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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第55話 壊さず止める戦い】


 青白い煙が、旧施療院の地下に広がっていった。


 床に割れた薬瓶。


 そこから立ち上る薄い煙は、ただの毒ではない。


 甘く、冷たく、舌の奥に苦みを残す匂い。


 吸い込むだけで、身体の奥へ細い針が入り込んでくるような感覚がある。


 アレックスは即座に外套の袖で口元を覆った。


「吸うな!」


 叫ぶ。


 マーガレットもすぐにエイナの肩を掴み、自分の布を引き裂いて彼女の口元へ押し当てた。


「エイナ!」


「……っ、分かってる……!」


 エイナは答えたが、目はリゼットから離れていなかった。


 目の奥に怒りがある。


 怒りだけではない。


 悲しみ。


 後悔。


 喪失。


 そして、今にも飛び出しそうな衝動。


 リクの記録。


 それを読んだ直後だ。


 リゼットは分かっている。


 エイナが今、最も揺れていることを。


 だからこそ、微笑んでいる。


 優しく。


 穏やかに。


 まるで、暴れる患者を宥める施療師のように。


「危ないわよ、エイナ」


 リゼットは言った。


「そんなに呼吸を乱したら、薬を吸いやすくなる」


「……黙れ」


「怒るのは自然なことね。でも、怒りは判断を鈍らせる」


「黙れ!」


 エイナが踏み出しかける。


 マーガレットが後ろから抱えるように止めた。


「だめ!」


「離して!」


「離さない!」


「マーガレット!」


「今、行ったらリゼットの思うつぼ!」


 マーガレットの声も震えていた。


 彼女だって怒っている。


 リクの記録を読んだ。


 ルミアの名前が塗りつぶされていたことを知った。


 ここで何が行われていたのか、目で見た。


 怒らない方がおかしい。


 それでも、彼女はエイナを止めた。


 力任せではない。


 抱きしめるように。


 崩れそうな背中を支えるように。


「私も殴りたい!」


 マーガレットは叫んだ。


「めちゃくちゃ殴りたい! でも今はだめ!」


「なんで……!」


「リクくんの記録、持って帰るんでしょ!?」


 その言葉で、エイナの身体が止まった。


「ルミアちゃんの薬の記録も持って帰るんでしょ!? リゼットを殴るより先に、守るものあるでしょ!」


 エイナの呼吸が乱れる。


 歯を食いしばり、目から涙が落ちる。


「……分かってる……」


 かすれた声。


「分かってるよ……!」


 アレックスは二人の前へ出た。


 雷の刃を構える。


 正面には汚染助手たち。


 白衣を着た者たち。


 腕に黒い筋。


 虚ろな目。


 手には薬瓶と短い刃。


 全員が、リゼットの命令を待っている。


 いや、もう待っていない。


 動き始めている。


 青白い煙の中を、ゆっくりと。


 リゼットは一歩下がった。


「優しいわね」


 彼女はアレックスを見た。


「あなたたちは、誰かを止める時でさえ、壊さない方法を探す」


「悪いか」


「いいえ」


 リゼットは微笑む。


「とても興味深いわ」


「俺たちはお前の研究材料じゃない」


「そうね」


 リゼットはあっさり頷いた。


「あなたたちは、まだ材料ではない」


 その言い方に、マーガレットの足元がまた軋んだ。


 アレックスは刃を握り直す。


「マーガレット」


「うん」


「薬瓶を割らせるな」


「分かった」


「エイナ」


「……何」


「記録を守ってくれ」


 エイナが顔を上げる。


「私が?」


「リクの記録も、ルミアの記録も」


「……」


「君が持っていてくれ」


 アレックスは、外套の内側から二冊の帳面を取り出した。


 ルミアの薬剤記録。


 リクの記録が載った小児薬効反応記録。


 それをエイナへ差し出す。


 エイナの手が震えた。


「……私が」


「うん」


「私が持ってていいの……?」


「リクの記録だ」


 アレックスは静かに言った。


「君が持つべきだ」


 エイナは帳面を受け取った。


 胸に抱く。


 泣きそうな顔で。


 いや、もう泣いている。


 それでも、崩れなかった。


「……分かった」


 声が少しだけ強くなる。


「守る」


 マーガレットが頷く。


「うん」


 リゼットが、それを見て首を傾げた。


「面白いわ。怒りを戦力ではなく、保護に回すのね」


「人間だからな」


 アレックスが返す。


「感情は壊すためだけにあるんじゃない」


 リゼットの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


「では、見せて」


 彼女が指を動かす。


 汚染助手たちが一斉に動いた。


 速い。


 薬瓶を持つ者が前へ出る。


 刃を持つ者が横へ回る。


 後方の者が棚へ手を伸ばし、別の薬瓶を取る。


 単純な突撃ではない。


 連携している。


