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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第78話 南道の馬車】


 南道へ向かう道は、村の中でもっとも静かだった。


 人の声が届かない。


 石蔵の小さなざわめきも、北畑で木札を打つ音も、旧水路を流れる清水の音も、少しずつ背後へ遠ざかっていく。


 代わりに聞こえてくるのは、黒い畑の軋みだった。


 ぎし。


 ぎし。


 昨日より弱い。


 水車を止め、樽を封じ、旧水路へ清水を通したことで、村全体を覆うような不気味さは薄れている。


 だが、南道へ近づくにつれ、その音はまた濃くなった。


 ここはまだ、汚染が深い。


 水車小屋から集会倉庫へ向かう流れ。


 そして、サヴィルが馬車を隠したという梨の木の近く。


 そこには、まだ何かが残っている。


 アレックスは先頭を歩いていた。


 雷糸を細く伸ばし、地面の下を探る。


 黒い根がある場所。


 汚染水が染みている場所。


 踏むと反応しそうな草。


 それらを一つずつ避けながら進む。


 焦らない。


 走らない。


 踏み込まない。


 ハルダ村で覚えた歩き方だ。


 マーガレットは少し後ろを歩いている。


 ハルバードを持つ手に力は入っているが、振り回す気配はない。


 彼女も足元を見ていた。


 大きな武器を持ち、大きな力を持つ彼女が、今は一歩ずつ土を選んで歩いている。


 その姿は、どこかこの村の作業そのものに似ていた。


 壊すより、残すための力。


 レクスターは中央にいた。


 水の本を開き、周囲の水分反応を追っている。


 顔色はまだ白い。


 だが、先ほどより呼吸は落ち着いている。


 マーガレットに半ば強制的に休まされた効果は確かにあった。


「ここから先、汚染濃度が上がります」


 レクスターが低く言った。


 マーガレットがすぐ聞き返す。


「どのくらい?」


「集会倉庫周辺ほどではありませんが、旧水路側より高い。水分を含んだ土を踏まないでください」


「水っぽい土、だめ」


「はい」


「黒い草もだめ」


「はい」


「根っこが動いたら?」


「止まる」


「よし」


 マーガレットは自分で確認するように頷いた。


 アレックスは少し笑った。


「レクトみたいだな」


「えっ、私が?」


「確認が」


「いいこと?」


「いいことだ」


 レクスターも言う。


「良い傾向です」


「褒められた!」


 マーガレットは少し嬉しそうにしたが、すぐに表情を戻した。


 南道は、笑いながら歩けるほど安全ではない。


 道の両側には、黒く染まった草が増えている。


 北畑の境界で見た黒とは違う。


 こちらは、もっと濃い。


 草の葉脈が黒いだけではない。


 茎の内部まで黒く、先端には青白い粉が付いている。


 風が吹くと、その粉がわずかに舞う。


 レクスターが即座に布を上げた。


「口元を覆ってください」


「粉?」


 マーガレットが布を巻き直す。


「はい。吸入は避けるべきです」


 アレックスも口元の布を締めた。


 黒い粉。


 水車小屋で浴びかけたものと似ている。


 あれを吸った時、頭が重くなった。


 ここでは長く留まれない。


「馬車まであとどれくらいだ」


 アレックスが聞く。


 レクスターは地図を見た。


「サヴィルの証言が正しければ、南道の古い梨の木まであと少しです」


「証言が正しければ、ね」


 マーガレットが警戒を込めて言う。


「罠があるかもしれません」


 レクスターが答える。


「本人も否定しませんでした」


「堂々と嫌な人だね」


「はい」


 アレックスは南道の先を見た。


 村の外へ続く道。


 かつては荷車が通り、野菜や麦を運んだ道なのだろう。


 今は轍の半分が黒い草に覆われている。


 道端の柵は倒れ、土には青白い染みが点々と残っていた。


 その奥に、古い梨の木が見えた。


 実はなっていない。


