【第47話 帳簿を抱えて降りる夜】
北鐘楼の鐘は、止まっていた。
あれほど狂ったように鳴り響いていた音が、嘘のように消えている。
耳の奥には、まだ余韻が残っていた。
ごん。
ごん。
ごん。
もう鳴っていないはずなのに、身体の内側だけがまだ震えている。
セラは、ニナの手を握ったまま荒く呼吸していた。
黒い筋の光は弱まっている。
完全に消えたわけではない。
だが、さっきまでのように内側から引き裂くような脈動ではなくなっていた。
ニナは泣き腫らした顔で、何度も姉の名前を呼んでいる。
「セラ姉……セラ姉……」
「……うん……いるよ……」
セラの返事は細い。
けれど、確かに返ってくる。
それだけで、ニナは何度も頷いた。
マーガレットは二人のそばに立ち、ハルバードを握っていた。
腕には傷。
服には埃。
頬にも擦り傷がある。
それでも、立っている。
少し前までなら、敵が来たら前へ飛び出していた。
だが今は違う。
背後の二人を守るために、踏み込みすぎない位置にいる。
扉と二人の間。
敵が来れば受け止められる。
でも、二人から離れすぎない距離。
それを考えて立っている。
アレックスはその姿を見て、短く息を吐いた。
頼もしい。
その言葉が、胸に浮かんだ。
そして、同時に申し訳なさもあった。
何度も任せている。
何度も守らせている。
でも、彼女はそのたびに笑って言う。
任せて、と。
「アレックス」
レクスターの声がした。
帳簿部屋の中央。
焦げた金庫の前で、レクスターは膝をついたまま帳簿をまとめていた。
顔色は悪い。
唇も白い。
水の本を使い続けた疲労が、もう隠せないほど表に出ている。
それでも、手は止まらない。
焦げかけた帳簿を選び、重要なものを紐で束ね、濡れすぎている部分には布を挟む。
紙を守る手つきは、戦いの時よりも丁寧だった。
「持ち出す帳簿は、この七冊を優先します」
「七冊」
「はい」
レクスターは一冊ずつ示す。
「一冊目、現在進行中の人身売買記録。二冊目、買い手一覧。三冊目、警備隊への賄賂記録。四冊目、薬房関連の支払い。五冊目、移送先一覧。六冊目、バルザック個人の裏金記録。七冊目、鐘楼と封鎖網の運用記録」
「それで足りるか」
「十分ではありません」
レクスターは正直に言った。
「ですが、構造を暴くには足ります」
「他は?」
「可能なら後で回収したい。ただし今は無理です」
アレックスは頷いた。
また、選ぶ。
全部を持ち出したい。
だが、持てる量には限界がある。
燃えずに残っただけで奇跡に近い。
今は、この七冊を守る。
「俺が持つ」
アレックスが言うと、レクスターは首を横に振った。
「あなたは戦闘要員です」
「でも、レクトは限界だろ」
「限界ですが、帳簿を落とすほどではありません」
「それ、信用していいのか」
「信用してください」
短く、まっすぐな言葉だった。
アレックスは少しだけ黙る。
レクスターが自分からそう言う時は、本当に譲る気がない。
「分かった」
「ありがとうございます」
「ただし、ふらついたら俺が持つ」
「その時はお願いします」
素直な返答。
それだけで、アレックスはレクスターの消耗の深さを理解した。
いつもの彼なら、もっと理屈を返す。
今はその体力も惜しいのだ。
エイナは、バルザックの縄をさらに強く縛っていた。
バルザックは床に膝をつき、顔を歪めている。
上質な服は埃にまみれ、頬にはエイナの短剣が掠めた傷。
指輪のいくつかは、レクスターが回収していた。
欠片を仕込んでいる可能性があるからだ。
「痛いぞ、女」
バルザックが呻く。
エイナは無表情で縄を引いた。
「痛いだけで済んでることに感謝して」
