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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第69話 止まらない水車】



 用水路の水は、灰色に濁っていた。


 流れているはずなのに、どこか淀んで見える。


 水面には薄い膜が張り、光の角度によって青白く揺れた。


 その下を、黒いものがゆっくり流れていく。


 泥ではない。


 藻でもない。


 細い根のようなものだった。


 水の流れに逆らい、時折うねる。


 まるで、用水路そのものが血管になり、その中を黒い血が流れているようだった。


 アレックスは水路の縁から少し離れて歩いていた。


 足元は畑の境界に近い乾いた道。


 だが、そこも安全とは言えない。


 黒い草はところどころ道の端まで侵食している。


 踏めば反応するかもしれない。


 触れれば、黒い液が飛ぶかもしれない。


 背中の帳簿が重い。


 ハルダ村の汚染と直接関係はないはずのグレイルの帳簿。


 それでも、アレックスには今、この重さが妙に繋がって感じられた。


 グレイルで人を番号にした闇。


 ハルダ村で畑を黒く染める闇。


 別の形をしている。


 だが、根は似ている。


 誰かの生活を奪い、誰かの名前を消し、誰かの土地を壊して、利益に変えようとするもの。


 アレックスは奥歯を噛んだ。


 前方には水車小屋がある。


 トーマの証言では、誰かが水車に石を入れた。


 村長が見に行って戻らない。


 巡察も戻っていない。


 カイの母も村の奥に残っている。


 水車を止めれば、水路への汚染拡散を抑えられるかもしれない。


 だが、そこに人が捕らわれている可能性もある。


 また選択になる。


 グレイルから続く、嫌な選択。


 マーガレットはハルバードを握り、アレックスの少し後ろを歩いていた。


 いつもなら先に行きたがる彼女が、今は足元を慎重に見ている。


 黒い草を踏まないように。


 水路の飛沫を浴びないように。


 けれど、目は常に周囲を見ている。


 カイを置いてきた場所。


 トーマの状態。


 畑の動き。


 そして、見えない村人たち。


 彼女は全部を気にしている。


「カイ、大丈夫かな」


 マーガレットが小さく言った。


 アレックスは前を見たまま答える。


「不安だろうな」


「トーマさん、持ちこたえてくれるよね」


「レクトの応急処置はできてる」


「うん」


「カイも名前を呼び続けてる」


「うん」


 それでも、マーガレットの表情は晴れない。


「待つのって、やっぱり辛いね」


「ああ」


「でも、待てたんだよね。カイ」


「うん」


「偉いね」


「そうだな」


 レクスターは水路を見ながら歩いていた。


 水の本は開いたまま。


 細い水糸を水路へ伸ばしては、すぐに引き戻す。


 長く触れさせると汚染が伝わる可能性があるためだ。


 彼の表情は厳しい。


「水路の汚染濃度が上がっています」


「水車に近づいてるからか」


 アレックスが聞く。


「はい。祠周辺の水より強い。水車小屋が主要な拡散点である可能性が高いです」


「止められる?」


「構造次第です」


「つまり、見ないと分からない」


「はい」


 マーガレットがため息をつく。


「最近それ多いね」


「不明なものは不明です」


「嘘言わないのはいいけど、怖い」


「私も怖いです」


 マーガレットが少し驚いた顔をした。


 レクスターは水路を見たまま続ける。


「水は広がります。一度汚染されると、止めるのは困難です。グレイルの原液槽は止められましたが、ここはすでに流れている」


「……うん」


「だから怖い」


 レクスターの声は淡々としていた。


 けれど、確かに怖いと言った。


 マーガレットは少しだけ表情を柔らかくした。


「でも、止めよう」


「はい」


 その時だった。


 水路の反対側、黒くなった麦畑の中で、何かが光った。


 アレックスが足を止める。


「待て」


 マーガレットも構える。


 レクスターが目を細めた。


「金属反応」


 畑の中に、何かが落ちている。


 半分黒い草に埋もれているが、銀色のものが見えた。


