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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第58話 ルミア】



 旧施療院の地下から地上へ戻る階段は、長かった。


 下りた時よりも、ずっと長く感じた。


 一段。


 また一段。


 石段に足を乗せるたび、膝が重く沈む。


 身体は限界に近い。


 アレックスの指先はまだ痺れていた。


 原液槽の主核へ雷糸を通した時の痛みが、皮膚の奥に残っている。


 雷の刃を握る手にも力が入りきらない。


 それでも、刃を離さなかった。


 ここはリゼットの薬房だ。


 止めたと思った罠が、まだどこかに残っているかもしれない。


 油断はできない。


 背後では、マーガレットが薬剤記録の箱を抱えて歩いていた。


 普段の彼女なら、両手に武器を構えて先に飛び出していく。


 だが今は違う。


 箱を壊さないように。


 中の薬瓶を割らないように。


 慎重に、慎重に抱えている。


 その顔には疲労が濃い。


 腕の傷も、頬の擦り傷も、まだ手当てできていない。


 それでも彼女は、箱を見下ろしながら何度も小さく呟いていた。


「落とさない。割らない。雑にしない。レクスターに怒られない……」


 その後ろを、エイナが歩く。


 胸には二冊の記録。


 ルミアの記録。


 リクの記録。


 彼女はそれを抱える手に、何度も力を込めていた。


 涙は止まっている。


 だが、目元は赤い。


 泣き終わった顔ではない。


 まだ泣き足りない顔だった。


 けれど、今は歩いている。


 記録を持って。


 リクの名前を消させないために。


 そして、一番後ろをレクスターが歩いていた。


 歩いている、と言うより、壁に手をつきながら何とか進んでいる。


 アレックスは何度も振り返った。


「レクト」


「問題ありません」


「問題ある顔だ」


「顔の問題です」


「そういう屁理屈が出るなら、まだ意識はあるな」


「判断基準が雑です」


 レクスターは淡々と返したが、声は明らかに弱かった。


 マーガレットが後ろを振り返る。


「レクスター、箱持つ?」


「あなたはすでに重要物を持っています」


「じゃあ背負う?」


「あなたの腕は二本です」


「気合いで三本目出ない?」


「出ません」


「だよね」


 そんなやり取りをしながら、四人は階段を上った。


 暗い地下から、地上へ。


 施療院の廊下へ出た時、外の空気がわずかに流れ込んできた。


 冷たい夜風。


 埃っぽい廊下。


 割れた窓から差し込む薄い月明かり。


 地下の青白い光に慣れた目には、その暗さが逆に優しく感じられた。


 マーガレットが大きく息を吸いかけて、慌てて止める。


「……ここは吸って大丈夫?」


 レクスターが短く答える。


「地下よりは」


「それ大丈夫じゃない言い方!」


「完全に安全とは言えません」


「じゃあ小さく吸う」


「賢明です」


 マーガレットは本当に小さく息を吸った。


 その様子に、エイナが少しだけ笑った。


 笑ってから、自分でも驚いたような顔をする。


 アレックスはその表情を見て、何も言わなかった。


 笑えたなら、それでいい。


 リクの記録を読んだ後でも。


 リゼットに向き合った後でも。


 まだ、笑える。


 それは決して軽いことではない。


 施療院の外へ出ると、夜は少しだけ薄くなっていた。


 まだ夜明けではない。


 だが、空の奥がほんのわずかに青みを帯び始めている。


 長い夜だった。


 あまりにも長い夜。


 薬房。


 避難所。


 布乾燥塔。


 北鐘楼。


 北西倉庫。


 旧施療院。


 いくつもの場所を走り、いくつもの選択をして、いくつもの名前を拾ってきた。


 アレックスは、旧施療院の門を出る前に一度振り返った。


 崩れかけた建物。


 かつて人を助けていた場所。


 そして、リゼットの薬房になってしまった場所。


「終わってないな」


 彼は呟いた。


 エイナが横に立つ。


「うん」


