【第75話 黒い畑の夜】
夜が、ハルダ村へ降りてきた。
それは、静かな夜ではなかった。
黒い畑はまだ、遠くで軋んでいる。
ぎし。
ぎし。
水車が止まり、祠が沈黙し、黒い樽が灰と石灰で封じられても、その音は完全には消えなかった。
ただ、弱くなっていた。
村全体を押し潰すような音ではない。
まだ痛みを抱えた土地が、眠れずに身じろぎしているような音だった。
石蔵には、人が集まっていた。
避難小屋から移した老人と子どもたち。
歩けるようになった村人たち。
応急処置を受けたガロンたち。
そして、祠の近くから慎重に運ばれてきたトーマ、ミラ、村長オルグ、巡察二人。
全員を運ぶだけでも時間がかかった。
黒い草を避け、汚染水の跡を避け、担架を傾けず、急がず、止まらず。
それは戦いよりも難しい作業だった。
マーガレットは何度も汗を拭いながら担架を持った。
アレックスは周囲の黒根を雷糸で剥がした。
レクスターは休息明けの青白い顔で、誰の黒い筋が強まっていないか、何度も確認した。
カイは、父と母の担架の間を行ったり来たりしながら、ずっと名前を呼んでいた。
「トーマ父ちゃん」
「……ああ……」
「ミラ母ちゃん」
「……カイ……」
「寝るなよ」
「……少しは……寝かせて……」
「だめ。レクスターがまだ寝るなって」
「……厳しいね……」
ミラが弱く笑う。
トーマもかすかに口元を緩める。
カイは泣きそうな顔で怒った。
「笑うなよ」
「……お前が……怒るから……」
「怒ってない」
「……怒ってる……」
「怒ってないって!」
そのやり取りを聞いて、担架を持っていたマーガレットがまた涙ぐんだ。
「だめ、泣く」
「泣いています」
レクスターが後ろから言った。
「今日はいいの!」
「最近ずっと許可制が緩いですね」
「だって親子だよ!?」
「それは、はい」
レクスターは少しだけ目を伏せた。
「泣く理由としては十分です」
「レクスターも泣く?」
「私は処置中です」
「処置が終わったら?」
「検討します」
「検討!」
カイが振り返り、少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
けれど、その笑いだけで、周囲の村人たちの顔にも淡いものが戻った。
石蔵へ全員を移し終えた頃には、空は完全に暗くなっていた。
火は使えない。
レクスターが厳しく禁じた。
黒い樽の薬は気化した成分にも反応する可能性があり、村の中心付近で火を使えば危険がある。
だから石蔵の灯りは、覆い付きの小さなランプだけだった。
それも必要最低限。
光は弱い。
だが、石蔵にいる者たちは、その弱さを嫌がらなかった。
強すぎる光は、今は怖い。
青白い薬の光を思い出すからだ。
小さく、温かく、揺れないよう守られた灯り。
それくらいが、ちょうどよかった。
石蔵の中央には、種袋が積まれている。
麦。
豆。
根菜。
小さな薬草。
袋には村人たちの名前が書かれていた。
トーマの字。
ミラの縫い印。
ミレ婆の古い札。
村長オルグの押印。
ハルダ村が季節ごとに残してきたもの。
黒い畑の夜に、それらは静かにそこにあった。
カイは、両親のそばへ座った。
父トーマは横になったまま、片手を布越しにカイへ伸ばしている。
母ミラも、反対側から手を伸ばしている。
三人は、直接触れられない。
レクスターがまだ許可しなかった。
黒い筋が完全に落ち着くまでは、布越しにする必要がある。
それでも、カイは文句を言わなかった。
布越しでも、父と母の手がある。
それだけで、彼は何度も涙を拭った。
「父ちゃん」
「……なんだ……」
「畑、戻るかな」
トーマはすぐには答えなかった。
天井を見上げる。
石蔵の梁。
古い木。
ランプの薄い影。
「……全部は……難しいだろうな……」
カイの肩が小さく落ちる。
だが、トーマは続けた。
「でも……種がある」
「うん」
「水車も……止まったんだろ……」
「うん。アレックスたちが止めた」
「なら……戻す」
「戻せる?」
「戻すんだ」
トーマの声は弱かった。
それでも、農夫の声だった。
畑を知る者の声。
土が黒くなっても、まだ終わりだと認めきれない者の声。
ミラも静かに言った。
「カイ。畑はね、一年だめでも、次の年に少し戻ることがあるの」
「ほんと?」
「ええ。雨が悪い年もある。虫に食われる年もある。病気が出る年もある。でも、種を残して、水を守って、土を見ていれば……全部じゃなくても、戻る場所はある」
カイは種袋を見る。
「じゃあ、俺も見る」
「何を?」
「土」
トーマが少し笑った。
「……お前、いつも畑仕事嫌がってたろ……」
「今は嫌じゃない」
「……そうか……」
トーマの目に涙が浮かぶ。
