【第64話 東門の約束】
出発の朝は、思っていたよりも静かだった。
もっと騒がしいものになると思っていた。
誰かが泣き、誰かが止め、誰かが怒鳴り、誰かが荷物を持ち忘れて走り回る。
そういう朝になるのかもしれないと、アレックスはどこかで覚悟していた。
けれど実際のグレイルの朝は、柔らかい布が風に揺れる音から始まった。
古布置き場の前に干された布が、白く、薄茶色に、朝の光を受けて揺れている。
その下を、小さな風が通る。
薬草の匂い。
煮出した湯の匂い。
まだ少し残る煙の匂い。
それらが混ざって、胸の奥にゆっくり入ってきた。
グレイルは、まだ傷ついている。
壊れた倉庫もある。
封鎖された薬房もある。
北鐘楼には見張りが立ち、旧施療院への道には縄が張られている。
帳簿をめぐる話し合いも、バルザックの引き渡し準備も、終わってはいない。
それでも、町は朝を迎えていた。
誰かが水を運び。
誰かが怪我人へ布を替え。
誰かが記録を読み。
誰かが泣きながら家族の名前を探し。
そして誰かが、静かに前を向こうとしている。
そんな朝だった。
アレックスは、荷物の紐を結び直した。
背には旅袋。
その中には、着替えや乾いた食料、水袋。
そして、封印布に包まれた帳簿の写しがある。
紙の束とは思えないほど重い。
けれど、その重さは嫌ではなかった。
グレイルから預かった名前の重さ。
消されかけた声の重さ。
それを背負って進むのだと思えば、肩に食い込む紐の痛みさえ意味を持つ。
「きつくないですか」
レクスターが横から言った。
彼も旅支度を終えている。
水の本はいつもの位置。
腰には小さな薬袋。
荷物は見た目以上に整理されていて、無駄がない。
だが、顔色はまだ完全ではない。
本人は回復したと言い張っているが、マーガレットと老女の判定では「まだ寝不足」だった。
「大丈夫」
アレックスが答える。
「その返答は信用度が低いです」
「レクトに言われると説得力があるな」
「私も信用度が低かった自覚はあります」
「過去形?」
「改善中です」
アレックスは笑った。
その会話の横で、マーガレットが荷物と格闘していた。
彼女の旅袋は、出発前より少し膨らんでいる。
どう見ても増えている。
レクスターがすぐに気づいた。
「マーガレット」
「はい!」
「その荷物の増加分は何ですか」
「必要なもの!」
「具体的に」
「ルミアちゃんの匂い袋、ニナちゃんの手紙、セラちゃんの布、老女さんがくれた干し薬草、ミアちゃんのお母さんがくれた小さい包み、あと硬いパン」
「多いですね」
「全部大事!」
「硬いパンも?」
「食料!」
「それは認めます」
マーガレットは少し勝ち誇った顔をした。
「ほら!」
「他は感情的荷物です」
「感情も大事!」
レクスターはため息をついた。
「否定はしません。ただし重さを考慮してください」
「大丈夫!」
「信用度は?」
アレックスが聞く。
レクスターは即答した。
「四割」
「低い!」
マーガレットが叫ぶ。
「せめて六割!」
「では五割」
「間を取られた!」
アレックスは笑った。
笑いながら、胸の奥が少しだけ痛む。
こういうやり取りを、グレイルで何度もした。
緊張の中で。
薬房で。
帳簿部屋で。
旧施療院で。
ルミアの治療の横で。
笑いはいつも、痛みの隙間にあった。
それがどれほど大切だったか、今なら分かる。
古布置き場の奥から、ニナが顔を出した。
「準備、できた?」
彼女の声は明るくしようとしていた。
だが、目元は赤い。
泣いた後だ。
アレックスは気づいたが、指摘しなかった。
「ああ」
ニナは小さく頷いた。
「ルミアちゃん、起きてる」
その一言で、三人の表情が少し変わる。
マーガレットは荷物を背負ったまま、すぐ中へ入ろうとして入口に肩をぶつけた。
「いたっ!」
「荷物が大きすぎるのです」
レクスターが冷静に言う。
「今それ言う!?」
「今だからです」
ニナが少し笑った。
その笑いを見て、マーガレットも笑う。
そして、今度は慎重に入口をくぐった。
古布置き場の中は、朝の光が柔らかく差し込んでいた。
布で区切られた一角。
そこに、ルミアが座っていた。
毛布に包まれ、ニナとセラに支えられている。
顔色はまだ白い。
黒い筋も残っている。
けれど、目は以前よりも少しだけはっきりしていた。
膝の上には、レクスターが書いた名前の紙がある。
“ルミア”
その下に、皆の名前。
ルミアはその紙を両手で持ち、何度も眺めている。
