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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第79話 証言を残す村】


 ハルダ村の昼は、静かに忙しかった。


 黒い畑はまだ鳴っている。


 ぎし。


 ぎし。


 その音は、昨日より弱い。


 だが、消えたわけではない。


 耳を澄ませば、土の下で何かが身じろぎしているような音がする。


 村人たちは、その音に何度も肩を震わせた。


 それでも、手を止める者はいなかった。


 石蔵の前には、古い作業台が置かれている。


 そこに広げられているのは、南道の馬車から回収した書類だった。


 王都外郭管理局農地再編課の承認印。


 グレイ商会の契約書。


 ハルダ村の水路図。


 土壌改変剤の試験散布計画。


 そして、サヴィルからリゼットへ宛てられた封書。


 そのどれもが、ただの紙だった。


 薄く、破れやすく、水に濡れれば滲む。


 けれど、そこには村が壊された理由が書かれていた。


 誰かが、ハルダ村を“試験区域”と呼んだこと。


 誰かが、畑を“評価対象地”と呼んだこと。


 誰かが、水路を“拡散経路”として見ていたこと。


 そこに、カイの名前はない。


 トーマの名前もない。


 ミラの名前も、ミレ婆の名前も、村長オルグの名前もない。


 人の顔が消えた書類。


 だからこそ、村人たちはその上に、自分たちの声を重ねようとしていた。


 レクスターは作業台の前に座っていた。


 顔色はまだよくない。


 それでも、水の本を横に置き、書類を一枚ずつ確認している。


 筆記用の板には、写しを作るための紙が並べられていた。


 グレイルでやったことと同じだった。


 原本を一つだけにしない。


 証言を一人だけにしない。


 写しを複数作る。


 同じ内容を、別の手で残す。


 そうすれば、一つ消されても、別の場所で声が残る。


 レクスターはその仕組みを説明した。


 村人たちは最初、戸惑っていた。


 文字を書ける者は多くない。


 長い書類を写すなど、とても無理だと思ったのだろう。


 だが、レクスターは静かに言った。


「全員が全文を書く必要はありません」


 その声は、疲れているのに不思議と通った。


「見たことを残してください。誰が来たか。何を言ったか。どの井戸が苦くなったか。誰が倒れたか。どの畑が最初に黒くなったか。それで十分です」


 ガロンが低く聞いた。


「俺みたいに、字が汚くてもいいのか」


「読めれば」


「読めなかったら?」


「誰かに読み上げ、代筆してもらえばいい」


 ミレ婆が杖を鳴らした。


「なら、私が喋る。字はロイド、お前が書きな」


「俺かよ」


「手が空いてるだろ」


「震えるんだよ、まだ」


「震えてても書ける」


 ロイドは苦笑しながら紙を受け取った。


「分かったよ」


 ミレ婆は作業台の横に座ると、ゆっくり語り始めた。


「最初に変だと思ったのは、祠の草だよ。春の祭りで供えた花が、三日もしないうちに黒くなった。いつもなら枯れても茶色になる。黒くはならない」


 ロイドが書く。


 手が震え、字が少し歪む。


 それでも書く。


「次に、ヤギが水を飲まなくなった。あれはトーマの家のヤギだったね」


 トーマが担架の上から目を開ける。


「……ああ……白い方だ……いつも食い意地張ってるのに……桶に近づかなかった……」


 カイが横で聞いていた。


 父の言葉に、少しだけ顔を歪める。


 あの日のことを思い出したのだろう。


 ただの家畜の異変だと思っていた。


 けれど、今振り返れば、それが村を壊す始まりだった。


 レクスターは、ミレ婆の証言を書き写しながら言った。


「動物の反応は重要です」


 ミレ婆が頷く。


「そうかい」


「はい。人より早く異常を察知した可能性があります」


「なら、白ヤギのことも書いとくれ」


「書きます」


 マーガレットは少し離れたところで、子どもたちと木札を整理していた。


 だが、耳はこちらへ向いている。


「白ヤギ、えらいね」


 彼女がぽつりと言う。


 サムが木札を抱えながら聞く。


「ヤギも証言?」


「うーん、ヤギは喋れないけど、飲まなかったっていう証言?」


「ヤギ、偉い?」


「偉い!」


 サムは真剣な顔で頷いた。


「じゃあ、白ヤギも書く」


 カイが少し笑った。


「サム、ヤギの名前知らないだろ」


「白ヤギ」


「それ名前じゃない」


「じゃあ、白ヤギさん」


「さん付け」


 石蔵の前に小さな笑いが生まれた。


 ミレ婆も、少しだけ目を細める。


「いいじゃないか。白ヤギさんも村のものだよ」


 レクスターが真面目に頷いた。


「記録としては“トーマ家の白ヤギ”で十分です」


 マーガレットが笑う。


「レクスターらしい!」


「正確さは重要です」


 そのやり取りの中でも、作業は止まらない。


 ガロンは、自分がグレイ商会を受け入れた時のことを話した。


 商人が持ってきた言葉。


 “王都で承認された新しい土壌改良”


 “今年の収穫不安を解消する”


 “今なら試験協力として無償提供”


 “成功すれば村の価値が上がる”