 アレックスは慎重に近づく。


 畑には入らない。


 雷糸を伸ばし、その物を引き寄せる。


 黒い草がわずかに揺れたが、祠ほど激しくは反応しない。


 銀色の物が土の上を滑り、道端へ出てきた。


 それは、巡察の徽章だった。


 汚れ、黒い筋が付着している。


 だが、王国直轄の巡察を示す印が残っている。


 アレックスは拾わず、布越しに確認した。


「巡察のものか」


 レクスターが頷く。


「はい。巡察小屋から来た二人のうち、どちらかのものでしょう」


 マーガレットが周囲を見る。


「本人は?」


 誰もいない。


 黒い畑が揺れるだけ。


 ぎし。


 ぎし。


 その音が、さっきより近く感じられた。


 アレックスは徽章の周囲を見た。


 土に足跡がある。


 人の足跡。


 水車小屋の方向へ続いている。


 しかし途中で乱れている。


 何かに引きずられたような跡もあった。


 マーガレットの顔が曇る。


「連れていかれた?」


「可能性があります」


 レクスターが答える。


「根か、人か」


「どちらもあり得ます」


 アレックスは徽章を布に包んだ。


「証拠として持つ」


「帳簿と一緒に?」


 マーガレットが聞く。


「ああ」


 アレックスは、また重さが増えた気がした。


 グレイルの帳簿に、ハルダ村の徽章。


 行方不明の巡察。


 繋がるものが増えていく。


 彼らはさらに進んだ。


 水車小屋へ近づくにつれ、音が聞こえ始めた。


 ごとん。


 ごとん。


 ぎい。


 ごとん。


 水車の回る音。


 だが、普通の水車の音ではない。


 水を受けて滑らかに回るのではなく、何かに無理やり回されているような音だった。


 軸が歪み、木が悲鳴を上げている。


 それでも止まらない。


 夜も回り続けるというトーマの言葉を思い出す。


 水車が止まらない。


 黒い水を送り続ける。


 それは、畑全体へ毒を回す心臓のようだった。


 やがて、水車小屋が見えた。


 村の外れ。


 用水路が二つに分かれる地点に、小さな木造の小屋が建っている。


 屋根は古い。


 壁には苔がつき、ところどころ板が剥がれている。


 本来なら穏やかな風景だったはずだ。


 水車が回り、水が畑へ運ばれ、村の暮らしを支える。


 だが今は違う。


 水車は黒く染まっていた。


 羽根の隙間に、黒い根が絡んでいる。


 水を受けるたび、青白い飛沫が散る。


 小屋の壁には黒い筋が走り、まるで建物そのものが汚染に侵されているようだった。


 小屋の周囲の草は完全に黒い。


 水路の水は濃い灰色で、ところどころ青白い泡が浮かぶ。


 マーガレットが息を呑む。


「ひどい……」


 レクスターが低く言う。


「中心濃度が高い。近づく時は布を」


 三人は口元を覆った。


 アレックスは水車小屋の周囲を観察する。


 人の気配。


 ある。


 小屋の中に。


 誰かがいる。


 だが、普通の気配ではない。


 荒い呼吸。


 低い呻き。


 そして、時折聞こえる木を叩く音。


 アレックスは手で二人を止めた。


「中にいる」


 マーガレットが目を鋭くする。


「村長? 巡察?」


「分からない」


 レクスターは小声で言った。


「水車を止める前に中の確認が必要です。ただし、小屋に入ると逃げ道が限られます」


「外から呼ぶか」


 アレックスは小屋へ向かって声を張った。


「誰かいるか!」


 水車の音が続く。


 ごとん。


 ぎい。


 ごとん。


 返事はない。


 だが、中で何かが動いた。


 壁の隙間から影が揺れる。


 マーガレットがもう一歩前へ出る。


「聞こえますか! 助けに来ました!」


 その瞬間、小屋の中から声がした。


「……来るな……」


 かすれた声。


 男の声。


 アレックスは声の方へ向く。


「誰だ!」


「……来るな……水車を……止めるな……」


 レクスターの顔が険しくなる。


「止めるな?」


 男の声は苦しそうだった。


「止めたら……村が……沈む……」


 マーガレットが困惑する。


「どういうこと?」


 アレックスも眉をひそめる。


 水車は汚染を広げているはずだ。


