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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第46話 鐘を止めろ】



 鐘が、狂ったように鳴っていた。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


 ただの音ではない。


 北鐘楼の巨大な鐘から放たれるその響きは、石壁を震わせ、床を揺らし、空気そのものを青白く染めていく。


 耳で聞いているはずなのに、音は胸の奥へ直接入り込んできた。


 骨が鳴る。


 血がざわつく。


 魔力が逆撫でされる。


 そして、欠片を宿した者たちの身体へ、命令のように響く。


 帳簿部屋の床に倒れていた汚染護衛たちが、痙攣した。


 止めたはずの黒い筋が、再び青白く脈打つ。


 胸元に埋め込まれた欠片が、鐘の音に呼応して光る。


 レクスターが息を呑んだ。


「共鳴しています……!」


 彼の声は、珍しく焦っていた。


「この鐘、ただ鳴っているだけではありません。町中に撒かれた欠片へ命令波を送っている」


「命令波?」


 アレックスが叫ぶ。


 鐘の音に負けないように。


「欠片を持つ者、汚染された者、欠片武器、破片、中核片……全部を同時に起こしている!」


 エイナの顔から血の気が引いた。


「じゃあ、染物倉庫の人たちも……」


「可能性が高い」


「避難所の近くにいた人たちも?」


「欠片が残っていれば」


 レクスターは言葉を切った。


 言い切らなくても、分かった。


 グレイルの町中で、今、同じことが起きている。


 汚染された人々が苦しみ出す。


 欠片武器を持つ者が暴走する。


 薬房で弱らされた者たちが、再び命令に引きずられる。


 そして。


 下層から、セラの悲鳴が響いた。


「いやあああああっ!」


 その声に、アレックスの身体が反射的に動いた。


 階段へ走ろうとする。


 だが、レクスターが叫んだ。


「待ってください!」


「セラが!」


「分かっています!」


 レクスターは水の本を握り締めた。


「ですが、鐘を止めなければ何度でも起きます!」


 その言葉が、アレックスの胸を打った。


 分かっている。


 分かっているのに。


 下ではマーガレットが守っている。


 ニナもいる。


 セラが苦しんでいる。


 今すぐ行きたい。


 腕を掴んで、名前を呼んで、雷針で命令線を焼きたい。


 けれど、鐘が鳴り続ける限り終わらない。


 一度止めても、また動く。


 下だけではない。


 町中で。


 何人も。


 何十人も。


 もしかしたら、もっと多く。


 黒外套の笑い声が、天井の上から降ってきた。


「そうそう。今度は早く選ばないとね」


 軽い声。


 鐘の音の隙間を縫うように届く。


「下へ行く? 鐘を止める? 帳簿を守る? バルザックを逃がさない? 町の人たちはどうする?」


 アレックスは歯を食いしばった。


 黒外套はまた選ばせようとしている。


 だが、今は違う。


 ここには仲間がいる。


「レクト!」


 アレックスが叫ぶ。


「鐘はどこだ!」


「上階、制御室です!」


「止め方は!」


「分かりません!」


「分からない?」


「見れば分かる可能性があります!」


「十分!」


 レクスターが即座に言う。


「私は帳簿を守りつつ、焼却機構を完全停止させます。バルザックの拘束も必要です」


 床に膝をついていたバルザックが、荒い息をしながら笑った。


「拘束? 私を? この鐘楼で?」


 その目には、まだ勝ち誇りがあった。


 黒外套の鐘は、バルザックにとっても想定外のはずだ。


 それでも、混乱は彼にとって逃げ道になる。


 この男は、その隙を見ている。


 エイナが短剣を握り直した。


「私がバルザックを見張る」


「危険です」


 レクスターが言う。