 その言葉を、ガロンは恥じるように語った。


「聞いた時は、救いに聞こえたんだ」


 彼は木札を書く手を止めた。


「畑が弱ってた。雨が少なくて、豆も麦も育ちが悪かった。来年の種を残せるか、不安だった」


 誰も責めなかった。


 責めることは簡単だった。


 だが、彼の不安は村全体の不安でもあった。


 サヴィルはそこにつけ込んだ。


 それを、村人たちは今、痛いほど理解していた。


 村長オルグがかすれた声で言った。


「……わしは、止めた……」


「村長」


「だが……止めきれなかった……商会の書類に、王都の印があった……わしも、強く拒むのを迷った……」


 オルグは目を伏せる。


「王都の印が、本物に見えた。巡察も、それを見てすぐには動けなかった。わしは……村を守るはずの立場で……紙に負けた……」


 沈黙が落ちた。


 紙。


 たった一枚の承認書。


 それが村長の判断を鈍らせ、巡察を止め、商会を村へ入れた。


 紙は弱い。


 だが、時に人の足を止める。


 だから今、別の紙を作るのだ。


 人を消す紙ではなく、人を残す紙を。


 アレックスは静かに言った。


「だから、こちらも残しましょう」


 オルグが顔を上げる。


「村長が迷ったことも。王都の印があったことも。巡察が止まったことも。全部」


「……わしの失敗もか」


「はい」


「重いな」


「でも、次に同じ印を見た誰かが、止まらずに現場を見る理由になります」


 オルグは長く黙った。


 そして、頷いた。


「書いてくれ」


 レクスターが筆を取る。


「はい」


 巡察ダンも証言した。


 巡察小屋に届いた届出。


 王都外郭管理局の印。


 グレイ商会の説明。


 “現地村長の同意あり”という文言。


 実際には、村長は明確な同意をしていなかった。


 書類上では、村が承認したことになっていた。


 それを聞いた瞬間、オルグの顔色が変わった。


「……わしは署名していない」


 レクスターが書類を確認する。


「承認書に村長署名欄があります。ですが、これは……」


 彼は目を細めた。


「筆跡が違います」


 オルグが震える手を伸ばした。


 レクスターは書類を直接触らせず、少し離して見せる。


 そこには、オルグの名が書かれていた。


 しかし、本人の震えた筆跡とは違う。


 整いすぎた文字。


 誰かが代筆したもの。


 いや、偽造だ。


 オルグの唇が震えた。


「……わしの名を……」


 カイが拳を握る。


「名前まで勝手に使ったのかよ……」


 マーガレットの顔が怒りで染まる。


「最低」


 レクスターは冷静に、しかし声に硬さを含ませて言った。


「重要な証拠です。村長署名の偽造。王都印付き書類での虚偽申請。これで、単なる事故ではなくなります」


 アレックスは頷いた。


「サヴィルに確認する」


「はい」


 だが、その前にオルグが言った。


「……わしにも書かせてくれ」


「体力が」


 レクスターが止めようとする。


 オルグは首を横に振った。


「短くでいい。わしの名は、わしが書く」


 その言葉に、誰も止められなかった。


 レクスターは紙と筆を渡した。


 オルグの手は震えている。


 黒い筋もまだ薄く残っている。


 だが、彼は時間をかけて、自分の名前を書いた。


 オルグ。


 震えた文字。


 不格好な文字。


 それでも、本人の名前だった。


 書き終えた彼は、深く息を吐いた。


「これが、わしの字だ」


 レクスターは頷いた。