 止めなければならない。


 だが、中の男は止めるなと言った。


「あなたは村長か!」


 アレックスが問う。


 返事は少し遅れた。


「……ハルダ……村長……オルグ……」


 カイが言っていた村長だ。


 生きている。


 だが、様子がおかしい。


「オルグさん、何があった!」


「……石を……入れられた……水車に……黒い石……」


「誰に!」


「……顔は……見てない……商人の……馬車……夜……」


 商人。


 アレックスは布に包んだ金属板を思い出す。


 祠にあった商会印。


「水車を止めるな、とはどういう意味ですか」


 レクスターが聞いた。


 村長の声は震えている。


「止めると……下の貯め池に……全部流れる……」


「貯め池?」


 レクスターが地図を開く。


 カイの書いた地図には、水車の下流に小さな貯め池がある。


 そこから村の中心井戸に水が染み込む構造らしい。


 レクスターの顔色が変わる。


「水車を止めると、逆流防止弁が外れ、汚染水が貯め池へ落ちる仕掛け……?」


「罠か」


 アレックスが低く言う。


「はい」


 マーガレットが拳を握る。


「性格悪い……!」


「止めたら、村の井戸がさらに汚染される」


 レクスターが言う。


「止めなくても畑へ広がる。つまり、どちらでも被害が出るように設計されている」


 また選択。


 水車を止めるか。


 村の井戸を守るか。


 畑を守るか。


 人を助けるか。


 アレックスは奥歯を噛んだ。


 グレイルの原液槽と同じだ。


 追うか、止めるか。


 壊すか、流すか。


 相手は、こちらが守ろうとするものを読んで罠を作っている。


 オルグの声が続く。


「巡察が……止めようとして……根に……」


 その時、小屋の中から別の呻き声が聞こえた。


 複数。


 一人ではない。


 巡察も中にいる。


 マーガレットが叫ぶ。


「中の人、何人いますか!」


 返事は苦しそうだった。


「……私と……巡察二人……あと……」


 村長は一瞬言葉を詰まらせた。


「……ハルダの女が、一人……」


 アレックスの胸が嫌な音を立てた。


 ハルダの女。


 カイの母かもしれない。


「名前は!」


 アレックスが叫ぶ。


「名前を教えてください!」


 村長の声が途切れ途切れに返る。


「……ミラ……トーマの……妻……」


 カイの母だ。


 マーガレットが息を呑む。


「カイのお母さん……!」


 アレックスは小屋を見る。


 中に村長、巡察二人、ミラ。


 四人。


 そして水車には罠。


 止めれば汚染水が貯め池へ落ちる。


 止めなければ畑へ流れ続ける。


 さらに中の人々は根に捕らわれている可能性がある。


 レクスターが地図と水路を見比べる。


「対応手順を作ります」


「早く!」


 マーガレットが叫ぶ。


「分かっています」


 レクスターの声は早くなっている。


 しかし、雑にはならない。


「水車を直接止めるのは危険。まず貯め池側の流路を塞ぐ必要があります。ただし、完全に塞ぐと水車内圧が上がる。畑側の流路も一時的に絞る。並行して中の人を救出」


「多い!」


 マーガレットが叫ぶ。


「多いです!」


 レクスターも珍しく強く返した。


「ですがやるしかありません!」


 アレックスはすぐに役割を決める。


「マーガレット、貯め池側の流路を押さえられるか」


「見る!」


 彼女は水路を確認する。


 貯め池へ向かう分岐には木製の古い水門がある。


 黒い根が絡んでいるが、まだ形は残っている。


「多分、押さえられる!」


「完全に止めるな。絞るだけ」


「また半分のやつ!」


「そうだ」


「分かった!」


 レクスターが言う。


「私は畑側の流量を水糸で制御します。長くは持ちません」


「俺は中へ入る」


 アレックスが言う。


 マーガレットがすぐ見る。


「一人で?」


「中の人を外へ出す。雷糸で根を剥がす」


「私も」


「水門はマーガレットしか押さえられない」


「……」


「頼む」


 マーガレットは唇を噛んだ。


 一緒に入りたい。


 でも役割がある。


 グレイルで何度も学んだこと。