「貴様……誰に向かって……」
「バルザック」
エイナは、その名を冷たく呼んだ。
「今のあんたは、ただの捕虜」
「捕虜?」
バルザックは笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
「私を誰だと思っている。この町の商人たちは、私なしでは動けん。警備隊も、組合も、倉庫も、全て私の――」
「なら、なおさら連れていく」
エイナは短く遮った。
「あんたがいなきゃ動けない連中に、あんたが縛られてる姿を見せる」
バルザックの顔色が変わった。
初めて。
財産を失った時でもなく。
帳簿を守られた時でもなく。
汚染護衛を止められた時でもなく。
その言葉で、彼は本気で表情を変えた。
「……やめろ」
「嫌だ」
「それだけはならん」
「じゃあ、やる価値があるね」
エイナの声は低かった。
「今まで、あんたは人を見せしめにしてきたんでしょ。払えない人。逆らった人。逃げようとした人。消えた人。みんな、見えない場所で壊してきた」
「違う、私は町を」
「今度は、あんたが見られる番」
バルザックの額に汗が浮いた。
この男は、死ぬことよりも恐れているのかもしれない。
自分の支配が崩れるところを見られることを。
自分がただの男になる瞬間を。
「エイナ」
アレックスが声をかける。
彼女は振り返らない。
「分かってる。殺さない」
「うん」
「連れていく」
「頼む」
「頼まれた」
その時、廊下の奥から怒号が聞こえた。
「帳簿部屋だ!」
「バルザック様を救え!」
「侵入者を逃がすな!」
足音が増える。
重い鎧の音。
複数。
階段からも、廊下からも近づいている。
鐘は止まった。
だが、敵は止まらない。
むしろ混乱した分だけ、怒りと恐怖で動きが荒くなっている。
レクスターが立ち上がり、帳簿の束を抱えた。
「脱出します」
「どこから」
マーガレットが問う。
「昇降機は使えません。下で待ち伏せされているでしょう」
「じゃあ?」
エイナが答えた。
「鐘楼の外壁に古い整備通路がある」
「外壁?」
マーガレットが顔をしかめる。
「高いところ?」
「高いところ」
「ニナちゃんとセラちゃんがいるのに?」
「だから怖い。でも、階段よりは敵が少ない」
アレックスは即断できなかった。
外壁。
高所。
セラとニナを連れて。
帳簿とバルザックも抱えて。
危険すぎる。
だが、階段は敵が押し寄せている。
昇降機も塞がれる。
残る道は、それしかない。
「整備通路はどこへ繋がる」
レクスターが聞いた。
「鐘楼の西側、屋根伝いに古い倉庫へ降りられる」
「落下の危険は?」
「ある」
「敵は?」
「少ないと思う。高い所をわざわざ使う奴は少ない」
「風は?」
「強い」
「最悪ですね」
「でも、まし」
エイナは言った。
またその言葉。
一番まし。
アレックスは息を吐いた。
「行こう」
マーガレットがニナを抱き上げる。
「怖いけど、行くしかないね」
ニナは青ざめた顔で頷いた。
「……高いの……こわい……」
「私も怖い」
マーガレットは即答した。
「でも、ぎゅってしてれば落とさない」
「……ほんと……?」
「ほんと」
セラは立とうとしたが、すぐによろけた。
アレックスが支える。
「俺が支える」
「……すみません……」
「謝らなくていい」
セラは小さく頷いた。
だが、その手はまだ震えている。
鐘の共鳴が止まっても、身体への負担は大きい。
今すぐ休ませたい。
なのに、また動かなければならない。
アレックスは胸が痛んだ。
でも、ここに残ればもっと危険だ。
「セラ」
「……はい……」
「きつかったら言ってくれ」
「……はい……」
「我慢しなくていい」