「なら……教える……」
「うん」
「字は母ちゃんに習え。俺の字は読みにくい」
ミラが弱く笑う。
「本当に読みにくいものね」
「母ちゃんまで」
カイは泣きながら笑った。
その笑いを、アレックスは少し離れて聞いていた。
親子の会話。
畑の話。
字の話。
明日の話。
黒い畑の夜に、それらはあまりにも尊かった。
グレイルでルミアが「あした」と言った時と同じだ。
明日を口にできること。
それは、生きる力だった。
石蔵の入口近くでは、マーガレットが子どもたちに硬いパンを分けていた。
慎重に小さく割る。
急に食べると身体に悪いと、レクスターから何度も言われている。
マーガレットはその言いつけを守っていた。
「少しずつね」
「もっと食べたい」
「分かる。でも少しずつ」
「マーガはいっぱい食べる?」
「本当はいっぱい食べたい」
「でも?」
「今は少しずつ」
「えらい?」
「えらい!」
子どもたちが少し笑う。
マーガレットも笑う。
その横で、ミレ婆が灰を入れた袋を確認していた。
明日、さらに畑の境界を囲うために使うものだ。
ガロンも座ったまま木札を書いている。
“水をかけるな”
“黒い土に触るな”
“この先、危険”
文字は震えていた。
だが、書いていた。
村を壊す側に利用された自分を責めながら、それでも今できることをしていた。
アレックスは彼へ近づいた。
「無理はしないでください」
ガロンは苦笑した。
「座って書くだけだ」
「それでも」
「何もしない方が、しんどい」
その言葉に、アレックスは頷いた。
分かる気がした。
動かなければ、後悔に押し潰される。
だから、少しでも手を動かす。
それは償いでもあり、生きるための支えでもある。
「俺は、サヴィルの話を信じちまった」
ガロンは木札を見つめたまま言った。
「畑が弱ってたんだ。今年は雨が少なかった。豆の育ちが悪くてな。来年の種も不安だった」
「はい」
「そこに、あの商会が来た。土を強くする薬だって。王都の農地でも使われてるって。今なら安く提供するって」
彼の手が震える。
「村長は止めた。でも俺は……新しいものを入れれば、楽になると思った」
「……」
「楽になりたかったんだ。畑を見るたび、不安で仕方なかったから」
アレックスは、何も言わずに聞いた。
責める言葉は簡単だ。
だが、ガロンが悪意で受け入れたわけではないことも分かる。
不安。
飢えへの恐怖。
来年への焦り。
そこにつけ込まれた。
サヴィルは、そういう弱さを計算したのだ。
「それでも、俺が招いた」
ガロンは低く言った。
「村が戻ったら、俺は皆に頭を下げる。戻らなくても、下げる」
「今は木札を」
「ああ」
ガロンはまた筆を動かした。
“水をかけるな”
震える文字。
でも、村を守る文字だった。
レクスターは石蔵の隅で、ようやく横になっていた。
水の本はマーガレットが預かっている。
本人は不本意そうだったが、疲労に勝てなかった。
だが、完全には眠れていない。
時折、目を開けて誰かの呼吸を確認している。
アレックスが近づくと、レクスターは薄く目を開けた。
「何か異常が?」
「いや。様子を見に来ただけ」
「私は問題ありません」
「その言葉は信用度が低い」
「改善中です」
「横になってるのは評価する」
「マーガレットの監視が厳しいので」
アレックスは少し笑った。
「休め」
「……はい」
レクスターは一度目を閉じた。
しかし、すぐにまた開ける。
「アレックス」
「うん」
「サヴィルの言葉ですが」
「王都のことか」
「はい」
レクスターの声は低い。
疲れているのに、思考は止まっていない。
「グレイルの帳簿、グレイ商会、ハルダ村の土壌改変剤。これらは別々の事件ではなく、同じ網の一部である可能性が高い」
「ああ」
「王都へ近づくほど、危険は増します」
「分かってる」
「あなたが追放王子であることも、利用されるでしょう」
「それも分かってる」
レクスターは目を伏せた。
「それでも行くことになる」
「いつかは」
「怖いですか」
「怖い」
アレックスは即答した。
レクスターが少しだけ目を開ける。
「即答ですね」
「最近、正直に言うようにしてる」
「良い傾向です」
「レクトも怖いか」
「怖いです」
「そうか」
「ですが、見ないふりをすると、同じことが続く」
「ああ」
石蔵の中で、カイの声が聞こえた。
子どもたちに種袋の名前を教えている。
「これは麦。こっちは豆。これ、父ちゃんの字。読みにくいけど麦」
子どもたちが笑う。
レクスターはその声を聞きながら言った。
「彼らの声を聞いた後では、なおさら」
「うん」
「ただし、今夜は王都ではなく、ハルダ村です」
「分かってる」
