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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第70話 黒い樽の在り処】


 水車が止まっても、すぐに静かにはならなかった。


 むしろ、止まったからこそ聞こえる音があった。


 黒く濁った用水路の浅い流れ。


 湿った木材から落ちる水滴。


 黒い根が、力を失いながら土の中へ戻っていく擦れ音。


 助け出された人々の荒い呼吸。


 そして、マーガレットが必死に布を絞る音。


「これ、もう使えない!」


 彼女は黒く染まった布を見て、顔をしかめた。


 汚染水を拭った布は、薄い灰色を通り越して黒ずみ、ところどころ青白い染みを浮かべている。


 レクスターは即座に言った。


「焼却してください。素手で触らないように」


「分かった!」


「焼却場所は後で指定します。今は袋に隔離」


「袋、袋……あった!」


 マーガレットは荷物から古布を裂いて作った袋を出し、汚染布を慎重に押し込んだ。


 普段なら勢いで詰め込むところだが、今は違う。


 指先の位置を確認し、布の端が手袋からはみ出さないようにし、袋の口を固く縛る。


 その様子を見たレクスターが、ほんの少しだけ頷いた。


「上達しています」


「褒めた!?」


「はい」


「ちゃんと!?」


「ちゃんと」


「よし!」


 マーガレットは一瞬だけ嬉しそうに笑った。


 だが、すぐに表情を引き締める。


 水車小屋の前には、助け出した四人が横たえられていた。


 村長オルグ。


 巡察の男二人。


 そして、カイの母ミラ。


 全員、生きている。


 けれど、無事とは言えない。


 オルグは水車小屋の中で緊急排水弁を押さえ続けていたせいで、片腕と脇腹に黒い筋が浮かんでいる。


 巡察二人は足が汚染水に浸かっていたため、膝下に強い痺れがあるらしい。


 片方の巡察――ダンと呼ばれた男は意識を取り戻したが、もう片方のロウはまだ朦朧としている。


 そしてミラは、何度もカイの名を呼んでいた。


「……カイ……」


 かすれた声。


 意識はある。


 だが、体力が落ちている。


 腕に絡みついていた黒い根は剥がしたものの、肩から首筋にかけて黒い筋が残っていた。


 レクスターは彼女の脈を取り、水の本の上に短く記録する。


「ミラさん。聞こえますか」


「……はい……」


「これから安全な場所へ移動します。カイは近くにいます。トーマさんも救出済みです」


 ミラの目から涙がこぼれた。


「……トーマ……生きて……」


「はい」


「……カイは……怪我……」


「していません」


 レクスターは短く、しかしはっきり答える。


「あなたに会わせます。ただし、汚染が残っているので直接触れる前に処置が必要です」


 ミラは微かに頷いた。


「……それでも……会いたい……」


 その声に、マーガレットの手が止まった。


 彼女は唇を噛み、すぐに別の布を取り出す。


「会わせよう」


 小さな声だった。


「絶対、会わせよう」


 アレックスは水車を見上げていた。


 止まった水車は、黒い根に絡まれたまま沈黙している。


 さっきまで村を汚染し続けていたものとは思えないほど、今はただの壊れかけた木の輪に見えた。


 けれど、その中央にはひび割れた欠片核が残っている。


 完全に無力化できたわけではない。


 命令線を乱し、回転を止めた。


 だが、核はまだある。


 水車を放置すれば、また誰かが動かすかもしれない。


 あるいは、黒い樽とやらに繋がる仕掛けが再起動する可能性もある。


「レクト」


「はい」


「水車の核はどうする」


「今すぐ取り外すのは危険です」


 レクスターは水の本から顔を上げずに言った。


「回転は止まりましたが、核の内部反応は残っています。無理に外せば残留汚染が流出する可能性があります」


「封鎖か」


「はい。ここに目印を残し、後で処理します。まずは負傷者の搬送と、黒い樽の確認を優先すべきです」


 アレックスは頷く。


「村の奥、集会倉庫だったな」