 全員が同じ場所へ行けば、守れないものがある。


 彼女は大きく頷いた。


「分かった。水門、絶対押さえる」


 レクスターが小瓶を取り出す。


「中に入る前に、これを布に染み込ませてください」


「何だ」


「中和草の抽出液。吸入毒の緩和用です。効果は限定的ですが、ないよりはましです」


「助かる」


 アレックスは布に染み込ませ、口元へ巻いた。


 水車小屋の入口へ近づく。


 黒い根が壁を這っている。


 扉は半分開いている。


 中は薄暗い。


 水車の軸が回る音。


 黒い水の滴る音。


 人の呻き。


 アレックスは雷の刃を構えた。


「オルグさん、入ります!」


「……来るな……危険……」


「助けに来ました」


 その言葉を言った瞬間、グレイルで何度も同じように言ったことを思い出した。


 助けに来た。


 それは簡単な言葉ではない。


 言った以上、背負う。


 アレックスは小屋へ踏み込んだ。


 内部は、外から見るよりひどかった。


 水車の軸が小屋の中央を貫き、黒い根がそこへ絡みついている。


 軸の周囲に青白い石。


 祠のものより大きい欠片核が、木枠に埋め込まれていた。


 それが回転に合わせて脈打っている。


 床は濡れていた。


 灰色の水が薄く広がり、ところどころ黒い根が這っている。


 壁際に、四人がいた。


 村長オルグ。


 巡察の男二人。


 そして、女性。


 ミラ。


 彼女は壁に寄りかかるように倒れている。


 腕に黒い根が絡み、肩まで黒い筋が浮かんでいた。


 だが、生きている。


 アレックスはほっとする暇もなく動いた。


「ミラさん!」


 女性の目が微かに開く。


「……カイ……?」


 その声に胸が痛む。


「カイは外にいます。トーマさんも救出しました」


 ミラの目が少しだけ開いた。


「……トーマ……カイ……」


「助けます」


 アレックスは彼女に絡む根へ雷糸を伸ばした。


 その瞬間、水車の核が強く光った。


 黒い根が反応する。


 壁際の巡察二人が呻く。


 村長が叫ぶ。


「触るな……根が……!」


「分かっています!」


 アレックスは雷を弱める。


 根を焼くのではなく、絡みを外す。


 ミラの腕に繋がる命令線。


 トーマの時と同じ。


 ただし、ここは水車核の近くだ。


 命令が強い。


 根が外れようとしない。


「レクト!」


 外へ叫ぶ。


「核の反応が強い!」


 レクスターの声が外から返る。


「水車回転と同期しています! 回転を落とさないと根の命令が弱まりません!」


「マーガレット!」


 アレックスの叫びに、外から返事。


「やってる!」


 外では、マーガレットが貯め池側の水門へ取りついていた。


 黒い根が絡む水門を、素手ではなく布を巻いた手で掴む。


 力を込める。


 完全に閉じない。


 少しずつ絞る。


 水流が変わる。


 水車の回転がわずかに鈍る。


 ごとん。


 ぎい。


 ごと……ん。


 だが、その瞬間、黒い根が水門から伸び、マーガレットの腕へ絡む。


「うわっ!」


「マーガレット!」


 レクスターが水糸で根を弾こうとするが、自分は畑側の流量制御で手一杯だ。


 マーガレットは歯を食いしばる。


「このくらい……!」


 彼女は根を切らない。


 切れば黒液が飛ぶ。


 代わりに、ハルバードの柄を根と腕の間へ差し込み、てこのように剥がす。


「離せぇ!」


 根が剥がれる。


 腕には黒い跡が少し残った。


 痛みが走る。


 だが、彼女は水門から手を離さない。


「大丈夫!」


 自分で叫ぶ。


 レクスターが言う。


「跡が出ています!」


「後で!」


「後では遅い場合があります!」


「でも今離したら水が流れる!」


 レクスターは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 その通りだった。


 今、マーガレットが離せば貯め池へ汚染水が落ちる。


「……三十秒です!」


 レクスターが叫ぶ。


「三十秒以内に終わらせます!」


「了解!」


 小屋の中で、アレックスにもその声は聞こえた。


 三十秒。


 その間に少なくともミラを剥がす。


 できれば全員。