「分かってる」


「あなたは負傷しています」


「だから?」


「判断が鈍る」


「鈍らせない」


 エイナの声は震えていた。


 だが、目は逃げていない。


「リクの名前を忘れたこいつを、ここで逃がさない」


 アレックスはエイナを見た。


「頼めるか」


「頼まれた」


 エイナは短く答えた。


「絶対逃がさない」


「レクト」


「はい」


「帳簿、頼む」


「当然です」


「俺は上へ行く」


「一人では」


 レクスターが言いかける。


 その時、下層からマーガレットの声が響いた。


「アレックス!!」


 今度の声は、さっきより近い。


 階段の下からだ。


 アレックスが振り返る。


 息を切らしたマーガレットが、階段の途中まで上がってきていた。


 腕にはニナ。


 その背後に、セラを支えるようにして布の束が見える。


 いや、違う。


 セラは自力では立てない。


 マーガレットはニナを抱きながら、セラを布で背負うように固定していた。


 顔は汗で濡れている。


 腕の傷から血がにじんでいる。


 それでも、目は死んでいなかった。


「セラちゃん、鐘に反応してる!」


「分かってる!」


「下にいたら危ない! 男たちもまた動き始めた!」


 マーガレットは肩で息をしながら、ニナを抱え直した。


 ニナは泣いている。


「セラ姉が……! セラ姉が痛いって……!」


 セラはマーガレットの背で、苦しそうに息をしていた。


 腕の黒い筋が青白く光っている。


 ただ、まだ意識はある。


「……鐘……」


 セラがかすれた声を出す。


「音が……中に……」


「セラ」


 アレックスが近づこうとする。


 だが、マーガレットが叫んだ。


「来ないで!」


 その声に、アレックスの足が止まる。


 マーガレットは唇を噛んだ。


「今、アレックスが来たら、鐘が止まらない」


「マーガレット」


「分かってる。セラちゃんを助けたい。でも、鐘を止めないとまた苦しむんでしょ?」


 レクスターが頷く。


「はい」


「なら」


 マーガレットは笑った。


 無理やりの笑顔だった。


 でも、明るさを消さなかった。


「私がセラちゃんたちを連れて、レクスターの近くに行く。レクスター、応急できる?」


「できます。ただし、鐘が続く限り抑える程度です」


「十分!」


「十分ではありませんが、今はそう言うしかありません」


「じゃあ十分!」


 マーガレットはニナを見る。


「ニナちゃん、セラちゃんの名前呼べる?」


 ニナは泣きながら頷いた。


「呼べる……! 呼ぶ……!」


「お願い」


「セラ姉……! セラ姉、ここにいるよ……! 私、ここにいるよ……!」


 セラの瞳がわずかに動く。


 黒い筋の脈動が、一瞬だけ弱まった。


 レクスターがそれを見逃さない。


「名前への反応があります。精神の固定が効いている」


「じゃあ呼ぶ!」


 ニナは必死に姉の手を握った。


「セラ姉! セラ姉!」


 マーガレットがアレックスを見る。


「アレックス」


「うん」


「上に行って」


「……」


「鐘を止めて」


 その声は震えていた。


 本当は一緒に行きたい。


 自分も上で戦いたい。


 黒外套をぶっ飛ばしたい。


 でも、今は違う。


 マーガレットは、自分の役割を選んだ。


「私、こっち守るから」


 アレックスは、深く頷いた。


「頼む」


「任せて」


「絶対戻る」


「知ってる」


 マーガレットは笑った。


「だって約束多すぎるもん。破ったら怒るよ」


「ああ」


 アレックスは雷の刃を握り直した。


 階段の上。


 制御室。


 黒外套。


 鐘。


 そこへ行く。


 レクスターが帳簿を床へ置き、水膜を広げる。


「マーガレット、セラをこちらへ」


「うん!」


「ニナは名前を呼び続けてください」


「……はい!」


「エイナ、バルザックの拘束を」


「分かってる」