「リゼットは逃げた」


「うん」


「でも、ここは止めた」


「うん」


 エイナは記録帳を抱きしめた。


「それに、リクを見つけた」


 アレックスは頷いた。


「そうだな」


「まだ、怖い」


 エイナは小さく言った。


「記録を全部読むのが怖い。リクが何を飲まされたのか、どれくらい苦しかったのか、知るのが怖い」


「うん」


「でも、持って帰る」


「うん」


「リクが、ちゃんといたって言えるように」


 アレックスは静かに答えた。


「言えるよ」


 エイナは、ほんの少し笑った。


「ありがとう」


 その声は、今までより少し柔らかかった。


 マーガレットが二人を見て、涙目になっている。


 レクスターが横から言った。


「今泣くと箱が濡れます」


「泣いてない!」


「泣いています」


「泣いてない!」


「では、箱を私に」


「だめ! レクスター倒れそう!」


「それは否定できません」


「否定して!」


「事実なので」


 アレックスは笑った。


 本当に小さくだが、笑えた。


 こんな状況でも、仲間のやり取りがある。


 それがどれほど救いになるか、今なら分かる。


 四人は旧施療院を出て、北鐘楼前へ戻った。


 道中、町はさらに動いていた。


 北西倉庫から救出された人々の話が広がっているらしい。


 戸口に立つ人々の視線が、さっきとは違っていた。


 恐怖だけではない。


 疑いだけでもない。


 縋るような期待。


 怒り。


 そして、自分も何かをしなければならないという戸惑い。


 小さな灯りを持った女が、アレックスたちの姿を見つけると声を上げた。


「戻った!」


 その声が、通りを走る。


「旧施療院から戻ったぞ!」


「記録は!?」


「薬はあったのか!」


「リゼットは!?」


 人々が近づこうとする。


 マーガレットがすぐに前へ出た。


「押さないで!」


 箱を抱えたままでも、声はよく通った。


「薬瓶あるから! 割れたら大変だから! あとレクスターが倒れそうだから道あけて!」


 レクスターが小さく眉をひそめる。


「私の状態を広報しないでください」


「だって本当!」


「本当ですが」


 町の人々が道を開ける。


 その中には、さっきまでただ震えていた者たちもいた。


 今は水桶を運んでいる。


 布を抱えている。


 怪我人の肩を支えている。


 完全な変化ではない。


 全員が勇敢になったわけではない。


 まだ遠巻きに見ているだけの者も多い。


 それでも、町は動いていた。


 北鐘楼前の広場には、明かりが増えていた。


 赤い灯りではない。


 小さな油皿。


 手持ちのランプ。


 荷車に吊るした灯火。


 誰かが持ち寄った灯りが、広場のあちこちに置かれている。


 その光は不揃いだった。


 揺れていた。


 弱かった。


 だが、北鐘楼の赤い支配の光より、ずっと温かく見えた。


 広場の中央には帳簿がある。


 レクスターが残した指示通り、数人の町人が記録を写していた。


 バルザックは縄で縛られ、警備兵とエイナが指名した見張りたちに囲まれている。


 老女が怪我人の誘導をしている。


 セラとニナは、広場の端で座っていた。


 そして、その隣に。


 ルミアがいた。


 老女の膝掛けに包まれ、ニナとセラの間に座っている。


 白い髪。


 青白い肌。


 細い腕。


 まだ不安げな目。


 だが、北西倉庫で見た時より、少しだけ意識がはっきりしているように見えた。


 ニナが何かを話しかけている。


 セラも、疲れた顔で微笑んでいる。


 アレックスたちが広場へ入ると、ニナが最初に気づいた。


「アレックス!」


 立ち上がりかけて、セラに止められる。


「ニナ、急に立つと危ない」


「でも!」


 マーガレットが箱を抱えたまま駆け寄りそうになり、途中で止まった。


「あっ、箱!」


 アレックスが言う。


「俺が行く」


「お願い!」


 アレックスはルミアの前まで歩いた。


 膝をつく。


 ルミアは、じっと彼を見ていた。


 まだ怯えがある。


 でも、前よりも目を逸らさない。