「ミラさんと村長の証言では」


 レクスターが視線をミラへ向ける。


 ミラは弱々しく息を吸い、言葉をつないだ。


「……商人が……樽を……置いて……いきました……」


「商人の名前は分かりますか」


「……グレイ……商会……だったと……」


 アレックスとレクスターの視線が合った。


 グレイ商会。


 祠の金属板に刻まれていた商会印と一致する可能性が高い。


 そして、グレイルの帳簿にも似た名があったかもしれない。


 背中の帳簿がさらに重く感じられた。


「商会は何と言って樽を置いたんですか」


 レクスターが問う。


 ミラは苦しそうに眉を寄せる。


「……豊作薬……新しい……土を強くする薬だと……村長は……断った……でも……」


 村長オルグが呻いた。


「……わしは……断った……」


 彼の声は低く、掠れている。


「だが……数人の地主が……受け入れた……畑が弱っていたから……今年は雨が少なかった……皆、不安だった……」


 マーガレットが拳を握る。


「そこにつけ込んだんだ……」


「……ああ……」


 オルグは目を閉じる。


「わしが……もっと強く止めていれば……」


「違います」


 アレックスは即座に言った。


 その声に、オルグが目を開ける。


「悪いのは、嘘をついて薬を置いた者です」


「……だが、村長のわしが……」


「責任は後で考えられます。でも今は、生きて村へ戻ることを考えてください」


 オルグはしばらくアレックスを見た。


 疲れ切った目。


 悔しさと後悔で濁った目。


 それでも、その奥にまだ村長としての火が残っていた。


「……村を……助けられるか」


 アレックスは軽くは答えなかった。


 水車は止めた。


 だが、畑は黒い。


 水は濁っている。


 集会倉庫には黒い樽がある。


 助けられる、と簡単には言えない。


 だから、彼は言った。


「助けるために進みます」


 オルグは小さく息を吐いた。


「……それで、十分だ……」


 搬送は慎重に行われた。


 水車小屋周辺は、まだ汚染が強い。


 黒い草の反応は水車が止まったことで弱まっていたが、完全に消えたわけではない。


 少しでも踏み込む位置を間違えれば、根が動く。


 だから、アレックスが先頭で安全な道を探り、レクスターが水糸で土の湿りと汚染濃度を見て、マーガレットが布と枝を使って簡易担架を作った。


 マーガレットはミラを担架へ乗せる時、何度も聞いた。


「痛くないですか?」


「……大丈夫……」


「ほんとに? 痛いなら言ってくださいね」


「……はい……」


「我慢しなくていいです」


 ミラはその言葉に、少しだけ涙を浮かべた。


「……あなたは……優しいのね……」


 マーガレットは一瞬、照れたように目を丸くした。


 そして、首を横に振る。


「優しいかは分かりません。でも、痛いのは嫌です」


 ミラは弱く笑った。


「……それは……優しいのよ……」


 マーガレットは泣きそうになりながら、担架の紐を結び直した。


「レクスター、結び方これで合ってる!?」


「確認します」


「優しいって言われたから絶対失敗したくない!」


「動機はともかく、良い心がけです」


「ともかくって!」


 そんなやり取りをしながらも、手は止まらない。


 マーガレットはミラを運び、アレックスは意識の薄い巡察ロウを背負い、レクスターはダンとオルグの状態を確認しながら歩いた。


 何度も止まった。


 布を替えた。


 水を少し含ませた。


 黒い筋の脈動が強まらないか確認した。


 進む速度は遅い。


 だが、急ぐわけにはいかなかった。


 帰り道、黒い畑は先ほどより静かだった。


 水車の回転が止まったからだろう。


 用水路の流れも弱まっている。


 畑全体から聞こえていた軋みは、小さくなっていた。


 ぎし。


 ……ぎし。


 まだ鳴る。


 でも、絶え間ない悲鳴ではなくなっている。


 マーガレットはそれを聞きながら、ぽつりと言った。


「ちょっとだけ、静かになったね」


 レクスターが答える。


「主要な供給源の一つを止めた効果でしょう」


「畑、楽になったかな」


