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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第59話 夜明け前の記録】



 夜明け前のグレイルは、静かではなかった。


 だが、それはもう鐘に支配された騒がしさではない。


 怒号だけの混乱でもない。


 北鐘楼前の広場には、いくつもの灯りが置かれていた。


 油皿。


 古いランプ。


 荷車に吊るされた小さな火。


 誰かが家から持ってきた蝋燭。


 不揃いな灯りが、広場の石畳を淡く照らしている。


 その光の中心に、帳簿があった。


 バルザックの帳簿。


 薬房の記録。


 警備隊への賄賂。


 人買いの名簿。


 移送先一覧。


 そして、旧施療院から持ち帰った薬剤記録。


 それらは、ただの紙ではなかった。


 人々の名前だった。


 消された声だった。


 誰かが待ち続けた証だった。


 レクスターは、広場の端に座らされていた。


 本人はまだ立って作業しようとしたが、老女に杖で足元を叩かれ、マーガレットに肩を押され、アレックスに無言で見られ、最後には諦めた。


 今は木箱に腰を下ろし、膝の上に薬剤記録を置いている。


 顔色はひどく悪い。


 だが、目だけはまだ鋭い。


「次」


 彼は短く言った。


 町の商人が、震える手で帳簿を開く。


「北西倉庫、搬入名簿……十二名分。先ほど救出された者と照合中です」


「名前を読み上げてください」


「はい……」


 商人は喉を鳴らした。


 彼もバルザックと取引があった者だ。


 直接人を売ったわけではないと言う。


 だが、帳簿の形式を知っていた。


 金の流れも、見て見ぬふりをしてきた。


 周囲から向けられる視線は冷たい。


 それでも彼は逃げず、読み上げ役を引き受けていた。


「ミア。染物職人見習い。年齢十四」


 広場の端で、ミアの母が娘を抱きしめた。


 ミアは弱々しく頷く。


「……はい」


 商人の声が少し震える。


「確認済み」


 レクスターが記録する。


「次」


「ガルド。荷運び。年齢二十七」


 荷車のそばで横になっていた男が、片手を上げた。


「……俺だ」


「確認済み」


「テオ。水路清掃人。年齢不明」


 老人が咳き込みながら手を上げる。


「わしだな……年齢不明とは失礼な」


 周囲に、小さな笑いが生まれた。


 泣きながらの笑いだった。


 痛みの隙間からこぼれた笑い。


 レクスターは淡々と記録する。


「確認済み。年齢は後で本人申告を」


「覚えとらん」


「では推定で」


「雑じゃの」


「現時点では優先度が低いです」


 老人がふっと笑う。


「そうかい」


 名前が読み上げられるたび、誰かが泣いた。


 誰かが崩れた。


 誰かが怒りで拳を握った。


 そして、誰かが「いた」と呟いた。


 いた。


 確かにいた。


 帳簿の数字ではなく、人としてそこにいた。


 アレックスは、その光景を少し離れた場所で見ていた。


 身体は重い。


 指先はまだ痛い。


 心も疲れている。


 けれど、目を逸らせなかった。


 自分たちが運んできたものが、今、町の人々の前で形になっている。


 救えた人。


 まだ探す人。


 もう戻らないかもしれない人。


 すべてが、帳簿の中から表へ出されていく。


 マーガレットは、広場の中央で怪我人の移動を手伝っていた。


 重い荷物を持つ時は嬉しそうにする彼女だが、今は誰かを抱えるたびに顔を曇らせる。


 軽すぎるのだ。


 救出された人々が。


 ルミアもそうだった。


 人は、本来こんなに軽くていいはずがない。


「こっち、布足りない!」


 町の女が叫ぶ。


「持ってく!」


 マーガレットが即座に返し、布束を抱えて走る。


「水は?」


「あと二桶!」


「私行く!」


「マーガレットさん、あなたは休んで!」


「今だけ!」


「さっきからずっと今だけって言ってる!」


「そうだった!」


 そのやり取りに、疲れ切った町人たちがまた少し笑った。


 マーガレットは自分が場を軽くしていることに、きっと気づいていない。


 だが、それが救いだった。


 彼女の声があるだけで、広場が完全な悲鳴だけに沈まない。


 ニナは、セラの隣に座っていた。


 そのさらに隣にルミアがいる。


 ルミアは毛布に包まれ、小さく膝を抱えている。


 名前を聞いてから、何度も自分の名を呟いていた。


「……ルミア」


 小さく。


 確かめるように。


「ルミア……」


 ニナはそのたびに頷いた。


「うん。ルミアちゃん」


「……ちゃん……?」


「うん。ルミアちゃん」


 ルミアは不思議そうに瞬きをする。


「……ニナ……ちゃん……?」


 ニナの顔がぱっと明るくなった。


「そう! ニナちゃん!」


