【第67話 黒い草の祠】
夜明け前の東宿場は、眠っているようで眠っていなかった。
宿の窓には、まだいくつか灯りが残っている。
避難してきたハルダ村の人々は、宿場の外れに身を寄せ合っていた。
眠っている者もいる。
眠れずに、南東の暗い道を見つめている者もいる。
小さな子どもが母親の服を握りしめ、寝言のように「畑」と呟いた。
その母親は、目を閉じたまま子どもの手を握り返す。
誰も、大きな声を出さない。
けれど、空気全体が震えていた。
昨夜、宿場の外まで届いたあの音。
ぎし。
ぎし。
土の下から何かが軋むような音。
あれを聞いてしまった者たちは、もう「ただの噂だ」と笑うことができなかった。
畑が鳴る。
根が泣く。
水をくれと、土の下から声がする。
それは迷信のようでいて、確かに耳に残っている。
アレックスは宿の裏手で旅支度を整えていた。
水袋は三つ。
宿の主人が分けてくれた安全な水だ。
それとは別に、汚染水の検査用の小瓶。
乾いた布。
厚手の手袋。
口元を覆う布。
縄。
簡易の薬草包み。
そして、グレイルから預かった帳簿の写し。
帳簿は宿に置いていくわけにはいかなかった。
だが、ハルダ村へ持ち込むにも危険がある。
結局、レクスターの提案で、防水布に包み、アレックスが背負うことになった。
万が一戦闘になった時も、三人の中で一番守りながら動けるからだ。
「重くないですか」
レクスターが聞く。
「重い」
アレックスは正直に答えた。
「しかし持てる」
「ああ」
「無理をしていませんか」
「してる」
レクスターが眉をひそめる。
マーガレットが横から顔を出した。
「正直!」
「最近、正直に言わないと二人に怒られるからな」
「よし!」
「よくはありません」
レクスターは淡々と言った。
「無理をしているなら、分散すべきです」
「帳簿は俺が持つ。代わりに水を頼む」
「了解しました」
マーガレットが自分の荷物を持ち上げる。
「私は?」
「あなたは水袋二つと布束」
「任せて!」
「ただし、途中で食料や感情的荷物を増やさないように」
「感情的荷物って言い方!」
「事実です」
「でも、ルミアちゃんの匂い袋は必要!」
「それは認めます」
「認められた!」
マーガレットは胸元の小さな布包みを軽く押さえた。
薬草の苦い匂い。
ルミアが渡してくれた匂い袋。
グレイルから離れても、そこに小さな灯りが残っているような気がした。
カイは、宿場の入口に立っていた。
小さな旅袋を肩にかけている。
中身はほとんどない。
替えの布と、少しの硬いパン。
水袋はアレックスたちが持つことになった。
彼は昨日よりも落ち着いて見えた。
だが、指先は何度も服の裾を握っている。
怖いのだ。
それでも、行く。
村の外周まで案内する。
そう約束した。
宿の主人が腕を組んで、カイを睨むように見ていた。
「本当に行くのか」
カイは顔を上げる。
「行く」
「村の中へ勝手に入るなよ」
「分かってる」
「分かってねえ顔だ」
「分かってる!」
宿の主人はため息をついた。
それから、アレックスを見た。
「頼む。こいつを死なせるな」
カイが怒る。
「俺は荷物じゃない!」
「荷物より厄介だ」
「なんだと!」
マーガレットが二人を見て、少し笑った。
「心配されてるんだよ」
「……分かってる」
カイは小さく言った。
宿の主人は、彼の頭を乱暴に撫でた。
「なら戻ってこい」
「……うん」
短い返事。
だが、その中にいろいろなものが詰まっていた。
宿場の避難民たちも、遠巻きに見ていた。
誰も大声で見送らない。
期待すれば、裏切られた時に痛い。
だから言葉を飲み込んでいる。
それでも、何人かは小さく頭を下げた。
年老いた女が、震える手で祈るように胸元を押さえている。
若い男が、悔しそうに顔を伏せている。
子どもが、カイに向かって小さく手を振った。
カイは気づいた。
気づいて、少しだけ手を上げ返した。
アレックスはその光景を見た。