 エイナがバルザックへ短剣を向ける。


 バルザックは顔を歪める。


「この混乱で私を縛るつもりか」


「うん」


「愚かな。私を逃がせば助けてやる」


「いらない」


「金も出す」


「いらない」


「お前の弟の墓でも建ててやろう」


 エイナの目が凍った。


 その場の空気が一瞬で冷える。


 バルザックは自分の発言がどれほど地雷を踏んだか、遅れて気づいた。


「……あ」


「喋るな」


 エイナの短剣が、バルザックの頬を掠めて壁に刺さる。


 血が一筋流れた。


「次にリクを道具に使ったら、殺さない自信がない」


 バルザックは黙った。


 初めて、黙った。


 エイナは荒い息を吐きながら、腰縄でバルザックの手を縛る。


「こいつは逃がさない」


 アレックスはそれを見て、短く頷いた。


「行く」


「アレックス」


 レクスターが呼ぶ。


「はい」


「黒外套は、あなたを待っています」


「だろうな」


「挑発に乗らないでください」


「分かってる」


「鐘を止めるのが最優先です」


「分かってる」


「黒外套を倒すことではなく」


「……分かってる」


「信用度六割」


「下がったな」


「相手が黒外套なので」


「正しい」


 アレックスは笑った。


 少しだけ。


 そして階段を駆け上がった。


 北鐘楼のさらに上。


 帳簿部屋より上の階層へ。


 鐘の音は近づくほど強くなる。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


 頭が割れそうだった。


 耳を塞ぎたくなる。


 胸が苦しい。


 雷の魔力が乱れる。


 欠片を持っていないアレックスでさえこれだ。


 セラや汚染された人々がどれほど苦しいか、想像するだけで足が速くなる。


 階段の壁には青白い線が走っていた。


 鐘から伸びる共鳴線。


 塔全体が巨大な欠片の楽器になっている。


 鐘を鳴らすたび、町中へ命令が広がる仕組み。


 誰が作ったのか。


 黒外套か。


 リゼットか。


 バルザックか。


 あるいは全員が知らないうちに利用されているのか。


「……黒外套」


 アレックスは歯を食いしばった。


 階段の上に扉が見えた。


 制御室。


 扉の隙間から青白い光が漏れている。


 アレックスは雷の刃を構え、一気に扉を開けた。


 制御室は、異様な部屋だった。


 中央に巨大な鐘を動かす歯車。


 その周囲に、青白い結晶が埋め込まれている。


 結晶から無数の線が伸び、壁を通り、塔全体へ繋がっている。


 天井の上には鐘。


 見えないが、音が真上から落ちてくる。


 部屋の中央には、黒外套がいた。


 歯車の上に腰掛け、足をぶらぶらさせている。


「来たね」


 いつもの軽い声。


 だが、鐘の音の中でも不思議とよく聞こえた。


「止めろ」


 アレックスは言った。


「嫌だよ」


「止めろ」


「二回言っても同じ」


 黒外套は笑った。


「すごいね。帳簿も守った。バルザックも捕まえた。セラちゃんも見捨てなかった」


「お前の遊びに付き合う気はない」


「遊び?」


 黒外套は首を傾げる。


「これ、遊びに見える?」


「違うのか」


「違うよ」


 黒外套は、青白い結晶へ手を置いた。


「実験だよ」


 アレックスの目が鋭くなる。


「……」


「人は追い詰められた時、何を守るのか。町は鐘ひとつでどこまで壊れるのか。優しい王子様は、どこまで優しいまま進めるのか」


「やっぱり遊びじゃないか」


「違う違う」


 黒外套は笑う。


「遊びなら、もっと雑に壊すよ」


「ふざけるな!」


 アレックスが踏み込む。


 黒外套は歯車の上から軽く飛び降りる。


 刃が空を切る。


 黒外套の身体が、影のように揺れた。


 実体が薄い。


 また逃げるつもりか。


「鐘を止めろ!」


「止めたかったら、そこ」


 黒外套が指を差す。


 部屋の奥。