「偽造署名との比較証拠になります」


 マーガレットが小声で言った。


「それだけじゃないよ」


 レクスターが見る。


「村長さんの名前を、取り戻したんだよ」


 オルグの目が揺れた。


 アレックスも、胸の奥を打たれた。


 グレイルで、ルミアの名前を呼び戻した。


 ここでは、村長の名前が紙の上で奪われていた。


 名前を勝手に使われること。


 それは、存在を利用されることだった。


 オルグは震える手で、自分の書いた名前を見つめていた。


「……そうか」


 彼は小さく呟いた。


「わしの名は、まだここにあるか」


「あります」


 アレックスは言った。


「ここに」


 カイも頷く。


「村長は村長だよ」


 オルグは、涙を落とした。


 午後になると、証言作りはさらに広がった。


 子どもたちは、見たものを絵にした。


 サムは、黒い畑と白ヤギさんを描いた。


 ルダは、避難小屋の小さな灯りを描いた。


 カイは、村の地図を描き続けた。


 北畑の残せる場所。


 黒くなった豆畑。


 水車小屋。


 祠。


 集会倉庫。


 南道の梨の木。


 それぞれに印をつける。


 レクスターは、それを見ながら補足した。


「この地図は重要です」


 カイは少し照れた。


「下手だけど」


「実地情報が反映されています。価値があります」


「価値って言うとサヴィルみたいで嫌だな」


 レクスターは少し考えた。


「では、意味があります」


「それならいい」


 マーガレットが笑う。


「カイの地図、すごい意味ある!」


「大げさ」


「大げさじゃないよ」


 マーガレットは、カイの地図を覗き込んだ。


「この地図があったら、次に誰かが来た時、どこが危ないか分かる。どこが守れるか分かる。すごいよ」


 カイは唇を噛んだ。


「……じゃあ、ちゃんと描く」


「うん」


「父ちゃんの畑、間違えないように」


 トーマが横から言う。


「……間違えてたら直す……」


「うるさいな」


「……畑のことは……父ちゃんの方が詳しい……」


「分かってる」


 そのやり取りに、ミラが静かに笑った。


 石蔵の空気は、朝より少し穏やかになっていた。


 完全な安心ではない。


 黒い畑はまだある。


 サヴィルもいる。


 王都の影も濃い。


 それでも、人々は自分の声を紙に残し始めた。


 それだけで、怯え方が変わる。


 何も分からず震えるのではなく、分かっている恐怖と向き合う。


 それは痛い。


 でも、前へ進む痛みだった。


 アレックスは、作業台の端でグレイルの帳簿写しとハルダの書類を並べた。


 レクスターが横に座る。


「どう繋げる」


 アレックスが聞く。


 レクスターは筆を持ったまま答えた。


「まず、共通する名を探します。グレイ商会。リゼット。外郭管理局。薬剤輸送路。人買い関連の資金と農地再編事業の資金が同じ経路を通っている可能性があります」


「人と土地か」


「はい」


「グレイルでは人を番号にした。ハルダでは土地を数字にした」


「どちらも、名前を消す手法です」


 アレックスは黙った。


 名前を消す。


 それが、敵の共通点。


 レクスターは続ける。


「次に向かうべき場所が見えてきます」


「王都か」


「まだ早いです」


「早い?」


「証拠は増えましたが、直接王都へ向かえば潰される可能性が高い。まず、この証拠を複数箇所へ預ける必要があります。巡察小屋、信頼できる領主、グレイル、可能ならエイナ経由の連絡網」