 セラが弱く微笑む。


「……私は、セラ……」


「……セラ……ちゃん……?」


 セラの目に涙が浮かぶ。


「はい……セラちゃんでも、いいです……」


 ニナが嬉しそうに言う。


「じゃあ、みんなちゃんだね」


「みんな……」


 ルミアは言葉をなぞる。


「……みんな……いる……」


 その声を聞いて、アレックスの胸が温かくなった。


 ルミアの中で、少しずつ言葉が戻っている。


 名前から。


 呼び方から。


 誰かといる感覚から。


 それは治療の始まりなのだろう。


 薬だけではない。


 名前を呼ぶこと。


 隣にいること。


 待つこと。


 戻ること。


 そういう全部が、彼女を人へ戻していく。


 レクスターが薬剤記録から顔を上げた。


「ルミアの治療ですが」


 その声に、アレックスはすぐ近づいた。


「分かったのか」


「一部だけです」


 レクスターは薬剤記録を指す。


「残留薬を急に抜くと危険です。段階的に中和する必要がある。幸い、旧施療院で確保した薬瓶の中に、中和基剤と思われるものがあります」


「治せる?」


 マーガレットも駆け寄ってきた。


 その問いは切実だった。


 レクスターはすぐには答えなかった。


 ルミアを見る。


 小さな身体。


 黒い筋。


 まだ不安定な呼吸。


「治る、と断言はできません」


 マーガレットの顔が曇る。


「でも」


 レクスターは続けた。


「悪化を抑える方法はあります。名前への反応で命令線が弱まることも確認できた。薬剤と精神固定、両方を使えば、回復の可能性は高まります」


「精神固定?」


 アレックスが聞く。


「名前を呼ぶことです」


 レクスターは淡々と言った。


「彼女が自分をルミアだと認識し続けること。それが命令反応を弱める」


 マーガレットの目が潤む。


「じゃあ、いっぱい呼ぶ」


「呼びすぎて疲れさせない程度に」


「難しい!」


「あなたには特に」


「ひどい!」


 だが、マーガレットは嬉しそうだった。


 治療に関われる。


 ルミアのためにできることがある。


 それだけで、彼女の顔に光が戻る。


 アレックスはレクスターに聞いた。


「レクト、治療は今すぐ必要か」


「応急処置は必要です。ただし、ここでは環境が悪い。避難所へ移動し、清潔な布と水を用意したい」


 老女が近くから口を挟んだ。


「東の古布置き場を使いな。もう掃除を始めさせてる」


「助かります」


「礼より寝な」


「治療後に」


「治療前に倒れたら意味ないよ」


「……反論できません」


 レクスターは本当に疲れ切っている。


 それでも、薬剤記録を離そうとしない。


 アレックスは静かに言った。


「レクト」


「はい」


「ルミアの治療は、みんなでやろう」


「……」


「レクト一人が背負わなくていい」


 レクスターは少しだけ黙った。


 その言葉を、彼自身がアレックスに言ったばかりだった。


 全部背負うな、と。


 今度は自分が言われている。


「……そうですね」


 レクスターは静かに頷いた。


「では、手順を共有します」


 老女が頷く。


「そうしな」


 マーガレットが手を上げる。


「私、水運ぶ!」


「お願いします」


「ニナちゃんとセラちゃんは?」


「ルミアのそばで名前を呼ぶ係」


 ニナが顔を上げる。


「私、やる!」


 セラも頷く。


「……私も……」


 ルミアは二人を見る。


「……なまえ……」


 ニナが笑う。


「うん。ルミアちゃん」


 ルミアの黒い筋が、ほんの少し弱まった。


 レクスターの目が細くなる。


「やはり反応があります」


 その時、広場の反対側で怒声が上がった。


「ふざけるな!」


 警備兵の一人だった。


 さっき武器を置いた者ではない。


 まだバルザック側に近い者。


 彼は顔を真っ赤にしていた。


「帳簿を読まれたら俺たちは終わりだ! 警備隊全部が腐ってたと思われる!」


 別の警備兵が低く言う。


「腐ってただろ」


「黙れ!」


「黙ってきたからこうなったんだ」


 周囲がざわつく。


 バルザックは縛られたまま、その様子を見ている。


 彼は笑ってはいない。


 だが、目だけが動いていた。


 混乱を待っている。


 内部分裂を待っている。


 アレックスはすぐに立ち上がった。


 だが、エイナが先に動いた。


 彼女はリクの記録を胸に抱いたまま、警備兵たちの前へ出た。


「終わりって何」


 声は静かだった。


 警備兵が彼女を睨む。


「何だと」


「帳簿を読まれたら終わるって言ったよね」


「それがどうした!」


「じゃあ、売られた人たちは何だったの」


 エイナの声が少し震える。


 だが、逃げない。


「帳簿にも載らずに消された人たちは? 警備隊に相談しても追い返された人たちは? 終わってたのは、そっちじゃないの?」


 警備兵が言葉に詰まる。


