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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第71話 村の名を呼ぶ声】



 集会倉庫の前に、青白い光が揺れていた。


 夕暮れにはまだ早い。


 だが、ハルダ村の中心は、昼間だというのに薄暗く見えた。


 黒く染まった畑から流れてくる重い空気。


 濁った用水路の匂い。


 水車小屋から漂う湿った薬液の残り香。


 そして、集会倉庫の奥に並ぶ四つの黒い樽。


 そのうち一つだけ、蓋が開いている。


 中には青白い液体が揺れていた。


 水ではない。


 油でもない。


 もっと生き物めいた粘りを持つ液体。


 樽の縁からは、細い黒い筋が垂れ、床板へ染み込んでいる。


 その床板から、村人たちの足元へ黒い根のようなものが伸びていた。


 操られた村人たち。


 地主のガロン。


 ミツ婆。


 ロイド。


 ハンス。


 カイが震える声で呼んだ名前。


 その名を聞いた瞬間、彼らの指は確かに動いた。


 完全に奪われてはいない。


 戻れる可能性がある。


 アレックスは、そこに賭けるしかなかった。


 目の前にはサヴィル。


 グレイ商会の調整役を名乗る男。


 灰色の外套。


 整った服。


 汚れ一つない手袋。


 その清潔さが、この村の惨状の中で異様だった。


 彼は黒い樽の横に立ち、穏やかに微笑んでいる。


 村の畑を黒く染めた男。


 祠に核を仕込み、水車に石を入れ、村人を薬で縛った男。


 それでも、彼は自分を悪人だとは思っていないように見えた。


 むしろ、合理的な仕事をしているだけだとでも言いたげだった。


「名前を呼べば揺れる」


 サヴィルは、興味深そうに言った。


「なるほど。リゼット女史の記録にあった“名称反応”か」


 アレックスの目が鋭くなる。


「リゼットを知っているのか」


「知っているとも」


 サヴィルは軽く肩をすくめた。


「直接の仲間というほどではないがね。彼女は人体反応の専門家。私は土地と流通の調整役。扱う対象が少し違うだけだ」


「人も土地も、道具みたいに言うな」


「道具ではないよ」


 サヴィルは微笑む。


「資源だ」


 その一言で、マーガレットの足元が沈んだ。


 怒りで踏み込みそうになったのを、彼女は必死に止めた。


 黒い樽がある。


 操られた村人がいる。


 カイが背後にいる。


 ここで怒りに任せて突っ込めば、何かを壊す。


 グレイルで何度も学んだ。


 壊したい時ほど、守る手を選ばなければならない。


「最低」


 マーガレットは低く言った。


 サヴィルは笑みを崩さない。


「感情的だね」


「感情がないよりいい」


「感情は判断を鈍らせる」


「感情があるから、止まれるんだよ」


 サヴィルの目が、ほんの少し細くなる。


 その言葉を理解できないのか。


 あるいは、理解したくないのか。


 アレックスは雷の刃を構えた。


「サヴィル。樽から離れろ」


「何度も言わせないでほしいな。離れないよ」


「なら、止める」


「できるかな」


 サヴィルが片手を上げる。


 その動きに合わせて、虚ろな村人たちが一歩前へ出た。


 農具を構える。


 鍬。


 鎌。


 木槌。


 草刈り鎌。


 どれも本来は畑を耕し、作物を育てるための道具だ。


 それが今、村を守ろうとする者へ向けられている。


 カイが息を呑む。


「ガロン……ミツ婆……」


 彼の声が震える。


 ガロンと呼ばれた大柄な男が、鍬を振り上げた。


 アレックスは踏み込んだ。


 刃で受けない。


 雷で痺れさせない。


 まず、止める。


 鍬の柄を雷の刃の背で受け、横へ流す。


 ガロンの身体が前へ傾く。


 その腕には黒い筋が浮いている。


 命令線は手首から肩へ。


 さらに足元の黒根へ繋がっている。


「カイ!」


 アレックスが叫ぶ。


「呼べ!」


 カイは震えながらも叫んだ。