グレイルの東門を出た時のことを思い出す。
見送る者の目。
残る者の不安。
進む者の重さ。
どこへ行っても、それは同じなのかもしれない。
「行こう」
アレックスが言った。
カイが頷く。
マーガレットが水袋を背負い直す。
レクスターが地図を確認する。
四人は、南東へ続く道へ踏み出した。
朝の道は、最初は穏やかだった。
東宿場を出てしばらくは、低い草原と疎らな林が続く。
空は晴れている。
風も弱い。
鳥の声も聞こえる。
カイは先頭を歩きながら、時折後ろを振り返った。
「遅くないか」
マーガレットが言う。
「大丈夫!」
「無理して速く歩かなくていい」
「してない」
「してる顔」
「してない」
カイは少し足を緩めた。
アレックスは苦笑する。
少年の背中は小さい。
だが、必死に大人のように振る舞っている。
村を助けたい。
父と母のもとへ戻りたい。
その気持ちだけで、恐怖を押し込めているのだろう。
レクスターは歩きながら周囲の草を観察していた。
「この辺りはまだ正常です」
「草?」
マーガレットが聞く。
「はい。葉の色、茎の張り、土の匂い。異常はありません」
「土の匂いまで分かるの?」
「ある程度は」
「すごい」
「水分量からも推測できます」
カイが少し振り返る。
「畑が近づいたら、分かるのか」
「異常の程度によります」
「分かってくれ」
その声は小さかった。
頼みだった。
レクスターは少しだけ表情を柔らかくした。
「努力します」
「努力かよ」
「現時点で断言はできません」
「……でも、やるんだよな」
「はい」
カイは前を向いた。
「ならいい」
道が森へ入る頃、空気が少し変わった。
鳥の声が減る。
風が重くなる。
木々の葉は青い。
だが、足元の草の中に、ところどころ黒ずんだものが混じり始めた。
最初は枯れ草に見えた。
しかし、近づくと違う。
焼け焦げたような黒ではない。
葉脈に沿って黒い筋が走っている。
グレイルで見た、汚染された腕の筋に似ていた。
マーガレットが息を呑む。
「これ……」
レクスターがすぐ膝をついた。
「触らないでください」
「うん」
彼は手袋をはめ、さらに水糸で草の表面に触れた。
黒い葉が、わずかに震えた。
アレックスの背筋が冷える。
風ではない。
触れた反応だ。
「生きてるのか」
アレックスが聞く。
「植物なので生きています。ただし、通常の反応ではありません」
レクスターの声が硬い。
「葉脈に欠片薬に近い成分が流れています。水を吸い上げる管が、薬液も吸っている」
カイが青ざめる。
「村の畑も、こうだった」
「最初から?」
「最初はもっと薄かった。病気みたいに黒い点が出て、それから線になって……最後は畑全部が黒くなった」
レクスターは草を見つめた。
「拡散している」
「止められるのか」
カイが聞く。
レクスターはすぐに答えなかった。
その沈黙だけで、カイの顔が歪む。
「止められるよな」
「原因を見つける必要があります」
「それ、分かんないってことだろ!」
「現時点では」
カイが拳を握る。
マーガレットがそっと声をかけた。
「カイ」
「何だよ!」
「怒っていい。でも、レクスターは嘘つかない」
「……」
「できるって軽く言わないだけ」
カイは歯を食いしばった。
それから、黒い草を睨む。
「じゃあ、原因を見つける」
「うん」
「祠だ」
カイは森の奥を指差した。
「最初に黒くなったのは、祠の周りだ」
四人は慎重に進んだ。
黒い草を避ける。
踏まない。
触らない。
それだけで、歩く速度は落ちる。
マーガレットは何度も足元を確認しながら進んだ。
「うう……」
「どうしました」
レクスターが聞く。
「こういう慎重に歩くの、苦手」
「知っています」
「知ってるって言われた!」
「ですが、できています」
マーガレットは少し驚いた。
「褒めた?」
「はい」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「よし!」
