表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/101

【第49話 名前を取り戻す夜】


 グレイルの夜は、もう静かではなかった。


 さっきまでの沈黙とは違う。


 恐怖で押し潰された沈黙ではない。


 戸の隙間から漏れる声。


 路地の奥で交わされる囁き。


 名前を呼ぶ声。


 誰かを探す声。


 怒りを堪えきれず震える声。


 それらが、少しずつ町の底から湧き上がっていた。


 北鐘楼の赤い灯りはまだ揺れている。


 だが、鐘は鳴っていない。


 町を閉じる音は止まった。


 欠片を呼び起こす音も止まった。


 その代わりに、今度は人の声が広がっていく。


「帳簿を見せろ!」


「ミアの名前はどこだ!」


「薬房はまだあるのか!」


「警備隊は何をしていた!」


「バルザックを逃がすな!」


 怒り。


 恐怖。


 疑い。


 希望。


 全部が混ざっていた。


 まるで、長く蓋をされていた鍋が、ようやく沸騰し始めたようだった。


 アレックスは、その中心に立っていた。


 雷の刃は抜いていない。


 今ここで必要なのは、刃ではない。


 声だ。


 順番だ。


 崩れかけた町が、怒りだけで暴れ出さないように。


 せっかく取り戻しかけた名前が、混乱の中でまた消えないように。


「落ち着いて!」


 マーガレットの声が響いた。


 いつもの明るさより、少しだけ強い声。


 人混みのざわめきに負けない声。


「押さないで! 子どもも怪我人もいる!」


 彼女はハルバードを地面に立てていた。


 振り回してはいない。


 ただ立っているだけ。


 けれど、その存在感は大きかった。


 前へ詰め寄ろうとしていた男たちが、思わず足を止める。


 マーガレットの背後には、セラとニナがいた。


 ニナはまだ泣き腫らした顔をしている。


 セラは立っているのもやっとだ。


 それでも、二人は逃げなかった。


 町の人々の視線を受けながら、震える手を握り合っていた。


 レクスターは帳簿を抱えたまま、地面に布を広げていた。


 その上に、七冊の帳簿を置く。


 端が焦げたもの。


 水を含んで少し歪んだもの。


 血の跡がついたもの。


 どれも、ただの本には見えなかった。


 名前が詰まった重さがある。


 声が詰まった重さがある。


 レクスターは、その前に膝をついた。


 顔色は悪い。


 もう倒れてもおかしくない。


 それでも、彼は背筋を伸ばして言った。


「全員、順番に確認します」


 町の人々が、彼を見る。


「帳簿を奪い合えば、破損します。破損すれば、名前も移送先も失われる。怒りは理解しますが、今は証拠を守ることが最優先です」


「そんな冷静なこと言ってられるか!」


 男が叫んだ。


「俺の弟がいるかもしれねえんだぞ!」


「だからです」


 レクスターは即答した。


 声は荒くない。


 だが、通った。


「だから、破ってはいけない」


 男が黙る。


 レクスターは帳簿に手を置いた。


「ここにあるのは、数字ではありません。名前です。あなたの弟かもしれない。誰かの娘かもしれない。誰かの母かもしれない。怒りで破るには重すぎる」


 その言葉で、人々の動きが止まった。


 レクスターは続ける。


「確認班を作ります。文字が読める者、商いの記録を読める者、地図が分かる者、薬房や水路を知る者。それぞれ分かれてください」


 マーガレットが頷く。


「聞こえた人、手伝って!」


 その声に、何人かが顔を見合わせた。


 怒るだけではなく、手伝う。


 その発想にまだ追いついていない者もいた。


 だが、最初に手を上げたのは、ミアの母だった。


 涙で顔を濡らしたまま、彼女は震える声で言う。


「……私は文字は読めない。でも、ミアの筆跡なら分かるかもしれない。持ち物も」


 次に、荷運びの男が言った。


「俺は倉庫街の地図なら分かる」


 老人が杖をついて進み出る。