アレックスたちが近づくと、彼女は顔を上げた。
「……アレクス……」
「うん」
「……まーが……」
「いるよ!」
「声量」
レクスターが小声で注意する。
「ごめん!」
ルミアの視線がレクスターへ移る。
「……レクスター……」
「はい」
レクスターは静かに返事をした。
ルミアは、少しだけ笑った。
「……みんな……いる……」
その言葉に、ニナが涙をこぼした。
セラも目を伏せる。
マーガレットはもう泣きそうだった。
いや、泣いていた。
「泣いてない」
「泣いています」
レクスターが言う。
「今日は泣いていい日!」
「昨日も言っていました」
「今日も!」
ルミアは、そのやり取りを見て、また小さく笑った。
アレックスは、ルミアの前に膝をついた。
「今日、出発する」
ルミアの手が、紙を握る。
「……いく……」
「うん」
「……とおく……」
「うん」
「……ルミア……ここ……」
「うん。ルミアはここにいる」
アレックスは、できるだけゆっくり言った。
「セラがいる。ニナがいる。老女さんも、薬草師のおじいさんもいる。町の人たちもいる」
「……みんな……」
「うん」
「……アレクス……いない……」
「見えなくなる」
ルミアの目が揺れる。
アレックスは続けた。
「でも、忘れない」
「……わすれ……ない……」
「忘れない」
マーガレットも隣に膝をついた。
「私も、絶対忘れない」
「……まーが……」
「手紙書く。絵も描く。レクスターが字を書く」
「私の役割が当然のように決まっていますね」
「だめ?」
「やります」
「やった!」
ルミアは紙を見た。
「……てがみ……」
ニナが言う。
「私も練習する。ルミアちゃんと一緒に書く」
「……ルミア……かく……?」
「うん。少しずつ」
セラが優しく続ける。
「……一緒に、覚えましょう……」
「……いっしょ……」
ルミアは、その言葉を大事そうに繰り返した。
アレックスは胸が詰まった。
この子は、まだ自分で歩くことも難しい。
過去の記憶も曖昧だ。
名前を取り戻したばかりだ。
でも、次を覚えようとしている。
手紙。
文字。
明日。
それらはすべて、未来の言葉だった。
レクスターは小さな包みを取り出した。
「ルミア」
「……?」
「これは薬剤記録の写しの一部です。あなたの治療に必要な情報を、薬草師へ渡してあります。原本は別に保管しますが、あなた自身の記録もここに残します」
ルミアは意味を完全には理解していないかもしれない。
しかし、レクスターは言葉を選びながら続けた。
「あなたの身体について、あなたに隠さないようにします」
その言葉に、セラが息を呑む。
ニナもレクスターを見る。
ルミアは、ゆっくり瞬きをした。
「……かくさ……ない……」
「はい」
「……ルミア……しる……?」
「少しずつ」
「……いや……なら……?」
「止めます」
ルミアの目が揺れた。
「……やめて……いい……?」
「はい」
レクスターははっきり答えた。
「あなたは選べます」
その言葉を聞いた瞬間、ルミアの手が震えた。
紙を握る。
胸に寄せる。
「……えらべる……」
「はい」
「……ルミア……えらべる……」
マーガレットは口元を押さえた。
泣き声を堪えている。
アレックスも胸が熱くなった。
ルミアにとって、それは名前と同じくらい大きなものだった。
選べる。
拒める。
知れる。
隠されない。
それらは、人として当たり前の権利のはずだった。
なのに、彼女は今、初めてそれを受け取っている。
アレックスは静かに言った。
「ルミア」
「……うん……」
「生きていてくれて、ありがとう」
ルミアは、目を大きくした。
言葉の意味を理解するのに時間がかかったのかもしれない。
ニナが涙を流しながら頷いている。
セラも静かに泣いている。
マーガレットも泣いている。
レクスターだけは泣いていないように見えたが、少しだけ目を伏せていた。
ルミアは、ゆっくり口を動かした。
「……ルミア……いきる……」
その声は小さかった。
でも、はっきり聞こえた。
「……いきる……」
アレックスは頷いた。
「ああ」
マーガレットが震える声で言う。
「うん。生きよう」
ニナがルミアの手を握る。
「一緒に」
セラも重ねる。
「……一緒に……」
古布置き場の中に、柔らかい沈黙が落ちた。
別れの沈黙。
でも、絶望ではない。
約束を置いていくための沈黙だった。
その後、アレックスたちはセラとニナにも別れを告げた。
ニナは最初、我慢していた。
