【第53話 旧施療院跡】
旧施療院跡へ向かう道は、町の喧騒から少し外れていた。
北鐘楼の前では、まだ人々が動いている。
帳簿を読む者。
名前を書き写す者。
救出された人々を運ぶ者。
バルザックを見張る者。
泣き崩れる者。
怒りを堪える者。
そして、まだ何を信じればいいのか分からず立ち尽くす者。
グレイルの夜は、壊れた均衡の中にあった。
だが、旧施療院跡へ近づくほど、そのざわめきは遠くなる。
石畳は古くなり、街灯はまばらになる。
壁の塗装は剥がれ、窓は板で塞がれ、かつて人が行き交っていたはずの通りには、濡れた落ち葉と埃だけが残っていた。
アレックスは雷の刃に手を添えながら歩いていた。
隣にはマーガレット。
少し前をエイナが進む。
エイナの肩には布が巻かれている。
傷は浅くない。
それでも彼女は、歩幅を落とさなかった。
「エイナ」
アレックスが声をかける。
「何?」
「傷、痛むだろ」
「痛むよ」
即答だった。
「なら」
「でも道は知ってる」
エイナは振り返らない。
「私がいないと迷う」
「……」
「だから行く」
その声に、無理をしている強がりはあった。
けれど、それだけではない。
行かなければならない理由がある声だった。
アレックスはそれ以上止めなかった。
マーガレットが小さく言う。
「エイナも頑固だよね」
「あなたに言われるとは思わなかった」
「え、私そんな頑固?」
「かなり」
「アレックスは?」
「かなり」
「レクスターは?」
「別方向にかなり」
マーガレットは少し考えた。
「じゃあ全員頑固?」
「そうなるね」
「よかった」
「よくはない」
短いやり取り。
そのおかげで、少しだけ息がしやすくなる。
夜は重い。
疲労も濃い。
薬房から、洗い場、避難所、北鐘楼、北西倉庫。
走り続け、戦い続け、助け続けている。
身体は限界に近い。
足は重い。
腕も痛い。
だが、止まれない。
十三人目の名前。
残留薬の記録。
リゼットの逃げ道。
それらが旧施療院跡にあるかもしれない。
アレックスは、あの子の声を思い出す。
なまえ。
かすれた声。
番号で呼ばれ続けた子どもの声。
名前がほしいという、あまりにも当たり前で、あまりにも痛い願い。
必ず探す。
そう約束した。
また約束が増えた。
でも、重くてもいい。
落とさなければいい。
命は重い。
約束も重い。
だから、抱えて進む。
「旧施療院って」
マーガレットが周囲を見ながら言った。
「昔はちゃんとした場所だったの?」
エイナは少し黙った。
歩きながら、古びた建物の影を見ている。
「たぶんね」
「たぶん?」
「私が小さい頃には、もう半分閉じてた」
エイナの声が少し遠くなる。
「でも、昔は貧しい人でも診てもらえる場所だったって聞いたことがある。薬草を煎じて、怪我を洗って、咳止めを配って……そういう場所」
「じゃあ、いい場所だったんだ」
「うん」
エイナは短く頷く。
「だったんだと思う」
だった。
その過去形が痛い。
アレックスは聞いた。
「リゼットは、そこで薬を配っていたのか」
「最初はね」
「最初は?」
「安い薬。咳止め。熱冷まし。痛み止め。みんな助かったって言ってた」
エイナの声が低くなる。
「私も、最初は助かったと思った」
リク。
エイナの弟。
咳が止まらず、リゼットの薬に頼った子。
結局、助からなかった。
その記憶が、エイナの歩幅を少しだけ乱した。
マーガレットが何か言おうとして、止めた。
言葉を選んでいる。
いつものように勢いで抱きしめるわけにはいかないと、分かっているのだろう。
「エイナ」
マーガレットがようやく言った。
「うん」
「辛かったら、言ってね」
エイナが少しだけ振り返る。
「それだけ?」
「うん」
「慰めないの?」
「慰めたいけど、何て言えばいいか分かんない」
マーガレットは正直だった。
「だから、言ってねって言う」
エイナは一瞬、驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「ほんと、まっすぐ」
「だめ?」
