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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第66話 苦い井戸水】



 東宿場の夕暮れは、重い色をしていた。


 空は赤く染まっている。


 旅人なら本来、その赤を見上げて、今日の道の無事に息を吐く時間なのだろう。


 荷を下ろし、馬に水をやり、宿の灯りを見つけ、温かい食事を期待する。


 そういう時間のはずだった。


 だが、東宿場には安堵がなかった。


 宿場の外れには、ハルダ村から逃れてきた人々が座り込んでいる。


 荷物を抱えた母親。


 泥のついた農具を手放せない老人。


 小さな妹を抱いた少年。


 力なく壁に背を預ける男。


 皆、顔に同じ色を浮かべていた。


 疲労。


 恐怖。


 そして、後ろめたさ。


 村を出てきたことへの後ろめたさだ。


 逃げなければ死んだかもしれない。


 だが、残っている者もいる。


 家族も、畑も、家も、井戸も。


 置いてきたものがある。


 だから、逃げてきた人々の背中は、宿場にいてもまだハルダ村の方を向いているように見えた。


 宿場の中央には、使用禁止の井戸があった。


 縄で囲われ、木札が立てられている。


 “この井戸、使用禁止”


 粗い字だった。


 急いで書かれたのだろう。


 縄の内側の石畳は黒っぽく汚れている。


 水を汲み上げた時にこぼれたものか。


 泥か。


 それとも、もっと別のものか。


 レクスターは、その井戸の前に膝をついていた。


 水の本を開き、細い水糸を井戸の縁へ伸ばしている。


 宿の主人は腕を組み、少し離れた場所で見張っていた。


 カイはその横に立っている。


 落ち着かない様子で、足元の土を靴で削っている。


 マーガレットは、縄の外側で両腕を組んでいた。


 見るからに我慢している顔だった。


「入っちゃだめ?」


「だめです」


 レクスターが即答する。


「ちょっとだけ」


「だめです」


「水、見るだけ」


「あなたは見るだけで終わらない可能性が高い」


「信用度低い!」


「井戸に関しては二割です」


「低すぎる!」


 宿の主人が呆れたように言う。


「あんたら、本当に大丈夫なのか」


 アレックスは苦笑した。


「たぶん」


「たぶんかよ」


「でも、こういう時のレクトは信頼できます」


 レクスターが井戸から目を離さずに言った。


「こういう時以外も信頼してください」


「してる」


「では表現を改めてください」


「分かった」


 マーガレットが横から言う。


「レクスターはいつも頼りになる!」


「声が大きいですが、ありがとうございます」


 カイがそのやり取りを見て、少し戸惑った顔をしていた。


 彼にとって、今は笑える状況ではない。


 だが、この三人は緊張の中でも会話をする。


 ふざけているように見えて、誰も油断していない。


 カイはそれをまだ掴みきれていないようだった。


 レクスターの水糸が井戸の内側へ降りていく。


 深さを探る。


 水面へ触れる。


 その瞬間、彼の眉がわずかに動いた。


 アレックスは見逃さなかった。


「どうだ」


「通常の泥濁りではありません」


 レクスターの声が低くなる。


 マーガレットの顔から軽さが消える。


「やっぱり?」


「はい。水そのものに刺激性の反応があります。グレイルの原液とは違いますが、欠片薬に近い成分が混じっている」


 宿の主人が顔を青くした。


「欠片薬って……何だよ」


 アレックスは言葉を選んだ。


「人や物に悪い影響を与える薬です。グレイルでも似たものを見ました」


「グレイルで?」


「はい」


 宿の主人は喉を鳴らした。


 グレイルの騒動は、断片的には伝わっているのだろう。


 だが、詳細までは知らない。


 人買い。


 薬房。


 帳簿。


 その言葉だけが先に広がっているはずだ。


 レクスターは井戸水を少量、用意した小瓶へ移した。


 直接手で触れず、水糸で慎重に。


 水は薄く濁っていた。