彼女は嬉しそうに頷き、また慎重に足を置いた。
カイがその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。
恐怖の中でも、マーガレットは人を少し緩ませる。
それは彼女の強さだった。
森を抜けると、小さな開けた場所に出た。
そこに、祠があった。
石造りの小さな祠。
腰ほどの高さ。
屋根には苔が生えている。
昔から村人が手入れしてきたのだろう。
祠の前には、枯れた花束がいくつか置かれていた。
豊穣を願う場所。
畑の守り神を祀る場所。
だが、その周囲の草は黒かった。
円を描くように。
祠を中心に、黒い草が広がっている。
地面も黒ずんでいた。
土が湿っている。
だが、普通の湿り気ではない。
油のような鈍い光がある。
近づくだけで、苦い匂いが鼻を刺した。
カイの顔が歪む。
「ここ……前は、もっときれいだった」
声が震える。
「春になると花が咲いて、祭りの時はみんなで飾って……」
彼は祠を見つめる。
「なんで、こんな……」
マーガレットが一歩前に出ようとして止まった。
黒い草がある。
触れられない。
それでも、彼女の拳は震えていた。
「ひどい」
短い言葉。
だが、怒りがこもっている。
レクスターは祠を観察した。
「中心部に何かあります」
「祠の中か」
アレックスが問う。
「おそらく」
祠の扉は閉じている。
小さな木戸。
黒い筋がそこにも走っている。
まるで、祠そのものが血管を持ったかのようだった。
カイが息を呑む。
「開けるのか」
「すぐには開けない」
アレックスが言う。
「罠の可能性がある」
「祠に罠なんて……」
カイは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
今の祠は、もう昔の祠ではない。
誰かが何かを仕込んだ可能性がある。
レクスターが水糸を伸ばす。
だが、水糸が黒い草の上を通った瞬間、草が一斉に揺れた。
ざわ。
風はない。
草が反応している。
マーガレットがハルバードを構える。
「動いた!」
「攻撃ではありません」
レクスターが言う。
「反応です。ただし、刺激を与えすぎると危険かもしれない」
アレックスは雷の刃へ手を添えた。
「俺が雷糸で見る」
「強すぎないように」
「分かってる」
「本当に」
「分かってる」
マーガレットが小声で言う。
「最近、みんな慎重になったね」
「必要に迫られました」
レクスターが答える。
アレックスは雷糸を細く伸ばした。
黒い草へ触れないように、地面すれすれを通す。
祠の木戸へ。
そこに、細い欠片線があった。
やはり。
人為的だ。
「線がある」
アレックスが言う。
カイの顔が青ざめる。
「誰かがやったってことか」
「その可能性が高い」
「誰が……」
カイの声が震える。
「なんで祠に……」
マーガレットが唇を噛む。
この祠は、村人にとって大事な場所だった。
そこを利用した。
汚染の起点にした。
それは、単なる攻撃よりも悪質だった。
村人の信仰と生活の中心を、毒の中心に変えたのだ。
アレックスは欠片線を探る。
木戸の奥。
小さな核。
それと地中へ伸びる線。
根のように。
いや、根に絡んでいる。
「祠から地面へ線が伸びている」
レクスターの顔が険しくなる。
「根系接続……」
「分かるか」
「推測ですが、祠内部の核から周囲の植物の根へ命令反応を流している。薬液は水路から、命令は核から。両方が組み合わさって汚染を広げている可能性があります」
カイには難しかったのだろう。
彼は苛立ったように言う。
「つまり?」
マーガレットが言う。
「祠の中に悪い石があって、草と畑に悪い命令出してる!」
レクスターが少し考え、頷いた。
「極端ですが、概ね」
「よし!」
カイは祠を睨んだ。
「なら壊せばいいのか」
「待て」
アレックスが止める。
「壊せば、反動が出るかもしれない」
「またかよ!」
「またです」
レクスターが答える。