 無理でも、根の核への接続を弱める。


 アレックスは雷糸を三本に分けた。


 ミラ。


 村長。


 巡察二人。


 全員へ同時に伸ばすのは無理だ。


 まずミラ。


 次に村長。


 巡察は……。


 迷う時間がない。


 アレックスはミラの根へ集中した。


 命令線は二本。


 腕と肩。


 肩の線が深い。


 名前が必要だ。


「ミラさん!」


 アレックスが叫ぶ。


「聞こえますか! カイが待っています!」


 ミラの目が揺れる。


「……カイ……」


「トーマさんも!」


「……トーマ……」


 根の脈動がわずかに乱れる。


 名前に反応している。


「戻りましょう!」


 雷糸が命令線へ入る。


 一つ。


 切る。


 ミラの腕が自由になる。


 二つ。


 肩の根が暴れる。


 黒い液が滲む。


 アレックスは歯を食いしばる。


「断て!」


 肩の根が外れた。


 ミラの身体が崩れる。


 アレックスは抱き止める。


 軽い。


 トーマも軽かった。


 グレイルのルミアも軽かった。


 助ける人たちは、どうしてこんなに軽いのか。


 怒りが胸を刺す。


 だが、今は運ぶ。


「外へ!」


 アレックスはミラを入口へ運ぶ。


 外でマーガレットが水門を押さえながら叫ぶ。


「こっち!」


 レクスターが水膜を張り、床の汚染水を少しだけ押し流す道を作る。


 アレックスはミラを外へ出した。


 レクスターがすぐ状態を見る。


「呼吸あり。侵食中度。処置可能!」


「カイの母だ」


「分かっています!」


 レクスターが応急処置を始める。


 だが、アレックスはすぐ小屋へ戻った。


 村長と巡察二人がまだいる。


 マーガレットが叫ぶ。


「あとどのくらい!?」


「限界まで二十秒!」


 レクスターが答える。


「短い!」


「延ばします!」


 レクスターの水糸が震えている。


 彼も限界に近い。


 水路の汚染水を抑えながら、外のミラを処置し、状況を見る。


 無茶だ。


 だが、やっている。


 アレックスは小屋へ戻る。


 村長オルグは、壁際で意識を保っていた。


「……先に……巡察を……」


「あなたも危険です」


「私は……村長だ……最後でいい……」


 アレックスは短く言った。


「全員助ける」


 オルグの目が揺れる。


「無理を……」


「する」


 アレックスは雷糸を伸ばした。


 今度は巡察二人へ。


 一人は意識がない。


 もう一人は浅く呼吸している。


 根の絡みはミラより浅いが、足が水に浸かっている。


 まず水から引き離す。


 雷糸で足元の根を剥がす。


 村長がかすれた声で呼ぶ。


「……ダン……ロウ……聞こえるか……」


 巡察の名前だ。


 ダン。


 ロウ。


 名前に反応して、二人の指が動く。


 やはり名前だ。


 名前が命令を乱す。


 アレックスはその隙に根を外す。


 一人。


 二人。


 重い。


 大人二人。


 アレックス一人では同時に運べない。


「マーガレット!」


「何!」


「一人頼む!」


「水門は!?」


 外でマーガレットが叫ぶ。


 その瞬間、レクスターの声。


「水門、私が十秒持ちます!」


「無茶!」


「十秒だけ!」


 水糸が水門へ伸びる。


 マーガレットが手を離す。


 同時に、水門が暴れた。


 レクスターの水糸が悲鳴を上げるように震える。


「十秒!」


 マーガレットは小屋へ飛び込んだ。


 黒い床を踏まないよう、入口の木枠を蹴って中へ入る。


「誰!」


「そっち!」


 アレックスが意識のある巡察を示す。


 マーガレットは巡察を抱え上げた。


「重い!」


「男の人だからな!」


「でも運ぶ!」


 彼女は慎重に、しかし速く外へ運ぶ。


 アレックスももう一人を抱える。


 外へ。


 水門の水糸が切れかける。


 レクスターの顔が苦痛に歪む。


「あと……三秒……!」


 マーガレットが巡察を外へ出す。


 アレックスも続く。


 レクスターが水糸を解く。


 マーガレットが再び水門へ飛びつき、押さえる。


「戻った!」


「助かります……!」


 レクスターが息を荒くする。