「エイナか」


 アレックスはグレイルに残した彼女を思い出した。


 エイナは今、町でリクの記録と旧施療院の封鎖に関わっているはずだ。


 もしハルダの証拠を彼女に送れば、グレイル側の証言とも繋げられる。


 道は本当に繋がっていた。


「手紙を書く必要があるな」


「はい」


「マーガレットが絵を描くって言ってたな」


「エイナへの連絡に絵は不要です」


 マーガレットが遠くから反応する。


「必要!」


「なぜ」


「ルミアちゃんへの手紙にも絵描くから、エイナにも描く!」


「情報密度が」


「絵も情報!」


 レクスターは少しだけ沈黙した。


「……では、余白に」


「やった!」


 アレックスは笑った。


 こういう会話ができることが、今はありがたかった。


 夕方近く、サヴィルの再尋問が行われた。


 今度は村長オルグ、巡察ダン、アレックス、レクスター、マーガレット、そしてカイが立ち会った。


 カイは自分で望んだ。


 トーマとミラは心配したが、彼は言った。


「俺は地図を描いた。村のことを聞くなら、俺もいる」


 その言葉に、村長オルグが許可した。


「……村の者として、聞きなさい」


 カイは深く頷いた。


 サヴィルは拘束されたまま、倉庫の壁にもたれていた。


 黒い樽は封鎖され、周囲には灰が撒かれている。


 彼の顔には疲れが見え始めていた。


 最初の余裕は薄い。


 ただ、それでも目はまだ冷たい。


 レクスターが偽造署名の書類を見せた。


「この村長署名は偽造ですね」


 サヴィルは一瞥した。


「私は書いていない」


「誰が」


「書類担当が」


「名前は」


「知らない」


「嘘ですね」


 レクスターの声は淡々としていた。


 サヴィルは眉を上げる。


「なぜそう言える」


「あなたは調整役です。村長同意の有無は計画遂行の要です。偽造署名の担当者を知らないはずがない」


 サヴィルは少し黙った。


 マーガレットが低く言う。


「また人の名前消すの?」


 サヴィルの視線が彼女へ向く。


「何?」


「その書類担当にも名前あるでしょ。都合悪いから知らないって言ってるだけ」


 カイも言った。


「名前を言えよ」


 サヴィルは、二人を見比べた。


 アレックスは黙っている。


 村長オルグも、震える手で自分の名前を書いた紙を握っている。


 沈黙が長く続いた。


 やがて、サヴィルは小さく息を吐いた。


「……マルセ・リド」


 レクスターが書く。


「所属は」


「グレイ商会文書課。王都外郭管理局との窓口でもある」


 レクスターの筆が走る。


「王都側の担当は」


「そこまでは――」


 カイが遮った。


「また知らない?」


 サヴィルはカイを見る。


 少年の目は、怒りで揺れている。


 だが、逃げていない。


「……農地再編課の副監査官、ベリオ・ザン」


 レクスターが書く。


 アレックスはその名を胸に刻んだ。


 ベリオ・ザン。


 王都外郭管理局農地再編課。


 グレイ商会との窓口。


 ハルダ村を試験区域にした者。


 新しい名前が出た。


 それは、次の闇へ続く道標だった。


 村長オルグが震える声で言った。


「……その者が、わしの名を使わせたのか」


 サヴィルは肩をすくめる。


「承認処理を急がせたのは、外郭管理局側だ」


「理由は」


 アレックスが問う。


「辺境農地再編の成果が欲しかったのだろう。王都では数字が必要になる」


「数字……」


 オルグが目を閉じる。


「わしらの畑が……数字か……」


 カイが低く言う。


「俺たちは数字じゃない」


 サヴィルは何も言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。


 尋問後、サヴィルは再び監視下に置かれた。


 今後、彼をどこへ引き渡すかが問題になる。


 辺境巡察へ渡せば、途中で消される可能性がある。


 王都へ直接送れば、関係者に握り潰される危険がある。


 だから、証拠の写しを先に分散させる必要がある。