「ガロン! ガロンのおっちゃん! 俺だ! カイだ!」


 ガロンの腕がわずかに止まる。


 鍬の力が抜けた。


 アレックスはその一瞬に雷糸を伸ばす。


 手首の命令線へ。


 切るのではなく、緩める。


「断て」


 黒い筋の脈動が弱まる。


 ガロンの目が揺れた。


「……カ……イ……?」


「そうだよ! 俺だよ!」


 カイの声に涙が混じる。


 ガロンの膝が落ちかけた。


 しかし、床から伸びた黒根が再び彼の足へ絡む。


 サヴィルが指を動かしたのだ。


「戻すにはまだ早い」


 アレックスは歯を食いしばる。


「お前……!」


 横から鎌が飛んだ。


 ミツ婆だ。


 小柄な老婆のはずなのに、薬の命令で異様な速度を出している。


 マーガレットが前へ出る。


 ハルバードの柄で鎌を受ける。


 甲高い音が響いた。


「ミツ婆!」


 カイが叫ぶ。


「俺だ! カイだ! 祭りの時、麦団子くれただろ!」


 ミツ婆の顔が歪む。


 虚ろだった目に、ほんの一瞬だけ色が戻る。


「……麦……団子……」


 マーガレットはその瞬間を逃さなかった。


「今!」


 彼女は鎌を弾くのではなく、柄を巻き取るようにして動きを止めた。


 ミツ婆の細い腕を傷つけないよう、ハルバードの柄を支点にして力を逃がす。


 同時に、レクスターの水糸が足元の黒根へ伸びる。


「根の接続を緩めます」


「お願い!」


 マーガレットはミツ婆の目を見た。


「ミツ婆さん、聞こえますか!」


「……」


「カイが呼んでます!」


「……カイ……」


 ミツ婆の唇が動く。


 黒根が暴れる。


 サヴィルの表情から笑みが少し薄れた。


「名称反応がここまで強いとは」


 レクスターが低く言う。


「あなたは知らずに使っていたのですか」


「土地反応が主目的だからね。村人の制御は副産物だ」


「副産物?」


 レクスターの声が冷たくなった。


「人の意識を奪っておいて、副産物ですか」


「実験には予期せぬ収穫がある」


「あなたは研究者ではありません」


 レクスターは水の本を開き、足元の黒根へ水糸を増やした。


「ただの加害者です」


 サヴィルの目が、はじめて不快そうに歪んだ。


「口の悪い記録係だ」


「事実を述べたまでです」


 サヴィルが指を鳴らす。


 今度はロイドとハンスが動いた。


 二人同時。


 片方は木槌。


 片方は草刈り鎌。


 狙いはアレックスではない。


 カイ。


 名前を呼ぶ声を止めようとしている。


 マーガレットが反応する。


「カイ、下がって!」


「でも名前を――」


「呼びながら下がる!」


 カイは半歩下がる。


 その前にマーガレットが立つ。


 木槌をハルバードの柄で受け、草刈り鎌を石突で弾く。


 受けるたびに腕が痺れる。


 相手は村人だ。


 強く返せない。


 だが、手加減しすぎれば自分が斬られる。


 難しい。


 壊さず止める。


 グレイルで覚えたその戦い方が、また彼女に求められている。


「ロイド! ハンス!」


 カイが叫ぶ。


「父ちゃんと一緒に水路直してただろ! 俺に釘打ち教えてくれただろ! 戻ってこいよ!」


 ロイドの木槌が止まる。


 ハンスの鎌が震える。


 マーガレットは涙目で叫んだ。


「すごい、効いてる!」


 レクスターが即座に言う。


「油断しない!」


「分かってる!」


 アレックスはガロンの黒根を剥がしながら、サヴィルの動きを見ていた。


 サヴィルは樽のそばから離れない。


 それどころか、少しずつ蓋の開いた樽へ手を近づけている。


 樽を破損させるつもりか。


 あるいは、液体をさらに撒くつもりか。


 アレックスは踏み込みたい。


 だが、村人たちが壁になっている。


 傷つけずに突破するには、時間が必要だ。


 その時間をサヴィルは奪おうとしている。


「レクト、樽を見てくれ!」


「見ています!」


 レクスターの水糸が、樽の周囲へ伸びている。


 しかし、樽の中の液体へ直接触れることはできない。