「戻った」


 アレックスが言う。


 ルミアの唇が微かに動く。


「……もど……た……」


「うん」


「……なまえ……」


 小さな声。


 その場にいた者たちが静まり返る。


 マーガレットが箱を抱えたまま涙ぐむ。


 エイナが記録帳を胸に抱き、息を止める。


 レクスターも、壁に手をつきながらルミアを見る。


 アレックスは、外套の内側から一冊の帳面を取り出した。


 旧施療院の診察室で見つけた“記録外試験体一覧”。


 名前が塗りつぶされていた帳面。


 そのページを開く。


 記録外十三。


 塗りつぶされた名前。


 そこに残っていた三文字。


「見つけた」


 アレックスは言った。


 ルミアの目が揺れる。


「……みつ……けた……?」


「うん」


 アレックスは、ゆっくり呼んだ。


「ルミア」


 その名が、広場に落ちた。


 小さな名前だった。


 でも、重かった。


 番号ではない。


 試験体ではない。


 廃棄対象ではない。


 名前。


 ルミア。


 その瞬間、ルミアの身体が小さく震えた。


 目が見開かれる。


 呼吸が止まる。


 黒い筋が、ほんのわずかに青白く脈打った。


 レクスターがすぐに水の本を開こうとする。


 だが、次の瞬間。


 その脈動は弱まった。


 ルミアの目から、涙がこぼれた。


「……る……」


 声が震える。


「……み……あ……?」


 ニナが隣で泣き出した。


「うん……! ルミアちゃん……!」


 セラも涙を浮かべて微笑む。


「……ルミア……」


 ルミアは、胸元を押さえた。


 まるで、そこに何かが戻ってきたかのように。


「……るみあ……」


 もう一度。


 自分で。


 その名前を呼んだ。


「……わたし……?」


 アレックスは頷いた。


「君の名前だ」


 ルミアの涙が止まらなくなる。


 声にならない声が漏れる。


 何かを思い出したわけではないのかもしれない。


 過去が全部戻ったわけではないのかもしれない。


 でも、名前が身体のどこかへ届いたのだ。


 番号で固められていた心の奥へ。


 マーガレットがもう我慢できずに泣いた。


「よかったぁ……」


 箱を抱えたまま、しゃがみ込みそうになる。


 レクスターがすぐに言う。


「箱」


「あっ!」


 マーガレットは慌てて踏みとどまった。


「危なかった!」


「非常に危険でした」


「ごめん!」


 そのやり取りに、周囲の何人かが泣き笑いした。


 ルミアはその音に少し驚き、ニナの手を握った。


 ニナが優しく言う。


「大丈夫。みんな、嬉しいんだよ」


「……うれ……しい……」


「うん」


 ルミアは、自分の名前を小さく呟く。


「……るみあ……」


 エイナが少し離れた場所で、その光景を見ていた。


 彼女の目にも涙がある。


 アレックスは気づき、そっと近づいた。


「エイナ」


「……うん」


「ルミアの記録、渡せた」


「うん」


「リクの記録も、持って帰ってきた」


 エイナは胸の帳面を見る。


 しばらく黙る。


 そして、広場の灯りの中で、ゆっくり帳面を抱きしめた。


「リク」


 小さく名前を呼ぶ。


「帰ってきたよ」


 その言葉に、アレックスは胸が詰まった。


 エイナは泣いていた。


 だが、それは地下で崩れた時の涙とは少し違っていた。


 苦しみはまだある。


 怒りもある。


 後悔も消えない。


 でも、その中に確かに“持ち帰った”という感覚があった。


 リクは、薬効記録ではない。


 失敗例でもない。


 エイナの弟として、ここへ戻ってきた。


 マーガレットがそっとエイナの隣に来る。


「エイナ」


「……何」


「リクくんの名前も、ちゃんとあるね」


「うん」


「消えてないね」


「うん」


「よかったねって言っていいのか、分かんないけど」


 マーガレットは泣きながら笑った。


「でも、見つかってよかった」


 エイナは、しばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「うん」