 レクスターは、その場で方針をまとめた。


「一通は巡察ダンを通じて巡察小屋へ。ただし、巡察小屋の隊長の信頼確認が必要」


 ダンが頷く。


「ああ」


「一通はグレイルへ。エイナと組合長、老女へ届ける」


 マーガレットが小さく言う。


「ルミアちゃんにも手紙」


「別便で」


「別便!」


「はい」


「じゃあ絵描く」


「お願いします」


「やった!」


 レクスターは続ける。


「一通はアレックスが保持し、次の信頼できる領へ届ける。王都へ行く前に、証拠を消せない状態にする必要があります」


 アレックスは頷いた。


「分かった」


 カイが聞いた。


「アレックスたち、また行くんだよな」


 その問いに、空気が少し止まった。


 まだハルダ村の作業は終わっていない。


 だが、いつか旅立つ。


 それは、グレイルでも同じだった。


 マーガレットの顔に、少し寂しさが浮かぶ。


 アレックスは正直に答えた。


「ああ。すぐではない。でも、いつかは」


 カイは木札を見た。


 そして、北畑の方を見た。


「……分かってる」


「カイ」


「ここは、俺たちが戻すんだよな」


「ああ」


「じゃあ、アレックスたちは次に行くんだ」


 その声は、寂しさを隠しきれていなかった。


 けれど、以前のように引き止める声ではない。


 自分の場所を見つけた者の声だった。


 マーガレットが涙ぐむ。


「カイ……」


「泣くなよ」


「泣いてない!」


「泣いてる」


「泣いてる!」


 カイは少し笑った。


「マーガはすぐ泣く」


「そう!」


「認めるんだ」


「今日は認める!」


 周囲に笑いが広がった。


 黒い畑のある村で、それでも笑いがある。


 夕方、北畑の境界作業が一区切りついた。


 木札が並び、灰の線が引かれ、旧水路の清水が小さく流れている。


 村人たちは、その前に集まった。


 誰かが祈るわけでもない。


 祭りでもない。


 ただ、見ていた。


 残された畑の境界。


 失ったものと、残ったものの線。


 カイは、その一番前に立っていた。


 トーマとミラは石蔵から出られないため、その場にはいない。


 だが、カイは振り返り、石蔵の方へ大きく手を振った。


 遠くでミラが布越しに手を振り返す。


 トーマも、少しだけ手を上げた。


 カイは前を向き直る。


「ここから戻す」


 小さな声。


 でも、周囲に聞こえた。


 ガロンが頷く。


「戻す」


 ミレ婆も。


「戻すよ」


 村長オルグの代わりに、ロイドが木札を一本追加で立てた。


 そこには、こう書かれていた。


 “残す畑”


 その言葉を見て、マーガレットが泣いた。


 今度は誰も突っ込まなかった。


 レクスターも、少しだけ目を伏せた。


 アレックスは、清水の流れを見る。


 夕方の光を受けて、水が細く光っている。


 雷の光ではない。


 剣の光でもない。


 畑を生かすための、水の光。


 それは静かで、弱くて、でも確かだった。


 ハルダ村の一日は、また終わりへ向かっている。


 だが、昨日とは違う。


 証言が残った。


 地図ができた。


 木札が立った。


 水路が変わった。


 サヴィルから、新しい名も聞き出した。


 ベリオ・ザン。


 王都外郭管理局農地再編課。


 旅の先に待つ闇は濃くなった。


 けれど、ハルダ村の灯りもまた、昨日より強くなっていた。


 アレックスは静かに思った。


 この村は、もうただの被害者ではない。


 証言を残す村になった。


 自分の名前を、自分の土地を、自分の水を取り戻そうとする村になった。


 そして、その声はきっと、道を越えて届く。


 グレイルへ。


 次の領へ。


 いつか王都へ。


 黒い畑の境界に立つ木札が、夕風に小さく揺れた。


 そこには、震える字でこう書かれている。


 “残す畑”


 その文字は、村人たちの決意そのものだった。

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