 黒い、というより灰色。


 だが、瓶の底にわずかに青白い沈殿がある。


 マーガレットが顔をしかめた。


「きれいじゃないね」


「見た目以上に危険です」


「飲んだ人は?」


 アレックスが聞く。


 宿の主人は苦い顔をした。


「腹を下した奴が三人。舌がしびれた奴が一人。子どもには飲ませてねえ」


「よかった」


「よくねえよ」


 宿の主人は井戸を睨む。


「この宿場で井戸が使えねえってのは死活問題だ。水を買うにも限度がある。旅人も避ける。商人も減る。ハルダ村だけの話じゃ済まなくなってる」


 彼の声には怒りがあった。


 そして恐怖も。


 アレックスは頷いた。


「原因はハルダ村から流れてきている可能性があります」


 レクスターが補足する。


「地下水脈、あるいは用水路経由でしょう。ハルダ村の井戸や畑に発生した汚染が、宿場の一部の井戸へ波及していると考えられます」


 宿の主人は頭を抱えた。


「やめてくれ……」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 現実を否定したい声だった。


 カイが声を荒げる。


「だから言っただろ! 村だけじゃないって!」


「カイ」


 アレックスが呼ぶ。


 少年は息を荒くしている。


 怒りと恐怖で顔が赤い。


「みんな最初は村のせいだって言った! 水の管理が悪いとか、畑の手入れが悪いとか! でも違うんだ! 俺たちのせいじゃない!」


 避難民たちが顔を上げる。


 誰も何も言えない。


 言いたかったことを、カイが代わりに叫んだのだ。


 ハルダ村の人々は、宿場でも責められていたのかもしれない。


 汚染を持ち込んだ者。


 不吉な村の者。


 そう見られていたのかもしれない。


 宿の主人は目を逸らした。


「……悪かったよ」


 小さな声だった。


 カイは歯を食いしばる。


 すぐには受け取れない顔だった。


 マーガレットが静かに言った。


「カイ」


「何だよ」


「怒っていいよ」


「……」


「でも、今は村のことを教えて」


 カイの拳が震える。


「怒ってるだけじゃ、助けに行けないから」


 その言葉は、マーガレット自身にも向いていた。


 グレイルで何度も怒った。


 殴りたいと思った。


 壊したいと思った。


 でも、守るために止まった。


 だからこそ、今の彼女の言葉には重さがあった。


 カイはしばらく黙っていた。


 それから、乱暴に涙を拭いた。


「……分かった」


 宿の主人が裏手の物置を使わせてくれた。


 宿場の食堂は避難民と旅人で混み合っていたため、落ち着いて話を聞くには向かなかった。


 物置には古い樽と乾いた藁が積まれている。


 小さな窓から夕方の光が入り、埃が舞っていた。


 アレックスたちは樽を椅子代わりにし、カイを中央に座らせた。


 レクスターは地図を広げる。


 マーガレットはカイの前に水を置いた。


「安全な水?」


 カイが警戒する。


「宿の主人が買った水です」


 レクスターが答える。


「一応、私が確認しました」


「一応?」


「安全です」


「なら最初からそう言えよ」


 カイは水を飲んだ。


 乾いていたのだろう。


 一気に飲みかけて、むせた。


 マーガレットが慌てる。


「ゆっくり!」


「うるさいな……」


 だが、カイの声に少しだけ力が戻る。


 レクスターは地図上のハルダ村を指した。


「まず村の位置を確認します。ここで間違いありませんか」


「うん」


 カイは指で地図をなぞる。


「宿場から南東。森を抜けて、用水路沿いに行く。村の手前に小さい祠がある」


「祠?」


「豊穣の祠。畑の守り神って、ばあちゃんたちが言ってた」


 マーガレットが少し目を輝かせる。


「守り神!」


「今は誰も近づかない」


「なんで?」


 カイの顔が曇る。


「祠の周りの草が、最初に黒くなったから」


 空気が変わる。


 レクスターが地図に印をつける。


「汚染の初期地点の可能性」


「その後、井戸?」


「うん。最初は村の外れの共同井戸。苦いって言い出したのは、ヤギだった」


「ヤギ?」