 青白い結晶が三つ並んでいる。


「共鳴核。壊せば止まる」


「罠か」


「もちろん」


 黒外套は笑う。


「雑に壊したら、町中の欠片に反動がいく。汚染された人たちは、かなり苦しいかもね」


 アレックスの足が止まる。


 まただ。


 また、壊せない。


 止めたいのに、強く斬れない。


 優しく壊す必要がある。


 黒外套は本当に、こちらの戦い方をよく見ている。


「……どうすれば止まる」


「聞くんだ」


「答えろ」


「一つずつ、命令線を切り離す。核は壊さず、鐘との接続だけを断つ」


「できると思ってるのか」


「君ならやるでしょ?」


 黒外套は楽しそうだった。


「優しく雷を使うの、上手くなったし」


 アレックスは奥歯を噛んだ。


 この男の言葉を信じるのは危険だ。


 だが、理屈としては分かる。


 核を壊さない。


 接続線だけ断つ。


 セラにしたことと同じ。


 汚染護衛にしたことと同じ。


 ただ、規模が大きい。


 失敗すれば町中に反動がいく。


 レクスターはいない。


 水糸の補助もない。


 アレックスだけでやるしかない。


 黒外套が囁く。


「できる?」


 アレックスは雷の刃を握り直した。


「やる」


「いいね」


「お前を信じたわけじゃない」


「分かってる」


「でも、止める」


 アレックスは共鳴核へ向かった。


 鐘の音が強くなる。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


 青白い線が、核から歯車へ、歯車から鐘へ、鐘から塔全体へ伸びている。


 線は太い。


 何本も絡んでいる。


 乱暴に切れば、反動が起きる。


 一本ずつ。


 見極めろ。


 雷を細く。


 もっと細く。


 アレックスは刃先から雷糸を伸ばした。


 一つ目の線へ触れる。


 ばち、と反発。


 手が痺れる。


「ぐっ……」


 黒外套が背後で見ている。


 助けない。


 止めない。


 ただ見ている。


 アレックスは歯を食いしばり、もう一度雷糸を伸ばした。


 今度は強く焼かない。


 絡んだ糸をほどくように、接続部分だけを焦がす。


 青白い線が細くなる。


 そして、切れた。


 鐘の音がわずかに乱れる。


 下からセラの声が、少しだけ弱まった気がした。


「一つ……!」


 次。


 二つ目。


 もっと太い。


 雷糸が弾かれる。


 手首に痛み。


 アレックスの腕が震える。


 黒外套の声。


「失敗したら、セラちゃん苦しむよ」


「黙れ」


「ニナちゃん、泣くだろうね」


「黙れ!」


「町中でも――」


 アレックスは振り返らなかった。


 聞くな。


 黒外套を見るな。


 目の前の線を見ろ。


 レクスターの声を思い出す。


 見るべきは挑発ではなく、脈動。


 そうだ。


 今見るべきは黒外套じゃない。


 この青白い線だ。


 アレックスは呼吸を整えた。


 雷をさらに細くする。


 刃ではない。


 針でもない。


 糸。


 優しく、けれど確実に切る糸。


 二つ目の線が震える。


 焼き切るのではない。


 接続を外す。


 ばちん。


 二つ目が切れた。


 鐘の音がまた乱れる。


 ごん。


 ご……ん。


 少しだけ間隔が狂う。


 黒外套の笑い声が止まった。


「へえ」


 アレックスは三つ目へ向かう。


 最後の線。


 最も太い。


 町中へ広がる主線。


 これを誤れば、反動が起きる。


 アレックスの額から汗が落ちた。


 下層では、ニナの声が聞こえる気がした。


 セラ姉。


 セラ姉。


 名前を呼び続ける声。


 マーガレットの声も。


 大丈夫。


 戻って。


 レクスターの声も。


 焦るな。


 見ろ。


 エイナの声も。


 名前は消えない。


 全部、背中にある。


 だから、一人ではない。