「植物に苦痛があるかは不明です」


「でも、苦しそうだった」


「……そうですね」


 レクスターは少しだけ間を置いて言った。


「少なくとも、正常ではありませんでした」


「うん」


「正常に戻せるかは、まだ分かりません」


「でも、戻したい」


「はい」


 マーガレットは担架を握り直す。


「畑も、戻そう」


 アレックスはその言葉を聞きながら、黒い麦を見た。


 村の命。


 食べ物を作り、家族を支え、季節を刻んできた畑。


 それを守ることも、灯りを守る旅なのだろう。


 グレイルでは名前を守った。


 ハルダでは、土地を守る。


 形は違っても、根は同じだ。


 人が明日を生きるための場所を守る。


 やがて、祠の近くへ戻った。


 カイは、父トーマのそばに座っていた。


 両手で父の手を握り、何度も名前を呼んでいた。


「トーマ父ちゃん。寝るなよ」


「……うるさい……」


「寝るなって」


「……寝てない……」


「絶対寝てただろ」


「……少し……」


「だめだって!」


 そのやり取りに、アレックスは胸が少し温かくなった。


 トーマの意識は、さっきよりもはっきりしているようだった。


 カイが名前を呼び続けた効果もあるのだろう。


 だが、カイはアレックスたちの姿を見た瞬間、顔色を変えた。


「母ちゃん!?」


 彼は立ち上がった。


 走り出そうとして、すぐにレクスターの言葉を思い出したのか、足を止める。


 止まった。


 止まれた。


 それだけでも、彼は必死に約束を守っている。


「触っていいか!?」


 カイは叫ぶ。


 レクスターがすぐ答える。


「処置後、布越しに」


「今は!?」


「少し待ってください」


「……っ!」


 カイは拳を握った。


 でも、待った。


 その姿を見て、マーガレットが小さく言う。


「偉い」


「偉くない!」


「偉いよ」


「うるさい!」


 それでも、カイの目はミラから離れない。


 ミラは担架の上で、ゆっくり目を開けた。


「……カイ……」


「母ちゃん!」


 その声を聞いた瞬間、カイの顔が崩れた。


 我慢していたものが全部落ちるように、涙が溢れた。


「母ちゃん……! 母ちゃん!」


「……無事……だったのね……」


「母ちゃんこそ……! なんで……なんで水車なんかに……!」


「……村を……見に……」


 ミラは苦しそうに息をしながら、それでも息子を見ていた。


 トーマも、担架の上から妻を見る。


「……ミラ……」


「……トーマ……」


 夫婦の視線が重なる。


 たったそれだけで、周囲の空気が震えた。


 手を伸ばしたい。


 抱きしめたい。


 だが、直接触れられない。


 汚染が残っているから。


 それがもどかしかった。


 レクスターが手早く布を用意した。


「手を重ねるなら、この布越しに。長時間は避けてください」


 カイは布を受け取り、ミラの手へそっと重ねた。


 トーマも、反対側から布越しに手を伸ばす。


 三人の手が、薄い布を挟んで重なった。


 カイは泣いた。


 声を殺せなかった。


「母ちゃん……父ちゃん……」


 ミラも泣いていた。


 トーマも、目を閉じたまま涙を流していた。


 マーガレットは背を向けた。


 泣いている顔を見られたくなかったのかもしれない。


 だが、肩が震えている。


 レクスターは何も言わなかった。


 ただ、三人の黒い筋の脈動を静かに見ていた。


 そして、少しだけ表情を緩める。


「名前への反応、あり」


 小さく呟く。


 アレックスはそれを聞いて頷いた。


 名前。


 呼び合うこと。


 家族として、互いを戻すこと。


 グレイルでも、ここでも、それは命令を弱める。


 人を人へ戻す。


 しばらく、誰も急かさなかった。


 黒い畑はまだそこにある。


 村の奥には黒い樽がある。


 時間はない。


 それでも、この時間は必要だった。


 救った命が、自分の大事な人に届く時間。


 待っていた者が、戻ってきた者の名を呼ぶ時間。


 それを奪ってしまったら、何のために助けたのか分からなくなる。