セラは、少しだけアレックスを見た。
そして、涙が滲んだ目で頷いた。
「……はい……」
その返事だけで、十分だった。
レクスターが部屋の奥の壁を調べる。
エイナが鍵束を使い、隠し扉を開けた。
壁の一部が音を立てて開く。
その向こうには、狭い通路。
外気が流れ込む。
冷たい夜風。
そして、遠くのざわめき。
グレイルの町が、鐘が止まったことで騒ぎ始めている。
「外へ出ます」
レクスターが言った。
「順番は?」
「エイナ先導。次にマーガレットとニナ。セラとアレックス。バルザックを挟んで、最後に私」
「レクトが最後?」
アレックスが眉をひそめる。
「帳簿を守りつつ後方警戒します」
「無理だ」
「無理ではありません」
「顔が真っ白だ」
「夜風のせいです」
「嘘だろ」
「嘘です」
正直に言った。
アレックスは一瞬詰まる。
マーガレットが即座に言う。
「レクスター、最後だめ」
「では誰が」
「私が最後!」
「あなたはニナを抱えている」
「……そうだった!」
「だから私です」
アレックスは考えた。
後方警戒は必要。
だが、レクスターだけに任せるには危険。
「俺がバルザックを引く。レクトは俺の前」
「あなたはセラを」
「セラは俺の左。縄は右手で持つ。刃は抜ける」
「負担が大きすぎます」
「でも、レクトを最後にするよりまし」
レクスターは黙った。
不満はある。
だが、自分の状態を理解しているのだろう。
「……分かりました」
「よし」
「ただし、バルザックが抵抗したら切り捨てずに拘束を優先してください」
「分かってる」
バルザックが怒鳴る。
「私を荷物のように扱うな!」
エイナが冷たく言った。
「今さら?」
バルザックは黙った。
一行は整備通路へ出た。
外だった。
北鐘楼の外壁に張り付くように作られた、狭い鉄の足場。
手すりはある。
だが古い。
ところどころ錆びている。
足元からは、グレイルの町が見えた。
赤い灯り。
揺れる松明。
走る人影。
遠くでは煙が上がっている。
鐘が止まったことで、町全体が戸惑っていた。
裏市の命令が切れた。
封鎖網が乱れている。
だが、混乱は長く続かない。
急がなければならない。
「……高い」
マーガレットが呟いた。
「高いです」
レクスターが返す。
「言わないで!」
「事実です」
「こういう時は嘘ついて!」
「低いです」
「嘘が下手!」
そのやり取りに、ニナがほんの少しだけ笑った。
怖がりながら。
でも笑った。
マーガレットはそれに気づき、少しだけ嬉しそうにした。
「大丈夫。笑えたならいける」
「……うん……」
エイナが先頭で足場を確認する。
「一歩ずつ。走らない。足場が抜ける場所がある」
「抜けるって何!?」
マーガレットが小声で叫ぶ。
「古いから」
「嫌すぎる!」
「だから気をつけて」
「うん!」
進む。
一歩。
また一歩。
夜風が吹く。
塔の外壁を回り込むように、細い足場が続いている。
下を見れば、吸い込まれそうな高さ。
セラが震える。
アレックスは彼女を支えた。
「下を見なくていい」
「……はい……」
「前だけ」
「……はい……」
バルザックは縄で引かれながら、荒く息をしていた。
太った身体には、この足場は厳しいらしい。
「待て……少し……」
「止まらない」
エイナが言う。
「落ちるぞ!」
「落ちたくないなら歩いて」
「貴様……!」
「今のあんたに命令する権利ないよ」
バルザックは歯を食いしばる。
それでも歩くしかなかった。
足場の途中で、下から声が響いた。
「外壁だ!」
「いたぞ!」
「回り込め!」
見つかった。
松明の光が下で揺れる。
矢が飛んだ。
一本。
足場の手すりに刺さる。
ニナが悲鳴を上げる。