「強引に破壊すれば、命令反応が周囲へ一気に流れる可能性があります。畑への汚染が悪化するかもしれない」
カイは拳を握りしめた。
「じゃあどうするんだよ……」
「ほどく」
アレックスが言った。
カイが見る。
「ほどく?」
「壊さずに、繋がっている線を切る」
「できるのか」
「やる」
その言葉は、強くも軽くもなかった。
ただ、静かだった。
マーガレットがすぐに言う。
「私は周りを見張る」
「頼む」
「カイは?」
カイが身を乗り出す。
「俺も何か――」
「祠に近づかない」
アレックスが言う。
「でも!」
「カイには見ていてほしい」
「見てるだけかよ!」
「違う」
アレックスは彼の目を見る。
「この祠は村のものだ。俺たちは外から来た。何かを外すなら、村の人が見ている必要がある」
カイは息を止めた。
「……俺が?」
「そうだ」
「俺、子どもだぞ」
「でも村の人だ」
カイの目が揺れる。
昨日も言われた言葉。
村の人。
子どもではなく、ハルダ村に属する一人として。
彼は唇を噛み、強く頷いた。
「見る」
アレックスは祠の前に膝をついた。
直接触れない。
雷糸を細く伸ばす。
木戸の隙間へ。
欠片線へ。
グレイルで何度もやった。
鐘楼の共鳴核。
ルミアの水槽。
旧施療院の原液槽。
だが、今回は相手が植物だ。
線は石や金属ではなく、根に絡んでいる。
柔らかく、複雑で、脈打っている。
雷糸が触れると、黒い草がざわりと揺れた。
マーガレットが身構える。
「来る?」
「まだ」
レクスターが水の本を開く。
「根の水分が反応しています。アレックス、右側の線が強い」
「見える」
アレックスは雷をさらに細くした。
切るのではない。
まず、流れを見る。
祠の中の核から、地面へ。
そこから草へ。
草から土へ。
水路へ。
さらに遠くへ。
まるで黒い網だった。
アレックスの意識がその網に触れた瞬間、耳の奥で音がした。
ぎし。
ぎし。
根が軋む音。
いや。
声。
『水を』
かすかな残響。
アレックスの眉が動く。
マーガレットが気づく。
「アレックス?」
「……声みたいなものが聞こえる」
カイの顔がこわばる。
「やっぱり……」
レクスターが低く言う。
「命令反応の残響かもしれません。深入りしないでください」
「分かった」
だが、声は続く。
『水を』
『伸びろ』
『吸え』
『黒く』
『広がれ』
それは人の声ではなかった。
リゼットのような明確な言葉でもない。
命令。
植物へ与えられた単純な命令の残響。
水を吸え。
広がれ。
根を伸ばせ。
黒く染まれ。
アレックスは奥歯を噛んだ。
人だけではない。
植物にまで命令を刻んでいる。
畑を、村の命を、道具にしている。
「……許せないな」
小さく呟く。
マーガレットが聞いた。
「うん」
彼女も低く頷く。
アレックスは雷糸を主線へ絡めた。
強く切ると反動が来る。
だから、まず周囲の細い線をほどく。
一つ。
草が揺れる。
二つ。
黒い葉の一部がしおれる。
三つ。
地面が小さく震える。
カイが息を呑む。
マーガレットが彼の前に少し出る。
守る位置だ。
「大丈夫」
彼女は言う。
「怖くない」
カイが言う。
「うん」
「怖くないって」
「うん。でも、後ろにいて」
「……分かった」
カイは悔しそうにしながらも、マーガレットの後ろへ下がった。
その時、祠の中の核が強く光った。
黒い草が一斉に立ち上がる。
まるで刃のように。
「来る!」
マーガレットが叫ぶ。
黒い草が伸びた。
根ではない。
草の茎が蛇のように伸び、アレックスの腕へ絡もうとする。
マーガレットがハルバードを振るう。
刃ではなく柄で叩き落とす。
だが、草は切れても黒い液を飛ばす。
「飛ぶ!」
レクスターが叫ぶ。
水の膜が広がる。
黒い液が膜に弾かれる。
じゅ、と嫌な音。
膜が黒く濁る。
「触らないでください!」
「分かってる!」
マーガレットがカイを庇いながら下がる。
「アレックス、まだ!?」
「もう少し!」
アレックスは雷糸を主核へ伸ばす。