「旧水路なら少し知っている。昔、染物組合で働いていた」


 商人の一人が、青ざめた顔で手を上げた。


「帳簿の形式なら読めます。バルザックの商会と取引があったので……」


 周囲の視線が、その商人へ刺さる。


 商人は震えた。


 だが、逃げなかった。


「私も……黙っていた側です。だから、読ませてください」


 アレックスは、その商人を見た。


 責める声が出る前に、一歩前へ出る。


「手伝ってください」


 商人は目を見開いた。


「……私で、いいのですか」


「罪があるなら、後で向き合ってください」


 アレックスは言った。


「でも今は、名前を探す手が必要です」


 商人の顔が歪む。


 彼は深く頭を下げた。


「……はい」


 エイナがバルザックの縄を握ったまま、静かにその様子を見ていた。


 彼女の肩には応急布が巻かれている。


 血は止まっていない。


 だが、本人は気にしていなかった。


 視線はバルザックへ向いている。


 逃がさない。


 絶対に。


 バルザックは膝をついたまま、顔を歪めていた。


 町の人々が自分の命令ではなく、アレックスたちの声を聞き始めている。


 その事実が、彼の誇りを削っていた。


「愚かな……」


 彼は低く呟く。


「帳簿を読めば済むと思うのか……。名前を知ってどうする。取り返せる者ばかりではない。死んだ者もいる。遠くへ売られた者もいる。薬で壊れた者もいる」


 エイナの手がぴくりと動く。


 だが、彼女は短剣を抜かなかった。


 バルザックは笑う。


「真実など知れば苦しむだけだ」


「それでも」


 セラの声だった。


 全員が振り返る。


 セラはニナに支えられながら、一歩前へ出た。


 顔は青白い。


 立っているだけで苦しいはずだ。


 だが、目は逸らしていなかった。


「知らないまま……待つ方が……苦しいです……」


 声は小さい。


 でも、町の夜に届いた。


「ニナは……私が戻らなかったら……ずっと……待ってた……」


 ニナが姉の手を強く握る。


「私も……母の薬を探して……でも……戻れなくて……」


 セラは涙をこぼした。


「死んだなら……悲しいです……遠くにいるなら……探したいです……壊れているなら……助けたいです……」


 彼女はバルザックを見た。


「知らないまま、諦めろって言わないでください……」


 その言葉に、ミアの母が嗚咽した。


 荷運びの男が歯を食いしばる。


 老人が目を閉じる。


 町の人々は、ようやく理解し始めていた。


 帳簿は恐ろしい。


 そこに見たくない真実があるかもしれない。


 だが、同時にそれは、探すための道でもある。


 名前を取り戻すための道でもある。


 レクスターが静かに頷いた。


「確認を始めます」


 彼は帳簿を開いた。


「まず薬房関連」


 エイナがすぐに言う。


「リゼットが逃げてる。薬房が一つだけとは限らない」


「その通りです」


 レクスターはページをめくる。


「薬房関連支払い。地下薬房、旧水路区画。第二保管房、北西倉庫地下。適応待機者、十二名」


「十二……!」


 町の人々がざわめく。


 マーガレットの目が鋭くなった。


「そこ、今から助けに行ける?」


 レクスターは地図を見た。


「北西倉庫地下。ここから近い。ただし、裏市の封鎖路に近い」


「行く」


 マーガレットが即答した。


 アレックスも頷く。


「行こう」


「待ってください」


 レクスターが止める。


「全員で行けば、帳簿とバルザックが危険です」


「じゃあ分ける」


 アレックスが言う。


 レクスターは頷いた。


「救出班、帳簿保全班、バルザック監視班、避難誘導班が必要です」


 マーガレットが少しだけ目を回した。


「班が多い!」


「必要です」


「分かりやすくして!」


 レクスターは一瞬だけ考えた。


「助ける班、守る班、見張る班、逃がす班」


「分かりやすい!」


「言い換えただけです」


「それが大事!」


 この短いやり取りに、少しだけ町の空気が緩んだ。