 残るは村長。


 小屋の中に一人。


 だが、水車の回転がまた強くなってきている。


 貯め池側の水門も、畑側の流路も限界。


 アレックスは小屋へ戻ろうとした。


 その時、水車の核が強く光った。


 ごとん。


 ごとん。


 ごとん。


 水車の回転が急に速くなる。


 黒い水が跳ねる。


 村長の悲鳴。


「来るな!」


 アレックスは入口で止まった。


 小屋の中央、水車軸に絡んでいた黒い根が一斉に膨らむ。


 村長オルグへ向かって伸びる。


 彼を取り込もうとしている。


「オルグさん!」


 アレックスが叫ぶ。


 村長は苦しそうに笑った。


「……水車を……止めろ……」


「でも止めたら貯め池が!」


「私が……弁を……押さえる……」


 村長の足元に、古い鉄のレバーがあった。


 貯め池への緊急排水弁。


 彼は根に捕らわれながら、それに身体を預けていた。


 ずっと押さえていたのだ。


 水車を止めるなと言ったのは、罠を知っていたから。


 そして今、彼自身が中で弁を押さえ続けていた。


 アレックスの胸が痛む。


「離れてください!」


「無理だ……根が……」


「剥がします!」


「先に……水車……」


 村長の声が強くなる。


「村を……守れ……!」


 また選択。


 水車を止めるか。


 村長を救うか。


 だが、もう選びたくない。


 アレックスは叫んだ。


「レクト! 両方やる!」


「具体策を!」


「俺が核を止める! マーガレットは水門! レクトは弁を水で支えろ!」


「村長の救出は!」


「核が沈んだ瞬間に引き出す!」


「危険です!」


「分かってる!」


 マーガレットが叫ぶ。


「やろう!」


 レクスターも歯を食いしばる。


「……五秒の隙を作ります!」


「十分!」


「十分ではありません!」


「でもやる!」


 アレックスは小屋の入口に立ち、雷の刃を水車核へ向けた。


 核は回転軸に埋め込まれている。


 壊せば水車ごと暴走するかもしれない。


 止めるには、回転と命令を同時に弱める必要がある。


 原液槽より複雑ではない。


 だが、動いている。


 回っている。


 雷糸を合わせるのが難しい。


 アレックスは息を吸った。


 グレイルで学んだすべてを、ここで使う。


 壊さず止める。


 流さず止める。


 名前で戻す。


 役割を分ける。


 一人で背負わない。


「行くぞ!」


 雷糸が水車核へ伸びた。


 同時に、マーガレットが水門を押さえ込む。


 レクスターが水糸で緊急排水弁を支える。


 村長が最後の力でレバーに身体を預ける。


 水車が唸る。


 黒い根が暴れる。


 アレックスの雷が、回転する核の命令線へ触れた。


 声が聞こえた。


『回せ』


『流せ』


『枯らせ』


『奪え』


 人の欲望を、植物と水に刻んだような命令。


 アレックスは叫んだ。


「そんな命令で、村を奪わせるか!」


 雷が走る。


 命令線が一本、ほどける。


 水車の回転がわずかに落ちた。


「今!」


 レクスターが叫ぶ。


 アレックスは小屋へ飛び込み、村長へ手を伸ばした。


 黒い根が最後の抵抗のように伸びる。


 マーガレットが入口からハルバードを伸ばし、根を叩き落とす。


「行け!」


 アレックスは村長の腕を掴んだ。


「オルグさん!」


 村長の目がアレックスを見る。


「……村を……」


「あなたも戻る!」


 アレックスは力を込めて引いた。


 根が絡む。


 雷で剥がす。


 水車が再び唸る。


 レクスターが叫ぶ。


「弁、限界!」


 マーガレットが水門を押さえながら叫ぶ。


「こっちも!」


 アレックスは村長を引きずるように入口へ向かう。


 あと少し。


 根が村長の足を掴む。


 アレックスは雷糸を一点へ集中させた。


「離せ!」


 根が弾ける。


 黒い液が飛ぶ。


 レクスターの水膜がぎりぎり間に合う。


 アレックスと村長が小屋の外へ転がり出た。


 その瞬間、水車の核が大きくひび割れた。


 完全に壊れたわけではない。


 だが、命令が乱れた。


 回転が鈍る。


 水の流れが弱まる。