 枝は半分枯れ、葉の一部が黒く染まっている。


 その根元に、馬車があった。


 灰色の幌。


 車輪の一部は泥に沈んでいる。


 馬はいない。


 おそらく逃がしたか、別の場所へ移されたのだろう。


 馬車の側面には、グレイ商会の印。


 祠の金属板に刻まれていたものと同じ印。


 秤と麦を組み合わせたような紋様。


 アレックスは足を止めた。


「見えた」


 マーガレットが低く言う。


「普通の馬車に見える」


「普通に見せているだけかもしれません」


 レクスターは水の本を開いたまま、馬車周辺へ水糸を伸ばした。


 だが、途中で止める。


「地面に反応があります」


「根?」


「根と、金属線」


 アレックスの目が細くなる。


「罠か」


「おそらく」


 マーガレットがハルバードを握り直す。


「近づいたら、何か出る?」


「可能性があります。馬車の下と車輪周囲に線がある。書類箱へ触れると作動する仕組みかもしれません」


「サヴィル……!」


 マーガレットの声が低くなる。


「どこまで性格悪いの」


「彼は自分で罠がないとは言いませんでしたから」


 レクスターの声も冷たい。


「予想範囲です」


 アレックスは雷糸を伸ばした。


 金属線を探る。


 土の下。


 車輪の軸。


 馬車の座席下。


 小さな鉄の留め具。


 確かに繋がっている。


 もし鍵を使って書類箱を開けると、線が引かれ、馬車の床下に仕込まれた小瓶が割れる。


 おそらく黒い薬液。


 書類を汚染し、同時に周辺の根を活性化させる。


「書類ごと消す罠だな」


 アレックスが言う。


「はい」


 レクスターが頷く。


「加えて、回収者を巻き込む意図もあるでしょう」


「解除できる?」


「できます。ただし、複数箇所同時に固定する必要があります」


「また同時か」


 マーガレットがため息をつく。


「最近それ多い」


「罠とはそういうものです」


 レクスターが言う。


「一箇所を外すと別が作動する」


「嫌い」


「同感です」


 アレックスは馬車を見つめた。


 書類箱は座席下。


 鍵はサヴィルから預かった。


 だが、普通に開ければ罠が動く。


「役割を決めよう」


 アレックスが言う。


 レクスターはすぐに地面へ簡易図を描いた。


「馬車下の小瓶が三つ。左車輪の金属線、座席下の留め具、幌の内側の重り。この三つが連動しています」


 マーガレットが眉を寄せる。


「重り?」


「幌をめくると落ちる仕組みです。落下で小瓶が割れる」


「めくらない!」


「はい」


 レクスターは続ける。


「アレックスは雷糸で金属線を固定。私は水糸で小瓶を包み、衝撃を殺します。マーガレットは馬車本体が動かないよう、車輪を押さえてください。ただし、強く押しすぎない」


「半分?」


「四分の一」


「四分の一!?」


「はい」


「難しい!」


「必要です」


「やる!」


 アレックスは静かに息を吸った。


 こういう作業は、戦闘より緊張する。


 敵が飛びかかってくるなら、反応できる。


 だが、罠は沈黙している。


 こちらの一手を待っている。


 間違えれば、書類も人も汚染される。


「行くぞ」


「はい」


「うん」


 三人は慎重に配置についた。


 マーガレットが馬車の左車輪へ近づく。


 足元の黒い草を避け、乾いた土の上だけを踏む。


 ハルバードを地面に立て、柄を車輪へ当てる。


「押さえる」


「まだ力を入れないでください」


「まだ!」


 レクスターは水糸を小瓶の位置へ伸ばす。


 直接触れると反応するため、周囲の水分だけを薄く包む。


 水で包むのではなく、空気中の湿りを集めた膜。


 彼の額に汗が浮かぶ。


「三つ、包みました」


 アレックスは雷糸を金属線へ絡めた。


 線は細い。


 だが、張力がかかっている。


 強く引けば切れる。


 切れれば罠が発動するかもしれない。


 固定しながら、座席下の鍵穴へ別の雷糸を伸ばす。


「鍵を使わず開ける」


 レクスターが言う。


