【第68話 父の名を呼べ】
黒い畑に足を踏み入れた瞬間、土が鳴いた。
ぎしり。
それは、乾いた枝を踏んだ音ではなかった。
濡れた革を引き裂くような。
深い井戸の底から、錆びた鎖を引き上げるような。
耳の奥に残る、不快な音だった。
アレックスは、一歩目で理解した。
これは普通の畑ではない。
土が死んでいるだけではない。
何かが、土の中で生きているように反応している。
黒い麦の茎が、風もないのに揺れた。
その揺れは波のように広がり、足元から畑の奥へ、畑の奥からさらに水路の方へ伝わっていく。
まるで、侵入者を知らせる合図だった。
「アレックス!」
マーガレットの声が背後から飛ぶ。
「足元!」
黒い根が動いた。
土の表面を割り、細い蔓のような根が幾本も突き出す。
それは植物の根に見える。
だが、普通の根の動きではない。
明確に、アレックスの足首を狙っていた。
アレックスは雷の刃を抜き、地面すれすれに雷を走らせた。
「雷糸!」
青白い雷が細く広がる。
根を焼き切るのではなく、弾く。
強く焼けば、黒い液が飛び散る。
先ほど祠で見た黒い汁。
あれに触れれば危険だ。
レクスターの声が飛んだ。
「切断よりも剥離! 黒液を飛散させないでください!」
「分かってる!」
「分かっている声量ではありません!」
「今それか!」
足元で根が跳ねる。
アレックスは二歩目を踏む。
重い。
土が靴に絡む。
ぬかるみではないのに、足を引き込むような抵抗がある。
黒い畑の中、少し先にトーマがいた。
カイの父。
農具を持ったまま、ふらついている。
片足には黒い根が絡みつき、膝下まで土に沈みかけていた。
顔は青白い。
目は虚ろ。
だが、カイの声に反応して、こちらを見ている。
「父ちゃん!」
畑の外でカイが叫ぶ。
マーガレットが彼の肩を押さえている。
カイは暴れていた。
今にも飛び込みそうな勢いだ。
「離せ! 俺も行く!」
「だめ!」
「父ちゃんが!」
「だからだめ!」
マーガレットの声は必死だった。
彼女も今すぐ飛び込みたいに違いない。
だが、カイを離せば、彼も根に捕まる。
それだけは防がなければならない。
カイは涙を流しながら叫ぶ。
「父ちゃん! 俺だ! カイだ!」
トーマの手が、かすかに動く。
農具を握る指が震えた。
アレックスはその反応を見逃さなかった。
「効いてる!」
レクスターが言う。
「名前への反応があります! 呼び続けてください!」
「カイ!」
アレックスが叫ぶ。
「呼べ! 名前を!」
カイは一瞬だけ息を詰まらせる。
そして、喉が裂けそうな声で叫んだ。
「トーマ! トーマ父ちゃん! 俺だ! カイだ!」
畑が軋む。
黒い麦がざわめく。
まるで、その声を嫌がるように。
根がさらに動いた。
トーマの足首に絡んでいた根が太くなる。
引き込もうとしている。
アレックスは踏み込んだ。
雷を足元へ走らせ、根を弾く。
一歩。
二歩。
三歩。
トーマまで、あと少し。
だが、畑の奥から別の根が飛び出した。
今度は鞭のようにしなる。
アレックスの腕を狙う。
刃で受ければ切れる。
しかし切れば黒液が飛ぶ。
アレックスは刃の背で受け、雷で弾いた。
根が空中で震え、地面へ落ちる。
落ちた根は、切れていない。
だが焦げたように動きを鈍らせる。
「よし……!」
その瞬間、別の根が背後から足へ絡んだ。
「っ!」
足を取られる。
黒い土が、靴の上から這い上がるようにまとわりつく。
アレックスは膝をつきかけた。
「アレックス!」
マーガレットが叫ぶ。
彼女が動いた。
だが、畑には入らない。
カイを片腕で抑えたまま、もう片方でハルバードを伸ばす。
柄の先端を、アレックスの近くの根へ叩きつける。
正確に。
根の根元ではなく、絡みを緩める位置へ。
「離れろ!」
力任せではない。
壊さず、剥がす。
グレイルで何度も求められた力加減。
それがここでも生きた。
根が一瞬緩む。
アレックスは雷で足元を弾き、自由を取り戻した。
「助かった!」
「まだ!」
