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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第76話 水路を変える朝】


 朝は、薄い灰色の空から始まった。


 晴れているとは言えない。


 けれど、雨でもない。


 それだけで、石蔵の中にいた村人たちは小さく息を吐いた。


 雨が降れば、黒い畑の汚染がまた流れ出すかもしれない。


 水路へ。


 井戸へ。


 まだ残っている畑へ。


 そして、石蔵の周りへ。


 だから誰もが、空を怖がっていた。


 昔なら、雨は恵みだった。


 畑を潤し、種を起こし、麦の穂を育てるものだった。


 だが今は違う。


 水が怖い。


 雨が怖い。


 水路が怖い。


 それは、農村にとってあまりにも残酷なことだった。


 アレックスは石蔵の入口に立ち、白み始めた空を見上げていた。


 背後では、村人たちがゆっくり動き始めている。


 眠れた者は少ない。


 それでも、誰もが朝を迎えた。


 子どもたちは毛布に包まれ、まだぼんやりしている。


 老人たちは種袋の確認を続けていた。


 トーマとミラは横になったままだが、昨夜よりも呼吸が落ち着いている。


 村長オルグも、黒い筋の脈動が弱まっていた。


 巡察二人は、まだ立てない。


 だが、意識は戻っていた。


 カイは、眠っていないような顔で種袋の前に座っていた。


 目の下に影がある。


 それでも、彼の目は閉じていない。


 村の朝を見逃したくないのかもしれない。


 アレックスが近づくと、カイは顔を上げた。


「雨、降る?」


「今は分からない」


「降ったら、まずい?」


「たぶん」


「じゃあ、早く水路を変えないと」


「ああ」


 カイは立ち上がろうとした。


 だが、足元がふらついた。


 アレックスが支える。


「寝てないだろ」


「少し寝た」


「嘘だな」


「……目は閉じた」


「レクトみたいなことを言うな」


 カイは少しだけ笑った。


 その笑いは弱い。


 けれど、確かに笑いだった。


「俺も行く」


「分かってる」


「止めないのか」


「止めても行くだろ」


「うん」


「だから条件を守れ」


 カイは頷いた。


「走らない。黒い水に触らない。黒い草に触らない。一人で行かない。指示を聞く」


「よし」


「あと、怖かったら名前を呼ぶ」


 アレックスは少し驚いた。


 カイは照れたように目を逸らした。


「母ちゃんが言ってたから」


「いいと思う」


「……うん」


 石蔵の奥で、マーガレットの声がした。


「レクスター、起きていい時間?」


「起きています」


「いつから!?」


「少し前から」


「少しってどのくらい!?」


「……三十分ほど」


「寝てない!」


「寝ました」


「足りない!」


「今日は水路切り替えがあります。休息は夜に追加します」


「約束?」


「約束します」


「本当に?」


「本当に」


 マーガレットはしばらくじっとレクスターを見た。


 レクスターは目を逸らさなかった。


 それを見て、マーガレットはようやく頷いた。


「じゃあ信じる」


「ありがとうございます」


「でも、倒れたら水の本没収」


「それは困ります」


「じゃあ倒れない!」


「努力します」


「努力じゃ不安!」


 周囲の村人たちが、小さく笑った。


 黒い畑に囲まれた朝。


 それでも、笑いがある。


 アレックスはその空気に少し救われた。


 レクスターは石蔵の中央に地図を広げた。


 カイが描いた村の地図。


 村長オルグの補足。


 トーマの畑の知識。


 ミレ婆が覚えていた古い水路。


 それらを合わせて、昨夜のうちに修正したものだ。


「本日の作業は三つです」


 レクスターが言う。


 声はいつもより少し掠れているが、はっきりしていた。


「一つ。水車から畑へ流れていた汚染水路を完全に遮断する」


 村人たちが黙って聞く。


「二つ。上流側の清水を石蔵北側の旧水路へ逃がす。これは村の北畑を守るためです」


 カイが地図を覗き込む。


「旧水路って、昔使ってたやつ?」