 マーガレットが聞き返す。


「水飲まなくなった。いつもなら桶に顔突っ込むのに、匂いかいで逃げた。その次の日、飲んだ鶏が死んだ」


 カイの声が少し震える。


 彼にとって、家畜も大事な生活の一部だったのだろう。


「それで人も飲まなくなった?」


「でも、全部の井戸じゃなかったから。まだ大丈夫って、村長が言った。父ちゃんも、用水路の掃除をすれば戻るって」


「戻らなかった」


「うん」


 カイは唇を噛む。


「畑が黒くなった。最初は祠の近くの麦畑。次に豆畑。それから、水路沿いに広がった」


 レクスターが地図に線を引く。


「水路経由の拡散が濃厚です」


「村人に体調不良は?」


「いる。手がしびれる。腹が痛い。夜に変な夢を見るって言う人もいた」


「変な夢?」


 アレックスが問う。


 カイは不安そうに目を伏せる。


「畑の中に立ってる夢。土の下から誰かが呼ぶ。『水をくれ』って」


 マーガレットの顔が引きつる。


「怖い……」


「怖くない!」


 カイは反射的に言った。


 だが、すぐに視線を落とす。


「……怖いけど」


 マーガレットは頷いた。


「うん」


 カイは続ける。


「夜になると、本当に畑が鳴る。ぎしぎし、って。根が動いてるみたいに。父ちゃんは、地面が割れてる音だって言った。でも、俺には……」


「声に聞こえた?」


 カイはゆっくり頷いた。


「うん」


 沈黙。


 アレックスは、グレイルの旧施療院で聞いたリゼットの声を思い出していた。


 薬。


 命令。


 名前。


 欠片核。


 水路。


 植物の根。


 もし薬液が水に混じり、土壌へ流れ込み、植物の根が欠片反応を起こしているとしたら。


 畑が鳴るという現象も、ただの迷信ではないかもしれない。


 レクスターも同じことを考えているようだった。


「植物系の欠片反応……あるいは根系を媒体にした命令波」


「そんなことができるのか」


 アレックスが聞く。


「理論上は不明です。しかし、リゼットの旧施療院では水路を利用した拡散装置がありました。彼女、もしくは類似技術を持つ者が関与していれば、可能性はあります」


 マーガレットが拳を握る。


「リゼット……?」


「断定はしません」


「でも怪しい」


「はい。非常に」


 カイが三人を見る。


「リゼットって誰だ」


 アレックスは少し迷った。


 どこまで話すか。


 だが、カイは村の当事者だ。


 隠しすぎれば、また誰かの選択を奪うことになる。


「グレイルで人を薬の実験に使っていた薬師だ」


 カイの顔がこわばる。


「薬師……」


「逃げた。今、行方を追っている」


「そいつが、村を?」


「まだ分からない」


 アレックスははっきり言った。


「でも、似た手口を知っている。だから調べる」


 カイは膝の上で拳を握った。


「じゃあ、早く行こう」


「準備してからだ」


「またそれかよ!」


 カイが立ち上がる。


「準備してる間に、父ちゃんたちが――」


「焦って行けば全員倒れる」


 アレックスの声は強かった。


 カイが怯む。


 アレックスはすぐに少し声を落とす。


「助けに行くために準備するんだ」


「……」


「水を持つ。布を持つ。井戸水を飲まない。畑に直接触らない。村に入る前に祠を見る。巡察の行方も確認する」


 レクスターが頷く。


「カイ、あなたには道案内を頼む可能性があります。ただし、村の中へ無理に入れるかは状況次第です」


「俺も行く!」


「危険です」


「俺の村だ!」


 カイは叫ぶ。


 物置の外にまで聞こえただろう。


 しばらく沈黙が落ちた。


 マーガレットが静かに言った。


「カイは行きたいんだね」


「当たり前だろ!」


「うん」


「母ちゃんも父ちゃんもいるんだ!」


「うん」


「俺だけここで待ってろって言うのかよ!」


 マーガレットは、少しだけ痛そうな顔をした。


 グレイルでニナが待っていた。


 セラを助けに行けず、名前を呼ぶことしかできなかった。


 待つ側の痛みを、マーガレットは見ている。


「待つのも、怖いよね」


 カイは言葉に詰まった。


「……怖くない」


「うん。そう言いたいよね」