 リゼットの助手だった者たち。


 薬房の動線を知っている者たち。


 その知識が、今は罠のように使われている。


「右!」


 アレックスが叫ぶ。


 マーガレットが即座に動いた。


 薬瓶を投げようとした助手の手首を、ハルバードの柄で打つ。


 瓶が宙へ浮く。


 割れる前に、マーガレットが左手で掴んだ。


「危なっ!」


「捨てるな! 中身が薬剤記録の手がかりかもしれない!」


「ええ!? じゃあどうするの!」


「棚の空箱!」


「分かった!」


 マーガレットは空箱へ薬瓶を放り込んだ。


 乱暴に見えるが、割れていない。


 力加減。


 彼女は本当に上手くなっている。


 アレックスは正面の助手と刃を交える。


 短い刃。


 腕の黒い筋。


 動きが人間離れしているわけではない。


 だが、痛みへの反応が薄い。


 普通なら怯む一撃でも止まらない。


 殺さず止めるには、命令線を断つ必要がある。


 アレックスは雷糸を伸ばす。


 腕。


 首筋。


 胸元。


 黒い筋の接続点を探る。


 見える。


 薬房で。


 鐘楼で。


 汚染護衛で。


 何度も見てきた。


 でも、同じではない。


 助手たちの命令線は、薬瓶に繋がっていた。


 手元の瓶に仕込まれた小さな欠片核。


 それが命令を補助している。


「核は薬瓶だ!」


 アレックスが叫ぶ。


「割らずに奪う!」


「注文が難しい!」


 マーガレットが叫び返す。


「でもやる!」


 彼女はハルバードを回し、二人の助手の足を払った。


 倒れた助手の手から薬瓶が転がる。


 マーガレットはそれを足で止め、割らないように箱へ蹴り入れる。


「入った!」


「雑ですが成功です!」


 どこからかレクスターの声が聞こえた気がした。


 もちろん本人はいない。


 だが、マーガレットは自分で言った後、はっとした顔をした。


「今の、レクスターに怒られそう!」


「後で怒られよう!」


 アレックスは答えながら、雷糸で正面の助手の手元の核を切り離す。


 薬瓶の欠片核が沈黙する。


 助手の身体から力が抜けた。


 倒れかけたところを、アレックスが受け止める。


「一人!」


 マーガレットが次の助手を抑える。


「二人目行く!」


 エイナは後方で帳面を抱えていた。


 戦えないわけではない。


 だが、今の役割は記録を守ること。


 リクの記録。


 ルミアの記録。


 彼女はそれを胸に抱き、部屋の隅へ下がる。


 だが、ただ隠れているわけではなかった。


 目は動いている。


 棚。


 床。


 助手の動線。


 リゼットの立ち位置。


 彼女はグレイルの裏道で生きてきた。


 逃げ道を読む目がある。


「アレックス!」


 エイナが叫ぶ。


「左奥、リゼットが装置触ってる!」


 アレックスが視線を向ける。


 リゼットが薬棚の奥へ手を伸ばしていた。


 青白い結晶。


 部屋全体に繋がる操作核か。


「マーガレット!」


「行く!」


 マーガレットが踏み込む。


 だが、助手二人が壁になる。


 薬瓶を掲げる。


 割れば毒煙が増える。


 マーガレットは止まらない。


 ハルバードを振るう。


 刃ではなく、風圧。


 薬瓶を持つ手だけを浮かせるように叩き、瓶を空中へ飛ばす。


 そのまま柄を回して、二本の瓶をまとめて箱へ落とす。


 ぱすん。


 割れない。


「よし!」


 マーガレットは自分で驚いた。


「今の上手い!」


「本当に上手い!」


 アレックスが叫ぶ。


「あとで褒めて!」


「今褒めた!」


「もっと!」


 そのやり取りに、一瞬だけ地下の空気が変わった。


 リゼットの作る冷たい実験室の空気が、マーガレットの声で少し割れる。


 リゼットは目を細めた。


「……本当に、邪魔ね」


 その声は、初めて少しだけ苛立っていた。


 エイナがそれを聞き逃さない。


「余裕なくなってる」


 アレックスはリゼットへ向けて踏み込む。


「装置から離れろ!」


「嫌よ」


 リゼットは指先で結晶に触れた。


 青白い光が広がる。


 部屋の棚が一斉に震えた。


 薬瓶の中の液体が泡立つ。


 アレックスは危険を察知する。


「全員、下がれ!」


 マーガレットが倒れた助手を抱えて後退する。


 エイナも帳面を胸に抱えたまま壁際へ。


 直後、棚の一部が開き、細い針が飛んだ。


 毒針。


 部屋中へ。


 アレックスは雷を広げた。


 強すぎれば薬瓶が割れる。


 弱すぎれば針を止められない。


 雷を網にする。


「雷網!」


 青白い雷が薄く広がる。


 針を弾く。


 金属音が連続する。


 何本かがアレックスの腕を掠めた。


 痛み。


 熱。


 だが、深くは刺さっていない。


「アレックス!」


 マーガレットが叫ぶ。


「大丈夫!」


「嘘じゃない!?」


「少し痛い!」


「それ大丈夫じゃない!」


 それでも、針は防いだ。


 リゼットは感心したように言う。


「器用ね」


