【第77話 残された畑の境界】
清水が旧水路を流れ始めても、ハルダ村がすぐに明るくなったわけではなかった。
黒い畑は、まだそこにある。
水車小屋の軋んだ影も。
祠の周囲に残る黒い草も。
集会倉庫の奥に封じた黒い樽も。
そして、村人たちの胸に沈んだ恐怖も。
全部、消えたわけではない。
けれど、音が変わっていた。
ぎし、ぎし、と鳴る黒い畑の音に混じって、さらさらと細く水の流れる音が聞こえる。
旧水路を通り、北畑へ向かう清い水。
昨日まで誰も思い出していなかった古い水路が、朝の光の中で息を吹き返していた。
それは小さな音だった。
けれど、村人たちには大きすぎるほどの音だった。
カイは、北畑の端に立っていた。
手には木札。
その木札には、ガロンが震える字で書いた言葉がある。
“ここより南、黒土注意”
“水をかけるな”
“触れるな”
字は少し歪んでいる。
でも、読める。
カイはその木札を握ったまま、しばらく動けずにいた。
目の前には、黒くなった畑と、まだ色を残した畑の境界がある。
南側の麦は黒い筋を帯びてしおれ、土も湿ったように黒ずんでいる。
北側の畑は弱っているが、まだ土の色が残っていた。
そこへ、旧水路から流れた水が少しずつ届いている。
水が土に吸われる。
土が黒くならない。
そのことを、カイは何度も確認していた。
「ここは……残せる」
小さく呟く。
誰に向けた言葉でもない。
けれど、隣にいたマーガレットが聞いていた。
「うん」
彼女は泥だらけの手袋を見下ろしながら、力強く頷いた。
「ここは残そう」
「全部じゃない」
「うん」
「父ちゃんの畑、もっと南まである」
「うん」
「豆畑は、たぶんだめだ」
「……うん」
マーガレットの声が少し沈む。
カイは木札を握りしめた。
「でも、ここは残せる」
「うん」
「だったら、ここから」
その声は、震えていた。
泣くのを我慢している声だった。
でも、昨日までのように怒りだけではない。
失ったものを見て、それでも残ったものを守ろうとする声だった。
マーガレットは少しだけ黙った。
それから、ハルバードの石突で地面に小さな穴を開けた。
「木札、立てよう」
カイは頷いた。
木札を差す。
ぐっと押す。
だが、土が固くて入りきらない。
マーガレットが手伝おうとした時、カイは首を横に振った。
「俺がやる」
「うん」
マーガレットは手を引いた。
カイは両手で木札を押し込む。
土が抵抗する。
指が痛む。
それでも押す。
木札が少しずつ立っていく。
最後に、ぐっと深く刺さった。
カイは息を吐いた。
たった一本の木札。
でも、それは境界だった。
見捨てるための境界ではない。
残すための境界。
黒いものを広げないための境界。
村がもう一度立つための、最初の線だった。
「立った」
カイが言う。
「立ったね」
マーガレットが答える。
「まだいっぱい立てる」
「うん」
「手伝って」
「もちろん!」
マーガレットは明るく言ったが、声は少し涙を含んでいた。
少し離れた場所では、村人たちも同じように木札を立てていた。
ガロンはまだ足元が不安定だったため、長い距離は歩けない。
それでも、北畑の手前に座り、木札へ文字を書き続けている。
ロイドとハンスが、その木札を運ぶ。
ミレ婆は石蔵のそばで、使える灰と乾燥土を分けていた。
子どもたちは、軽い木札だけを運んでいる。
レクスターが厳しく決めた役割だった。
大人が汚染区域へ近づきすぎないよう見張り、子どもは安全な範囲だけで動く。
それでも、子どもたちは自分たちも村を守っているのだと、少し誇らしそうだった。
サムが木札を抱え、ルダと一緒に歩いてくる。
「カイ兄!」
「走るな!」
カイが先に叫んだ。
サムが足を止める。
「走ってない!」
「早歩きだった」
「それはいい?」
「……たぶん」
マーガレットが笑う。
「早歩きも、足元見ながらならいいよ」
「じゃあ、見た!」
サムは足元を大げさに見ながら歩いてきた。
その様子に、ルダが笑う。
カイも少し笑った。
その笑いの先に、黒い畑がある。
けれど、笑いが畑に負けていない。
アレックスは、旧水路の上流側でその光景を見ていた。
手には雷の刃。
水路の周囲に残っている細い黒根を剥がしながら、村人たちの動きを見守っている。