 反応が強すぎる。


 水糸が汚染される可能性がある。


 封じるには、樽の蓋を閉める必要がある。


 だが、蓋はサヴィルの足元にある。


 サヴィルはそれに気づいている。


「蓋が欲しいのかな」


 彼は柔らかく言った。


「なら取りに来るといい」


 マーガレットが歯を食いしばる。


「挑発してる」


「乗るな!」


 アレックスが叫ぶ。


「分かってる!」


 だが、サヴィルはさらに足元の蓋を軽く蹴った。


 蓋が樽から離れる。


 ころり、と床を転がり、青白い液体の飛沫が床へ落ちた。


 その瞬間、床の黒根が一斉に動いた。


 マーガレットが叫ぶ。


「床!」


 黒根がカイの足元へ伸びる。


 カイは避けようとするが、背後は壁。


 マーガレットが飛び込む。


 ハルバードの柄で根を押さえる。


 しかし別の根が、彼女の足首へ絡む。


「っ!」


「マーガレット!」


 アレックスが踏み出しかける。


 その前にレクスターの水糸が根へ絡みついた。


「剥がします!」


「お願い!」


 マーガレットは足を引く。


 根が黒い液を滲ませながら剥がれる。


 足首に黒い跡が残った。


 浅い。


 だが、無視はできない。


 レクスターの顔が険しくなる。


「マーガレット、後退を」


「まだ平気!」


「平気ではありません!」


「でもカイが!」


 カイは青ざめていた。


 自分のせいでマーガレットが傷ついたと思っている。


 その顔を見て、マーガレットは無理に笑った。


「大丈夫。ちゃんと見てたから浅い」


「……ごめん」


「謝るより、呼んで」


「え?」


「カイの声が必要」


 カイの目が揺れる。


 マーガレットは続けた。


「私が受け止める。アレックスがほどく。レクスターが守る。カイは名前を呼ぶ」


 それぞれの役割。


 カイは唇を噛み、涙を拭った。


 そして、村人たちへ向き直った。


「ガロン! ミツ婆! ロイド! ハンス!」


 声が震える。


 でも、止まらない。


「俺だ! カイだ! 村に戻ろう! 畑、まだ終わってない! 父ちゃんも母ちゃんも生きてる! 村長も生きてる! だから戻ってこい!」


 その声は、集会倉庫の中に響いた。


 黒い樽の青白い光が揺れる。


 村人たちの身体が、同時に震えた。


 ガロンの鍬が床へ落ちる。


 ミツ婆の鎌が下がる。


 ロイドが頭を押さえる。


 ハンスが膝をつく。


 名前だけではない。


 村。


 畑。


 父。


 母。


 村長。


 彼らが帰る場所の言葉が、命令を揺らしている。


 レクスターが叫ぶ。


「今です!」


 アレックスは雷糸を四本に分けた。


 ガロン。


 ミツ婆。


 ロイド。


 ハンス。


 それぞれの足元の黒根へ。


 同時に命令線を弱める。


 完全に切るのではない。


 まず、サヴィルとの接続を断つ。


「断て!」


 雷が床を走った。


 黒根が一瞬硬直し、村人たちの足から剥がれる。


 マーガレットがすぐ動いた。


「こっち!」


 彼女は倒れかけたミツ婆を支え、ロイドを壁際へ誘導する。


 カイがガロンへ駆け寄ろうとして、すぐ止まる。


 レクスターが言っていたからだ。


 直接触るな。


 カイは布を取り出し、震える手でガロンの腕へかけた。


「おっちゃん、こっち……!」


 ガロンは朦朧としながらも、カイを見る。


「……カイ……?」


「うん!」


 その瞬間、カイの顔が崩れた。


「戻った……」


 だが、サヴィルはまだいる。


 彼の笑みは消えていた。


「これは困った」


 声はまだ穏やかだ。


 だが、目が冷たい。


「村人の制御を失うのは想定外だ」


「想定外で済ませるな」


 アレックスはサヴィルへ向き直った。


 村人たちが離れた。


 樽への道が少し開いた。


 しかし、サヴィルは蓋の開いた樽の縁へ手を置いている。


「来れば倒す」


 アレックスが言った。


「倒してもいいが、樽はどうする?」