「はい。鍵を回す動作に連動しています。鍵は使わない方が安全」


「サヴィルめ……」


 マーガレットが低く唸る。


「鍵まで罠なんだ」


 アレックスは雷糸で鍵穴内部を探った。


 錠の構造を読む。


 金属の舌。


 小さなバネ。


 罠の線。


 開錠だけを行い、線を動かさない。


 細い作業だ。


 雷の力で金属を壊すのは簡単だ。


 だが、壊せば罠が動く。


 また壊さない戦い。


「……開く」


 かちり、と小さな音がした。


 同時に、馬車下の小瓶が微かに震える。


 レクスターが歯を食いしばる。


「震動あり。抑えています」


「マーガレット」


「押さえてる!」


「強すぎない」


「四分の一!」


「三分の一になっています」


「分かるの!?」


「分かります」


「戻す!」


 マーガレットが必死に力を調整する。


 車輪の軋みが止まる。


 アレックスは座席下の箱を少しずつ引き出した。


 重い。


 中に書類が詰まっている。


 箱の底にも線がある。


 それを雷糸で固定しながら、ゆっくり。


 ゆっくり。


 馬車の外へ。


 あと少し。


 その時、梨の木の根元が動いた。


 黒い根が、地面の下から伸びる。


 馬車の罠ではない。


 周囲の汚染根が、三人の作業に反応したのだ。


 狙いはレクスター。


 水糸を使っている彼へ、黒根が伸びる。


「レクト!」


 アレックスが叫ぶ。


 だが、雷糸は箱と線を固定していて動かせない。


 マーガレットも車輪を押さえている。


 離せば馬車が動く。


 黒根がレクスターの足元へ迫る。


 レクスターは水糸を小瓶から離せない。


 離せば罠が作動する。


 彼は動かなかった。


「作業継続!」


「レクト!」


「継続してください!」


 黒根が足首に届く寸前。


 マーガレットがハルバードから片手を離した。


 だが車輪は押さえたまま。


 片手だけで武器の柄を回し、石突を地面へ滑らせる。


 黒根を直接切らず、進行方向をずらす。


 根がレクスターの足元をかすめ、乾いた灰の上へ乗る。


 じゅ、と音がした。


 根が止まる。


「よし!」


 マーガレットが叫ぶ。


「車輪!」


 レクスターの声。


「分かってる!」


 マーガレットは再び両手で車輪を押さえる。


 馬車はわずかに揺れたが、罠はまだ作動していない。


 アレックスは最後の線を固定し、書類箱を完全に引き出した。


「出た!」


 レクスターが水糸を維持したまま言う。


「箱の下を確認!」


 アレックスが箱の底を見る。


 小さな紙片。


 そして、封蝋。


 王都外郭管理局の印。


 三本麦と秤。


 ダンの証言と一致する。


「印がある」


 レクスターの目が鋭くなる。


「回収しましょう。箱を乾いた布へ」


「マーガレット、あと少し」


「持つ!」


 アレックスは箱を布の上へ置いた。


 置いた瞬間、罠の線が緩む。


 レクスターが小瓶を水膜ごと包み込み、馬車下から引き出した。


 青白い液体入りの小瓶が三つ。


 どれも割れていない。


「罠解除」


 レクスターが息を吐く。


 マーガレットも車輪から手を離し、その場に座り込みそうになった。


「つ、疲れた……」


「助かった」


 アレックスが言う。


「さっきの根、よく止めたな」


「四分の一の力で!」


「見事でした」


 レクスターが言った。


 マーガレットの顔がぱっと明るくなる。


「ちゃんと褒めた!?」


「ちゃんと褒めました」


「やった!」


 だが、すぐに彼女は書類箱を見る。


「これが証拠?」


「ああ」


 アレックスは慎重に箱を開いた。


 中には、書類が束で入っていた。


 契約書。


 地図。


 水路図。


 薬剤輸送記録。


 村ごとの収穫量比較。


 そして、承認書。


 そこには、はっきりと書かれていた。


 “辺境農地再編試験区域”


 “ハルダ村水路利用許可”


 “土壌改変剤試験散布”