 アレックスは雷糸を伸ばした。


 三つ目の線へ。


 触れた瞬間、強烈な反発が来た。


「っ……!」


 腕が弾かれる。


 肩に痛み。


 刃を落としかける。


 黒外套が近くで笑った。


「最後は難しいよ」


「……だろうな」


「やめる?」


「やめない」


「壊す?」


「壊さない」


「じゃあ?」


 アレックスは、もう一度刃を構えた。


「ほどく」


 雷糸が伸びる。


 今度は一本ではない。


 細い雷を何本にも分ける。


 絡まった命令線の外側をなぞる。


 熱ではなく、震えで緩める。


 青白い線が抵抗する。


 鐘が大きく鳴る。


 ごん。


 耳が痛い。


 血が逆流するような感覚。


 それでも手を止めない。


 一本ずつ。


 絡みを外す。


 結び目をほどく。


 最後に、中心の接続だけが残る。


「……ここだ」


 アレックスは呟いた。


 雷糸を一点へ。


 静かに。


 強くではなく。


 正確に。


「断て」


 小さな音がした。


 ぱきん。


 青白い主線が切れた。


 鐘の音が、止まった。


 突然の静寂。


 耳が痛いほどの静けさ。


 北鐘楼全体から、青白い光が抜けていく。


 壁を走っていた線が消える。


 歯車が止まる。


 赤い灯りが揺れる。


 下から、ニナの泣き声が聞こえた。


「セラ姉……!」


 でも、それは恐怖だけの声ではなかった。


 安堵が混じっていた。


 セラの侵食が止まったのだろう。


 アレックスは深く息を吐いた。


「止めた」


 黒外套が、ぱちぱちと拍手した。


「すごい」


 その声は、いつもより少しだけ低かった。


「本当に止めた」


 アレックスは黒外套へ刃を向けた。


「次はお前だ」


「怖いね」


「逃がさない」


「それは無理かな」


 黒外套の身体が青白く揺れ始める。


 また消える。


 アレックスが踏み込む。


 雷の刃が届く。


 だが、黒外套は笑った。


「まだ終わりじゃないよ」


「待て!」


「バルザックは倒した。帳簿も残した。鐘も止めた。でも、町はまだ壊れたまま」


 黒外套の声が薄れていく。


「次は、町の人たちが何を選ぶかだ」


「どういう意味だ!」


「帳簿を見せた時、誰が味方で、誰が敵になるかな」


 黒外套は楽しそうに言った。


「人は、自分の罪が見えると怖いんだよ」


 青白い光が弾ける。


 黒外套の姿が消える。


 制御室には、止まった歯車と、静かな鐘だけが残った。


 アレックスは追おうとした。


 だが、足が止まった。


 下層。


 帳簿部屋。


 仲間。


 今は追う時ではない。


 また逃げられた。


 悔しい。


 だが、鐘は止めた。


 町中の欠片共鳴は、止まった。


 今は、それを抱えて戻る。


 アレックスは制御室を出て、階段を駆け下りた。


 帳簿部屋へ戻ると、レクスターが金庫の前に座り込んでいた。


 帳簿は無事。


 バルザックは縛られ、エイナが短剣を向けている。


 マーガレットも下層から上がってきていた。


 セラを支え、ニナを抱えながら。


「止まった!」


 マーガレットが叫んだ。


 涙目だった。


「セラちゃん、少し落ち着いた!」


「よかった……」


 アレックスの声が漏れる。


 セラは苦しそうだが、先ほどより呼吸が整っている。


 ニナは泣きながら姉にしがみついている。


「アレックス……」


 ニナが顔を上げた。


「止めて……くれた……?」


「うん」


「ありがとう……」


 その言葉に、アレックスは胸が詰まった。


「遅くなってごめん」


 ニナは首を振った。


「来てくれた……」


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。


 レクスターが立ち上がろうとして、ふらついた。


 マーガレットが即座に支える。


「レクスター!」


