【第52話 名前を探す場所】
北西倉庫を出た時、夜風は少しだけ冷たさを増していた。
グレイルの夜はまだ明けない。
空の端に白みはない。
星も、煙と赤い灯りに隠れている。
それでも、アレックスには先ほどまでと夜の質が違って感じられた。
閉じた夜ではない。
押し潰す夜でもない。
どこかで、誰かが動いている夜。
誰かの名前を呼ぶ声がある夜。
痛みと怒りと恐怖の中で、それでも足を動かす者たちがいる夜。
その中心に、十三人目の小さな呼吸があった。
マーガレットが、外套に包んだその子を抱いている。
あまりにも軽い身体。
濡れた白い髪。
青白い肌。
黒い筋の残る腕。
そして、まだ焦点の合いきらない瞳。
その子は、マーガレットの腕の中で何度も同じ言葉を呟いていた。
「……なまえ……」
かすれた声。
薬で荒れた喉。
長く言葉を奪われていたような発音。
それでも、確かに言葉だった。
アレックスは隣を歩きながら、その声を聞いていた。
「探そう」
彼は何度目かの返事をした。
「……さがす……」
「うん」
「……ばんごう……」
「番号じゃない」
マーガレットがすぐに言った。
「君は番号じゃないよ」
子どもは、ゆっくりマーガレットを見る。
「……ちがう……?」
「違う」
マーガレットは力強く頷いた。
「絶対違う」
「……ぜったい……」
「うん。絶対」
その子は、絶対という言葉の意味を探すように瞬きをした。
意味が分からなくても、その響きが少しだけ温かかったのかもしれない。
小さな指が、マーガレットの服を弱く握った。
マーガレットの顔が歪む。
泣きそうになる。
けれど、泣かないように笑った。
「大丈夫。落とさないから」
「……おとす……?」
「落とさない」
「……おとさ……ない……」
その子は、言葉を覚え直すように繰り返した。
アレックスの胸が締めつけられる。
番号。
落とす。
探す。
名前。
ひとつひとつの言葉を、まるで初めて触るもののように受け止めている。
この子からどれだけ奪われたのか。
何をどれだけ忘れさせられたのか。
考えるだけで、怒りが沈む。
熱ではない。
冷たく、深い怒り。
リゼット。
その名前が、胸の中に浮かぶ。
薬師。
救済と言いながら、人を作品と呼んだ女。
バルザックの金を受け取り、子どもを“壊れにくくする薬”の実験台にした女。
そして、この子を“廃棄検討”と書いた女。
アレックスは拳を握った。
だが、今はその怒りを前に出さない。
抱えた命を戻すのが先だ。
北鐘楼へ。
帳簿のもとへ。
人々のところへ。
荷運びの男たちが周囲を警戒しながらついてきていた。
ミアは母に支えられて歩いている。
他の救出者たちも、互いに肩を貸し合っている。
動けない者は荷車に乗せられた。
その荷車を、さっきまで怯えていた見張りの男が押していた。
自分の借金を理由に倉庫の見張りをしていた男。
アレックスに鍵を渡した男。
彼は俯きながら、それでも荷車を押していた。
「……俺が、押します」
最初はそう言っただけだった。
誰もすぐには反応しなかった。
救出された人々からすれば、彼も加害側に見える。
当然だ。
だが、荷車に乗せられた老人が、しばらく彼を見つめた後で、かすれた声で言った。
「押すなら……揺らすなよ」
それだけだった。
許したわけではない。
責めなかったわけでもない。
ただ、今は押せと言った。
男は涙をこぼしながら頷いた。
「……はい」
その光景を見て、マーガレットが小さく呟いた。
「難しいね」
アレックスは頷く。
「うん」
「悪い人、ってだけなら分かりやすいのに」
「そうだな」
「でも、悪いことした人が、全部悪い人じゃない時もあるんだね」
「たぶん」
「でも、傷ついた人がすぐ許さなくてもいいんだよね」
「うん」
アレックスは少しだけ考えてから言った。
「許すかどうかは、傷ついた人が決めることだと思う」
マーガレットは真剣に頷いた。
「うん」
「俺たちは、その前に、何があったかを隠さないようにする」
「帳簿だね」
「うん」
「名前も」
「名前も」
マーガレットは腕の中の子を見る。
「この子の名前も」
「ああ」
北鐘楼の方角へ近づくにつれ、人の声が増えていった。
すでに救出の知らせが一部には届いているらしい。
角を曲がるたび、戸口から人が出てくる。
怪我人を見て息を呑む者。
泣き崩れる者。
駆け寄ろうとして、マーガレットに止められる者。
「待って!」
マーガレットは声を張る。
「怪我人いるから押さないで! 名前確認してから!」