黒い草の攻撃で集中が揺れる。
だが、止められない。
祠の核が、周囲の根を使って防御している。
なら、核へ届けば止まる。
外側の線をほどく。
残り二本。
一本。
主線。
そこに触れた瞬間、軋み音が強くなった。
『水を』
『広がれ』
『飢えさせろ』
アレックスの目が鋭くなる。
今、違う命令が混じった。
飢えさせろ。
植物の命令ではない。
人為的な意図。
「レクト!」
「はい!」
「これは自然発生じゃない。命令に“飢えさせろ”が混じってる」
レクスターの顔が険しくなる。
「土地破壊が目的……」
カイが叫ぶ。
「誰がそんなこと!」
誰も答えられない。
だが、確かなことがある。
これは事故ではない。
ただの病気でもない。
誰かが、ハルダ村を飢えさせようとしている。
アレックスの雷糸が、主線へ巻きつく。
命令を断つ。
強くではない。
根から引き剥がすように。
「断て!」
雷が一瞬だけ走った。
祠の中で、ぱきん、と小さな音がした。
黒い草の動きが止まる。
伸びていた茎が、力を失って地面へ落ちた。
黒い葉がしおれ、何本かは灰のように崩れる。
地面の脈動も弱まった。
アレックスは息を吐いた。
だが、すぐにレクスターが言う。
「完全停止ではありません」
「分かってる」
「核は沈黙しましたが、汚染そのものは土壌と水に残っています」
「つまり、祠を止めただけ」
「はい。起点の一つです」
カイは祠を見ていた。
黒い草がしおれた中心。
木戸がわずかに開いている。
中から、青白い石が見えた。
割れた欠片核。
そして、その下に小さな金属板。
レクスターが慎重に取り出す。
刻印がある。
リゼットのものではない。
少なくとも、グレイルの記録にあった筆跡や印とは違う。
だが、レクスターの顔は険しい。
「これは……商会印です」
「商会?」
アレックスが聞く。
「農地買収を扱う商会の印に似ています。グレイルの帳簿にも、外部取引先として似た名前があった可能性がある」
アレックスは背中の帳簿を意識した。
グレイルの闇と、ハルダ村の異変。
繋がっている。
直接リゼットではないかもしれない。
だが、同じ網の中にある。
カイが震える声で言った。
「商会が……村を?」
「まだ断定できない」
アレックスは言った。
「でも、誰かが祠に核を仕込んだ。それは間違いない」
カイの顔が歪む。
「ここ、祭りの場所だったんだ」
「うん」
「父ちゃんが、俺が小さい時に肩車してくれた。母ちゃんが花を飾って、村長が麦の束を置いて……」
涙が落ちる。
「そんな場所に、こんなもの……!」
マーガレットが拳を握った。
彼女も怒っている。
だが、今はカイのそばに立った。
「取り戻そう」
カイが顔を上げる。
「え?」
「今すぐ全部は無理かもしれない。でも、ここから」
マーガレットは黒い草がしおれた地面を見る。
「祠を、もう一回ちゃんとした場所に戻そう」
カイは唇を震わせた。
「戻るのかよ……」
「戻す」
「できるのかよ」
「やる」
カイはマーガレットを見た。
その言い方は、アレックスに少し似ていた。
できると軽く言わない。
でも、やると言う。
それが、カイの胸に届いたのかもしれない。
彼は袖で涙を拭いた。
「……やる」
祠の調査を終えた後、四人はさらにハルダ村へ向かった。
森を抜けると、視界が開ける。
そこに広がっていたのは、畑だった。
いや、畑だったものだった。
麦畑。
豆畑。
野菜畑。
それらが、黒い筋を帯びて広がっている。
すべてではない。
まだ緑の残る場所もある。
だが、水路沿いの土地は、明らかに黒く変色していた。
土がひび割れ、ところどころぬめった光を放っている。
風が吹くと、麦の穂が揺れる。
その音が、普通ではなかった。
さらさら、ではない。
ぎし。
ぎし。
昨夜聞いた音。
近い。
はっきり聞こえる。
マーガレットの顔が青ざめる。
「本当に鳴ってる……」
カイは拳を握りしめていた。
目の前にあるのは、自分の村の畑だ。