 ミレ婆が頷いた。


「ああ。私が若い頃は使ってた。今は草に埋もれているけど、石の溝は残っているはずだよ」


「三つ目は?」


 マーガレットが聞く。


「汚染土の境界を広げないため、黒い畑の縁に灰と乾燥土を撒き、踏み込み禁止の印を立てる」


 ガロンが低く言った。


「つまり、黒い場所を切り離すのか」


「はい」


「見捨てるってことか」


 石蔵の空気が少し重くなる。


 その言葉は、多くの村人の胸に刺さった。


 畑を切り離す。


 それは、家族の一部を見捨てるような痛みなのだろう。


 レクスターはすぐには答えなかった。


 言葉を選ぶ。


「今は、広げないためです」


「でも、黒い畑は」


「後で戻す方法を探します」


 ガロンが顔を上げる。


 レクスターは続けた。


「ただし、今すぐ全てを救おうとすれば、残っている畑まで失います。残すために、まず切り離す」


 沈黙。


 ガロンは拳を握った。


 それから、深く息を吐いた。


「……分かった」


 その声は苦しかった。


「俺が、境界の印を立てる」


 カイが振り返る。


「ガロンのおっちゃん」


「俺が薬を受け入れた。なら、俺が最初に黒い畑へ印を立てる」


「でも、まだ体が」


「立つだけならできる」


 レクスターが厳しく言う。


「無理は許可しません。あなたの黒い筋はまだ残っています」


「分かってる」


「では、一人ではなく二人組で。移動距離は短く。異常が出たら即座に下がる」


 ガロンは少しだけ苦笑した。


「細かいな」


「命に関わります」


「……ありがたい」


 マーガレットが力強く頷く。


「私も一緒に行く!」


 レクスターが即座に言う。


「あなたは水路班です」


「えっ」


「水門を動かす力が必要です。あなたでなければ難しい」


「力仕事!」


「はい」


「分かった!」


 マーガレットはすぐに立ち直った。


 自分の役割が見えると、彼女は強い。


 カイは地図を見て言った。


「俺は旧水路の場所、分かる」


「なら、カイは旧水路案内役です」


 レクスターが言う。


「ただし、先頭を走らない」


「分かってる」


「本当に」


「本当に」


 アレックスは地図を見下ろした。


「俺は?」


「あなたは水路班の先行確認と、黒根の剥離です。雷糸で水門周辺の命令線を切ってください」


「分かった」


「ただし、強くやりすぎない」


「分かってる」


「本当に」


 マーガレットが横から言う。


「本当に?」


「二人して言うな」


「大事!」


 石蔵にまた笑いが広がった。


 小さな笑い。


 けれど、それだけで朝の空気が少し明るくなる。


 作業はすぐに始まった。


 まず、石蔵から旧水路へ向かう班。


 アレックス、マーガレット、レクスター、カイ。


 それに、村人の若者が二人。


 それぞれ灰袋、縄、木札、簡易の鍬を持っている。


 次に、黒い畑の境界に印を立てる班。


 ガロン、ミレ婆の息子ロイド、ハンス。


 彼らには無理をさせないよう、石蔵近くの範囲だけを担当させる。


 石蔵には、ミレ婆、エルマ、サムたち子ども、負傷者たちが残る。


 村長オルグは横になったまま、地図へ震える指を伸ばした。


「北の旧水路……ここに古い石蓋がある……外せば、上流の水を逃がせる……」


 レクスターが確認する。


「水門ではなく石蓋?」


「ああ……昔、土砂で詰まった時に閉じた……」


「了解しました」


 オルグは苦しそうに息を吐く。


「本当なら……わしが行かねば……」


「今は休んでください」


 アレックスが言う。


「あなたには、後で村の人たちへ説明してもらう必要があります」


 オルグは目を閉じた。


「……生きて、説明するのも……村長の仕事か」


「はい」


「重いな」


「でも、必要です」


「……そうだな」


 オルグは小さく頷いた。


「行ってくれ」


 石蔵を出る時、カイは両親の方を見た。


 トーマが布越しに手を上げる。


「……走るなよ」


「分かってる」


 ミラも言う。


「……怖かったら……」


「名前を呼ぶ」


 カイは先に答えた。


「トーマ、ミラ、カイ。ちゃんと呼ぶ」