マーガレットは叫ぶ。
カイを抑えながら、再びハルバードを構える。
「カイ、呼んで!」
「分かってる!」
カイは涙でぐちゃぐちゃの顔で叫び続けた。
「父ちゃん! トーマ! 帰ろう! 母ちゃんも待ってる! 俺、ここにいる!」
その声に、トーマの身体が大きく震えた。
虚ろだった目に、ほんのわずかな光が戻る。
唇が動いた。
声は聞こえない。
だが、形は分かった。
カイ。
そう呼んだ。
カイも気づいた。
「父ちゃん……!」
彼の身体が前へ出る。
マーガレットが必死に止める。
「待って!」
「呼んだんだ! 今、俺のこと!」
「だから、あと少し待って!」
マーガレットの腕にも力が入る。
カイは子どもだが、必死の力は強い。
それでも彼女は離さない。
レクスターは畑の縁で水の本を開いている。
彼の額に汗が浮いていた。
水糸を畑へ伸ばし、根の流れを読もうとしている。
だが、黒い畑の中では水糸が汚染に絡め取られる。
長く伸ばせば危険だ。
「根の動きは水路側から強まっています!」
レクスターが叫ぶ。
「トーマさんの足元だけではありません! 畑全体が反応している!」
「どうすれば!」
アレックスが叫び返す。
「一時的に命令線を断つしかありません! トーマさんに絡む根の根元、土中三箇所!」
「見えない!」
「雷で探ってください!」
「簡単に言うな!」
「簡単ではありません!」
「知ってる!」
アレックスはトーマの近くまで進んだ。
あと二歩。
だが、その二歩が遠い。
黒い根が密集している。
踏み込めば、自分も捕まる。
雷で強く弾けば、トーマを巻き込む。
慎重に。
でも急ぐ。
矛盾した動きを求められる。
アレックスは息を吸った。
グレイルで覚えた感覚を思い出す。
ルミアの水槽。
原液槽の主核。
強く壊すのではなく、命令をほどく。
相手が植物でも同じだ。
根に流れる命令を見ればいい。
アレックスは雷糸を地面へ差し込んだ。
土の下。
黒い根。
水分。
薬液。
その中を流れる青白い命令。
見える。
いや、感じる。
三箇所。
レクスターの言った通り、トーマの足元から伸びる太い根に命令線が絡んでいる。
一つ目。
アレックスは雷糸を触れさせた。
根が激しく震える。
トーマが呻いた。
「父ちゃん!」
カイの叫び。
「痛めるな!」
「分かってる!」
アレックスは奥歯を噛む。
根だけを弾く。
トーマの身体へ反動を流さない。
雷糸を細く、さらに細く。
「断て」
一つ目の命令線が切れる。
トーマの右足が少し自由になる。
だが、畑が怒ったように鳴った。
ぎしぎしぎし。
麦が一斉にアレックスへ向かって傾く。
黒い穂先から、細かな粉が舞った。
レクスターの声が鋭くなる。
「粉塵! 吸わないでください!」
マーガレットが布を投げた。
「アレックス!」
アレックスは空中で布を掴み、口元へ巻いた。
黒い粉が雷に触れて小さく弾ける。
嫌な匂い。
焦げた薬草のような、腐った土のような匂い。
頭が少し重くなる。
だが、まだ動ける。
二つ目。
地面の下へ雷糸を伸ばす。
今度は根が逃げるように動いた。
植物が逃げる。
ありえない動きだ。
命令が、こちらの干渉を避けている。
アレックスは雷糸を分けた。
一本で追うのではなく、二本で囲む。
三本目で触れる。
「逃がさない」
雷が命令線へ触れる。
二つ目が切れる。
トーマの膝が地面から上がる。
彼は倒れかけた。
アレックスは手を伸ばす。
だが、まだ届かない。
カイの声が届く。
「父ちゃん! トーマ! こっちだ!」
トーマの目が、ゆっくりカイの方へ向く。
唇が動く。
「……カ……イ……」
今度は聞こえた。
かすれた声。
それだけで、カイが泣き崩れそうになる。
「父ちゃん!」
マーガレットも涙目になる。
「返事した!」
「集中してください!」
レクスターが叫ぶ。
その声も震えている。
三つ目。
最も太い根。
トーマの足首ではなく、腰のあたりまで伸びようとしている。
このままでは全身を絡め取られる。
アレックスは雷糸を伸ばす。