 サヴィルは指先で樽を軽く叩く。


「私が倒れる時、手が滑るかもしれない」


「卑怯者」


 マーガレットが低く言う。


「商人だからね」


「商人に謝れ」


 レクスターが静かに言った。


「あなたは商人ではなく、恐喝犯です」


「随分と口が回る」


「あなたほどではありません」


 レクスターは樽を見ている。


 開いた樽。


 床に転がった蓋。


 サヴィルの位置。


 村人たちの位置。


 カイ。


 マーガレットの足首。


 アレックスの距離。


 彼の頭が、状況を分解しているのが分かる。


「アレックス」


「うん」


「蓋まで二歩。サヴィルの足元に黒液。滑りやすい。樽の左側に固定具があります」


「固定具?」


「樽を荷車に載せるための金具でしょう。そこを雷で痺れさせれば、サヴィルの手を樽から離せる可能性があります」


「樽に雷を近づけて大丈夫か」


「直接ではなく、金具だけ。強すぎれば危険」


「いつものやつだな」


「はい」


 マーガレットが言う。


「私は?」


「村人とカイを守ってください」


「サヴィルは?」


「アレックスが止めます」


「樽は?」


「私が蓋を戻します」


 アレックスとマーガレットが同時にレクスターを見た。


 レクスターは淡々としている。


「水糸で蓋を引き寄せます。蓋が樽口に乗る瞬間、マーガレット、衝撃を防ぐため床を押さえてください」


「床を押さえる!?」


「樽が揺れないように」


「分かった!」


「分かりましたか?」


「たぶん!」


「不安です」


「でもやる!」


 サヴィルが笑った。


「相談は済んだかな」


「ええ」


 レクスターが答えた。


「あなたの選択肢は二つです。樽から離れて拘束されるか、樽から離されて拘束されるか」


 サヴィルの目が細くなる。


「面白い冗談だ」


「冗談ではありません」


 その瞬間、アレックスが動いた。


 正面ではない。


 わずかに右へ踏み、サヴィルの視線を引く。


 サヴィルの手が樽を押そうとする。


 だが、その前にアレックスの雷糸が床を走った。


 樽の金具へ。


 直接液体には触れない。


 金属部分だけ。


「雷針!」


 微細な雷が金具を通じて、サヴィルの手袋へ走る。


 サヴィルの指が一瞬痺れた。


「っ……!」


 手が樽から離れる。


 同時にレクスターの水糸が床の蓋へ絡みついた。


 蓋が滑る。


 青白い液体の飛沫を避けながら、床を滑って樽へ向かう。


 マーガレットが村人たちを背後へ押しやり、ハルバードの石突で床板を押さえた。


「揺れるな!」


 蓋が樽口へ乗る。


 だが、ぴったりはまらない。


 サヴィルが痺れた手を押さえながら、足で蓋を蹴ろうとする。


 アレックスが踏み込む。


 雷の刃の背で、サヴィルの足を払った。


 強くはない。


 骨を折るためではなく、体勢を崩すため。


 サヴィルがよろめく。


 その隙にレクスターの水糸が蓋を押し込み、マーガレットが床ごと振動を抑えた。


 ごん、と重い音。


 蓋が閉まった。


「閉鎖!」


 レクスターが叫ぶ。


「固定はまだです!」


 サヴィルが後ろへ下がる。


 アレックスは追う。


 だが、サヴィルは懐から小瓶を取り出した。


 中には青白い液体。


「近づくな」


 サヴィルの声は、もう穏やかではなかった。


「これを割れば、床の根が再活性化する」


 マーガレットがカイを背後に庇う。


 レクスターが固定具へ水糸を伸ばしながら、低く言う。


「小瓶を割らせないでください」


「分かってる」


 アレックスはサヴィルを見た。


 小瓶。


 距離。


 手の角度。


 雷で撃てば瓶ごと割れる。


 踏み込めば床に落とされる。


 相手はそれを分かっている。


 サヴィルは笑った。


 余裕は戻っていない。


 だが、逃げ道を探す目をしている。


「私はここで死ぬつもりはない」


「誰も殺すとは言っていない」


「捕まるつもりもない」


「なら諦めろ」