 ミラは涙を浮かべて微笑んだ。


「……行ってらっしゃい」


 カイの顔が一瞬崩れた。


 だが、彼は泣かなかった。


「行ってきます」


 その言葉は、何気ない日常の言葉だった。


 だが、ハルダ村にとっては大きかった。


 行ってきます。


 帰る場所がある者の言葉。


 石蔵に残る者たちが、その言葉を聞いて静かに涙を拭った。


 旧水路へ向かう道は、村の北側を回る。


 黒い畑からは少し離れているが、完全に安全ではない。


 足元には黒い草が点々と広がっている。


 水路の近くは特に危険だ。


 レクスターは何度も水糸で反応を見た。


「ここから先、右側の草に触れないでください」


「右側!」


 マーガレットがすぐ復唱する。


「カイ、右側だめ!」


「分かってる」


「若者さんたちも!」


「分かりました!」


 村の若者二人は緊張した顔で頷いた。


 彼らは、昨日まで避難小屋の近くで震えていた者たちだ。


 今も怖いはずだ。


 だが、灰袋を背負い、鍬を持っている。


 自分たちの水路を、自分たちで守るために。


 カイが道の先を指差した。


「あそこ」


 草に埋もれた細い溝があった。


 石で組まれた古い水路。


 苔と土で半分隠れている。


 だが、確かに水が通れる形を残していた。


「これが旧水路か」


 アレックスが膝をつく。


「昔、ばあちゃんが使ってたって」


「今は詰まってるな」


 レクスターが溝を見て頷く。


「土砂と草根で塞がっています。ただ、石組みは生きている。清水を通すには十分です」


 マーガレットが鍬を持ち上げる。


「掘る?」


「掘ります。ただし、黒い根が混じっていない場所から」


「了解!」


 作業が始まった。


 マーガレットが大きな土を起こし、若者たちがそれを脇へ運ぶ。


 カイは石の間に詰まった草を抜く。


 アレックスは黒い根が混じっていないか雷糸で確認する。


 レクスターは旧水路の勾配を見ながら、どこまで掘れば水が流れるか指示を出す。


「そこは深くしすぎないでください」


「深くしすぎない!」


「マーガレット、力を半分」


「半分!」


「もっと半分」


「半分の半分!?」


「はい」


「難しい!」


 それでも、マーガレットは加減した。


 大きな力を持つ者が、壊さないために慎重になる。


 その姿を見て、村の若者が小さく言った。


「すごいな……」


 マーガレットは振り返る。


「何が?」


「いや、その武器持ってるのに、土を優しく掘ってる」


「優しく掘るって難しいよね!」


「え、あ、はい」


「でも畑だから!」


 マーガレットは真剣に言った。


「乱暴にしたら、土がかわいそう」


 若者は少し驚き、それから笑った。


「そうですね」


 カイも少し笑った。


「マーガ、変だけど分かる」


「変!?」


「褒めてる」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶん!」


 作業は進んだ。


 旧水路の詰まりが少しずつ取れていく。


 乾いた土の下から、昔の石組みが姿を見せる。


 カイはそれを見て、目を輝かせた。


「本当にあった……」


 レクスターが言う。


「古いものが残っていたおかげです」


「昔の人が作ったやつ?」


「はい」


「じゃあ、昔の人にも助けられてるんだ」


 その言葉に、レクスターは少しだけ目を細めた。


「そうですね。記録や構造は、後の人を助けます」


「レクスター、そういうの好きそう」


「好きです」


「即答」


「重要ですから」


 カイは石組みに触れようとして、すぐ手を止めた。


「触っていい?」


 レクスターが確認する。


「ここは安全です」


 カイはそっと石に触れた。


 冷たい石。


 苔の感触。


 古い水路。


「残ってたんだな」


 小さな声だった。


 アレックスはその横で頷いた。


「ああ」


「畑も、どこか残ってるかな」


「残ってる場所を探そう」


「うん」


 旧水路の掘り出しが終わる頃、上流側の石蓋へ到達した。


 村長の言っていた場所だ。


 大きな平石が、水の分岐を塞いでいる。


 かなり重い。