「俺は命令で……」


「うん」


 エイナは頷いた。


「命令だったんだと思う。怖かったんだと思う。逆らえなかった人もいると思う」


 その言葉に、武器を置いていた警備兵が顔を上げた。


「でも」


 エイナは記録帳を抱きしめる。


「それで消えた名前がある」


 沈黙。


「だから、終わらせるんじゃなくて、始めるんだよ」


「何を……」


「確認を」


 エイナは言った。


「誰が命令したのか。誰が金をもらったのか。誰が脅されてたのか。誰が本当に助けようとしたのか。全部」


 彼女は、少しだけ目を伏せた。


「私も、自分が何を運んだのか話す」


「……」


「逃げない」


 その言葉は、自分に向けたものでもあったのだろう。


 アレックスは、エイナの背中を見ていた。


 強い。


 震えている。


 泣いている。


 それでも、強い。


 警備兵は歯を食いしばった。


 やがて、武器を置いた警備兵が一歩前へ出た。


「俺も話す」


 周囲がざわつく。


「消えた人の届け出を破った。上からの命令だった。金を受け取った奴も知ってる」


 別の警備兵が叫ぶ。


「裏切り者!」


「裏切りじゃない」


 彼は震えながら言った。


「もう、これ以上増やしたくないだけだ」


 その言葉で、空気が変わった。


 完璧な浄化などない。


 罪が消えるわけでもない。


 だが、隠し続ける道から、話す道へ、一人が踏み出した。


 レクスターが低く言う。


「証言者として記録します」


 商人が慌てて紙を用意する。


 老女が杖を鳴らす。


「順番に話しな。怒鳴る奴は後回しだ」


「ばあちゃん、強い」


 マーガレットが呟く。


「私はばあちゃんじゃない」


「ごめんなさい!」


 また少し笑いが起こる。


 怒りの中に、わずかな呼吸が生まれる。


 アレックスは、バルザックへ視線を向けた。


 バルザックは黙っている。


 だが、唇を噛んでいた。


 彼の支配は、もう元には戻らない。


 恐怖で黙らせてきた者たちが、少しずつ口を開き始めている。


 それが彼にとって、何より恐ろしいのだろう。


 夜明けが近づいていた。


 空の端が淡くなり始める。


 北鐘楼の影が、少しずつ形を変えていく。


 赤い灯りは、もう支配の光ではなく、ただの古い灯りに見えた。


 広場の中心では、帳簿の確認が続く。


 隣では、薬剤記録の整理。


 その横では、ルミアの応急治療の準備。


 少し離れた場所では、警備兵の証言。


 さらに端では、救出者たちが水と布を受け取っている。


 混乱している。


 不完全だ。


 すべてがうまく進んでいるわけではない。


 怒りも、悲しみも、疑いも残っている。


 でも、動いている。


 確かに。


 グレイルは、眠り続けることをやめた。


 アレックスは、広場の端で座っているルミアを見た。


 ニナとセラが左右にいる。


 ルミアは二人に支えられながら、小さく自分の名前を呟く。


「……ルミア」


「うん」


 ニナが頷く。


「ルミアちゃん」


「……ここ……」


「ここにいるよ」


 セラが優しく言う。


「ここに、います」


 ルミアの目に、また涙が浮かんだ。


「……いる……」


 その一言が、アレックスの胸に深く染みた。


 いる。


 ここにいる。


 それだけのことが、こんなにも大切だった。


 アレックスは静かに拳を握った。


 グレイル編は、終わりへ向かっている。


 だが、これは完全な勝利ではない。


 リゼットは逃げた。


 黒外套もまだどこかで見ている。


 被害者全員を救えたわけではない。


 町の罪も、一晩で消えるわけではない。


 それでも。


 今、ここにいる人々は、もう見ないふりだけではいられなくなった。


 灯りがついた。


 小さく、揺れながら。


 でも、確かに。


 マーガレットが隣に来た。


「アレックス」


「うん」


「もうすぐ朝だね」


「ああ」


「長かったね」


「本当に」


「でも、まだ終わってないね」


「うん」


「でもさ」


 マーガレットは広場を見た。


「ちょっとだけ、よかったね」


 アレックスは、彼女と同じ方向を見る。


 泣いている人。


 怒っている人。


 名前を書く人。


 水を運ぶ人。


 ルミアを呼ぶニナ。


 リクの記録を抱くエイナ。


 座りながら指示を続けるレクスター。


 杖で人々を動かす老女。


 縛られたバルザック。


 そして、空の端に差し込む夜明け。


「うん」


 アレックスは答えた。


「ちょっとだけ、よかった」


 それは大きな勝利ではない。


 でも、確かな一歩だった。


 名前を取り戻す夜は、まだ続いている。


 けれどその先に、ようやく朝が見え始めていた。

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