町の人々が足を止める。
その中に、ミアの母がいた。
いや、彼女はすでにミアを支えている。
彼女が町人へ向かって叫んだ。
「押さないで! この子たちは今、立ってるだけで精一杯なの!」
その声には母親の強さがあった。
自分の娘だけではなく、他の救出者も守ろうとしている。
それを見て、アレックスは胸が熱くなる。
助けられた人が、すぐに誰かを守ろうとしている。
灯りは移っていく。
一人から一人へ。
小さく。
確かに。
北鐘楼の前広場へ戻ると、そこはさらに大きな動きに変わっていた。
レクスターが中心にいた。
倒れていない。
それを見て、アレックスはまず安堵した。
彼は帳簿の前に座り込み、数人の商人や文字の読める者たちと一緒に記録を照合している。
顔色は相変わらず悪い。
だが、その目は生きていた。
エイナはバルザックの縄を握ったまま、少し離れた場所に立っている。
肩に巻いた布は赤く滲んでいた。
それでも、彼女も立っていた。
老女は怪我人や子どもの誘導をしている。
警備隊の一部が武器を置き、避難誘導を手伝っている。
まだ全員ではない。
裏市側に残っている者もいる。
それでも、場は少しずつ町の側へ動いていた。
「戻った!」
誰かが叫んだ。
人々の視線が集まる。
十二人。
そして、マーガレットの腕の中の十三人目。
ざわめきが広がった。
「十三人……?」
「帳簿には十二人って……」
「あの子は……?」
「ひどい……」
ミアの母が娘を支えて前へ出た。
「北西倉庫にいました! まだ、まだ奥に子どもが……!」
声が詰まる。
彼女は涙で言葉を続けられなくなった。
マーガレットが一歩前へ出る。
腕の中の子を抱えたまま。
「この子、帳簿に載ってなかった」
広場が静まる。
「番号で呼ばれてた」
ニナがセラと一緒に、広場の端からこちらを見ていた。
二人とも老女のそばで休んでいたが、マーガレットの声に反応して立ち上がろうとする。
セラはまだふらつく。
ニナが支える。
その姿を見て、レクスターが静かに言った。
「座っていてください」
「……でも……」
セラが言いかける。
レクスターは厳しい顔で言った。
「あなたが倒れると、ニナが泣きます」
セラは言葉に詰まった。
ニナが必死に頷く。
「座って、セラ姉」
「……うん……」
セラは座った。
レクスターはそれを確認し、マーガレットの腕の中の子へ視線を向ける。
その目が鋭くなる。
「状態は?」
「水槽にいた」
アレックスが答える。
「管と線で繋がれてた。核もあった。切り離したけど、応急だ」
「見ます」
レクスターが立とうとした。
その瞬間、少しよろける。
アレックスがすぐ支えた。
「レクト」
「問題ありません」
「今のは問題あった」
「少しだけです」
エイナが近くから言う。
「約束したんじゃないの」
「倒れない約束はしました。ふらつかない約束はしていません」
「屁理屈」
「否定しません」
マーガレットが目を丸くした。
「否定しないの!?」
「する体力が惜しい」
「ほんとに休んで!」
レクスターはそれでも十三人目のそばへ来た。
水の本を開く。
慎重に、子どもの腕へ水糸を近づける。
十三人目は怯えた。
マーガレットの服を握る。
「……こわい……」
その声に、周囲が静まった。
初めて、はっきり“怖い”と言った。
マーガレットはすぐに抱く腕を柔らかくした。
「怖いよね。大丈夫。レクスターは怖い顔だけど、優しいよ」
「怖い顔とは何ですか」
「今」
「今は集中しているだけです」
「ほら、怖くないよ」
「説明になっていません」
十三人目は、ぼんやり二人を見る。
そして、ほんのわずかに首を傾げた。
今のやり取りの意味は分かっていないかもしれない。
でも、怒鳴り声ではない。
命令でもない。
その空気に、少しだけ怯えが弱まった。
レクスターは声を低く、穏やかにした。
「触れます」
十三人目は瞬きをする。
「……ふれる……」
「痛くしないよう努力します」
「……いたい……?」
「少し違和感はあるかもしれません」
マーガレットが小声で言う。
「レクスター、言い方」
「嘘はよくありません」
「そうだけど」
十三人目が小さく言った。
「……うそ……いや……」
レクスターの表情がわずかに変わる。
「では、嘘はつきません」
水糸が腕に触れる。
十三人目の身体がびくりと震えた。
マーガレットがすぐに声をかける。
「大丈夫。ここにいる」
「……ここ……」
「うん」
レクスターは集中する。
水糸が黒い筋の流れを読む。