「問題ありません」


「ある!」


「少し座っていただけです」


「もっと座って!」


「今は帳簿の運搬を」


「それは私が持つ!」


 マーガレットは片手でレクスターを支えながら、もう片方で帳簿の束を見た。


「……重そうだけど持つ!」


「雑に持たないでください」


「丁寧に持つ!」


 エイナがバルザックを見下ろしていた。


 彼女の肩からは血が流れている。


 だが、立っている。


 バルザックは床に膝をつき、荒く息をしていた。


 先ほどまでの余裕はない。


 ただ、憎々しげに周囲を睨んでいる。


「……終わらん」


 彼は呻く。


「私を捕まえても、帳簿を持っても……町は変わらん……」


 エイナが静かに言った。


「変える」


「下賤が」


「その下賤に捕まったんだよ、あんた」


 バルザックは黙った。


 エイナは震える息を吐く。


「リクの名前、あんたは覚えてない」


 短剣の切っ先が少し下がる。


「でも私は覚えてる」


 沈黙。


「この帳簿にある名前も、誰かが覚えてる。誰かが探してる。誰かが待ってる」


 エイナの声は、泣きそうだった。


 でも、強かった。


「だから、返す」


 アレックスは頷いた。


「返そう」


 レクスターが帳簿を確認する。


「持ち出せる分は確保しました。金庫内の残りも重要です。全て運ぶのは難しいが、主要部分は抜き取れます」


「時間は?」


 アレックスが聞く。


「ありません」


 レクスターは即答した。


「鐘が止まったことで、塔内の者たちがこちらへ来ます。黒外套の混乱も長くは続かない」


「じゃあ、移動だね」


 マーガレットが言う。


「バルザックも連れていく?」


「連れていく」


 エイナが即答した。


「こいつには、町の前で言わせる。自分が何をしたのか」


「言うと思うか?」


 アレックスが問う。


「言わせる材料はある」


 エイナは帳簿を見る。


「こいつが黙っても、帳簿が喋る」


 レクスターが頷いた。


「その通りです」


 その時、塔の下から怒号が響いた。


「帳簿部屋だ!」


「バルザック様を救え!」


「侵入者を殺せ!」


 足音。


 多数。


 近づいている。


 マーガレットがハルバードを握る。


「来た」


 アレックスも雷の刃を構える。


 だが、今度の目的は戦うことではない。


 帳簿を持ち出す。


 バルザックを連れる。


 セラとニナを守る。


 レクスターを倒れさせない。


 エイナを無事に戻す。


 まだ、やることが多すぎる。


 それでも。


 鐘は止まった。


 帳簿は残った。


 バルザックは捕まえた。


 セラもニナもいる。


 誰も置いていない。


 アレックスは深く息を吸った。


「行こう」


 マーガレットが頷く。


「うん」


 レクスターが帳簿を抱える。


「脱出経路を確保します」


 エイナがバルザックの縄を掴む。


「逃げたら蹴る」


 バルザックは屈辱に顔を歪めた。


 ニナがセラの手を握る。


「セラ姉、行こう……」


「……うん……」


 北鐘楼の上層で、彼らは再び動き出した。


 外では、鐘が止まったことに気づいた町がざわめき始めている。


 裏市の命令は乱れた。


 封鎖も揺らぐ。


 そして、帳簿が外へ出れば。


 グレイルの夜は、もう隠しきれない。


 だが、黒外套の言葉がアレックスの胸に残っていた。


 次は、町の人たちが何を選ぶか。


 人は、自分の罪が見えると怖い。


 その意味を、まだ完全には分からない。


 でも、すぐに分かるのだろう。


 この町そのものと向き合う時が来る。


 アレックスは雷の刃を握り、前へ出た。


 守る灯りは、増え続けている。


 だからこそ、進む。


 何度でも。


 選ばされる道ではなく、自分たちで作る道を。

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