「ううん」
エイナは前を向く。
「助かる」
その声は、小さかった。
でも、確かに柔らかかった。
やがて、旧施療院跡が見えてきた。
町の外れ。
石造りの低い建物。
元は白壁だったのだろうが、今は灰色に汚れている。
屋根の一部は崩れ、入口の看板は半分割れていた。
施療院、と読める文字がかろうじて残っている。
門は錆びている。
庭だった場所には、枯れた薬草の茎が残っていた。
風が吹くたびに、乾いた草が擦れ合う。
しゃら。
しゃら。
まるで、誰かが小声で囁いているようだった。
マーガレットが顔をしかめる。
「嫌な感じ」
「ああ」
アレックスも同意した。
薬房とは違う。
北鐘楼とも違う。
ここには、古い悲しみが積もっている。
良い場所だったものが、ゆっくり腐っていった匂い。
助けるための場所が、別の何かに変えられた気配。
エイナは門の前で足を止めた。
「……ここ」
その声は、少し震えていた。
アレックスはすぐに気づいた。
「無理なら」
「行く」
エイナは即答した。
でも、その手は震えている。
「リクを連れてきたのも、ここだった」
マーガレットが息を呑む。
「……」
「最初は表の診察室。リゼットは笑ってた。優しく。大丈夫、薬を出してあげるって」
エイナは錆びた門を見つめた。
「あの時は、本当に救われたと思った」
沈黙。
夜風が枯草を揺らす。
「でも、たぶん」
エイナは唇を噛む。
「最初から、見られてたんだと思う。誰が弱ってるか。誰が払えないか。誰が言うことを聞くか。誰が実験に使えるか」
マーガレットの拳が震えた。
「最低」
「うん」
エイナは短剣を抜いた。
「だから、終わらせる」
アレックスは頷いた。
「行こう」
門を開ける。
ぎい、と嫌な音がした。
施療院の庭へ入る。
足元に割れた薬瓶が落ちている。
古いものだ。
中身は乾いている。
だが、割れた硝子に月のない夜の光が鈍く反射した。
入口の扉は閉まっていた。
鍵がかかっている。
マーガレットがハルバードを構える。
「壊す?」
アレックスは扉を見る。
罠の可能性。
リゼットなら仕掛ける。
「待って」
彼は雷糸を伸ばした。
扉の隙間。
取っ手。
蝶番。
金属線がある。
やはり。
「警報」
「切れる?」
「やる」
雷を細くする。
もう何度もやっている。
でも、慣れたと思うな。
油断すれば失敗する。
扉に仕込まれた金属線へ、雷糸を触れさせる。
ぷつん。
切れる。
何も起きない。
「開ける」
エイナが鍵束を取り出す。
北鐘楼から奪った鍵ではない。
彼女自身が持っていた古い鍵だった。
アレックスが目を向ける。
「持ってたのか」
「昔、ここから逃げた時に拾った」
「ずっと?」
「うん」
エイナは鍵穴へ差し込む。
「捨てられなかった」
鍵が回る。
かちり。
扉が開いた。
中は暗かった。
古い木の匂い。
乾いた薬草の匂い。
そして、奥から微かに漂う欠片薬の匂い。
アレックスたちは中へ入った。
受付だった場所。
壊れた机。
倒れた椅子。
壁には古い掲示板。
“熱のある方は右へ”
“怪我の処置は奥へ”
“薬草は無断で触れないこと”
そんな文字が、埃をかぶって残っている。
かつて、本当に人を助けていた場所の名残。
それが余計に胸を締めつける。
マーガレットが小さく言った。
「ここ、本当に病院だったんだね」
「そうだな」
「なんで、こうなっちゃうんだろ」
アレックスは答えられなかった。
金。
恐怖。
孤独。
誰も見ない場所。
誰も声を上げられない町。
理由はいくつもある。
でも、どれも答えにはならない気がした。
エイナが奥へ進む。
「地下はこっち」
「覚えてるのか」
「忘れられない」
短い答えだった。
廊下を進む。
診察室。
処置室。
薬草庫。
そのどれもが荒れていた。
だが、不自然に綺麗な場所もある。
最近使われた形跡。
埃が払われた机。
新しい薬瓶。
床に残る足跡。
リゼットは、ここをまだ使っている。
アレックスの警戒が強まる。
エイナが診察室の前で立ち止まった。
そこだけ扉が少し開いている。