「お前に褒められても嬉しくない」


「そう?」


 リゼットは次の装置へ手を伸ばす。


 だが、その前にエイナが動いた。


 記録帳を左腕に抱え、右手で短剣を投げる。


 刃はリゼットを狙っていない。


 装置とリゼットの手の間。


 壁へ突き刺さり、彼女の手を止めた。


 リゼットがエイナを見る。


「危ないわね」


「次は手に当てる」


 エイナの声は震えていなかった。


「もう揺さぶられないの?」


「揺れてるよ」


 エイナは答えた。


「今も、全部ぐちゃぐちゃ」


「なら」


「でも、リクの記録を守る」


 彼女は帳面を強く抱いた。


「あなたに、もう一度消させない」


 リゼットは、ほんの少しだけ黙った。


 その沈黙の意味は分からない。


 だが、リゼットの笑みは薄くなった。


「……そう」


 次の瞬間、アレックスが踏み込んだ。


 雷の刃がリゼットへ迫る。


 殺すためではない。


 手を止めるため。


 装置から引き離すため。


 リゼットは白衣の袖から細い刃を抜いた。


 薬師の手術刀のような刃。


 青白い液が塗られている。


 刃と刃がぶつかる。


 軽い。


 だが、危険。


 アレックスは直接受けず、角度をずらす。


 刃が掠めただけで、雷が乱れた。


 毒か。


 欠片薬か。


 リゼットは近接戦もできる。


「意外そうね」


「薬師は戦わないと思ってた」


「人を扱うには、身体の動かし方も知っておく必要があるわ」


「扱うな」


 アレックスは柄でリゼットの手首を狙う。


 リゼットは滑るように下がる。


 動きが軽い。


 戦士の動きではない。


 だが、人体の可動域を知り尽くした動き。


 関節の逃げ方。


 急所の隠し方。


 気持ち悪いほど合理的だった。


「あなたの雷」


 リゼットが言う。


「とても面白いわ。切るより、ほどくことに向いている」


「研究するな」


「もったいないわね。あなたなら、欠片汚染の治療に応用できるかもしれない」


 アレックスの刃が止まりかけた。


 ほんの一瞬。


 治療。


 その言葉に反応してしまった。


 リゼットはそれを見逃さない。


 手術刀がアレックスの腕へ伸びる。


 その瞬間。


 マーガレットのハルバードの柄が割って入った。


「アレックス!」


 金属音。


 手術刀が弾かれる。


 マーガレットがアレックスの前へ立つ。


「治療とか言われても、聞いちゃだめ!」


「……助かった」


「あとでレクスターにも言われるやつだよ!」


「分かってる」


 リゼットはマーガレットを見る。


「本当に、邪魔」


「褒め言葉として受け取る!」


「褒めていないわ」


「知ってる!」


 マーガレットはハルバードを構えた。


「でも、私は邪魔するよ。人を番号にするなら。名前を消すなら。痛いのに助けたふりするなら。全部邪魔する」


 アレックスも隣へ並ぶ。


「俺もだ」


 エイナが後ろから言う。


「私も」


 三人。


 地下薬房で、リゼットと向き合う。


 リゼットはその姿を見て、深く息を吐いた。


「……集団療法みたいね」


「何それ」


 マーガレットが眉を寄せる。


「支え合って痛みを薄める方法」


 リゼットは笑った。


「嫌いではなかったわ。昔は」


「昔は?」


 アレックスが問う。


 リゼットは答えない。


 代わりに、奥の通路へ下がった。


「薬剤記録が欲しいのでしょう」


「渡せ」


「奥にあるわ」


「罠だな」


「当然」


 リゼットは微笑む。


「でも、来るしかない。ルミアを助けたいなら」


 その名前に、アレックスたちの表情が変わる。


 リゼットは、それを見て笑った。


「名前で縛るのは、あなたたちも同じね」


「違う」


 アレックスが言う。


「名前は縛るものじゃない」


 エイナが続ける。


「戻る場所だよ」


 リゼットは、わずかに目を細めた。


 その言葉が、何かに触れたようだった。


 だが、すぐに笑みへ戻る。


「では、戻れるか試しましょう」


 奥の通路の床が青白く光る。


 罠が起動する。


 汚染助手たちが再び立ち上がる。


 完全には止められていない。


 薬瓶核をいくつか奪ったが、まだ残っている。


 アレックスは刃を構えた。


 マーガレットがハルバードを握る。


 エイナが記録帳を懐にしまい、短剣を構える。


「行くぞ」


 アレックスが言った。


「壊さず、止める」


「うん!」


 マーガレットが頷く。


「記録も持って帰る」


 エイナが低く言う。


「リクの名前も、ルミアの名前も」


 リゼットが奥で待っている。


 旧施療院のさらに深い場所で。


 薬剤記録。


 罠。


 そして、彼女自身の過去。


 三人は、青白い光の通路へ踏み込んだ。


 誰かを治すために作られた場所で。


 人を壊す薬を終わらせるために。


 壊さず止める戦いは、まだ続く。

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