戦いではない。
だが、気を抜けない。
黒根は弱まっているものの、時折水路へ向かって伸びようとする。
水を求めているのか。
命令の残響なのか。
分からない。
ただ、触れればまた広がる。
だからアレックスは、一本ずつ雷糸で剥がし、レクスターが指定した乾燥灰の上へ落とした。
根は灰に触れると、じゅ、と小さな音を立てて動きを止める。
「水に触れさせるな」
レクスターの声が背後から飛ぶ。
「分かってる」
「右側、もう一本」
「見えてる」
「左の石組みにも」
「それは今」
「強すぎない」
「分かってる」
アレックスは少しだけ振り返った。
レクスターは地図と水の本を抱えて立っている。
休息後とはいえ、まだ顔色は悪い。
それでも、指示は正確だった。
マーガレットに見つかれば、また休めと言われるだろう。
だが今は、彼の目が必要だった。
「レクト」
「何ですか」
「終わったら休めよ」
「はい」
「本当に」
「本当に」
「マーガレットに言われる前に」
「……努力します」
「不安だな」
「自覚しています」
アレックスは苦笑した。
その時、石蔵の方からダンが歩いてきた。
巡察の男だ。
まだ足を引きずっている。
肩には布が巻かれ、膝下にも固定がある。
ロウはまだ歩けないため、石蔵に残っている。
ダンは無理をしているように見えた。
レクスターがすぐ眉を寄せる。
「歩行許可は出していません」
ダンは苦笑した。
「少しだけだ」
「その言葉は信用できません」
「俺にも言うのか」
「患者全員に言います」
アレックスが近づく。
「どうしました」
ダンは北畑の木札を見た。
それから、旧水路を流れる清水を見た。
「水が戻ったと聞いた」
「戻り始めただけです」
レクスターが訂正する。
「それでもだ」
ダンは静かに言った。
「見たかった」
彼の目には、痛みと後悔があった。
巡察として来た。
村を助けるべき立場だった。
だが、水車小屋で捕まり、徽章を落とし、何もできなかった。
その思いが彼を立たせたのだろう。
「ダンさん」
アレックスは声をかけた。
「あなたの証言が必要です」
「ああ」
「でも、その前に生きていてもらう必要があります」
ダンは目を伏せた。
「……レクスター殿にも同じことを言われた」
「なら休んでください」
「分かっている」
彼は少し笑った。
「ただ、村の人たちに一つ謝りたかった」
近くで木札を書いていたガロンが顔を上げる。
ダンは彼の方へ歩こうとし、レクスターに止められた。
「そこで」
「……分かった」
ダンはその場で、村人たちへ向かって頭を下げた。
「巡察として、村を守れなかった。申し訳ない」
作業の手が止まる。
村人たちは、彼を見る。
怒りもある。
失望もある。
だが、ダンもまた被害者だった。
水車小屋で捕らわれ、根に巻かれ、命を落としかけた。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
ガロンが最初に口を開いた。
「俺たちも、商会を信じた」
ダンが顔を上げる。
「……」
「謝るのは後だって、ミレ婆に言われた」
ガロンは震える手で木札を持ち上げた。
「だから、今はこれを書く。あんたも、できることをしてくれ」
ダンは目を閉じた。
深く頷く。
「ああ。証言する。王都の印のことも、巡察小屋で見た書類のことも」
レクスターがすぐ反応した。
「書類の内容を覚えていますか」
「全部は無理だ。だが、いくつかは」
「後で記録します」
「頼む」
ダンは旧水路をもう一度見た。
「……俺たちは、承認印を見て止まった。王都の印があるなら、問題ないはずだと」
彼は悔しそうに拳を握った。
「でも、現場を見たら違った。水は苦く、畑は黒い。書類が何と言っても、村人が苦しんでいるなら止めるべきだった」
アレックスは静かに聞いていた。
それは、王都の権威の重さでもあった。
印があれば、人は止まる。
肩書きがあれば、疑えなくなる。
追放王子という肩書きに苦しんできたアレックスには、その逆の重さも分かった。
肩書きは、人の目を曇らせる。
サヴィルはそれを利用した。
「次は止めます」
ダンは言った。
「もしまた同じような書類を見ても、現場を見る。人の声を聞く」
ミレ婆が遠くから言った。