中から、青白い光が漏れていた。
マーガレットが小声で聞く。
「地下じゃないの?」
「……前は地下だった」
エイナの顔が険しくなる。
「でも、ここにも何かある」
アレックスは扉を押し開けた。
中には誰もいない。
診察台。
棚。
机。
そして机の上に、一冊の帳面が置かれていた。
わざとらしいほど目立つ位置に。
表紙には、リゼットの筆跡。
“記録外試験体一覧”
マーガレットが息を呑む。
「これ……!」
アレックスは近づこうとして、止まった。
あまりにも分かりやすい。
罠だ。
「触るな」
彼が言う。
マーガレットも頷く。
「うん」
エイナが机の下を見る。
「線がある」
アレックスも確認する。
帳面に触れると、何かが発動する。
火か。
毒か。
欠片共鳴か。
リゼットのやり方は、いつも悪意が丁寧だ。
「解除する」
アレックスは雷糸を伸ばした。
机の下。
帳面の背表紙。
細い欠片線が繋がっている。
普通の金属線より厄介だ。
反応する。
触れ方を誤れば帳面が燃えるかもしれない。
アレックスは深く息を吸った。
「マーガレット」
「うん」
「もし煙が出たら、窓を壊して逃がしてくれ」
「分かった」
「エイナは入口」
「任せて」
雷糸が伸びる。
欠片線へ触れる。
ばちん。
強い反発。
指先が痺れる。
だが離さない。
線の脈動を見る。
欠片の命令が流れている。
切る場所を間違えるな。
根元ではなく、途中。
警報の命令が戻る前に断つ。
アレックスは雷を一瞬だけ強めた。
ぷつん。
線が切れた。
帳面は燃えない。
毒も出ない。
部屋は静かなままだ。
マーガレットが息を吐く。
「毎回心臓に悪い」
「俺もだ」
アレックスは帳面を手に取った。
開く。
そこには、番号が並んでいた。
記録外一。
記録外二。
記録外三。
何人も。
だが、多くは赤い線で消されている。
横に短い記録。
不適合。
廃棄。
反応停止。
移送不能。
処理済。
マーガレットの顔から血の気が引いた。
「……こんなに」
エイナが拳を握る。
「これ、帳簿にない人たち……?」
アレックスはページをめくる。
記録外十三。
そこで手が止まった。
十三人目。
欄には小さな文字。
性別不明として搬入。
推定年齢八歳前後。
白化反応あり。
欠片適応過敏。
音声記憶欠落。
名称反応、微弱。
名前欄。
そこに、かすれた文字があった。
途中で消されかけている。
インクを上から塗りつぶした跡。
読みにくい。
アレックスは目を凝らす。
「……名前がある」
マーガレットが身を乗り出す。
「読める!?」
「待って」
文字が掠れている。
最初の一文字。
ル。
次。
ミ。
最後。
……ア?
「ルミア」
アレックスが呟いた。
マーガレットの目が大きく開く。
「ルミア……?」
アレックスはもう一度見る。
塗りつぶされた下の文字。
ルミア。
そう読める。
「たぶん」
エイナが震える声で言った。
「それが、あの子の名前……?」
アレックスは帳面を閉じずに、静かに頷いた。
「ルミア」
その名前を口にした瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
番号ではない。
試験体でもない。
廃棄対象でもない。
名前。
ようやく見つかった、たった三文字。
マーガレットの目から涙が溢れた。
「よかった……」
彼女は口元を押さえた。
「よかった……名前、あった……」
アレックスも胸が熱くなる。
だが、同時に寒気がした。
名前が塗りつぶされていた。
意図的に。
消されていた。
リゼットが消したのか。
誰かが消したのか。
分からない。
だが、消そうとした。
名前を。
その行為だけで、怒りが湧く。
「持ち帰る」
アレックスが言う。
「うん」
マーガレットが頷く。
「早く教えてあげよう」
「待って」
エイナが低く言った。
彼女は部屋の奥を見ている。
棚の裏。
床に、微かな隙間がある。
地下への入口だ。
「本命は地下」
アレックスも頷く。
「記録は見つけた。でも薬剤記録がまだだ」
「リゼットもいるかもしれない」