 だが、すぐに緊張が戻る。


 十二名。


 適応待機者。


 今この瞬間にも苦しんでいるかもしれない人々。


 アレックスは考える。


 自分が救出班へ行くべきか。


 バルザックを見張るべきか。


 帳簿を守るべきか。


 また選択。


 だが、今度は町の人々がいる。


 全てを自分たちだけで背負う必要はない。


 いや、背負ってはいけない。


 町が選び始めたのなら、町にも動いてもらう必要がある。


 アレックスは、群衆を見た。


「北西倉庫地下へ行ける人はいますか」


 沈黙。


 危険だ。


 誰もすぐには動けない。


 当然だ。


 そこで、荷運びの男が手を上げた。


「道は分かる」


 ミアの母が言う。


「私も行く」


「危険です」


 アレックスが言うと、彼女は泣きながら首を振った。


「娘がいるかもしれない場所へ、行かない母親がいますか」


 アレックスは言葉を失った。


 マーガレットが小さく呟く。


「……強い」


 商人も震えながら言った。


「私は帳簿を読みます。北西倉庫の管理番号も分かるかもしれない」


 老人が言う。


「旧水路の裏口なら知っている。若いのに案内させよう」


 少しずつ、役割が埋まっていく。


 怒りだけだった人々が、動き方を探し始める。


 レクスターはそれを見て、深く息を吸った。


「では分担します」


 彼は帳簿の上に手を置く。


「救出班は、アレックス、マーガレット、荷運びの方数名、旧水路を知る方。ミアの母は同行を希望していますが、後方支援にしてください。現場突入は危険です」


 ミアの母が何か言いかける。


 マーガレットが優しく言った。


「お母さんが倒れたら、ミアちゃん迎えに行けなくなる」


 その一言で、彼女は唇を噛み、頷いた。


「……分かりました」


 レクスターは続ける。


「帳簿保全班は私が指揮します。文字が読める方、商人の方、記録を写せる方を集めます」


「レクトは休まないのか」


 アレックスが問う。


「後で」


「それ、信用できない」


「今は本当に後で」


「……分かった。でも誰かレクトを見ていてくれ」


 マーガレットが手を上げる。


「私が」


「あなたは救出班です」


「そっか!」


 エイナがため息をつく。


「私が見るよ」


「バルザックは?」


「私が見張る」


「両方は危険だ」


 アレックスが言う。


「大丈夫。バルザックを見張りながら、レクスターが倒れたら蹴って起こす」


「やめてください」


 レクスターが即座に言う。


「じゃあ支える」


「そちらでお願いします」


「分かった」


 エイナはバルザックの縄を握り直す。


「見張る班は、私と警備隊で寝返った人たち。あんたたち、本気ならこっちへ」


 剣を下ろした警備兵が顔を上げた。


 彼は震えながらも前へ出た。


「……やります」


「裏切ったら?」


 エイナが問う。


「しない」


「信用は?」


「ないと思う」


「うん、ない」


 エイナは冷たく言った。


「だから、行動で見せて」


 警備兵は頷いた。


「はい」


 アレックスはそのやり取りを見ていた。


 全員が綺麗な味方になるわけではない。


 罪のある者もいる。


 見逃してきた者もいる。


 黙っていた者もいる。


 だが、今から何を選ぶか。


 そこにしか、次の一歩はない。


「避難誘導班は」


 レクスターが周囲を見る。


 すると老女の声が聞こえた。


「それは私がやるよ」


 人混みの奥から、あの避難所の老女が現れた。


 杖をつきながら、数人の避難者を連れている。


 どうやら別ルートでここまで来たらしい。


 エイナの顔が明るくなる。


「ばあちゃん!」


「ばあちゃんじゃない」


「ごめん」


「無事で何よりだよ」


 老女はアレックスたちを見回し、最後にバルザックを見た。


「いい姿だね」


 バルザックが顔を歪める。


「貧民どもが……」


「まだ口が減らないね」


