【第50話 北西倉庫の灯り】
夜風が強かった。
グレイルの石畳を駆けるたび、冷たい空気が肺へ流れ込む。
鐘が止まってから、まだ一時間も経っていない。
だが町は別の顔を見せ始めていた。
閉じた扉の隙間から人が覗く。
路地の奥で囁き合う者たち。
誰かの名前を呼びながら走る家族。
泣いている者。
怒鳴っている者。
そして。
何かを決意した顔で歩き出す者。
グレイルは揺れていた。
今まで隠されていたものが表へ出たことで。
アレックスは走りながら、その光景を横目に見た。
胸が重い。
でも、嫌な重さではない。
責任だ。
託されたものの重さだった。
後ろからマーガレットの声が飛ぶ。
「アレックス!」
「どうした!」
「ミアちゃんのお母さん速い!」
「え?」
振り返る。
少し後方。
後方支援に回るはずだったミアの母が走っていた。
全力で。
涙を流しながら。
「お母さん!」
マーガレットが叫ぶ。
「後ろって言ったじゃん!」
「無理です!」
即答だった。
ミアの母は息を切らしながら叫ぶ。
「娘がいるかもしれないんです!」
誰も反論できなかった。
荷運びの男が苦笑する。
「親ってすげぇな……」
アレックスも頷く。
それ以上、何も言えなかった。
親ならそうする。
息子がいる。
だから分かる。
理屈では止まれないことがある。
マーガレットもそれ以上は言わなかった。
ただ速度を少し落とし、彼女がついてこられる位置へ調整した。
そういう優しさを、彼女は自然にやる。
北西倉庫区画は町の外れにあった。
昼間なら荷馬車が並ぶ場所だろう。
だが今は違う。
倉庫群の周囲は妙に静かだった。
灯りが少ない。
人の気配も薄い。
それが逆に不自然だった。
荷運びの男が立ち止まる。
「おかしい」
「何が?」
アレックスが問う。
「あそこ、夜でも見張りがいる」
男は前方を指差した。
「でも今日は少ない」
マーガレットが眉をひそめる。
「減ったなら良くない?」
「違う」
男は首を振る。
「逃がす準備かもしれねぇ」
その言葉に全員の顔が引き締まった。
リゼットの伝令。
北鐘楼から飛んだ青白い鳥。
あれが届いているなら。
相手も動いている。
レクスターの予想通りだった。
アレックスは静かに言った。
「急ごう」
だが。
ただ突っ込むわけにはいかない。
北鐘楼の時と同じだ。
焦れば守れない。
助けるために行くなら、急ぐだけでは足りない。
「エイナならどうするかな」
アレックスが呟く。
マーガレットが答えた。
「まず見る」
「だよな」
「レクスターなら?」
「情報不足ですって言う」
「言う」
二人は少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
張り詰めた空気の中の小さな息抜き。
だが、それがありがたかった。
アレックスは倉庫群を観察する。
北西倉庫。
三番倉庫。
帳簿に書かれていた番号。
その建物だけが微かに灯りを漏らしていた。
他は暗い。
逆に怪しい。
マーガレットも気づく。
「分かりやすいね」
「罠かもしれない」
「だよね」
「でも行く」
「うん」
荷運びの男たちも頷いた。
全員が怖がっている。
当たり前だ。
ただの町人だ。
戦士ではない。
冒険者でもない。
でも来た。
逃げなかった。
それだけで十分すごいことだった。
アレックスは低く言う。
「無理はしないでくれ」
男たちが顔を上げる。
「俺たちが前へ出る」
「でも」
「助けたい気持ちは同じだ」
アレックスは続ける。
「だからこそ、生きて帰ろう」
その言葉に、男たちは黙って頷いた。
誰かを助けるために。
自分も生きて帰る。
簡単そうで難しいことだ。
アレックスたちは倉庫へ近づいた。
物陰を使う。
足音を消す。
夜風が味方してくれる。
そして。
聞こえた。
中から。
「急げ!」
「まだ終わってない!」
「荷車へ乗せろ!」
男たちの怒鳴り声。
誰かの泣き声。
鎖の音。
アレックスの拳が握られる。
間に合った。
まだいる。
生きている。
マーガレットも聞こえたらしい。
顔から笑みが消えた。
「いるね」
「ああ」
低い声。
怒りが混じる。
だが、飛び出さない。
以前の彼女なら飛び込んでいた。
今は違う。
守るべき人を知っている。
仲間を信じている。
成長だった。
アレックスは倉庫の隙間から中を覗く。
広い空間。
木箱。
荷車。
十数人の男。
そして。
檻。
そこに人がいた。
痩せた男。
少女。
若い母親。
老人。
子ども。
十二人。
帳簿の数字が、人の形でそこにいた。
全員、生きている。
だが状態は悪い。
動けない者もいる。
泣く気力もない者もいる。
アレックスの胸が痛む。
数字じゃない。
本当に人だ。
名前がある。
