど、石蔵より近い。畑からは少し離れてる」


「汚染は?」


 レクスターが聞く。


「昨日見た時は、黒い草は少なかった」


「確認が必要です」


 アレックスは頷いた。


「道具小屋を確認して、使えそうならサヴィルを移す」


 マーガレットが言う。


「私も行く」


「頼む」


「カイは?」


 カイはすぐに顔を上げた。


「俺も――」


 言いかけて、止まった。


 石蔵の中を見る。


 父と母。


 村長。


 子どもたち。


 作業台の地図。


 北畑の木札。


 カイは拳を握り、それから言った。


「……俺は地図を仕上げる」


 マーガレットが目を丸くする。


「いいの?」


「サヴィルの顔見たら、腹立つし」


「うん」


「でも、今は地図がいるんだろ」


 レクスターが静かに頷いた。


「非常に重要です」


「じゃあ、俺はこっち」


 その声には、少し悔しさがあった。


 でも、逃げではない。


 自分の役割を選んだ声だった。


 トーマが担架の上で弱く笑った。


「……畑仕事より……向いてるかもな……」


「父ちゃん、うるさい」


「……褒めてる……」


「それ褒めてるのかよ」


 ミラが笑う。


「褒めてるわよ」


 カイは照れながら、地図へ向き直った。


「じゃあ、ちゃんと描く」


 アレックスはその背中を見て、胸が温かくなった。


 昨日まで、父を助けるために飛び出そうとしていた少年が、今は村を残す地図を選んでいる。


 成長という言葉では足りない。


 痛みの中で、自分の役割を見つけたのだ。


 それは誇らしいことだが、同時に少し切なかった。


 子どもがそんなふうに強くならなくてもよい世界であってほしい。


 だが今は、その強さに助けられている。


 アレックスは小さく息を吐いた。


「行こう」


 マーガレットがハルバードを持つ。


 レクスターも水の本を持って立ち上がった。


 マーガレットがすぐ睨む。


「レクスターも行くの?」


「道具小屋の汚染確認が必要です」


「終わったら休む?」


「はい」


「本当に?」


「本当に」


「約束多いね」


「必要に応じて増えています」


「じゃあ守って」


「守ります」


 三人は石蔵を出た。


 外は朝から昼へ変わりつつあった。


 北畑では、村人たちが境界の木札を確認している。


 旧水路の清水は、細く流れ続けていた。


 その音を背に、三人は集会倉庫の裏手へ向かう。


 道具小屋は、カイの言った通り集会倉庫の裏にあった。


 低い石造りの小屋。


 古い農具や縄、壊れた車輪などをしまっていた場所らしい。


 扉は木製で、少し歪んでいる。


 周囲の草はところどころ黒いが、濃度は集会倉庫より低い。


 レクスターが水糸で確認する。


「使えます。ただし入口付近の黒い草を除去し、床に乾燥灰を撒く必要があります」


「じゃあ掃除だね」


 マーガレットが言う。


「水は使わない」


「分かってる!」


 彼女は灰袋を持ってきて、入口付近に慎重に撒いた。


 アレックスは雷糸で黒根を剥がし、レクスターが汚染反応を確認する。


 作業はもう慣れ始めていた。


 慣れるほど何度もやりたくはない。


 それでも、身体が覚えている。


 焦らない。


 水を使わない。


 切らずに剥がす。


 灰で止める。


 木札を立てる。


 ハルダ村での戦い方だ。


 道具小屋の中を確認すると、床は乾いていた。


 壁は石。


 窓は小さい。


 拘束したサヴィルを置くには十分だった。


 ただし、見張りは必要だ。


 アレックスは頷いた。