だが、その瞬間、黒い根が地面から跳ね上がった。
狙いはアレックスではない。
カイ。
畑の外にいるカイへ、黒い根が伸びた。
声に反応したのだ。
呼ぶ者を黙らせるために。
「カイ!」
マーガレットが即座に動いた。
カイを後ろへ突き飛ばす。
同時に、自分が前に出る。
ハルバードを横に構え、根を受ける。
根が柄に絡みついた。
「重っ……!」
マーガレットの足が地面を削る。
畑の外なのに、根はさらに伸びようとする。
黒い液が柄を伝う。
マーガレットは歯を食いしばった。
「カイ、後ろ!」
「マーガ!」
「呼んで!」
「でも!」
「呼んで!」
マーガレットの声が響く。
「あなたの声が、トーマさんを戻してる!」
カイは涙を拭った。
立ち上がる。
震えながら。
それでも叫んだ。
「父ちゃん! 俺だ! カイだ! 帰ろう! 畑じゃない! こっちだ!」
トーマがまた反応する。
黒い根がさらに暴れる。
マーガレットの腕に負荷がかかる。
ハルバードが軋む。
「マーガレット!」
アレックスが叫ぶ。
「大丈夫!」
「嘘だろ!」
「大丈夫にする!」
マーガレットは叫び返した。
その言葉に、アレックスは一瞬だけ笑いそうになった。
自分がよく言う言葉だ。
大丈夫ではない。
でも、大丈夫にする。
彼女はもう、それを自分の言葉として使っている。
なら、自分もやるしかない。
アレックスは三つ目の根へ集中した。
カイの声。
マーガレットの踏ん張り。
レクスターの水糸。
トーマのかすかな意識。
全部が今、この一点に繋がっている。
「レクト!」
「はい!」
「三つ目、切る。反動が来るかもしれない」
「水膜を張ります!」
「マーガレット!」
「何!」
「根が緩んだらカイを連れて下がれ!」
「分かった!」
「カイ!」
「何だよ!」
「最後まで呼べ!」
カイは息を吸った。
そして、腹の底から叫んだ。
「トーマ! 俺の父ちゃん! 帰ってこい!!」
その瞬間、アレックスは三つ目の命令線を断った。
雷が土の下で弾ける。
黒い根が一斉に硬直した。
次の瞬間、根が暴発するように跳ねた。
黒い液が飛ぶ。
レクスターの水膜が広がる。
液を受け止める。
水膜が黒く濁り、じゅう、と音を立てる。
マーガレットは絡まっていた根をハルバードごと振り払い、カイを抱えて後退した。
アレックスはトーマへ飛び込んだ。
今しかない。
根の力が抜けた。
トーマの身体が崩れ落ちる。
アレックスはその腕を掴んだ。
「トーマさん!」
重い。
意識が戻りかけているが、身体に力が入っていない。
畑の土がまだ足元を引く。
アレックスは歯を食いしばり、雷を足元へ散らす。
黒い根を弾きながら引く。
一歩。
重い。
二歩。
根が再び動き始める。
三歩。
トーマが呻く。
「……カイ……」
「父ちゃん!」
畑の外でカイが泣き叫ぶ。
その声を目印に、アレックスは引いた。
マーガレットがハルバードを伸ばす。
「掴まって!」
アレックスは空いた手で柄を掴んだ。
マーガレットが引く。
ただ力任せにではない。
トーマを痛めないように。
アレックスの足元を見ながら。
レクスターが水糸で黒い根を滑らせ、絡みを外す。
三人の力が重なる。
黒い畑が軋む。
ぎし。
ぎし。
ぎし。
まるで、獲物を逃すことに怒っているように。
「あと少し!」
マーガレットが叫ぶ。
「引くよ!」
「頼む!」
最後の一歩。
アレックスとトーマが畑の外へ転がり出た。
黒い根が境界ぎりぎりで止まる。
しばらく、土の上を這うように動いたが、やがて畑の中へ戻っていった。
まるで、そこから外へは出られないかのように。
アレックスは荒い息を吐いた。
身体中が重い。
黒い粉を少し吸ったせいか、頭が痛い。
だが、トーマは畑の外にいる。
生きている。
「父ちゃん!」
カイが駆け寄ろうとする。
レクスターが止めた。
「待ってください!」
「なんで!」
「汚染が付着しています! 直接触らないで!」
カイが止まる。
泣きながら、あと一歩のところで止まる。