 その一言に、たくさんの感情が詰まっていた。


 レクスターは薬剤記録の箱を受け取ると、すぐに確認を始めようとした。


 だが、その直後に膝が落ちかけた。


 アレックスが支える。


「レクト!」


「……確認を」


「後で」


「ルミアの状態は」


「後で」


「薬剤記録を」


「後で!」


 アレックスが強めに言うと、レクスターは少しだけ目を瞬かせた。


「……珍しく強いですね」


「今は休め」


「ですが」


 老女が杖をついて近づいてきた。


「眼鏡の兄さん」


「はい」


「座りな」


「しかし」


「座りな」


「……はい」


 レクスターは素直に座った。


 マーガレットが目を丸くする。


「ばあちゃんすごい」


「私はばあちゃんじゃない」


「ごめんなさい」


 老女はルミアを見た。


 それから、セラとニナを見て、最後にアレックスたちを見た。


「名前、見つけてきたんだね」


「はい」


 アレックスが答える。


「原液槽も止めました」


 レクスターが座ったまま補足する。


「旧施療院の水路流出は防止。薬剤記録も一部確保。リゼットは逃走」


 老女はゆっくり頷いた。


「逃げたか」


「はい」


「悔しいかい」


「悔しいです」


 アレックスは正直に答えた。


「でも、追いませんでした」


「なぜ」


「原液槽を止める方が先だったから」


 老女は少しだけ目を細める。


「いい判断だよ」


 その言葉が、不思議と胸に沁みた。


 アレックスは、少しだけ肩の力が抜けた。


 正しい選択だったと分かっていても、悔しさは残る。


 誰かにそう言われるだけで、少しだけ救われる。


 その時、広場の端で声が上がった。


「バルザックをどうする!」


「警備隊に渡すのか!?」


「警備隊も信用できない!」


「帳簿の名前を全部読め!」


「今すぐ裁け!」


 ざわめきが再び強くなる。


 ルミアの名前を取り戻した瞬間の温かさが、現実の怒りに押し戻される。


 バルザックは縛られたまま、地面に座らされていた。


 顔は憔悴しているが、目にはまだ憎悪がある。


 その周囲には警備兵、町人、荷運び、商人たちが集まっていた。


 空気が危うい。


 怒りが爆発すれば、リンチになりかねない。


 アレックスは立ち上がろうとした。


 だが、足が少しふらつく。


 マーガレットが支える。


「アレックス」


「大丈夫」


「みんな大丈夫って言うけど、大丈夫じゃない」


「……そうだな」


 アレックスは息を吸った。


 まだ終わっていない。


 名前を取り戻した。


 原液槽を止めた。


 だが、町はまだ揺れている。


 ここで怒りが暴走すれば、黒外套の言う通り、町は違う方向へ倒れる。


 人は、自分の罪が見えると怖い。


 怖さは、時に怒りへ変わる。


 怒りは、誰かを裁く快感へ変わる。


 それを止めなければならない。


 レクスターが座ったまま言った。


「アレックス」


「うん」


「今、必要なのは処刑ではなく、証拠保全と公開確認です」


「分かってる」


「町人の前で、手順を示してください。感情の行き先を作らないと、暴走します」


「レクトは休んで」


「座っています」


「口は動くんだな」


「口を止めると不安です」


「本音?」


「はい」


 アレックスは苦笑した。


 そして、バルザックの方へ向かった。


 マーガレットが隣に並ぶ。


 エイナも、リクの記録を胸に抱いたままついてきた。


 広場の人々が、アレックスを見る。


 ルミアの名前を届けた直後だからか、その視線には先ほどよりも強い期待があった。


 それが重い。


 でも、逃げない。


 アレックスはバルザックの前に立った。


 そして、町の人々へ向き直る。


「バルザックは逃がさない」


 まず、はっきりと言った。


 ざわめきが少し収まる。


「帳簿も守る。薬剤記録も守る。消えた人たちの名前も、これから確認する」


 彼は続ける。


「でも、ここで殺さない」


 その言葉に、怒号が上がった。


「なんでだ!」


「こいつは人を売ったんだぞ!」