「なら、覚えておきな」
ダンが見る。
「紙より、畑を見るんだよ」
ダンは深く頭を下げた。
「はい」
そのやり取りを、カイは木札を持ったまま見ていた。
彼の顔には複雑なものが浮かんでいる。
巡察を責めたい気持ち。
でも、ダンが謝ったことを受け止めたい気持ち。
そして、自分の村をもう一度守るために、誰を信じればいいのか分からない不安。
マーガレットが隣で小さく言った。
「すぐ許さなくていいよ」
カイは驚いたように見る。
「え?」
「謝られたからって、すぐ全部飲み込まなくていい」
「……」
「でも、今できることを一緒にやるのは、できる」
カイは木札を見る。
それから、ダンを見る。
「……うん」
彼はダンへ向かって言った。
「じゃあ、証言して」
ダンは真っ直ぐ頷いた。
「する」
「王都の印とか、難しいことは分かんない。でも、村がこうなったことは、ちゃんと言って」
「ああ」
「父ちゃんも母ちゃんも、畑も、ミレ婆たちも、みんなのこと」
「必ず」
カイは、少しだけ頷いた。
それだけだった。
でも、それは大きな一歩だった。
午前の作業は、ゆっくり進んだ。
旧水路の流れを安定させるため、石の位置を調整する。
水が北畑へ行きすぎないよう、小さな枝で流量を抑える。
黒い畑との境界に灰と乾燥土を撒く。
木札を立てる。
汚染の薄い土を見つけ、印をつける。
黒い根が出た場所には、触れずに灰をかけ、後で隔離する。
一つ一つは地味だった。
時間がかかる。
手が汚れる。
腰が痛くなる。
誰も歓声を上げない。
でも、作業のたびに村が少しずつ形を取り戻していく。
ここは危険。
ここは残せる。
ここは水を通す。
ここは立ち入り禁止。
曖昧だった恐怖に、名前と境界が与えられていく。
それは、恐怖を減らすことでもあった。
分からないものは怖い。
だが、分かれば避けられる。
避けられれば、生きられる。
レクスターが言った。
「記録が必要です」
石蔵へ戻った昼前、彼は村人たちを集めて言った。
「どの畑が黒いか。どこまで灰を撒いたか。どの水路が使えるか。井戸の状態。全て記録してください」
ガロンが頭を掻く。
「文字が得意な奴は少ないぞ」
「絵でも構いません」
「絵?」
「地図です。形で残せば、次に作業する人が分かる」
ミレ婆が頷いた。
「昔の水路も、誰かが地図に残してりゃ、もっと早かったね」
「はい」
レクスターは静かに言った。
「残すことは、未来の誰かを助けます」
カイが反応した。
「それ、さっきも言ってた」
「重要なので」
「じゃあ、俺、地図描く」
レクスターが少し目を細める。
「描けますか」
「下手だけど」
「下手でも構いません。正確さは後で補えます」
「じゃあ描く」
カイは木炭を手に取った。
石蔵の壁に貼った古布へ、村の地図を描き始める。
最初は歪んだ線だった。
でも、彼は真剣だった。
石蔵。
旧水路。
北畑。
黒い畑。
祠。
水車小屋。
集会倉庫。
避難小屋。
一つずつ描く。
マーガレットが横から覗き込む。
「上手い!」
「下手だろ」
「分かるから上手い!」
「それ上手いのか?」
「上手い!」
レクスターが補足する。
「実用地図としては十分です」
「ほら!」
カイは少し照れながら、線を足した。
そこへ、トーマが横になったまま声をかける。
「……北畑の境界……もう少し南だ……」
カイが振り返る。
「ここ?」
「……そう……そこの畔が……曲がってる……」
「畔?」
「……土の盛り上がったところ……お前、覚えてないのか……」
「畑仕事嫌だったから」
「……これから覚えろ……」
「うん」
ミラも弱い声で言った。
「……豆畑は、この家の裏まで……」
カイは母の言葉を聞いて線を足す。
村人たちも集まってきた。
「井戸はここだ」
「いや、古井戸はもっと北」
「水車の横の小道も描け」
「祠の裏に抜け道がある」
皆が口を出す。
最初はばらばらだった声が、少しずつ村の地図を作っていく。
その光景を見て、アレックスは胸が熱くなった。
ハルダ村が、自分自身を描き直している。
黒く塗り潰された場所も。
残った場所も。
危険な場所も。
守る場所も。
全部を見ながら、もう一度自分たちの村を知ろうとしている。
昼過ぎ、集会倉庫から知らせが来た。
見張りのハンスが息を切らして石蔵へ入ってくる。