「父ちゃん……」
トーマは地面に横たわり、荒い息をしている。
足首には黒い筋。
腕にも薄い筋。
目は虚ろだが、さっきより焦点が戻っている。
レクスターが手袋をつけ、慎重に状態を確認する。
「呼吸あり。脈、不安定。黒根の接触による侵食。深度は……セラより浅い。ただし土壌汚染が混じっています」
「助かるのか!」
カイが叫ぶ。
レクスターは彼を見た。
すぐに軽々しく答えない。
カイの顔が歪む。
アレックスは起き上がりながら言った。
「助けるために処置する」
カイがアレックスを見る。
その目に、縋るような光がある。
レクスターも頷いた。
「今すぐなら可能性は高い。安全水と布を」
「はい!」
マーガレットが水袋を開ける。
レクスターは汚染された服の裾を切り、黒い土を拭い始める。
直接水を大量にかけない。
流れた汚染が皮膚へ広がる可能性があるからだ。
布へ少しずつ吸わせる。
マーガレットが布を渡す。
アレックスはまだ息を整えながら、トーマの足首に残る細い黒根を雷糸で剥がした。
「動くな……」
自分に言い聞かせるように呟く。
黒根を焼かない。
切らない。
剥がす。
トーマが呻いた。
カイが身を乗り出す。
「父ちゃん!」
トーマの目が動く。
「……カイ……?」
「うん! 俺! カイだ!」
「……なんで……ここ……」
「助けに来たんだよ!」
トーマの目に、少しずつ光が戻る。
だが、同時に恐怖も戻った。
「畑……畑を……止めないと……」
「父ちゃん?」
「水車……水車が……」
レクスターの手が止まる。
「水車小屋?」
トーマは苦しそうに頷いた。
「夜……誰かが……水車に……石を……入れた……」
アレックスたちは顔を見合わせた。
祠の核。
そして水車。
やはり、起点は複数ある。
トーマは途切れ途切れに続ける。
「村長が……見に行って……戻らない……巡察も……水車へ……」
「巡察も水車小屋へ?」
レクスターが確認する。
トーマは頷く。
「水が……黒く……水車が止まらない……夜も……回る……」
カイの顔が青ざめる。
「水車小屋……」
アレックスは南東のさらに奥を見た。
村の中心。
用水路。
水車小屋。
そこに、汚染を広げる本命がある。
トーマはカイの方へ手を伸ばした。
レクスターが布を巻いてから、カイに頷く。
「手袋越しに、少しだけ」
カイは用意された布越しに、父の手を握った。
「父ちゃん……」
「……カイ……逃げたんじゃ……なかったのか……」
「逃げたけど、戻ってきた」
「ばか……」
トーマの目から涙が落ちた。
「戻るなって……言っただろ……」
「でも父ちゃんがいた」
「……」
「母ちゃんは?」
カイが聞いた瞬間、トーマの顔が歪んだ。
「村に……いる……村の奥……避難小屋……」
カイの目に光が戻る。
「生きてる?」
「たぶん……」
「たぶんって何だよ!」
「俺が……出てから……分からない……」
カイは泣きながら父の手を握った。
マーガレットはその横で、拳を握りしめていた。
「行こう」
彼女が言った。
「水車小屋へ」
レクスターはすぐには頷かなかった。
「トーマさんを安全圏へ運ぶ必要があります。カイも消耗しています。畑の汚染も想定以上です」
「でも、村長も巡察も、カイのお母さんも」
「分かっています」
レクスターの声は冷静だった。
だが、冷たくはなかった。
「だから順番が必要です」
アレックスは頷いた。
「まずトーマさんを祠の近くの安全な場所まで戻す。そこで応急処置を続ける。カイもそこまで」
「俺も行く!」
カイが叫ぶ。
アレックスは彼を見る。
「約束したはずだ。指示に従うって」
「でも!」
「カイが呼んだから、トーマさんは戻れた」
カイの言葉が止まる。
「君はもう助けた。今度は、トーマさんを守る番だ」
「……」
「お母さんを助けに行くためにも、ここで倒れるな」
カイは震えていた。
行きたい。
でも、父の手を離せない。
その狭間で、子どもの心が引き裂かれそうになっている。
トーマがかすれた声で言った。