 周囲には黒い根が数本絡んでいた。


 ここが今日の難所だった。


 レクスターが水糸で確認する。


「石蓋の下に清水があります。ただし、黒い根が一部絡んでいます。開ける前に剥がす必要があります」


「俺がやる」


 アレックスが前へ出る。


「強くしすぎないで」


 マーガレットが言う。


「分かってる」


「本当に」


「分かってるって」


 アレックスは雷糸を伸ばした。


 黒い根は水車の根ほど強くない。


 だが、水に近いせいか反応が速い。


 雷糸が触れた瞬間、根が石蓋にさらに絡もうとした。


「動いた!」


 カイが叫ぶ。


 アレックスは集中する。


 切らない。


 焼かない。


 剥がす。


 一つ目。


 二つ目。


 三つ目。


 根が石から離れる。


 黒い液が少し滲む。


 レクスターが乾いた灰をかける。


 じゅ、と音がする。


 反応が止まる。


「よし」


 アレックスは息を吐いた。


「石蓋、動かせるか」


 マーガレットが前へ出る。


「任せて!」


 村の若者二人も加わる。


 カイも手を出そうとしたが、マーガレットが言う。


「カイは足元見て」


「俺も押せる」


「知ってる。でも今は見張り」


「……分かった」


 カイは不満そうだったが、すぐに足元を見る役へ回った。


 成長している。


 アレックスはそう思った。


 マーガレットたちは石蓋へ手をかけた。


「せーの!」


 石は重かった。


 湿った土にくっつき、長年動かされていなかったため、最初はびくともしない。


 マーガレットの腕に力が入る。


 若者たちが歯を食いしばる。


「もう一回!」


 マーガレットが叫ぶ。


「せーの!」


 石が少し動いた。


 下から、水の音がした。


 村人たちの顔が変わる。


 清水の音。


 汚染水ではない、澄んだ水の音。


「水……」


 カイが呟く。


 その声に、誰もが力を込めた。


 三度目。


 石蓋が大きくずれた。


 下から、透明な水が細く溢れ出した。


 光を受けて、きらりと輝く。


 灰色ではない。


 青白い毒の光でもない。


 ただの水。


 ハルダ村の上流から来る、澄んだ水。


 カイの目に涙が浮かんだ。


「きれい……」


 マーガレットも息を呑む。


「水、きれいだね」


 レクスターがすぐ水糸で確認する。


 数秒。


 石蔵での雨水確認の時と同じように、皆が息を止める。


 やがてレクスターは頷いた。


「清水です。飲用は煮沸推奨ですが、汚染反応はありません」


 その瞬間、村の若者の一人が泣いた。


 手で顔を覆い、声を殺して泣いた。


「水だ……」


 もう一人も膝をついた。


「まだ、水が……」


 カイは石蓋の横にしゃがみ込み、流れ出す水を見つめた。


 触ろうとして、また手を止める。


 レクスターが言った。


「ここは触っても大丈夫です。ただし少量」


 カイは指先で水に触れた。


 冷たい。


 彼はその冷たさに、目を閉じた。


「……戻るかも」


 小さな声。


「村、戻るかも」


 アレックスは静かに頷いた。


「戻すんだろ」


 カイは顔を上げる。


 涙で濡れた顔で、笑った。


「うん。戻す」


 旧水路へ清水を通す作業は、そこからさらに続いた。


 流れが強すぎれば石蔵周辺が水浸しになる。


 弱すぎれば北畑へ届かない。


 レクスターが勾配を見て、マーガレットたちが石を動かし、カイが古い溝の位置を案内する。


 アレックスは途中に残っていた黒根を剥がしていく。


 水が少しずつ旧水路を流れ始めた。


 最初は細い糸のように。


 やがて、溝の底を濡らしながら、北側へ進む。


 黒い畑ではない。


 まだ緑の残る北畑へ。


 その流れを見た村人たちは、誰も大声を出さなかった。


 ただ、見ていた。


 水が流れる。


 それだけのこと。


 でも、昨日まで失われかけていた当たり前だった。


 マーガレットは、泥だらけの手で顔を拭い、余計に汚れた。


「流れたね」


「ああ」


「きれいな水だね」


「ああ」


「よかったね」


「うん」


 カイが、旧水路沿いに走りそうになって、途中で止まった。