人生がある。
その当たり前を、改めて突きつけられる。
その時。
ミアの母が震えた。
アレックスの後ろで。
「……ミア」
小さな声。
壊れそうな声。
檻の奥。
痩せた少女。
俯いたまま動かない。
だが。
髪飾りがあった。
古い布の髪飾り。
母親の手作りだろう。
「ミア……」
今度は涙声だった。
少女が反応する。
ゆっくり顔を上げる。
虚ろな目。
だが。
「……お母、さん?」
その瞬間。
母親が崩れ落ちた。
泣きながら。
声にならない声を漏らしながら。
アレックスは目を閉じた。
よかった。
本当に。
間に合った。
だが。
まだ終わっていない。
男たちが気づいた。
「誰だ!」
「外だ!」
「侵入者!」
怒号。
武器を掴む音。
マーガレットが立ち上がる。
「行くよ」
「ああ」
アレックスも前へ出た。
雷が走る。
倉庫の闇を青く染める。
男たちが怯む。
北鐘楼の戦いを聞いているのだろう。
それでも逃げない。
金で縛られた者。
脅されている者。
もう後戻りできない者。
様々だ。
「どけ」
アレックスが言う。
静かな声。
「今ならまだ間に合う」
男たちが顔を見合わせる。
一人が吐き捨てた。
「今さら降りられるか!」
突っ込んでくる。
剣。
棍棒。
短槍。
マーガレットが前へ出る。
ハルバードが唸る。
だが以前のような大振りではない。
柄で打つ。
足を払う。
壁へ叩きつける。
致命傷は与えない。
「どいて!」
一人。
また一人。
吹き飛ぶ。
アレックスも動いた。
雷の刃が武器だけを弾く。
腕を打つ。
膝を止める。
男たちは次々と倒れていく。
だが。
その中に、一人だけ後ろへ下がる男がいた。
痩せた男。
顔色が悪い。
目が泳いでいる。
逃げたい。
でも逃げられない。
そんな顔。
アレックスは気づいた。
「待て」
男が震える。
「俺は……」
「何だ」
「見張りだ……」
「だから?」
「俺は売ってない!」
叫びだった。
男は泣いていた。
「借金があったんだ! 働かなきゃ妹が売られるって言われたんだ!」
倉庫が静まる。
マーガレットも止まる。
男は震え続ける。
「俺だって嫌だった!」
その声には嘘がなかった。
「でも逆らえなかった!」
アレックスは黙る。
簡単ではない。
全部が悪人ではない。
全部が被害者でもない。
町が腐る時。
こういう人間が生まれる。
恐怖で従う人間が。
男は膝をついた。
「もう嫌なんだ……」
泣きながら。
本当に。
壊れそうな声だった。
アレックスは言う。
「なら手伝ってくれ」
男が顔を上げる。
「……え?」
「檻の鍵は」
男は震えながら腰の鍵束を差し出した。
「これ……」
「ありがとう」
アレックスは受け取った。
男はその場で泣き崩れた。
マーガレットが小さく呟く。
「難しいね」
「ああ」
アレックスも同じ気持ちだった。
敵と味方だけじゃない。
この町は。
この事件は。
もっと複雑だった。
だからこそ。
帳簿が必要なのだ。
誰が何をしたのか。
誰が被害者で。
誰が加害者で。
誰が脅されていたのか。
全部を見なければいけない。
アレックスは檻へ向かう。
鍵を差し込む。
がちゃん。
重い音。
檻が開く。
ミアが立ち上がろうとして転びそうになる。
母親が駆け寄った。
「ミア!」
「お母さん……!」
二人が抱き合う。
泣きながら。
声を上げながら。
周囲の人々も涙ぐんでいた。
マーガレットは目元を擦る。
「だめだなぁ」
「泣いてるな」
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない!」
でも泣いていた。
アレックスも胸が熱かった。
十二人。
全員を助け出す。
それが今夜の目的だった。
だが。
その時だった。
倉庫の奥。
誰もいないはずの暗闇。
そこから拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
アレックスの表情が変わる。
聞いたことがある。
忘れるはずがない。
あの拍手。
あのリズム。
闇の中から声がした。
「いいね」
軽い声。
楽しそうな声。
「本当にいい」
青白い光が浮かぶ。
倉庫の奥。
木箱の上。
黒外套が座っていた。
まるで最初からそこにいたかのように。
笑いながら。
「十二人とも助けるんだ」
アレックスの雷が走る。
マーガレットも構える。
だが黒外套は逃げない。
ただ座っている。
楽しそうに。
「じゃあ次は」
彼は笑った。
「十三人目を探そうか」
倉庫の空気が凍った。
アレックスの目が細くなる。
「……何を言ってる」
黒外套は答えない。
ただ。
楽しそうに笑っていた。
まるで。
まだ見つかっていない誰かを知っているように。