「論理が破綻している」


「お前に言われたくない」


 サヴィルは一歩下がる。


 倉庫の奥には裏口がある。


 逃げるつもりだ。


 カイが叫ぶ。


「逃がすな!」


「分かってる!」


 マーガレットが動こうとする。


 だが、村人たちがまだ完全に安全ではない。


 黒根が足元で弱く動いている。


 彼女が離れれば、カイや村人に危険がある。


 レクスターは樽の固定で手を離せない。


 アレックスが止めるしかない。


 サヴィルが小瓶を床へ落とす素振りを見せた。


 アレックスの身体が一瞬固まる。


 その一瞬を狙って、サヴィルは裏口へ走った。


「アレックス!」


 マーガレットの声。


 アレックスは追う。


 だが、サヴィルは小瓶を背後へ放った。


 床へ。


 割れる。


 そう見えた。


 しかし、その前に水糸が伸びた。


 レクスターではない。


 いや、レクスターの水糸だが、明らかに無理な距離だった。


 樽固定に回していた糸を、強引に一本だけ伸ばしたのだ。


 小瓶を空中で包む。


 衝撃を水で殺す。


 小瓶は割れず、床へ転がった。


 レクスターの顔が苦痛に歪む。


「捕獲……!」


「助かった!」


 アレックスはサヴィルへ追いつく。


 裏口の直前。


 サヴィルが短剣を抜いた。


 商人にしては、動きが鋭い。


 訓練されている。


 だが、アレックスは止まらない。


 雷の刃で短剣を弾く。


 左手でサヴィルの手首を掴み、壁へ押し付ける。


「終わりだ」


 サヴィルは歯を食いしばる。


「終わらない」


「何?」


「グレイ商会は、私一人ではない」


 アレックスの目が細くなる。


「誰が命じた」


 サヴィルは笑った。


 苦しそうに。


 それでも笑った。


「土地は、これから価値を変える。飢えた村は売るしかない。壊れた畑は買い叩ける。君たちが一つ止めても、別の村でまた始まる」


「誰が命じた!」


 アレックスの声が強くなる。


 サヴィルは答えない。


 代わりに、低く言った。


「王都の人間は、辺境の畑など見ていないよ」


 その言葉が、アレックスの胸に刺さった。


 王都。


 また。


 グレイルの帳簿に続き、ハルダ村の汚染も王都へ繋がるのか。


 サヴィルは笑う。


「追放王子殿。君は思ったより面倒だ」


「それはよく言われる」


「だが、君が守ろうとする灯りは、多すぎる」


 アレックスは、サヴィルの手首を強く押さえた。


「多くても守る」


「潰れるぞ」


「一人じゃない」


 その言葉に、サヴィルの笑みが少しだけ消えた。


 背後からマーガレットの声が飛ぶ。


「アレックス! 樽、固定できた!」


 レクスターの声も続く。


「村人四名、意識回復傾向! 小瓶も確保!」


 カイが叫ぶ。


「ガロンたち戻った! まだぼんやりしてるけど!」


 アレックスはサヴィルを見る。


「聞こえたか」


 サヴィルは黙った。


「お前が資源って呼んだ人たちは、名前を呼べば戻る」


「……」


「土地も戻す。畑も、水も」


「夢物語だ」


「それでもやる」


 アレックスはサヴィルを押さえたまま、雷糸で短剣を遠くへ弾いた。


「レクト、拘束具!」


「縄を使ってください。黒液汚染のないものを」


「分かった!」


 マーガレットが走ってくる。


 今度はカイを村人たちのそばに残し、レクスターに任せている。


 彼女は縄を持ち、サヴィルを見て目を細めた。


「暴れたら、優しく止めるから」


 サヴィルが皮肉げに笑う。


「優しく?」


「うん」


 マーガレットは縄を握り直した。


「痛いくらい優しく」


「矛盾している」


「私もそう思う!」


 サヴィルは初めて、少しだけ顔を引きつらせた。


 アレックスは短く息を吐いた。


 サヴィルを拘束する。


 樽を閉じる。


 村人を戻す。


 まだ終わっていない。


 黒い樽は四つある。


 村の水と畑は汚染されたまま。


 避難小屋には、まだ人がいる。