 そして振り返る。


「走らない!」


 自分で言った。


 マーガレットが笑う。


「偉い!」


「子ども扱いするな!」


「でも偉い!」


「……うん」


 カイは少し照れながら、歩いて水の流れを追った。


 旧水路の先には、北畑があった。


 黒い筋は少ない。


 まだ土の色が残っている。


 麦の一部は弱っているが、完全には死んでいない。


 そこへ清水が届く。


 土が水を吸う。


 静かに。


 ゆっくりと。


 カイはそれを見て、声を震わせた。


「ここ、父ちゃんの畑の端だ」


「そうか」


「全部じゃない。でも、ここはまだ……」


 言葉が続かない。


 アレックスはその続きを言わなかった。


 カイ自身が言うのを待った。


 しばらくして、カイは言った。


「ここは、残せる」


 その言葉に、マーガレットが目を潤ませる。


「うん」


 レクスターも頷いた。


「この区画は保護対象にしましょう。黒い畑との境界に灰を撒きます」


「やる」


 カイが即答した。


「俺がやる」


「一人ではなく」


「分かってる。誰かと」


 レクスターは頷いた。


「よろしい」


 そこへ、石蔵から知らせが来た。


 サムが小さな木札を抱えて走りかけ、ミレ婆に怒られ、結局ロイドに連れられて歩いてきた。


「レクスター!」


 サムが叫ぶ。


 マーガレットがすぐ反応する。


「声量……って私が言うの変かな」


 レクスターは少しだけ笑った。


「変ではありません」


 サムは息を切らしながら言った。


「村長が、起きた! あと、巡察の人が話せるって!」


 アレックスとレクスターが顔を見合わせる。


 巡察。


 グレイ商会と王都へ繋がる証言が得られるかもしれない。


 だが、今は水路作業の途中だ。


 レクスターが判断する。


「旧水路は安定しています。マーガレット、カイ、村の方々はここで境界作業を継続。アレックス、私と石蔵へ」


「分かった」


 マーガレットが頷く。


「こっちは任せて!」


 カイも力強く言う。


「北畑、守る」


 アレックスはカイを見る。


 昨日とは違う顔だった。


 怖いままでも、自分の役割を見つけた顔。


 村の一員として立つ顔。


「頼む」


「うん」


 アレックスとレクスターは石蔵へ戻った。


 道中、レクスターは疲れた顔をしながらも、どこか安堵していた。


「水路は成功ですね」


「ああ」


「まだ初期段階ですが、北畑を残せる可能性が出ました」


「カイにとっては大きい」


「村全体にとっても」


「うん」


 アレックスは足を止め、振り返った。


 遠くで、マーガレットとカイが灰を撒いている。


 村人たちも一緒だ。


 清水が旧水路を流れている。


 黒い畑の端で、まだ緑の残る畑が朝の光を受けている。


 完全な再生ではない。


 でも、確かな始まりだった。


「レクト」


「はい」


「こういうのも、勝利って言っていいのかな」


 レクスターは少し考えた。


「はい」


 珍しく、短くはっきりと答えた。


「これは勝利です」


「そうか」


「敵を倒すことではなく、失われるはずだったものを残すこと。それは十分に勝利です」


 アレックスは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「うん」


 石蔵に戻ると、村長オルグが上体を起こしていた。


 顔色は悪い。


 だが、目に力が戻っている。


 隣には巡察のダンが座っていた。


 ロウはまだ横になっている。


 トーマとミラも、カイがいない間に少し眠れたようだった。


 オルグはアレックスを見るなり言った。


「水は」


「旧水路へ流せました」


 オルグの目に涙が浮かぶ。


「……そうか」


「北畑は残せる可能性があります」


 トーマが目を開けた。


「……北畑……」


「カイが今、境界作業をしています」


 トーマの顔が歪んだ。


 誇らしさと心配が混ざった顔だった。


「……あいつが……」


 ミラも涙を浮かべる。


「……走ってない?」


 アレックスは少し笑った。


「自分で止まっていました」


「……そう……」


 ミラは胸に手を当て、ほっと息を吐いた。