 マーガレットが涙を拭いながら振り返った。


「……よかった」


 カイは泣きながら言った。


「まだよくない」


「うん」


「村がまだ……」


「うん」


「母ちゃんも父ちゃんも、まだ怪我してる」


「うん」


「でも……」


 カイは言葉に詰まった。


「でも、生きてる」


 マーガレットが頷く。


「うん。生きてる」


 カイは、両親の手を布越しに握りしめた。


「生きてる……」


 その言葉が、祠の近くの空気に溶けた。


 黒い草の中で。


 汚染された畑のそばで。


 それでも、生きている。


 アレックスは少し離れた場所で、村長オルグと向き合った。


 オルグは横たわったまま、苦しそうに息をしている。


 それでも、村長として話そうとしていた。


「……集会倉庫は……村の中央だ……」


「黒い樽はそこに?」


「……ああ……三つ……いや、四つ……」


「商人は何と言って置いていったんですか」


「……土を強くする薬……井戸に薄めて使えば……作物が戻ると……」


 レクスターが険しい顔で言う。


「井戸へ投入させるつもりだった」


 オルグは悔しそうに目を閉じた。


「……わしは反対した……だが……すでに祠と水車に仕込まれていた……気づいた時には……」


「樽は開けられましたか」


「……一つだけ……地主の一人が……」


「その人は?」


 オルグは黙った。


 沈黙だけで、良い状態ではないと分かった。


「……村の奥で……倒れた……その後……畑に……入って……戻らん……」


 マーガレットが低く言う。


「また……」


 アレックスは拳を握る。


「集会倉庫に行く必要がある」


 レクスターが頷く。


「ただし、樽が原液なら破損は厳禁です。水車より危険な可能性があります」


「黒い樽を壊さない」


「はい。触れる前に構造確認。可能なら封鎖。運搬は危険です」


 カイが顔を上げる。


「俺も行く」


 その声に、全員が彼を見る。


 カイの顔は涙で濡れている。


 けれど、目は強い。


「父ちゃんも母ちゃんも見つかった。でも村にまだ人がいる。母ちゃんが言ってた。避難小屋に、まだ何人かいるって」


 ミラが弱く頷いた。


「……子どもと……老人が……奥の避難小屋に……」


「なら俺が道を知ってる」


 カイはアレックスを睨むように見る。


「今度は連れていけ」


 アレックスはすぐには答えなかった。


 カイを連れていく危険。


 だが、村の道、避難小屋、集会倉庫の位置を知る者は必要だ。


 村長もトーマもミラも動けない。


 地図だけでは、汚染された村の中で迷う可能性がある。


 カイはそれを分かっている。


 そして、先ほど約束を守って待てた。


 アレックスは、レクスターを見る。


 レクスターは少し考えてから言った。


「条件を厳格化します」


 カイが食い気味に言う。


「守る」


「まだ言っていません」


「守る」


「……単独行動禁止。黒い水、黒い草、樽に触れない。指示が出たら即時停止。避難小屋の位置を示した後、必要なら後方待機」


「分かった」


「本当に?」


「分かった!」


 マーガレットがカイを見る。


「怖くなったら言ってね」


「怖くない」


「うん。でも言ってね」


「……分かった」


 その返事は、前より少し素直だった。


 トーマが息子の手を握る。


「……行くなって……言いたい……」


「父ちゃん……」


「でも……村の道を……知ってるのは……お前だ……」


 トーマは悔しそうに目を閉じる。


「……無事に……戻れ……」


 カイは泣きそうな顔で頷いた。


「戻る」


 ミラも弱く言った。


「……絶対……」


「うん」


「……無理を……しない……」


「うん」


 カイは両親の手を離し、立ち上がった。


 少し背が伸びたように見えた。


 実際には変わっていない。


 けれど、彼の中で何かが変わっている。


 待つだけの子どもではなく、村の道を知る一人として立とうとしていた。


 アレックスは言った。


「行こう」


 マーガレットが頷く。


「うん」