 だが、ハルダ村を壊そうとした男を止めた。


 そのことは大きい。


 カイが、ガロンのそばで泣いていた。


「戻った……戻ったよ……」


 ガロンは朦朧としながら、少年の頭を布越しに撫でようとしている。


「……カイ……すまん……」


「謝るなよ……」


 ミツ婆も小さく呟いた。


「……麦団子……焦がしたかね……」


 カイが泣きながら笑う。


「焦げてても食べるよ……」


 マーガレットがそれを見て、また泣きそうになる。


「泣いている場合ではありません」


 レクスターが言う。


「泣きながらやる!」


「器用ですね」


「褒めてる!?」


「半分」


「こんな時まで!」


 それでも、彼女は笑った。


 アレックスも、ほんの少しだけ笑った。


 集会倉庫の中には、まだ青白い光が残っている。


 黒い樽は沈黙しているが、不気味な存在感を放っていた。


 サヴィルは拘束され、壁際に座らされる。


 その目はまだ完全には折れていない。


 だが、彼の計画の一部は確かに止まった。


 アレックスは樽を見た。


「レクト」


「はい」


「これを無力化できるか」


 レクスターは樽を見つめた。


 疲労の色が濃い。


 だが、目は逸らさない。


「すぐには無理です」


「だろうな」


「ですが、封鎖と流出防止はできます。水車を止め、祠の核を沈黙させ、樽を閉じた。拡散は大きく弱まっています」


「畑は?」


「時間が必要です」


 マーガレットが聞く。


「戻る?」


 レクスターは少し黙った。


 そして、正直に言った。


「全部は戻らないかもしれません」


 カイの顔が曇る。


 だが、レクスターは続ける。


「でも、残せる畑はあります。水路の上流を清め、汚染土を隔離し、黒い根の広がりを止める。時間はかかりますが、村全体が終わったわけではありません」


 カイの目に涙が浮かぶ。


「終わってない?」


「はい」


 レクスターははっきり言った。


「終わっていません」


 その言葉を聞いた瞬間、集会倉庫の空気が変わった。


 ガロンが顔を上げる。


 ミツ婆が泣き出す。


 ロイドとハンスも、まだぼんやりしながら互いを見る。


 マーガレットが強く頷く。


「終わってない!」


 カイも、震えながら頷いた。


「終わってない……!」


 アレックスは、集会倉庫の外へ目を向けた。


 黒い畑。


 濁った水路。


 避難小屋。


 水車。


 祠。


 やるべきことはまだ山ほどある。


 けれど、村の心臓を壊す樽は止めた。


 人の名前も戻り始めた。


 なら、次は村そのものを戻す番だ。


「まず避難小屋へ行く」


 アレックスは言った。


「残っている人たちを安全な場所へ移す。その後、樽を封鎖する」


 レクスターが頷く。


「妥当です」


 マーガレットがハルバードを握り直す。


「行こう」


 カイも立ち上がる。


「案内する」


 アレックスは彼を見る。


「無理はするな」


「する」


「するな」


「……努力する」


 マーガレットがすぐ言う。


「不安!」


 カイは少しだけ笑った。


 涙で濡れた顔で。


 でも、笑った。


「俺も不安」


 その正直な言葉に、アレックスは頷いた。


「怖いまま行こう」


「うん」


 サヴィルは壁際で、低く笑った。


「怖いまま進むか。非効率だ」


 アレックスは振り返らなかった。


「お前には分からなくていい」


 集会倉庫の外で、風が吹いた。


 黒い畑が、ぎし、と小さく鳴る。


 だが、その音は先ほどより弱い。


 まるで、村そのものが息を吹き返す準備をしているようだった。


 ハルダ村はまだ救われていない。


 けれど、終わってはいない。


 カイが呼んだ名前が、村人たちを戻した。


 その声がある限り、村もまた戻れるかもしれない。


 アレックスたちは、黒い樽を背に、避難小屋へ向かって歩き出した。

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