 署名欄には、グレイ商会の名。


 そして王都外郭管理局農地再編課の印。


 レクスターの手が止まる。


「……本物です」


 アレックスは書類を見つめた。


 紙の上では、すべてが整っている。


 村の名前。


 畑の面積。


 水路の位置。


 予想収穫量。


 再編後の土地評価額。


 人の名前は、ほとんどない。


 カイも。


 トーマも。


 ミラも。


 ミレ婆も。


 誰もいない。


 村が数字になっている。


 畑が面積になっている。


 水が流量になっている。


 生活が評価額になっている。


 アレックスの胸に、冷たい怒りが広がった。


「これが、サヴィルの言ってた書類か」


 マーガレットが横から覗き込む。


 彼女は文字を全部読めるわけではないが、地図と数字の列を見ただけで顔をしかめた。


「人の名前、ないね」


「ああ」


「村なのに」


「ああ」


「ひどい」


 レクスターが静かに言った。


「これが仕組みです。人を記録から消し、土地と水路だけを扱う。そうすれば、被害は“調整”や“試験誤差”になります」


 マーガレットが拳を握る。


「そんなの、だめだよ」


「はい」


 アレックスは書類を丁寧に束ねた。


 怒りで握り潰したい。


 だが、これは証拠だ。


 壊してはいけない。


 グレイルの帳簿と同じ。


 紙は、時に刃より重い。


 その時、馬車の奥にもう一つ小さな箱があることに気づいた。


 座席の裏。


 鍵はない。


 アレックスは雷糸で開けた。


 中には、数通の封書が入っていた。


 一通の宛名に、見覚えのある名があった。


 “リゼット女史へ”


 アレックスの背筋が冷えた。


「リゼット……」


 マーガレットも息を呑む。


「やっぱり繋がってる」


 レクスターが封書を確認する。


「未送付の写し、あるいは受領控えでしょう。開封しますか」


「証拠として必要だ」


 アレックスは頷いた。


 封を切る。


 中には短い文があった。


 “旧施療院式水路拡散理論、有効。人体支配反応とは別に、植物根系への命令転写が確認された。名称反応については不安定要素あり。詳細な抑制方法があれば共有願う”