「娘が消えたんだ!」


「殺しても足りない!」


 アレックスはその声を受け止めた。


 痛い。


 当然の怒りだ。


 否定できない。


 だが、流されてもいけない。


「怒るのは当然だ」


 アレックスは言った。


「憎むのも当然だ」


 群衆が少し静まる。


「でも、ここで殺せば、帳簿の向こうにいる買い手や協力者の名前まで届かなくなる。バルザックに喋らせることも、帳簿と照合することもできなくなる」


 レクスターの言葉を借りる。


 でも、自分の声で。


「この男一人を殺して終わりにしたら、また別の誰かが隠れる」


 沈黙。


「俺たちは、名前を取り戻すためにここまで来た」


 アレックスはルミアを見る。


 セラとニナを見る。


 エイナの胸の記録を見る。


「だから、怒りで名前を燃やしたくない」


 町人たちの顔が揺れる。


 納得しきれない者。


 それでも聞こうとする者。


 歯を食いしばる者。


 ミアの母が、娘を支えながら言った。


「……では、どうするんですか」


 アレックスは彼女を見る。


「公開で帳簿を確認します」


 レクスターが座ったまま頷く。


 アレックスは続ける。


「関係者を記録する。逃がさない。警備隊だけに任せない。町の人、被害者の家族、商人、外部の証人を立てる」


「外部の証人?」


 誰かが聞く。


 アレックスは自分を指した。


「俺たちだ」


 追放王子。


 この町の者ではない。


 だからこそ、町のしがらみから少し離れている。


「俺たちは明日には旅人に戻るかもしれない。でも、この帳簿を外へ持ち出すことはできる。隠されないように」


 バルザックの顔が歪む。


 その反応で、町人たちにも分かった。


 それが彼にとって一番嫌なことなのだと。


 外へ出る。


 グレイルの闇が、町の中だけで握り潰せなくなる。


 エイナが前へ出た。


「私も証人になる」


 彼女の声は震えていたが、強かった。


「リクの記録もある。私が運ばされたものも話す。知ってる限り全部」


 マーガレットも言った。


「私も。セラちゃんとニナちゃんを薬房から助けたこと、ルミアちゃんを水槽から出したこと、全部話す」


 レクスターが座ったまま手を上げる。


「私は記録を整理します。倒れなければ」


 老女が言う。


「倒れたら私が見張るよ」


「ありがたくないようで、ありがたいです」


 町の空気が少しだけ変わった。


 怒りが消えたわけではない。


 だが、向かう先ができ始めた。


 殺すのではなく、暴く。


 燃やすのではなく、読む。


 叫ぶのではなく、名前を残す。


 それは難しい。


 すぐにすっきりする道ではない。


 でも、灯りを守る道だった。


 ルミアが、ニナの手を握りながら小さく呟いた。


「……るみあ……」


 その声が、アレックスの耳に届いた。


 彼は振り返る。


 ルミアは自分の名前を何度も確かめていた。


「……るみあ……ここ……」


 ニナが頷く。


「うん。ルミアちゃん、ここにいる」


 セラも微笑む。


「……ここに、います……」


 その小さなやり取りを見て、アレックスは深く息を吸った。


 グレイル編は、まだ終わっていない。


 リゼットは逃げた。


 黒外套もまだいる。


 裏市の残党もいる。


 帳簿の確認も、被害者の救出も、これからだ。


 それでも。


 今夜、ひとつの名前が戻った。


 リクの記録も戻った。


 町は、怒りだけではなく、記録を残す道を選び始めた。


 アレックスは、静かに言った。


「始めよう」


 広場の灯りが揺れる。


 夜明け前の空が、わずかに淡くなる。


「名前を、ひとつずつ」


 その言葉に、町の人々が静かに頷き始めた。


 誰かが帳簿を開く。


 誰かが紙を持つ。


 誰かが涙を拭う。


 誰かが、消えた家族の名を口にする。


 そしてルミアは、もう一度、自分の名前を呼んだ。


「……ルミア……」


 その声は、まだ弱い。


 けれど、確かに灯りだった。

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