彼の顔が険しくなる。
「……深い」
アレックスが問う。
「危険か」
「非常に」
広場の空気が重くなる。
レクスターは続けた。
「ですが、切り離し自体は成功しています。核からの直接命令は断たれている。ただし、体内に残留薬が多い」
「治せる?」
マーガレットが聞く。
レクスターはすぐには答えなかった。
沈黙。
その沈黙だけで、答えの重さが分かる。
「時間が必要です」
彼は言った。
「リゼットの薬の記録、薬瓶、調合法。すべて必要です」
「リゼットを追う必要がある」
アレックスが言う。
「はい」
エイナの目が鋭くなる。
「北西倉庫に伝令が飛んだってことは、リゼットはまだ町内にいる可能性が高い」
「逃げ道は?」
アレックスが問う。
エイナは考え込む。
「薬師が使うなら、汚染水路か、旧施療院跡」
「旧施療院?」
「昔の治療院。今は廃墟。リゼットが最初に薬を配ってた場所って噂があった」
レクスターが顔を上げる。
「帳簿に記載があるかもしれません」
彼は薬房関連の帳簿を開く。
ページをめくる。
周囲の商人や書き写し役が手伝う。
数分。
全員が息を潜める。
十三人目はマーガレットの腕の中で、時折「なまえ」と呟く。
ニナがそれを聞いて、そっと近づいてきた。
今度はセラも老女に支えられている。
「ニナ」
マーガレットが驚く。
「セラちゃんは」
「ばあちゃんが支えてくれてる」
老女が杖をつきながら言う。
「私はばあちゃんじゃない」
「ごめんなさい……」
ニナは十三人目の前に立った。
少し怖そうに。
でも、逃げずに。
「……私、ニナ」
十三人目がニナを見る。
「……に、な……」
「うん。ニナ」
ニナの声は震えている。
自分もまだ怖いはずなのに。
それでも、一生懸命だった。
「こっちは、セラ姉」
セラが弱く微笑む。
「……セラです……」
十三人目は、二人を見た。
「……せ、ら……」
「うん」
「……に、な……」
「うん」
ニナは少しだけ笑った。
「名前、あると……呼べるんだよ」
その言葉に、十三人目の目が揺れた。
「……よべる……」
「うん」
「……なまえ……ほしい……」
広場が、静まり返った。
その小さな言葉が、胸を刺した。
名前がほしい。
当たり前のものを求める声。
誰もすぐに返事ができない。
マーガレットは涙を堪えきれず、頬を濡らした。
「うん」
彼女は言った。
「探そう」
アレックスも頷いた。
「必ず」
レクスターが、帳簿から顔を上げた。
「……ありました」
全員の視線が集まる。
「薬房関連別記。旧施療院跡、地下保管庫。リゼット個人管理。記録外被験体に関する薬剤保管」
「記録外被験体」
マーガレットの顔が険しくなる。
レクスターは続ける。
「おそらく、この子に関する詳細記録もそこにある」
「名前も?」
ニナが聞く。
レクスターは少しだけ沈黙した。
そして、慎重に答える。
「ある可能性があります」
十三人目が、かすかに反応した。
「……なまえ……ある……?」
アレックスは膝をついた。
彼女か、彼か。
まだ分からない。
でも、その子の目を見て言った。
「探しに行く」
「……さがし……」
「うん」
「……いく……?」
「君はここで休む」
十三人目の表情が変わる。
怯え。
置いていかれる恐怖。
マーガレットがすぐに抱きしめた。
「置いていくんじゃないよ」
「……おいて……?」
「違う。休んで待っててほしい」
「……まつ……」
ニナがそっと言った。
「待つの、怖いよね」
十三人目がニナを見る。
ニナは自分の胸元を握った。
「私も怖かった。でも、アレックスは戻ってきたよ」
アレックスの胸が痛む。
ニナは、あの恐怖をまだ抱えている。
それでも、今は誰かへ言葉を渡している。
「だから」
ニナは続けた。
「待てるように、一緒にいる」
「……いっしょ……?」
「うん。私とセラ姉、ここにいる」
セラも弱く頷いた。
「……一緒に……待ちます……」
十三人目の目に涙が浮かんだ。
「……いっしょ……」
マーガレットが優しく言う。
「私は行くけど、戻る」
「……もどる……?」
「うん」
マーガレットは笑った。
「約束」
レクスターが小さく息を吐く。
「また増えましたね」
「大事だから!」
「分かっています」
アレックスは立ち上がる。
「旧施療院へ行く」
エイナが即座に言った。
「私も行く」
「怪我は?」
「動ける」
「無理じゃないか」
「無理だけど行く」
「正直だな」
「リゼットの逃げ道を知ってるのは私」
エイナの目には強い光があった。