「黒い樽の再反応に注意。水路の切り替えは明朝。夜間作業は危険です」
「つまり?」
「今夜は守備と休息」
アレックスは少し驚いた。
「レクトが休息を提案した」
「必要です」
「成長したな」
「子ども扱いしないでください」
そう言いながら、レクスターは今度こそ目を閉じた。
呼吸が少しずつ深くなる。
アレックスは静かにその場を離れた。
石蔵の外へ出ると、夜の空気が冷たかった。
黒い畑は、月明かりの下で鈍く光っている。
青白い薬の光ではない。
灰と石灰で抑えられたせいか、畑の黒は少し乾いたように見えた。
それでも、不気味さは消えない。
遠くの集会倉庫には見張りが立っている。
サヴィルは拘束されたまま。
樽は封じた。
だが、完全な安全ではない。
アレックスは、少し離れた場所に立っているマーガレットに気づいた。
彼女は水の本を両手で抱えている。
かなり大事そうに。
アレックスは近づいた。
「落としそうか?」
「絶対落とさない」
「抱きしめて折りそうか?」
「それも我慢してる」
「偉い」
「でしょ」
マーガレットは小さく笑った。
その笑顔にも疲れがあった。
腕には黒根に触れた跡が薄く残っている。
レクスターが処置したため広がってはいないが、痛みはあるはずだ。
「腕は?」
「ちょっと痛い」
「正直」
「怒られるから」
「誰に」
「アレックスとレクスター」
「俺も怒る側か」
「うん」
アレックスは苦笑した。
しばらく二人は黒い畑を見ていた。
マーガレットがぽつりと言う。
「戦うより、戻す方が大変だね」
「ああ」
「敵を倒したら終わりじゃないんだね」
「そうだな」
「グレイルもそうだった。ルミアちゃんの名前を見つけて終わりじゃなくて、治療とか、記録とか、町の人たちとか」
「うん」
「ハルダも、サヴィル捕まえて終わりじゃない。畑、種、水、村の人たち」
「うん」
マーガレットは水の本を少し抱え直した。
「旅って、重いね」
「重いな」
「でも、置いていきたくないね」
「ああ」
「私、たぶん前だったら、サヴィル殴って終わりにしたかった」
「今も殴りたいだろ」
「殴りたい」
即答だった。
アレックスは少し笑った。
マーガレットも笑う。
「でも、殴るより先に、灰撒いた方が村が助かるんだよね」
「そうだな」
「それ、悔しいけど大事」
「うん」
黒い畑が、ぎし、と鳴った。
マーガレットはそれを見て、小さく言った。
「畑も、痛いのかな」
「分からない」
「でも、戻したい」
「ああ」
「明日、水路を切り替えるんだよね」
「レクトの予定だと」
「大変そう」
「大変だろうな」
「でも、やろう」
「うん」
石蔵の中から、カイの声が聞こえてきた。
「サム、それは豆じゃない。根菜の種」
「根菜って何?」
「土の中にできるやつ」
「土、黒いよ」
「戻すんだよ」
「戻る?」
「戻す」
カイの声は、まだ少年の声だった。
でも、そこには確かな芯があった。
マーガレットは涙ぐんだ。
「カイ、強くなったね」
「ああ」
「子どもなのに」
「子どもだから、強くならなくていいのにな」
アレックスの言葉に、マーガレットは黙った。
その沈黙には、グレイルの子どもたちも、ハルダの子どもたちも、全部含まれていた。
大人の闇の中で、子どもが強くならざるを得ない。
それは本当は、誇るより先に悔しがるべきことなのかもしれない。
マーガレットは低く言った。
「だから、早く少しでも楽にしてあげたい」
「うん」
「明日、頑張ろう」
「頑張ろう」
その夜、ハルダ村は完全には眠れなかった。
見張りを交代で立てた。
黒い樽の様子を確認した。
負傷者の黒い筋が強まっていないか、何度も見た。
子どもが泣けば、カイやミレ婆が名前を呼んだ。
マーガレットは水の本を守りながら、途中でうとうとして、慌てて起きた。
アレックスは石蔵の入口で夜を見張った。
レクスターは短くても深い眠りを取った。
トーマとミラは、布越しにカイの手を握ったまま眠った。
サヴィルは集会倉庫で拘束されたまま、何を考えているのか分からない目で暗闇を見ていた。
黒い畑は、時折鳴った。
ぎし。
ぎし。
それでも、その音は夜明けへ向かうにつれて少しずつ弱くなっていった。
そして、東の空がわずかに白み始めた頃。
石蔵の中で、ミレ婆が種袋を一つ抱きしめながら呟いた。
「朝が来るよ」
誰かが泣いた。
誰かが息を吐いた。
カイが顔を上げた。
アレックスも外の空を見た。
ハルダ村の夜は、まだ終わりではない。
畑は黒いまま。
水路は危険なまま。
商会と王都の影は濃くなったまま。
それでも、朝は来る。
種の蔵に灯りが残り、人の名前が呼ばれ続けた夜を越えて。
ハルダ村に、戻すための朝が来ようとしていた。