生活そのものだ。
それが、こんな姿になっている。
レクスターは水路を見た。
用水路の水は、灰色に濁っていた。
底に青白い沈殿。
宿場の井戸と同じもの。
「水路が本線です」
彼は低く言った。
「祠は命令核。汚染の流れは水路から」
「上流は?」
アレックスが問う。
カイが指差した。
「あっち。村の奥に古い水車小屋がある。そこから用水路が分かれる」
レクスターが地図を見る。
「次は水車小屋ですね」
「村の中を通る?」
「外周から回れますか」
カイは少し考える。
「できる。でも、遠回り」
「安全優先です」
「……分かった」
その時だった。
遠くの畑の中で、何かが動いた。
黒い麦の間。
人影。
アレックスが雷の刃へ手を添える。
「誰かいる」
カイが目を凝らす。
そして、顔色を変えた。
「……父ちゃん?」
声が震える。
人影はふらふらと畑の中を歩いている。
農具を持っている。
黒い畑に入っている。
危険だ。
カイが飛び出そうとした。
「父ちゃん!」
アレックスが腕を掴んで止める。
「待て!」
「離せ!」
「畑に入るな!」
「あれ父ちゃんだ!」
「分かってる! でも入るな!」
カイが暴れる。
マーガレットが前に出て、彼の両肩を掴んだ。
「カイ!」
「離せよ!」
「見る!」
「何を!」
「ちゃんと見る!」
マーガレットの声に、カイが止まった。
彼女は続ける。
「あの人を助けるために、今飛び込んだらだめ!」
カイの目から涙が溢れる。
「父ちゃんなんだよ……」
「うん」
「ずっと探して……」
「うん」
「そこにいるんだよ!」
「うん!」
マーガレットも泣きそうだった。
それでも離さない。
「だから、助ける方法で行く!」
カイは歯を食いしばり、泣きながら頷いた。
アレックスは畑の人影を見た。
男は、こちらに気づいていない。
ただ、黒い畑の中で農具を振るっている。
何かを耕しているように。
だが、動きが単調だ。
同じ場所を何度も。
まるで、命令されているように。
レクスターが低く言った。
「人にも影響が出ています」
「どうする」
アレックスが問う。
レクスターは厳しい顔で答えた。
「畑に入らず引き出す必要があります」
「引き出す?」
「声が届くか試してください。名前で」
アレックスはカイを見る。
「名前は?」
カイは涙を拭きながら答えた。
「トーマ。父ちゃん、トーマって名前」
アレックスは頷いた。
「呼べ」
カイは震える息を吸った。
そして、畑へ向かって叫んだ。
「父ちゃん!」
人影は動かない。
「トーマ!」
その瞬間、男の手がわずかに止まった。
カイの顔に光が戻る。
「父ちゃん! 俺だ! カイだ!」
黒い麦が、ぎしぎしと鳴る。
男がゆっくり顔を上げる。
遠い。
表情までは見えない。
だが、こちらを向いた。
アレックスは雷の刃を抜く。
マーガレットがハルバードを構える。
レクスターが水の本を開く。
畑が揺れる。
黒い根が、男の足元で動いた。
カイが叫ぶ。
「父ちゃん、こっち来い!」
男は一歩、こちらへ踏み出した。
だが、その足に黒い根が絡みつく。
男の身体が傾く。
「父ちゃん!」
カイの悲鳴。
アレックスは踏み出した。
「マーガレット、カイを頼む!」
「任せて!」
「レクト、根だけ止める!」
「畑に入るなら最短で!」
「分かった!」
黒い畑へ。
踏み込めば危険。
だが、今行かなければトーマが沈む。
アレックスは雷を足元へ走らせた。
土に直接触れないよう、雷で一瞬だけ黒い根を弾く。
マーガレットがカイを抱えるように抑える。
カイは叫び続ける。
「父ちゃん! 父ちゃん!」
トーマの手が、こちらへ伸びた。
その目は虚ろだった。
だが、声に反応している。
名前に反応している。
アレックスはその手を掴むため、黒い畑の中へ踏み込んだ。
土が、ぎしりと鳴った。
まるで、畑そのものが侵入者を感じ取ったように。
黒い根が、一斉に動き出した。
ハルダ村の闇が、ついに牙を剥いた。