「怖くないって言ってるだろ!」


「でも、私は怖かった」


 マーガレットは自分の胸に手を当てた。


「大事な人が危ない場所にいる時、待つのってすごく怖い。走って行きたくなる。何かしたくなる。何もしないのが一番痛い」


 カイの目が揺れる。


「でもね、何もしないわけじゃない待ち方もある」


「……何だよ、それ」


「道を教える。村のことを話す。地図を書く。危ない場所を思い出す。水を用意する」


 マーガレットは指を折って数えた。


「それ全部、助けに行くためのことだよ」


 カイは黙った。


 怒りがすぐに消えたわけではない。


 でも、言葉は届いている。


 レクスターが付け加えた。


「カイが村に詳しいことは重要です。無謀に同行して倒れるより、情報を正確に伝える方が多くの命を救う可能性があります」


「……」


「ただし、村の外周まで案内することは検討できます」


 カイが顔を上げる。


「本当か」


「条件付きです」


「条件?」


「指示に従う。井戸水に触れない。畑に入らない。単独行動しない」


「……」


「守れないなら、連れていけません」


 カイは歯を食いしばった。


 悔しい。


 でも、父母を助けたい。


 その間で揺れている。


 やがて、彼は小さく頷いた。


「……守る」


 アレックスは真っ直ぐ彼を見る。


「約束できるか」


「できる」


「本当に?」


「できる!」


「分かった」


 アレックスは頷いた。


「明日の朝、村の外周まで案内してくれ」


 カイの顔に、少しだけ光が戻った。


「……うん」


 話し合いは続いた。


 カイは村の地図を描いた。


 拙い線だったが、重要な情報が多かった。


 豊穣の祠。


 共同井戸。


 村長の家。


 用水路。


 麦畑。


 黒くなった場所。


 まだ人が残っている家。


 巡察が向かったという道。


 村の外れにある古い水車小屋。


 レクスターはそれを丁寧に整理し、自分の地図へ写した。


 マーガレットは水袋を確認し、宿の主人から安全な水を分けてもらう交渉をした。


 最初、主人は渋った。


 水は貴重だ。


 宿場でも足りない。


 だが、マーガレットが真剣な顔で言った。


「村へ行って原因を止められたら、ここの水も助かるかもしれない」


 主人は黙った。


「絶対とは言えないけど、やる」


 そのまっすぐな声に、主人はしばらく沈黙し、やがて奥から水袋を二つ出した。


「高いぞ」


「払う!」


「いや、半分でいい」


「いいの?」


「……村がだめになったら、こっちも困る」


 主人は目を逸らしながら言った。


「それだけだ」


 マーガレットは笑った。


「ありがとう!」


「声でかい」


「ごめん!」


 避難民の中には、まだ疑う者もいた。


 旅人が何をできるのか。


 また誰かが見に行って戻らないだけではないか。


 そういう視線がある。


 当然だった。


 期待は、裏切られると痛い。


 だから人は、最初から期待しないようにする。


 アレックスは、その視線を受け止めた。


 できるとは言わない。


 絶対助けるとは軽く言わない。


 でも、行く。


 調べる。


 できることをする。


 その態度だけを示した。


 夜になり、東宿場の食堂には弱い灯りがともった。


 旅人、避難民、宿場の者たちが分かれて座っている。


 完全に混ざってはいない。


 だが、昼よりは少し距離が近い。


 カイはアレックスたちと同じ卓にいた。


 硬いパンと薄い豆の煮込みを前に、あまり食べていない。


 マーガレットがじっと見ている。


「食べないの?」


「腹減ってない」


「明日歩くなら食べた方がいい」


「……」


「私もグレイルで言われた」


「誰に」


「ばあちゃん」


「誰だよ」


「強い人」


「意味分かんない」


 カイはそう言いながら、少しだけパンをかじった。


 硬さに顔をしかめる。


「硬っ」


 マーガレットが嬉しそうに言う。


「やっぱり硬いよね!」


「何で嬉しそうなんだよ」


「仲間!」


「意味分かんない」