 レクスターは村長たちの処置を終え、状態を再確認する。


「ここに残すのは危険ですが、移動させすぎても危険です。祠周辺の反応は弱い。カイの両親と村長、巡察はここで一時待機。カイ、笛は持っていますか」


「持ってる」


「何かあれば吹く。こちらからも戻ります」


 ミラがカイを見た。


「……カイ……」


「母ちゃん」


「……名前を……呼んで……」


「え?」


「……怖くなったら……私たちの名前を……」


 カイの目が潤む。


 ミラは微かに笑った。


「……そうしたら……戻れる……」


 カイは唇を噛み、強く頷いた。


「うん」


 トーマも言った。


「……カイ……」


「何」


「……走りすぎるな……」


「分かってる」


「……転ぶから……」


「子ども扱いすんなよ」


「……子どもだろ……」


「うるさい」


 そのやり取りに、ほんの少し笑いが生まれた。


 黒い祠のそばで。


 汚れた畑のそばで。


 親子が軽口を交わせた。


 それだけで、空気が少しだけ柔らかくなった。


 アレックスたちは、村へ向けて歩き出した。


 カイが先頭に立つ。


 だが、今度は走らない。


 レクスターの言いつけ通り、足元を確認しながら進む。


 マーガレットがすぐ後ろにいる。


 カイが焦って飛び出さないように。


 アレックスはその横を歩き、周囲の根の動きを見る。


 レクスターは地図を確認しながら、水路の反応を追っている。


 黒い畑の向こうに、ハルダ村の家々が見えてきた。


 低い屋根。


 木の柵。


 煙の出ていない煙突。


 閉じた窓。


 人の気配は薄い。


 だが、完全に無人ではない。


 どこかで扉が軋む音がした。


 遠くで、誰かが咳き込む声が聞こえた。


 そして、村の中心へ続く道の先に、大きめの建物があった。


 集会倉庫。


 カイが指差す。


「あそこだ」


 その声は震えていた。


「黒い樽があるのは、あそこ」


 集会倉庫の扉は、半分開いていた。


 中から、青白い光が漏れている。


 水車小屋の核よりも、祠の核よりも、ずっと濃い光。


 レクスターの顔が一気に険しくなる。


「……濃度が高い」


 マーガレットがハルバードを握る。


「人は?」


 アレックスは耳を澄ませた。


 倉庫の中から、音がする。


 水が揺れる音。


 木が軋む音。


 そして。


 低い笑い声。


 アレックスは目を細めた。


「誰かいる」


 カイが息を呑む。


「商人……?」


 答えはすぐに来た。


 集会倉庫の中から、男の声がした。


「水車まで止めたのか」


 落ち着いた声だった。


 村の惨状に似合わない、乾いた声。


「まったく。グレイルで騒ぎを起こした旅人たちとは、君たちのことかな?」


 アレックスの背筋が冷える。


 グレイルを知っている。


 この男は、ただの村の関係者ではない。


 倉庫の扉がゆっくり開いた。


 中に立っていたのは、灰色の外套を着た細身の男だった。


 商人らしい整った服。


 手袋。


 胸には小さな商会印。


 祠で見つけたものと同じ印。


 グレイ商会。


 男の足元には、黒い樽が四つ並んでいた。


 そのうち一つは蓋が開いている。


 中から青白い光が漏れ、黒い液体がゆっくり揺れていた。


 男は微笑んだ。


「初めまして、追放王子殿」


 アレックスの手が雷の刃へ伸びる。


 マーガレットがカイを背後に下げる。


 レクスターが水の本を開く。


 男は笑みを深くした。


「私はグレイ商会の調整役、サヴィル。ハルダ村の土地再生計画を担当している者だ」


 マーガレットが低く言う。


「再生……?」


「そうだよ」


 サヴィルは、黒い樽に手を置いた。


「一度壊さなければ、土地は新しくならない」


 その言葉に、カイが震えた。


「ふざけるな……」


 サヴィルは少年を見た。


「ああ、ハルダの子か。君たちはいつもそうだ。古い畑にしがみつき、効率を知らず、売り時を逃す」


「ふざけるな!」


 カイが叫ぶ。


 飛び出そうとする彼を、マーガレットが止める。