 老女は冷たく笑った。


「避難は任せな。子ども、怪我人、薬房から出た者は東の古布置き場へ移す。水と布も集める」


「助かります」


 レクスターが言う。


「倒れる前に言うことを言えてよかったね、眼鏡の兄さん」


「まだ倒れません」


「倒れる奴ほどそう言う」


「……反論しづらい」


 マーガレットが小声でアレックスに言う。


「ばあちゃん強い」


「強いな」


 老女は杖で地面を叩いた。


「ぐずぐずしない。名前を取り戻すって言ったんだろう。なら、泣くのは歩きながらだ」


 その言葉で、町の人々が動き出した。


 完全な統制ではない。


 まだ混乱はある。


 それでも、さっきまでの恐怖の塊ではない。


 班ができていく。


 水を集める者。


 布を持ってくる者。


 帳簿を書き写す者。


 負傷者を運ぶ者。


 警備兵から武器を預かる者。


 バルザックを囲む者。


 小さな町の反撃が始まっていた。


 その時だった。


 北鐘楼の屋根の上から、青白い鳥のような光が飛んだ。


 誰かが叫ぶ。


「何だ、あれは!」


 光は北西へ飛んでいく。


 レクスターの顔色が変わる。


「伝令術式です」


「誰の!」


 アレックスが問う。


「おそらくリゼット」


 エイナが歯を食いしばる。


「北西倉庫に知らせた……?」


「可能性が高い」


「じゃあ急がないと!」


 マーガレットがハルバードを握る。


 アレックスも頷いた。


「救出班、すぐ出る!」


 荷運びの男たちが緊張した顔で頷く。


 ミアの母も涙を拭き、後方支援の位置につく。


 セラがアレックスを呼んだ。


「……アレックスさん……」


「セラ?」


「北西倉庫に……もし……ミアさんたちがいたら……」


「助ける」


「……お願いします……」


「必ず」


 ニナも小さく言った。


「……みんな……戻ってきて……」


 マーガレットが笑った。


「戻るよ」


「……約束……?」


「約束」


 レクスターが遠くから言う。


「約束を増やしすぎです」


 マーガレットが振り返る。


「でも大事!」


「否定はしません」


 アレックスはレクスターを見る。


「レクト、帳簿を頼む」


「はい」


「倒れるな」


「努力します」


「そこは約束してくれ」


 レクスターは少しだけ黙った。


 そして、静かに言った。


「約束します」


 アレックスは頷いた。


 エイナがバルザックを見張りながら声をかける。


「アレックス」


「うん」


「リゼットがいるかもしれない」


「分かってる」


「あいつ、逃げるの上手い。追いすぎないで」


「……分かってる」


「信用度は?」


 エイナが、少しだけ笑う。


 アレックスも苦笑した。


「六割くらいか?」


「低いね」


「黒外套とリゼットが絡むから」


「正直でよろしい」


 エイナの顔が真剣に戻る。


「でも、助けて」


「ああ」


「今度こそ、薬房に残ってる人たちを」


「助ける」


 アレックスは雷の刃へ手を添えた。


 マーガレットが隣に立つ。


 荷運びの男たちが後ろに続く。


 ミアの母が、祈るように手を握る。


 グレイルの人々が、道を開けた。


 もう、ただ見ているだけではない。


 その中の何人かは一緒に進む。


 何人かは残って守る。


 何人かは記録を読む。


 何人かは、まだ迷っている。


 それでいい。


 町は一晩で変わらない。


 でも、動き始めた。


「行こう」


 アレックスが言った。


 マーガレットが頷く。


「うん!」


 北西倉庫へ。


 リゼットの伝令より早く。


 十二名の名前を取り戻すために。


 グレイルの夜はまだ深い。


 だが、もう完全な闇ではなかった。


 人々の手に、小さな灯りが増え始めていた。


 アレックスたちは、その灯りを背に、再び走り出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