マーガレットがハルバードを握る。
「行こう」
その時だった。
部屋の奥の壁に吊るされた古い鏡が、青白く光った。
三人が一斉に構える。
鏡の中に、女の姿が映る。
リゼット。
白衣。
柔らかな微笑み。
しかし、その目は冷たい。
『あら』
鏡越しの声が響いた。
『そこまで来たのね』
マーガレットが踏み出す。
「リゼット!」
『大きな声ね。患者が怯えるわ』
「どの口で!」
マーガレットの足元が軋む。
アレックスが手で制した。
「どこにいる」
『近くかもしれないし、遠くかもしれない』
「黒外套みたいな言い方をするな」
『あの人ほど趣味は悪くないわ』
「十分悪い」
リゼットは微笑んだまま、首を傾げる。
『記録外十三を回収したのね』
「ルミアだ」
アレックスが言った。
リゼットの笑みが、ほんの少しだけ止まった。
『……その名前、読めたの』
「ああ」
『塗りつぶしたのに』
その言葉で、マーガレットの目が燃えた。
「やっぱりあんたが消したんだ」
『名前は反応を乱すの』
リゼットは当然のように言った。
『番号の方が管理しやすい。名前で呼ぶと、被験体が過去に引き戻される。薬効が安定しないのよ』
「人だからだ!」
マーガレットが叫ぶ。
「引き戻されるんじゃない! 戻ろうとしてるんだよ!」
リゼットは笑う。
『優しいのね』
「優しいとかじゃない!」
アレックスが低く言った。
「薬剤記録を渡せ」
『嫌よ』
「ルミアを助けるために必要だ」
『なら、地下へいらっしゃい』
リゼットの笑みが深くなる。
『ただし、気をつけて。旧施療院は、私の一番古い薬房なの』
鏡の青白い光が強くなる。
『優しい王子様。あなたの雷で、どこまで壊さず進めるかしら』
アレックスの目が鋭くなる。
「待て」
『待たないわ』
リゼットは最後に、エイナを見た。
『エイナ。久しぶりね』
エイナの顔が凍った。
『リクの薬、まだ記録が残っているわよ』
時間が止まったようだった。
エイナの呼吸が止まる。
アレックスもマーガレットも言葉を失う。
『知りたい? 彼が何で死んだのか』
リゼットは、優しく微笑んだ。
『地下にあるわ』
鏡が割れた。
青白い光が消える。
部屋に沈黙が落ちる。
エイナの手が震えていた。
短剣の柄を握る指が白い。
「……リクの」
声が掠れる。
「記録……」
アレックスは彼女を見る。
「エイナ」
「行く」
即答だった。
だが、危うい声だった。
怒りと恐怖と願いが混ざっている。
「エイナ、挑発だ」
「分かってる」
「リゼットは君を揺さぶってる」
「分かってる!」
エイナが叫んだ。
その声は廊下へ響いた。
彼女はすぐに唇を噛む。
「……分かってるよ」
アレックスは近づいた。
「一緒に行こう」
「……」
「一人で行かせない」
マーガレットも言った。
「私もいる」
エイナは二人を見た。
目に涙が溜まっている。
けれど、こぼさない。
「……知りたい」
彼女は小さく言った。
「リクが、どうして死んだのか」
「うん」
「知るのが怖い」
「うん」
「でも、知らないままも嫌だ」
「うん」
アレックスは頷いた。
「なら、見に行こう」
「……」
「リクの名前を、ちゃんと取り戻すために」
エイナは、震える息を吐いた。
そして、ゆっくり頷いた。
「うん」
アレックスは帳面を外套の内側へしまった。
ルミアの名前。
リクの記録。
リゼットの薬剤記録。
全てが地下に繋がっている。
旧施療院跡の床下。
リゼットの一番古い薬房。
そこへ降りる。
アレックスは雷の刃を抜いた。
マーガレットがハルバードを構える。
エイナが短剣を握り直す。
三人は、棚の裏の床板を開いた。
地下へ続く階段から、冷たい薬の匂いが上がってくる。
エイナが小さく呟いた。
「リク」
それは祈りのようだった。
後悔のようでもあった。
そして、もう逃げないという決意でもあった。
アレックスは静かに言う。
「行こう」
今度は、名前を探すだけではない。
名前を奪った者と、向き合うために。
三人は、旧施療院の地下へ足を踏み入れた。