「ここへ移そう」


「村人が手を出さないようにもしないとね」


 マーガレットが言う。


 その声には複雑なものがあった。


 彼女自身も、サヴィルを殴りたいと思っている。


 だからこそ、村人の怒りが分かる。


 レクスターは静かに言った。


「サヴィルは証人です。彼を失えば、王都への繋がりを示す証言の一部が失われます」


「分かってる」


 マーガレットは小さく答えた。


「分かってるけど、村の人たちからしたら、顔も見たくないよね」


「はい」


「だから、ここに隔離するんだね」


「はい」


 アレックスは集会倉庫の方を見た。


「連れてくる」


 サヴィルは、集会倉庫の壁際に座っていた。


 見張りのハンスとロイドが、少し離れて立っている。


 二人とも農具を持っているが、緊張していた。


 サヴィルはアレックスたちを見ると、疲れた笑みを浮かべた。


「移送か」


「道具小屋へ移す」


「待遇改善かな」


「黒い樽から離すだけだ」


「それはありがたい」


 マーガレットが低く言う。


「感謝する相手、間違えないで」


 サヴィルは彼女を見る。


「君は本当に感情が前に出るね」


「あなたは本当に反省がないね」


「反省は利益を生まない」


 その瞬間、マーガレットの足が半歩前へ出た。


 アレックスが腕で止める。


 マーガレットは歯を食いしばった。


「……分かってる」


 自分で言う。


「今は殴らない」


「賢明です」


 サヴィルが言う。


 マーガレットの目が鋭くなる。


「でも、いつか村の人たちにちゃんと謝らせるから」


「謝罪が何になる」


「何にもならないかもしれない」


 マーガレットは真っ直ぐ言った。


「でも、あなたが何をしたか、自分の口で言わせる」


 サヴィルは黙った。


 アレックスは縄を確認し、サヴィルを立たせた。


「歩け」


「乱暴だな」


「歩けるだけ感謝しろ」


 レクスターが淡々と言う。


「拘束は維持。手は前ではなく後ろ。黒い草へ触れないよう、こちらの指示に従ってください」


「従わなければ?」


「転倒し、汚染区域に接触する可能性があります」


「脅しか」


「注意喚起です」


 サヴィルは苦笑した。


「君たちは揃って面倒だ」


「よく言われます」


 レクスターが返した。


 道具小屋への移動は短い距離だったが、村人たちの視線が集まった。


 石蔵からも、北畑からも、何人かが見ている。


 怒り。


 憎しみ。


 恐怖。


 好奇心。


 さまざまな感情が混じっていた。


 カイも、石蔵の前から見ていた。


 彼は動かなかった。


 ただ、拳を握っている。


 サヴィルが一瞬、カイの方を見た。


 カイは目を逸らさなかった。


 マーガレットは、二人の間に立つように歩いた。


 サヴィルを守るためではなく、カイを守るために。


 怒りで飛び出さなくて済むように。


 道具小屋へ入ると、サヴィルは壁際に座らされた。


 縄は石柱に固定する。


 窓から逃げることはできない。


 扉の外には見張りを立てる。


 レクスターは最後に確認した。


「水分反応なし。黒根反応、弱。拘束状態、問題なし」


「まるで荷物だな」


 サヴィルが言う。


 アレックスは静かに返した。


「お前は人を資源と言った」


「……」


「荷物扱いされるのは嫌か」


 サヴィルは答えなかった。


 その沈黙が、初めて彼の中に何かを刺したように見えた。


 マーガレットはそれ以上何も言わなかった。


 ただ、扉の前に木札を立てた。


 “証人隔離中。許可なく入るな”