「それに、あいつには私も用がある」
アレックスは頷いた。
「分かった」
マーガレットもハルバードを握る。
「もちろん私も」
「セラとニナは」
「老女さんと一緒に残る。十三人目も」
マーガレットは十三人目をそっと老女へ預けようとした。
だが、子どもはマーガレットの服を握ったまま離さない。
「……まー……」
マーガレットの目が見開かれる。
「え?」
「……まー……が……」
ニナが少し笑った。
「マーガって言ってる」
マーガレットの顔が一瞬で崩れた。
「だめ、泣く」
「泣いてる」
アレックスが言う。
「泣いてない」
「泣いてる」
「うるさい!」
十三人目は、ぼんやりマーガレットを見つめる。
「……まーが……もどる……?」
「戻る!」
マーガレットは強く頷いた。
「絶対戻る!」
「……ぜったい……」
「うん!」
老女がそっと手を差し出す。
「こっちへおいで。あの子は戻るって言ったら、戻る顔をしてる」
十三人目は不安そうにマーガレットを見る。
マーガレットは笑った。
「大丈夫」
ゆっくり。
その子は老女へ預けられた。
ニナがすぐそばに座る。
セラも隣へ。
三人が寄り添う形になる。
十三人目は不安そうに周囲を見ていたが、ニナがそっと手を握った。
「一緒」
「……いっしょ……」
「うん」
アレックスはその姿を見て、胸が熱くなった。
あのニナが、誰かの手を握っている。
怖がるだけだった子が、同じように怖がる子へ手を伸ばしている。
灯りは、本当に移っている。
レクスターが帳簿を閉じた。
「旧施療院跡への経路を確認します」
「レクトは残れ」
アレックスが言った。
レクスターが顔を上げる。
「なぜです」
「限界だ」
「まだ動けます」
「動けるのは知ってる。でも、残って帳簿とこの子たちを見てほしい」
「……」
「リゼットの薬の記録を見つけたら、すぐ持ち帰る。解析はレクトが必要だ」
レクスターは黙った。
理屈としては正しい。
だから反論しづらいのだろう。
マーガレットも言う。
「レクスター、ここ守って」
「あなたまで」
「ここも大事だよ」
レクスターは目を伏せる。
少しの沈黙。
そして、頷いた。
「分かりました」
「ありがとう」
「ただし、無茶は」
アレックスとマーガレットとエイナが同時に言った。
「しない」
レクスターは目を細める。
「言い方が軽い」
「頑張る」
「不安です」
「でも行く」
レクスターは深く息を吐いた。
「……では、条件を」
「何?」
「リゼットを見つけても、単独で追わない。薬剤記録を優先。旧施療院の地下で毒煙や欠片罠を確認したら、即時撤退。子どもの名前が分かる資料があれば確保」
「分かった」
「マーガレット」
「はい!」
「壊す前に確認」
「はい!」
「エイナ」
「何」
「肩の傷を悪化させない」
「難しい」
「努力してください」
「努力する」
「アレックス」
「うん」
レクスターは、まっすぐ見た。
「全部背負わないでください」
アレックスは一瞬言葉を失った。
レクスターの声は静かだった。
「町も動いています。マーガレットもいます。エイナもいます。私も残ります。あなた一人が全てを抱える必要はありません」
アレックスは、広場を見る。
帳簿を写す人。
怪我人を運ぶ人。
バルザックを見張る人。
ニナとセラと十三人目を守る老女。
みんな、それぞれ動いている。
アレックスは頷いた。
「分かった」
「信用度は?」
エイナが聞く。
レクスターは少しだけ考えた。
「七割」
「上がった」
アレックスが言う。
「ただし、リゼット遭遇時は五割」
「下がりすぎ」
「妥当です」
マーガレットが笑う。
「じゃあ私が止める」
「お願いします」
「任された!」
そうして、次の行き先が決まった。
旧施療院跡。
リゼットの個人管理。
十三人目の記録。
もしかしたら、名前。
そして、薬を止める手がかり。
アレックスは雷の刃に手を添えた。
逃げたリゼット。
消えた黒外套。
折れたバルザック。
揺れ始めた町。
まだ終わっていない。
でも、進む道は見えた。
アレックスは、十三人目を見る。
その子はニナの手を握り、セラの隣でこちらを見ていた。
「探してくる」
アレックスが言う。
十三人目は、かすれた声で返した。
「……なまえ……」
「ああ」
マーガレットが笑う。
「絶対探す」
エイナも短剣を腰に戻し、肩を押さえながら言った。
「行こう」
夜はまだ長い。
でも、もう一人で歩く夜ではない。
名前を探すための灯りが、グレイルの町に増え始めていた。