唇を噛んで、両手を握って、涙をこぼさないようにしていた。
だが、マーガレットが「ニナちゃん」と呼んだ瞬間、崩れた。
「やだ……」
小さな声。
「やだよ……」
マーガレットはすぐ膝をついた。
「ニナちゃん」
「行かないでって、言いたくない……言ったら困るって分かってる……でも、やだ……」
その言葉に、マーガレットは抱きしめた。
強く。
けれど、優しく。
「言っていいよ」
「……」
「やだって言っていい」
ニナは声を上げて泣いた。
「やだ……行かないで……でも行って……でもやだ……!」
「うん」
マーガレットも泣きながら頷く。
「うん。そうだよね」
「マーガ……!」
「うん」
「ありがとう……助けてくれて……ありがとう……!」
「こちらこそ」
「私、手紙書く……!」
「待ってる!」
「字、下手でも……!」
「読める! レクスターが読む!」
「私ですか」
「レクスター読んで!」
レクスターは静かに頷いた。
「読みます」
ニナは涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
セラは、アレックスへ深く頭を下げた。
まだ身体は弱い。
それでも、しっかりと。
「……本当に、ありがとうございました」
アレックスは首を横に振った。
「こちらこそ」
「……私は、まだ怖いです……薬も、夜も、急な音も……」
「うん」
「でも……ニナと、ルミアと……ここで、生きます」
「うん」
「それで……いつか、ちゃんと歩けるようになったら……」
セラは少しだけ笑った。
「……町の外の空も、見たいです」
アレックスは微笑んだ。
「その時は、いい道を選んで」
「はい」
レクスターが一枚の紙を差し出す。
「これは簡単な体調記録の表です。無理をしないために」
セラは受け取った。
「ありがとうございます」
マーガレットが小声で言う。
「レクスターらしい贈り物」
「実用的です」
「うん。すごく」
セラは大事そうに紙を抱えた。
実用的な紙。
でも、それもまた優しさだった。
古布置き場を出ると、町の人々が集まっていた。
大きな見送りではない。
派手な歓声もない。
けれど、道の左右に人が立っている。
ミアと母親。
荷運びの男たち。
薬草師の老人。
武器を置いた警備兵。
組合長。
老女。
そして、エイナ。
誰もが疲れた顔をしている。
それでも、見送りに来ていた。
アレックスたちは、少し驚いて足を止めた。
マーガレットが小声で言う。
「……思ったよりいる」
レクスターが答える。
「この町にとって、あなた方は重要な外部証人ですから」
「それだけ?」
「……それだけではないでしょうね」
レクスターは珍しく、少し柔らかく言った。
老女が前へ出た。
「行くんだね」
「はい」
アレックスが答える。
「帳簿の写しは、必ず届けます」
「ああ」
老女は頷く。
「でも、それだけじゃないよ」
「え?」
「ちゃんと食べて、寝て、怪我したら手当てするんだよ」
マーガレットが笑う。
「レクスターにも言って!」
「全員に言ってる」
「はい!」
レクスターも軽く頭を下げる。
「善処します」
「善処じゃなくて、やる」
「……はい」
老女は満足そうに頷いた。
「よし」
組合長が頭を下げる。
「グレイルは、まだ時間がかかるだろう。だが、君たちが灯してくれたものを消さないようにする」
アレックスは静かに答えた。
「俺たちだけが灯したんじゃありません」
町人たちが顔を上げる。
「皆が、守ったんです」
沈黙。
それから、荷運びの男が照れ臭そうに笑った。
「そう言われると、逃げられねえな」
「逃げないでください」
レクスターが言う。
「分かってるよ」
ミアの母が小さな包みを差し出した。
「道中に」
マーガレットが受け取る。
「ありがとうございます!」
「中身は焼き菓子です。硬いですが」
「硬いの多い!」
その言葉に、周囲が少し笑った。
エイナは最後に前へ出た。
彼女は旅装ではない。
だが、短剣を腰に差し、背筋を伸ばしていた。
肩の傷はまだ完全ではない。
それでも、しっかり立っている。
アレックスは彼女を見た。
「エイナ」
「うん」
「グレイルを頼む」
「重いね」
「うん」
「でも、頼まれた」
エイナは小さく笑った。
マーガレットが一歩前に出る。
「エイナ」
「何」
「ほんとに、また会える?」
エイナは少しだけ目を伏せた。
そして、顔を上げる。
「会える」
その言葉に、マーガレットの目が潤む。