「サヴィルが話したがってる」
アレックスの表情が変わる。
「何を」
「王都の印について、条件を出したいって」
マーガレットが即座に言う。
「また何か企んでる」
「でしょうね」
レクスターが水の本を閉じる。
「しかし、情報は必要です」
アレックスは頷いた。
「俺が行く」
「私も」
マーガレットが言う。
「レクトは?」
「行きます」
「休みは?」
「記録が必要です」
「むう……」
マーガレットは不満そうだったが、今度は止めなかった。
サヴィルが王都の印について話すなら、レクスターの記録が必要だと分かっているからだ。
カイも立ち上がった。
「俺も」
アレックスは彼を見る。
「来るなら、聞くだけだ」
「分かってる」
「サヴィルに近づかない」
「分かってる」
「怒って飛び出さない」
「……努力する」
マーガレットが即座に言う。
「不安!」
カイは苦笑した。
「俺も不安」
それでも、アレックスは頷いた。
「一緒に来い」
カイの顔が引き締まる。
「うん」
集会倉庫へ向かう道中、カイは何も喋らなかった。
木札を立てていた時とは違う緊張がある。
サヴィルと向き合う。
村を壊した男。
父母を苦しめ、畑を黒くし、村人を操った男。
怒らずにいる方が難しい。
マーガレットは、カイの隣を歩いた。
いつでも止められる距離。
けれど、手は出さない。
カイが自分で歩くのを、見守っている。
集会倉庫の中は、灰と石灰の匂いがした。
黒い樽は沈黙している。
青白い光はほとんど見えない。
サヴィルは壁際に縛られたまま、アレックスたちを見ると薄く笑った。
「ずいぶん村らしくなってきたじゃないか」
カイの拳が震える。
マーガレットが横で小さく言った。
「名前」
カイは息を吸う。
「カイ」
自分の名前を小さく呼んだ。
「トーマ。ミラ。カイ」
少しずつ呼吸が落ち着く。
サヴィルが興味深そうに見る。
「自分にも効くのか」
アレックスが低く言う。
「黙れ」
「怖い顔だ」
「話したいことを話せ」
サヴィルは肩をすくめた。
「条件だ」
「お前に条件を出す権利はない」
「情報には価値がある。商人として当然の交渉だ」
マーガレットが嫌悪を隠さず言う。
「まだ商人って言うんだ」
「事実だからね」
レクスターが静かに問う。
「何を求めますか」
「王都へ引き渡す際、私を辺境巡察ではなく、王都の正式機関へ送れ」
アレックスの目が細くなる。
「なぜ」
「辺境巡察では、グレイ商会に消される」
沈黙。
サヴィルの顔から、いつもの笑みが少し消えていた。
「自分の商会に?」
マーガレットが聞く。
「私は調整役だ。失敗した調整役に、商会は優しくない」
サヴィルは淡々と言う。
だが、その声の底には、初めてわずかな恐怖があった。
「王都へ行けば安全だと?」
アレックスが問う。
「少なくとも、話す相手を選べる」
「王都側にも関係者がいるんだろ」
「いる」
サヴィルはあっさり認めた。
レクスターが記録を取り始める。
「部署名は」
サヴィルは少し黙った。
「外郭管理局。その下にある農地再編課」
レクスターの筆が止まる。
「農地再編課……」
「印は本物か」
アレックスが聞く。
「本物だ」
カイが息を呑む。
「王都が、村を……」
「王都全体ではない」
サヴィルは言った。
「だが、その部署の一部は関与している。グレイ商会は承認印を得て、辺境農地の“試験”を行っていた」
マーガレットが低く言う。
「試験って言うな」
「書類上は試験だ」
「人がいる」
「書類上には、土地面積と水路図と収穫量しかない」
「だから何?」
マーガレットの声が震える。
「だから、書類を見てる人には人が見えない」
サヴィルは淡々と答えた。
それは言い訳ではなく、仕組みの説明だった。
だからこそ、余計に冷たかった。
アレックスは静かに言った。
「その書類を出せるか」
「私の荷にある」
「どこだ」
「村の南に停めた馬車。黒い畑を避けた先だ」
レクスターが地図を見る。
「南道……汚染が強い区域ですね」
「だから取りに行けなかった」
「罠か?」
アレックスが問う。
サヴィルは薄く笑う。
「罠がないとは言わない」
「正直だな」
「嘘をついて君たちが死ねば、私も困る」
カイが低く言う。
「自分のことばっかりだな」