 レクスターが叫ぶ。


「今なら止められます!」


「マーガレット!」


「任せて!」


 マーガレットは水門を押さえたまま、ハルバードの石突を水車の外部軸へ打ち込んだ。


 壊すためではない。


 回転を受け止めるため。


 ぎいい、と木が悲鳴を上げる。


 水車が止まろうとし、また回ろうとする。


 マーガレットの腕が震える。


「止まれぇぇぇ!」


 アレックスが雷糸を核へ再び伸ばす。


 レクスターが水流を反対から押さえる。


 三人の力が重なる。


 水車の回転が、ゆっくり、ゆっくり落ちていく。


 ごとん。


 ぎい。


 ご……。


 そして。


 止まった。


 水車が止まった。


 黒い水の飛沫が収まる。


 用水路の流れが弱まる。


 水門も、弁も、ぎりぎり保っている。


 誰もすぐには動けなかった。


 荒い呼吸だけが響く。


 マーガレットは水門に寄りかかったまま座り込みそうになった。


「止まった……?」


 レクスターが水糸で確認する。


「流量低下。貯め池への大量流入なし。畑側への供給も停止」


 彼は深く息を吐いた。


「止まりました」


 アレックスは村長のそばで膝をついた。


 村長は意識が薄い。


 だが、呼吸はある。


 ミラも、巡察二人も、外で横たわっている。


 全員、生きている。


 まだ助かったとは言い切れない。


 だが、救い出した。


 マーガレットが泣きそうな顔で笑った。


「全員、外に出せたね」


「ああ」


 アレックスも息を整えながら頷いた。


 レクスターはすぐに現実へ戻る。


「応急処置を始めます。汚染付着部の洗浄、黒根の剥離、意識確認。時間がありません」


「はい!」


 マーガレットが立ち上がる。


 ふらつくが、立つ。


 アレックスも動く。


 水車小屋は止まった。


 だが、ハルダ村はまだ救われていない。


 汚染水はすでに流れた。


 畑は黒い。


 村の中心には、まだ人が残っている。


 それでも、大きな心臓を一つ止めた。


 アレックスは、停止した水車を見上げた。


 黒い根に絡まれた木の輪。


 村の命を運ぶはずだったもの。


 それを毒の道具に変えた者がいる。


 商会か。


 リゼットか。


 それとも、もっと別の誰かか。


 真相はまだ見えない。


 だが、進む道はある。


 村長がかすかな声で呟いた。


「……村の……奥に……」


 アレックスはすぐ顔を近づける。


「何がありますか」


「……商人が……置いていった……黒い……樽……」


 レクスターの顔が変わる。


「樽?」


「……集会倉庫……ミラが……見た……」


 ミラが、弱く目を開けた。


「……カイ……」


「カイは無事です」


 アレックスが言う。


 ミラの涙がこぼれる。


「……村の……倉庫……黒い樽……壊しては……だめ……」


 レクスターが低く言う。


「水車は拡散装置。倉庫に原液保管……」


 マーガレットが拳を握る。


「まだあるんだね」


「ああ」


 アレックスは立ち上がった。


 身体は重い。


 水車を止めたばかりだ。


 だが、止まれない。


 今度は村の奥。


 集会倉庫。


 黒い樽。


 そこに、この汚染の本体がある。


 そして、カイの母ミラを救出したことを、カイへ伝えなければならない。


 アレックスは南東、村の中心を見た。


 黒い畑の向こうに、ハルダ村の家々が見える。


 煙の出ない煙突。


 閉じた窓。


 そして、風に軋む畑。


 まだ闇は深い。


 だが、水車は止まった。


 一つ、灯りへ近づいた。


「処置を終えたら、カイのところへ戻る」


 アレックスは言った。


「それから村へ入る」


 レクスターが頷く。


「はい」


 マーガレットも力強く頷いた。


「カイに、お母さん助けたって言おう」


「ああ」


 その言葉に、ミラの目からまた涙が落ちた。


 水車小屋の前。


 黒い水の匂いの中で。


 四人の命が、かろうじて繋ぎ止められていた。


 ハルダ村の闇はまだ終わらない。


 だが、止まらなかった水車は、ついに沈黙した。

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