 字はレクスターが書いた。


 マーガレットはその下に、小さく絵を描いた。


 怒った顔のような印。


 レクスターが見て、少し眉をひそめる。


「これは?」


「入っちゃだめって分かりやすく」


「……効果はあるかもしれません」


「でしょ!」


 アレックスは思わず笑った。


 重い空気の中で、その小さな絵が妙に救いだった。


 石蔵へ戻ると、写し作りはさらに進んでいた。


 カイの地図は完成に近い。


 子どもたちの絵も並べられている。


 ミレ婆の証言、ガロンの証言、オルグの署名、ダンの巡察記録。


 紙は増えた。


 それらを一つずつ束ね、写しとして整える作業に入る。


 レクスターは疲れた顔で言った。


「写しは今日中に三束作ります」


 マーガレットが即座に言う。


「休憩を挟んで!」


「はい」


「本当に!」


「はい」


 カイが笑う。


「マーガ、レクスターの見張りみたい」


「見張りです!」


 レクスターが淡々と言う。


「有効な監視です」


「認めた!」


 石蔵にまた笑いが起こった。


 その笑いの中で、アレックスは白紐の写しを手に取った。


 自分たちが持っていく写し。


 グレイルの帳簿と共に、旅の荷物になるもの。


 紙の束は軽い。


 だが、意味は重い。


 ここにはハルダ村の声がある。


 黒い畑の音も、清水の流れも、白ヤギが水を拒んだことも、カイが父を呼んだことも、村長が自分の名を取り戻したことも。


 全部、未来へ向けて残された。


 アレックスはその束を見つめた。


「これを、必ず届ける」


 小さく呟いた。


 カイが聞いていた。


「どこへ?」


「まず、消されない場所へ」


「王都?」


「まだ早い」


「じゃあ?」


「グレイル。巡察。信頼できる領主。順番に」


 カイは少し考えた。


「じゃあ、ハルダの声が旅するんだ」


 その表現に、アレックスは目を瞬かせた。


 マーガレットがぱっと顔を明るくする。


「いいね、それ!」


「え?」


「ハルダの声が旅する!」


 レクスターも静かに頷いた。


「比喩として適切です」


「レクスターにも適切って言われた!」


 カイは少し赤くなった。


「別に、思っただけ」


 アレックスは白紐の写しを胸に抱いた。


「そうだな。ハルダの声を旅させよう」


 カイの目が揺れる。


「途中でなくすなよ」


「なくさない」


「濡らすなよ」


「濡らさない」


「敵に取られるなよ」


「取られない」


「約束」


「ああ」


 アレックスははっきりと言った。


「約束だ」


 カイは頷いた。


 その頷きには、別れの気配が少しだけ混ざっていた。


 まだすぐではない。


 けれど、旅人はいつか去る。


 グレイルでそうだったように。


 ハルダ村でも、そうなる。


 その事実を、カイも少しずつ受け入れようとしていた。


 夕方前、写しの一束目が完成した。


 青紐。


 巡察へ送る写し。


 ダンがそれを受け取り、深く頭を下げた。


「必ず届ける」


 レクスターが言う。


「あなたが動けるまでは、石蔵で保管します。焦って動かないように」


「分かっている」


 マーガレットが横から言う。


「本当に?」


「……本当に」


 ダンは苦笑した。


 二束目。


 黄紐。


 グレイルへ送る写し。


 これには、マーガレットが余白に小さな絵を描いた。


 北畑の木札。


 流れる水。


 そして、白ヤギさん。


 レクスターは最初、余白の使い方について何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。


 むしろ、小さく言った。


「ルミアへの説明には役立つかもしれません」


 マーガレットは嬉しそうに笑った。


「でしょ!」


 三束目。


 白紐。


 アレックスたちが持つ写し。


 これにはカイの地図の写しが入った。


 カイはそれを見て、少し不安そうに言った。


「本当にこれでいいの?」


「いい」


 アレックスが答える。


「ハルダ村がどこで傷ついて、どこを残そうとしているか分かる」


「……うん」


「大事な地図だ」


 カイは唇を噛み、何度も頷いた。


 最後に、原本。


 赤紐。


 これはハルダ村に残す。


 石蔵の奥、種袋の棚の隣に保管することになった。


 ミレ婆がそれを見て言った。


「種と一緒に、記録も残すんだね」


 レクスターが頷く。


「はい。どちらも未来に必要です」


 ミレ婆は静かに笑った。


「いいねえ」


 赤紐の束は、種袋の隣に置かれた。


 麦の種。


 豆の種。


 根菜の種。


 そして、証言の束。


 ハルダ村が未来へ残すもの。


 それらが同じ棚に並んだ時、石蔵の中に静かな空気が満ちた。


 誰も大きな声を出さなかった。


 ただ、見つめた。


 それは祈りに似ていた。


 アレックスは、その光景を胸に刻んだ。


 夜が近づく頃、北畑の清水はまだ流れていた。


 木札も倒れていない。


 黒い畑の音は、昨日よりさらに弱くなっている。


 完全な勝利ではない。


 だが、村は確かに踏みとどまった。


 サヴィルは道具小屋へ隔離された。


 黒い樽は封じられた。


 証拠は三方向へ分ける準備ができた。


 ハルダ村編は、終わりへ向かい始めている。


 けれど、別れの前にはまだやることがある。


 村の人々と、もう少し話すこと。


 カイに、旅立つことを告げること。


 サヴィルをどう運ぶか最終決定すること。


 そして、グレイルへ手紙を書くこと。


 マーガレットは石蔵の外で、黄紐の写しを見ながら言った。


「ルミアちゃん、分かるかな」


 レクスターが答える。


「絵がありますから」


「白ヤギさんもいるしね」


「白ヤギさんは本筋ではありません」


「でも大事!」


「……否定はしません」


 アレックスは笑った。


 カイも笑った。


 その笑いは、もう泣き声だけではなかった。


 ハルダ村の夜風が、石蔵の前を通る。


 黒い畑の向こうで、木札が揺れる。


 “残す畑”


 その文字は、夕闇の中でも消えなかった。


 アレックスは白紐の写しを見つめ、静かに思った。


 ハルダの声を旅させる。


 グレイルの名前と共に。


 王都へ続く闇へ届くように。


 そして、いつかこの村に戻る時、北畑に新しい芽が出ていることを願いながら。


 その夜、ハルダ村の石蔵には、種と記録が並んで眠った。

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