サヴィルはカイを見る。
「人は皆そうだ」
「違う」
カイは即答した。
声は震えていたが、強かった。
「父ちゃんは畑にいた。母ちゃんは村を見に行った。村長は水車を止めないように押さえてた。ミレ婆は種を守ってた。マーガは俺を止めた。アレックスは父ちゃんを助けた。レクスターは寝ないでみんな診た」
彼は一歩前へ出た。
マーガレットがすぐ横に手を出したが、カイは止まった。
自分で止まった。
「みんな、自分のことだけじゃなかった」
サヴィルは黙った。
カイは続ける。
「お前だけだ。自分のことしか見てないの」
倉庫の中に沈黙が落ちた。
サヴィルの顔から、笑みが消えた。
アレックスはカイを見た。
少年は震えている。
でも、逃げていない。
怒りをぶつけるだけではなく、自分の見たものを言葉にした。
それは、昨日のカイにはできなかったことだ。
マーガレットが小さく呟く。
「すごい」
レクスターも静かに言った。
「重要な証言です」
カイが振り返る。
「今のも?」
「はい」
レクスターは真面目な顔で頷いた。
「この村に何があったかを示す言葉です」
カイは少し照れたように、でも泣きそうに、目を伏せた。
アレックスはサヴィルへ向き直る。
「馬車の場所を詳しく話せ」
サヴィルはしばらく沈黙した。
そして、諦めたように口を開いた。
「南道の古い梨の木の近くだ。書類箱は座席下。鍵は私の上着の内側」
「鍵は預かる」
「好きにしろ」
「ただし、お前はまだここにいる」
サヴィルは笑わなかった。
「そうだろうね」
アレックスたちは倉庫を出た。
外には昼の光があった。
黒い畑はまだ黒い。
だが、遠く北側では清水が流れ、村人たちが木札を立てている。
南道には馬車と書類。
王都外郭管理局、農地再編課。
グレイ商会との繋がりを示す証拠。
行けば危険だ。
だが、必要だ。
カイがアレックスを見る。
「行くの?」
「ああ」
「俺も――」
「南は危険だ」
アレックスが言う。
カイは言葉を詰まらせる。
行きたい。
でも、条件を守ると決めた。
彼は拳を握り、深く息を吸った。
「……俺は、北畑に戻る」
マーガレットが目を丸くする。
「カイ」
「南はアレックスたちの方がいい。俺は、残せる畑の場所を知ってる。木札、まだ立てる」
その声は悔しそうだった。
でも、自分で選んだ声だった。
アレックスは頷いた。
「頼む」
カイはまっすぐ頷いた。
「任せて」
その言葉が、朝より少しだけ大人びて聞こえた。
マーガレットが笑う。
「じゃあ、北畑隊長だね」
「隊長!?」
「うん!」
「やめろよ」
「だめ?」
「……ちょっとだけなら」
カイは照れたように目を逸らした。
レクスターが言う。
「では北畑隊長、境界作業の継続をお願いします」
「レクスターまで!」
「役割名は有効です」
「う……分かった」
カイは少しだけ胸を張った。
「北畑、守る」
アレックスはその姿を見て、胸の奥に確かな灯りを感じた。
ハルダ村はまだ傷だらけだ。
南道には危険が残る。
王都の影は濃くなる。
だが、ここには北畑を守る少年がいる。
種を守る老人がいる。
灰を撒く村人がいる。
なら、まだ進める。
アレックスは南の道を見た。
次に取りに行くのは、書類。
村を壊した仕組みの証拠。
剣だけでは届かない敵へ向かうための、紙の刃。
「行こう」
アレックスが言った。
マーガレットがハルバードを握る。
「うん」
レクスターが水の本を開く。
「南道は汚染濃度が高い可能性があります。慎重に」
「ああ」
カイは北畑へ戻る前に、もう一度アレックスたちを見た。
「戻ってきて」
その言葉に、三人は頷いた。
「戻る」
アレックスが言う。
「約束?」
カイが聞く。
アレックスは少しだけ笑った。
「約束だ」
カイはほっとしたように頷き、北畑へ走りかけた。
だが、すぐ止まった。
振り返り、気まずそうに言う。
「歩く」
マーガレットが満面の笑みを浮かべた。
「偉い!」
「子ども扱いするな!」
その声に、村人たちが笑った。
黒い畑の上に、笑い声が乗る。
水路を変えた朝は、もう昼へ向かっていた。
ハルダ村は、少しずつ自分の形を取り戻し始めている。
そしてアレックスたちは、南道に残された証拠を求めて、新たな危険の方へ歩き出した。