「ほんと?」
「道が繋がってるんでしょ」
アレックスが少し笑う。
「ああ」
「なら、会える」
エイナは懐から小さな布を取り出した。
そこには、リクの名前が刺繍されていた。
不器用な縫い目。
けれど丁寧だった。
「これは持っていかない」
エイナは言った。
「ここに置く。リクの記録と一緒に」
そして、もう一つ。
小さな金属片を取り出す。
古い鍵だった。
旧施療院の扉を開けた鍵。
「こっちは、あなたたちに」
アレックスは驚いた。
「いいのか」
「うん」
「大事なものじゃ」
「大事だから」
エイナは微笑んだ。
「昔は、捨てられなかった鍵だった。でも今は、繋ぐための鍵にしたい」
アレックスは静かに受け取った。
手の中の鍵は、小さく冷たい。
けれど、重かった。
「ありがとう」
「リゼットの情報があったら送る。あなたたちも、何か分かったら送って」
「分かった」
マーガレットが、また抱きしめていいか迷っている。
エイナは先に言った。
「軽くならいいよ」
「うん!」
マーガレットは抱きしめた。
エイナも、今度は自然に抱き返した。
「元気で」
「エイナも!」
「リゼット追う時、一人で行かないでね」
「努力する」
「不安!」
「私も不安」
二人は泣き笑いした。
レクスターがエイナへ一枚の紙を渡す。
「連絡経路の簡易図です」
「こういうところ、ほんとレクスターだね」
「必要ですから」
「ありがとう」
「無茶をしないように」
「あなたもね」
「……努力します」
「不安」
エイナは笑った。
最後に、アレックスと向き合う。
「アレックス」
「うん」
「あなたが追放王子だってこと、町ではもう知られてる」
「ああ」
「これから先、きっと面倒が増える」
「だろうな」
「でも」
エイナは、朝の光の中でまっすぐ言った。
「あなたが王子だから助けられたんじゃない。あなたがアレックスだったから、助けられた」
アレックスは息を止めた。
胸の奥に、その言葉が深く沈んでいく。
追放王子。
捨てられた者。
王国から不要とされた者。
そういう肩書きではなく。
アレックスだったから。
その言葉は、あまりにも温かかった。
「……ありがとう」
やっとそう言えた。
エイナは頷く。
「行って」
「ああ」
「灯りを守って」
マーガレットが涙声で言う。
「エイナも!」
「うん。ここで守る」
東門へ向かう道が開いた。
アレックス、マーガレット、レクスター。
三人は歩き出した。
背には荷物。
帳簿。
薬剤記録の写し。
手紙の見本。
匂い袋。
硬いパン。
約束。
名前。
いくつものものを抱えて。
門の前で、アレックスは一度振り返った。
グレイルの人々が立っている。
ニナがセラとルミアを支えながら手を振っている。
ルミアは小さく紙を胸に抱き、かすかな声で何かを言っている。
遠くて聞こえない。
だが、唇の動きで分かった。
ルミア。
自分の名前を呼んでいる。
マーガレットが大きく手を振った。
「またねーー!」
「声量!」
レクスターが反射的に言う。
「今はいいの!」
町の人々が笑った。
エイナも笑っていた。
泣きながら。
でも、笑っていた。
アレックスは東門の外へ足を踏み出した。
グレイルの石畳が途切れ、土の道へ変わる。
南東へ続く街道。
ハルダ村へ向かう道。
作物が枯れるという噂の村。
濁る井戸。
黒く変わる畑。
そして、もしかしたらリゼットの薬と関わる次の闇。
レクスターが地図を広げる。
「次の宿場まで半日。そこからハルダ村へ一日程度です」
マーガレットが荷物を背負い直す。
「よし、行こう!」
「荷物、重くないか」
アレックスが聞く。
「重い!」
「正直だな」
「でも大事!」
レクスターが言う。
「途中で整理します」
「やっぱり?」
「はい」
「少しだけなら」
「かなり」
「かなり!?」
そんな会話をしながら、三人は歩き出した。
背後のグレイルは、少しずつ小さくなる。
北鐘楼の影。
古布置き場の布。
東門に立つ人々。
その全てが遠ざかる。
けれど、消えない。
胸の中に残る。
道は繋がっている。
アレックスは、エイナから受け取った鍵を懐にしまった。
旧施療院の鍵。
過去を閉じる鍵ではなく、道を繋ぐ鍵。
その冷たさを確かめながら、彼は前を向いた。
追放王子の放浪は続く。
灯りを守る旅は、また新しい土地へ向かう。
グレイルで拾った名前を胸に。
次の灯りを探して。
三人の足音が、朝の街道に静かに重なっていった。