 カイは呆れた顔をしたが、さっきより少し食べた。


 レクスターは水の小瓶を観察していた。


 食事中でも気になるらしい。


 アレックスが声をかける。


「レクト」


「はい」


「食事」


「しています」


「手が止まってる」


「思考が動いています」


「食べながらにしてくれ」


「……はい」


 レクスターは不服そうに匙を取った。


 マーガレットが満足そうに頷く。


「よし」


「なぜあなたが管理者のように」


「グレイルで学んだ!」


「良い学習です」


「褒められた!」


 食堂の空気が少しだけ和らぐ。


 だが、窓の外を風が吹くたび、避難民たちは南東の闇を見た。


 ハルダ村の方角。


 そこには、今も人がいる。


 井戸が濁り、畑が黒くなり、夜に根が鳴る村がある。


 カイも何度も窓を見た。


 アレックスはそれに気づいていたが、何も言わなかった。


 代わりに、自分の背中の帳簿を確認する。


 グレイルの名前。


 ハルダ村の声。


 旅は、次々と重さを増していく。


 でも、もう逃げたいとは思わない。


 夜が深くなった頃、宿の外でレクスターが井戸水の追加確認をしていた。


 アレックスとマーガレットもそばにいる。


 カイは宿の主人に言われて中で寝かされている。


 不満そうだったが、明日のためだと説得した。


 レクスターは小瓶の水を月明かりに透かした。


 青白い沈殿が、底でわずかに光る。


「これ」


 彼は低く言った。


「旧施療院の原液とは違いますが、共通成分があります」


「リゼットか」


 アレックスが聞く。


「手法は似ています。ただ、目的が違うように見える」


「目的?」


「グレイルでは人を壊し、操るため。ハルダ周辺では、水と土壌へ広げている。もし意図的なら、対象は人ではなく土地です」


 マーガレットが拳を握る。


「土地を壊してどうするの」


「飢えさせる。追い出す。土地を安く奪う。あるいは、植物を媒体にした別の実験」


「どれも嫌」


「同感です」


 アレックスは南東の暗い道を見た。


「明日、まず祠を見る」


「はい」


「それから井戸と畑」


「順序として妥当です」


「カイを守る」


「最優先です」


 マーガレットが力強く頷く。


「カイも、村の人も、畑も守る」


「畑も?」


 レクスターが聞く。


「だって、村の人たちの灯りでしょ」


 マーガレットは真剣だった。


「食べ物を作って、家族を養って、毎日見てきた畑でしょ。なら、守りたい」


 アレックスは少しだけ笑った。


「そうだな」


 レクスターも目を伏せ、静かに言った。


「失礼しました。守る対象に含めましょう」


「うん!」


 風が吹く。


 宿場の使用禁止の井戸縄が揺れる。


 その向こうの闇から、何かが聞こえた気がした。


 ぎし。


 ぎし。


 遠い、微かな音。


 アレックスは振り向いた。


「今」


 マーガレットも顔を上げる。


「聞こえた?」


 レクスターが小瓶を閉じる。


「南東方向から」


 三人は息を潜めた。


 もう一度。


 ぎし。


 ぎし。


 土の下で、何かが軋むような音。


 宿場まで届くはずのない、遠い畑の音。


 しかし確かに、夜風に乗っていた。


 マーガレットの顔が青ざめる。


「畑が鳴るって……本当なんだ」


 アレックスは雷の刃へ手を添えた。


 南東の闇を見る。


 そこに、ハルダ村がある。


 闇の中で、畑が鳴っている。


 人々が残っている。


 水が濁っている。


 そして、何かが広がっている。


「明日、行こう」


 アレックスが言った。


 レクスターが頷く。


「はい」


 マーガレットも強く頷いた。


「絶対、止めよう」


 夜の東宿場に、低い軋み音がもう一度響いた。


 まるで、土の下から誰かが呼んでいるように。


 水をくれ、と。


 助けてくれ、と。


 アレックスは、その声なき声を胸に刻んだ。


 グレイルを出たばかりの旅路は、もう次の灯りへ辿り着こうとしていた。

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