 今度はカイもすぐには暴れなかった。


 ただ、怒りで震えている。


 アレックスはサヴィルを睨んだ。


「この汚染を仕掛けたのはお前か」


「仕掛けた、とは人聞きが悪い」


「祠に核を置いた。水車にも。村の水と畑を汚染した」


「試験だよ」


 サヴィルは平然と言った。


「土壌改変剤のね。少し反応が強すぎたが、収穫はあった」


 マーガレットの足元が沈みかけた。


 怒りで踏み込みそうになったのだ。


 だが、カイが背後にいる。


 黒い樽がある。


 壊せない。


 彼女は歯を食いしばって踏みとどまった。


「人が苦しんでる」


「土地の転換には痛みが伴う」


「村長も、巡察も、カイのお父さんもお母さんも!」


「生きているなら幸いだ」


「幸い……?」


 マーガレットの声が震える。


「それ、本気で言ってるの?」


 サヴィルは首を傾げた。


「もちろん」


 アレックスは静かに雷の刃を抜いた。


「サヴィル。黒い樽から離れろ」


「嫌だと言ったら?」


「止める」


「壊せるかな?」


 サヴィルは樽を軽く叩いた。


 青白い液体が揺れる。


 レクスターが鋭く言う。


「触れないでください」


 サヴィルは笑った。


「賢いね。これが割れれば、村の中心は完全に終わる」


 また選択を突きつける声。


 アレックスは奥歯を噛んだ。


 だが、今回は違う。


 相手が目の前にいる。


 樽も見えている。


 仲間もいる。


 カイも、村も、ここで見ている。


 アレックスは静かに言った。


「終わらせない」


 サヴィルの笑みが少しだけ動く。


「そうか」


 彼は手袋の指を鳴らした。


 倉庫の奥で、何かが動いた。


 黒い根ではない。


 人影。


 村人たちだ。


 目が虚ろで、手には農具を持っている。


 黒い筋が腕に浮かんでいる。


 カイが息を呑んだ。


「あれ……地主のガロン……それに……」


 知っている村人たち。


 樽を受け入れた者。


 薬に触れた者。


 彼らが、サヴィルの後ろに立っていた。


 サヴィルは微笑む。


「土地再生に協力的な方々だよ」


 レクスターが低く言う。


「支配反応あり」


 マーガレットがハルバードを構える。


「傷つけず止めるやつだね」


「はい」


 アレックスも刃を構える。


「カイ、後ろへ」


「でも……!」


「君の村の人たちだ。名前を教えてくれ」


 カイは息を呑んだ。


 名前。


 ここでも、名前だ。


 彼は震えながら、村人たちを見た。


「ガロン……ミツ婆……ロイド……ハンス……」


 その名が空気に落ちるたび、虚ろな村人たちの指がわずかに動いた。


 サヴィルの目が細くなる。


「なるほど。名前で揺れるのか」


 アレックスは前へ出た。


「知らなかったか」


「興味深い」


「研究するな」


 マーガレットが低く言う。


「人の名前を、道具みたいに見るな」


 サヴィルは微笑んだ。


「では、見せてもらおう」


 彼が手を上げる。


 虚ろな村人たちが、一斉に農具を構えた。


 黒い樽の前で。


 ハルダ村の中心で。


 村を壊そうとする商人と、村を守ろうとする旅人たちが向かい合う。


 アレックスは雷の刃を構え直した。


 樽を壊さず。


 村人を傷つけず。


 サヴィルを逃がさず。


 また難しい戦いだ。


 でも、やるしかない。


「カイ」


 アレックスは言った。


「名前を呼べ」


 カイは泣きながら頷いた。


「分かった」


 マーガレットが一歩前に出る。


「私は受け止める」


 レクスターが水の本を開く。


「私は樽を監視します。破損阻止を最優先」


 アレックスが頷く。


「行くぞ」


 黒い樽が青白く揺れた。


 村人たちの農具が鈍く光る。


 サヴィルの笑みは崩れない。


 だが、ハルダ村の灯りは、まだ消えていない。


 名前を呼ぶ声がある限り。


 まだ、戻れる。


 アレックスたちは、集会倉庫の前で踏み出した。

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