「カイ……」
「父ちゃん……」
「ここに……いろ……」
「でも」
「頼む……」
トーマの声は弱い。
だが、父の声だった。
カイは唇を噛んだ。
そして、涙を落としながら頷いた。
「……分かった」
マーガレットがそっと彼の背に手を置く。
「偉い」
「偉くない……」
「偉いよ」
「俺、行きたいのに……」
「それでも止まれるのは、偉い」
カイは声を殺して泣いた。
レクスターはトーマの足に応急布を巻き終えた。
「移動します。マーガレット、担架代わりの布を」
「分かった」
「アレックス、周囲警戒を」
「ああ」
「カイ、父親の名前を呼び続けてください。意識維持に有効です」
カイは涙を拭いた。
「……トーマ父ちゃん」
トーマの目が動く。
「……ああ……」
「寝るなよ」
「……うるさい……」
「寝るなって!」
父子のやり取りに、マーガレットが泣きそうになる。
レクスターが言う。
「泣く前に布を」
「はい!」
彼らはトーマを畑の外周から離し、祠の近くの比較的汚染が弱い場所へ運んだ。
祠の核を止めたことで、周辺の黒い草の反応は弱まっている。
完全に安全ではないが、畑よりはましだった。
そこに簡易の寝床を作り、カイに安全水と布を渡す。
「水は飲ませすぎないでください」
レクスターが指示する。
「口を湿らせる程度。黒い筋が強くなったら呼んでください」
「呼ぶって、どこに?」
カイが不安そうに聞く。
「私たちは水車小屋へ向かいますが、笛を渡します」
レクスターは小さな笛を差し出した。
「強く吹けば聞こえる距離まで戻るようにします」
「……分かった」
アレックスはカイの前に膝をついた。
「怖いと思う」
「……怖くない」
「怖いままでいい」
カイは目を伏せる。
「でも、父ちゃんを守ってくれ」
カイは父を見た。
トーマは荒い息をしているが、意識はある。
カイは強く頷いた。
「守る」
「頼む」
「母ちゃん、助けて」
「ああ」
「約束しろ」
アレックスは少しだけ黙った。
軽く「必ず」とは言えない。
状況は分からない。
危険も大きい。
だが、カイはそれを必要としている。
アレックスは言葉を選んだ。
「助けるために、必ず行く」
カイは唇を噛む。
それが精一杯の誠実な約束だと、分かったのかもしれない。
「……うん」
マーガレットが言う。
「できること全部やる」
「うん」
レクスターも頷く。
「情報を持ち帰ります」
「情報だけじゃ嫌だ」
「人も連れ帰る努力をします」
「努力……」
「私の努力は、軽くありません」
カイはレクスターを見た。
その冷静な顔をしばらく見つめ、やがて頷いた。
「分かった」
三人は水車小屋へ向かう準備をした。
アレックスは黒い畑の向こうを見る。
水路が村の奥へ続いている。
水面は灰色に濁り、時折青白く光る。
その先で、水車が回っているのだろう。
夜も止まらず。
黒い水を送り続けている。
祠は起点の一つに過ぎなかった。
本命は水車小屋。
そこに、村長も巡察も、そしてカイの母も繋がっているかもしれない。
マーガレットがハルバードを握る。
「次は、水車だね」
「ああ」
レクスターが水の本を開く。
「水路沿いは危険です。畑の縁を回り、直接水に触れない経路を取ります」
「分かった」
アレックスは振り返った。
カイが父の手を握り、必死に名前を呼んでいる。
「トーマ父ちゃん。寝るなよ。俺、ここにいるから」
トーマがかすかに頷く。
「……カイ……」
その声を背に、アレックスたちは歩き出した。
黒い畑が、ぎしぎしと鳴る。
まるで、次の侵入者を待っているように。
だが、もう引き返せない。
ハルダ村の命を運ぶはずだった水車が、今は毒を広げている。
それを止めなければ、村も、宿場も、さらに先の土地も黒く染まる。
アレックスは雷の刃へ手を添えた。
グレイルで学んだことを胸に。
名前を呼べば、人は戻れる。
なら、畑にも、村にも、戻る道があるはずだ。
それを探すために。
三人は、水車小屋へ続く黒い用水路の脇を進み始めた。