 村長オルグは、震える手でアレックスの腕を掴んだ。


「ありがとう……」


「まだ終わっていません」


「分かっている……だが、水が流れたなら……村は、まだ……」


 彼は言葉を詰まらせた。


 村長として、ずっと村の終わりを見ていたのだろう。


 水が黒くなり、畑が鳴り、人が倒れ、商人に騙され、巡察も戻らず。


 その中で、何もできなかったという後悔が彼を押し潰していた。


 だからこそ、清水が旧水路へ流れたという報告は、彼にとってただの作業成功ではなかった。


 村がまだ終わっていない証だった。


 レクスターは巡察ダンの前に座った。


「話せますか」


 ダンは頷いた。


「少しなら」


「グレイ商会について聞きたい」


 ダンの顔が険しくなる。


「……あの商会、巡察小屋にも届け出を出していた」


「届け出?」


「ああ。農地再生事業の試験導入。王都の承認印があった」


 アレックスの胸が重くなる。


「王都の承認印」


「本物かは分からない。だが、隊長はそれを見て、強く出られなかった」


 レクスターの目が鋭くなる。


「印の特徴は」


 ダンは記憶を辿る。


「王都農務局……いや、外郭管理局だったかもしれない。印は、三本麦と秤」


 レクスターの顔が変わった。


 アレックスが問う。


「知ってるのか」


「王都外郭管理局は、辺境農地や未整備土地の再編を扱う部署です」


「そこが関わっている?」


「本物なら」


 沈黙。


 サヴィルの言葉。


 王都の人間は辺境の畑など見ていない。


 だが、見ていないのではない。


 見た上で、利用している者がいる可能性が出てきた。


 ダンは続けた。


「俺たちは水車を見に行った。村長が助けを求めたからだ。でも、水車小屋で根に捕まった。サヴィルは……笑っていた」


 彼の拳が震える。


「巡察の徽章も奪われた。たぶん、途中で落としたのは俺のだ」


 アレックスは布包みを取り出した。


「これか」


 ダンの目が見開かれる。


「ああ……それだ」


「拾った」


「すまない」


「謝ることじゃない」


 ダンは歯を食いしばった。


「俺たちは、村を守れなかった」


 レクスターは静かに言った。


「今、証言できます」


 ダンが顔を上げる。


「証言?」


「グレイ商会が王都承認印を示し、ハルダ村で土壌改変剤を使用。水車小屋に核を設置し、巡察二名を拘束。あなたはその証人です」


「……俺が」


「はい」


 ダンはしばらく黙った。


 そして、深く頷いた。


「話す。全部」


 アレックスは頷いた。


 グレイルの帳簿。


 ハルダ村の樽。


 巡察の証言。


 王都外郭管理局の印。


 道が、少しずつ王都へ伸びている。


 怖い。


 だが、もう見え始めている。


 レクスターは記録を取った。


 疲れているはずの手で、正確に。


 アレックスは石蔵の外を見た。


 朝の光が少し強くなっている。


 遠くでマーガレットの声が聞こえる。


「カイ、そこ踏まない!」


「分かってる!」


「走らない!」


「歩いてる!」


「偉い!」


「子ども扱いするな!」


 村人たちの笑い声も混ざった。


 黒い畑の音は、まだある。


 だが、そこに人の声が重なっている。


 水路を変える朝。


 ハルダ村は、ゆっくりと戻り始めていた。


 完全には戻らないかもしれない。


 失った畑もある。


 傷ついた人もいる。


 裏にいる者たちは、まだ遠くで笑っているかもしれない。


 それでも、清水は旧水路を流れた。


 種は石蔵に残っている。


 カイは畑の境界に立っている。


 村人たちは、自分の手で木札を打っている。


 アレックスは静かに思った。


 これもまた、灯りだ。


 剣の輝きではない。


 雷の光でもない。


 朝の水に反射する、小さな光。


 それを守るために、旅は続く。


 今はまず、ハルダ村を戻す。


 王都へ伸びる影を見るのは、その先だ。


 彼は深く息を吸い、レクスターの記録を横で見守った。


 水路を変える朝は、まだ始まったばかりだった。

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