 署名はサヴィル。


 送付先はリゼット。


 アレックスは文を読み終え、しばらく動けなかった。


 名称反応。


 人の名前が命令を揺らす現象。


 彼らは、それを不安定要素として見ていた。


 抑制しようとしていた。


 名前を、邪魔なものとして。


「許せない」


 マーガレットの声は震えていた。


「名前を呼んだら戻れるのに、それを邪魔って……」


 レクスターも顔を強張らせている。


「リゼットとサヴィルは、情報を共有していた。直接の同僚ではなくても、技術的交流があった」


「つまり、リゼットの逃亡先にも繋がるかもしれない」


 アレックスが言う。


「はい」


 レクスターは書類を束ねる。


「これは非常に重要です。グレイル、ハルダ、グレイ商会、リゼット、王都外郭管理局。全てを繋ぐ証拠になります」


 アレックスは深く息を吸った。


 背中にあるグレイルの帳簿。


 手元にあるハルダの書類。


 封書に残るリゼットの名。


 旅の道が、また重くなる。


 だが、今はまだここだ。


 この書類を村へ持ち帰り、ダンと村長に確認させる。


 サヴィルの証言と合わせる。


 そして、ハルダ村を守る手を続ける。


 証拠を得たから終わりではない。


 村はまだ戻っている途中だ。


「戻ろう」


 アレックスが言った。


 マーガレットが頷く。


「うん」


 レクスターが書類箱を防水布に包む。


「慎重に運びます。絶対に濡らさないでください」


「私が持つ?」


 マーガレットが聞く。


 レクスターは少し考えた。


「……今回は、アレックスが」


「信用度!」


「あなたは戦闘時に感情で抱きしめる可能性があります」


「まだ言う!」


「重要書類です」


「分かってるけど!」


 アレックスは苦笑しながら箱を背負い直した。


 グレイルの帳簿に、ハルダの書類。


 また荷物が増えた。


 だが、この重さは必要な重さだ。


 帰り道、南道の黒い草は相変わらず不気味だった。


 だが、アレックスたちの足取りは行きより少しだけ確かだった。


 証拠を得た。


 罠を解除した。


 リゼットとの繋がりも見えた。


 危険は増えた。


 でも、見えなかったものが見えた。


 それは前進だった。


 村の北側へ戻ると、カイが木札を立てていた。


 彼は三人に気づくと、すぐに駆け寄りそうになった。


 だが、途中で止まる。


 歩いてきた。


「戻った!」


 カイが言う。


「ああ」


「約束、守った」


「守った」


 カイはほっと息を吐いた。


 それから、書類箱を見る。


「それ?」


「ああ。証拠だ」


「王都の?」


「王都の印もある。グレイ商会の書類も。リゼットへの手紙もあった」


 カイの顔が強張る。


「リゼットって、グレイルの」


「ああ」


「繋がってたんだ」


「そうだ」


 カイは黒い畑を見る。


 そして、北畑の木札を見る。


「じゃあ、もっと遠くまで行かないといけないんだね」


 アレックスは少し黙った。


「いつかは」


「今は?」


「今はハルダを戻す」


 カイは、その答えを聞いて少し笑った。


「うん」


 マーガレットが言う。


「北畑隊長、作業は?」


「進んでる!」


「隊長って呼ばれてるの受け入れた!」


「ちょっとだけだって!」


 カイは顔を赤くした。


 レクスターが地図を見る。


「境界線、かなり進みましたね」


「うん。ガロンのおっちゃんが木札いっぱい書いた。サムも運んだ」


「優秀です」


 カイの顔が少し誇らしそうになる。


「だろ」


 その時、石蔵からミレ婆の声が聞こえた。


「戻ったかい!」


 アレックスは書類箱を抱え直し、石蔵へ向かった。


 村人たちが集まってくる。


 疲れた顔。


 泥だらけの手。


 灰で白くなった服。


 それでも、目には昨日より少し力がある。


 アレックスは石蔵の前に立った。


「証拠を回収しました」


 ざわめき。


「王都の承認印がある書類。グレイ商会の契約書。水路図。そして、リゼットへの手紙」


 村人たちの顔が変わる。


 ミレ婆が杖を握る。


 ガロンが歯を食いしばる。


 ダンが顔を上げる。


 村長オルグが担架の上で目を開く。


「……そうか」


 オルグはかすれた声で言った。


「なら……この村が受けたことは……ただの事故ではないと……」


「はい」


 レクスターが答える。


「記録できます。証言できます」


 ミレ婆が低く言う。


「なら、残そう」


 村人たちが彼女を見る。


「黒い畑も、水車も、樽も、書類も。全部残すんだよ。忘れたら、またやられる」


 カイが頷いた。


「地図にも描く」


 ガロンも言う。


「木札にも書く。何をされたか、村の記録に残す」


 ダンが言った。


「巡察記録にも残す。握り潰されないよう、写しを作る」


 レクスターが頷く。


「写しは複数必要です。グレイルと同じです」


 アレックスはその言葉に、胸の中でグレイルを思い出した。


 名前を残す。


 証言を残す。


 帳簿を残す。


 ハルダでも同じだ。


 奪われたものを取り返す最初の手段は、残すことなのかもしれない。


 サヴィルが消したかったもの。


 リゼットが邪魔だと言ったもの。


 名前。


 記録。


 声。


 それらを残す。


 マーガレットが拳を握る。


「じゃあ、ハルダの記録を作ろう」


「うん」


 カイが頷いた。


「俺も描く」


 トーマが弱く笑う。


「……地図、下手でも……描け……」


「下手じゃない!」


「……見てから言う……」


「父ちゃん!」


 石蔵に笑いが起きた。


 その笑いは、黒い畑の音を少しだけ遠ざけた。


 アレックスは書類箱を石蔵の中央に置いた。


 グレイルの帳簿。


 ハルダの書類。


 二つの証拠が、旅の荷物になった。


 重い。


 けれど、背負う意味がある。


 ハルダ村はまだ治療の途中だ。


 だが、もうただ壊された村ではない。


 自分たちの手で水路を変え、畑に境界を引き、証拠を残す村になり始めている。


 アレックスは、北畑の方を見る。


 清水が流れている。


 木札が立っている。


 カイがそこへ戻ろうとしている。


 その背中に、朝よりさらに小さな頼もしさがあった。


 南道の馬車から持ち帰った書類は、王都へ続く重い扉を開く鍵になるだろう。


 だが、今はまだ、ハルダ村の一日が続いている。


 証拠を得た昼。


 村は、記録を作るためにまた手を動かし始めた。

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