「きゃっ!」
「大丈夫!」
マーガレットが身をかがめ、ニナを庇う。
アレックスが雷の刃を抜き、次の矢を弾く。
足場が揺れる。
「揺らさないでください!」
レクスターが叫ぶ。
「矢が!」
「分かっています!」
レクスターは水の本を開き、水膜を広げようとした。
だが、外壁には水が少ない。
空気中の湿気を集めるしかない。
薄い水膜。
矢を完全には止められない。
「長くは無理です!」
「十分!」
マーガレットが叫ぶ。
「また十分ではありません!」
「でもいつも何とかなる!」
「それは危険な思想です!」
エイナが前方を指す。
「あと少し! あの屋根へ!」
鐘楼から伸びる渡り屋根。
そこへ飛び移れば、古い倉庫へ降りられる。
しかし、その手前に足場の亀裂があった。
鉄板が半分外れている。
一人ずつ慎重に渡るしかない。
下からまた矢。
アレックスが弾く。
レクスターの水膜が揺れる。
マーガレットがニナを抱きしめる。
セラが息を詰める。
「先に行く!」
エイナが亀裂を越えた。
軽い。
細い身体が風に揺れながらも、向こう側へ着地する。
「次、マーガレット!」
「うん!」
マーガレットはニナを抱え、ハルバードを背に回した。
足場を見る。
下は高い。
風が強い。
ニナが震えている。
「ニナちゃん」
「……うん……」
「目、閉じて」
「……うん……」
「ぎゅってして」
ニナはマーガレットの首にしがみついた。
マーガレットは深く息を吸う。
「いくよ」
一歩。
亀裂を越える。
鉄板が軋む。
マーガレットの足が着地する。
向こう側。
「よし!」
エイナが彼女を支える。
「次、セラ!」
アレックスはセラを見る。
「行けるか」
「……はい……」
「俺が支える」
「……お願いします……」
セラは弱い足で踏み出す。
アレックスが身体を支える。
一歩。
足場が鳴る。
下から怒号。
「今だ、撃て!」
矢が飛ぶ。
アレックスはセラを抱き寄せ、刃で弾く。
その反動で足場が揺れた。
セラがよろける。
「っ……!」
「セラ!」
アレックスが支える。
だが、バルザックがその瞬間を見逃さなかった。
縄を引かれたまま、身体を大きく捻る。
アレックスの手から縄が滑る。
「しまっ――」
バルザックが逃げようとした。
足場の上で。
この高さで。
自分の命より逃走を選んだ。
「愚か者どもが!」
バルザックが叫ぶ。
「私を連れていけると思うな!」
その動きで、足場が大きく揺れた。
セラがさらに崩れる。
アレックスはセラを掴む。
バルザックの縄も掴もうとする。
両方。
だが、腕は二本しかない。
また選択。
その瞬間。
「アレックス!」
レクスターが叫んだ。
「セラを!」
言われるまでもなかった。
アレックスはセラを抱え込んだ。
バルザックの縄が手から離れる。
バルザックが笑った。
「ははっ!」
だが。
エイナが動いていた。
亀裂の向こうから、彼女は飛び戻った。
危険な足場へ。
短剣ではなく、縄を掴むために。
「逃がさない!」
エイナの手が、バルザックの縄を掴む。
強く引く。
バルザックの身体が止まる。
だが、彼の重量でエイナの身体も引かれた。
「エイナ!」
マーガレットが叫ぶ。
エイナの足が滑る。
鉄板の端。
下は暗い。
バルザックが必死に縄を振りほどこうとする。
「離せ!」
「離さない!」
「落ちるぞ!」
「だから何!」
エイナの声が震える。
だが、離さない。
アレックスはセラをエイナ側へ押し出す。
「マーガレット!」
「任せて!」
マーガレットがセラを受け取る。
アレックスは反転し、エイナへ手を伸ばした。
レクスターも水糸を伸ばす。
だが、水が足りない。
糸は細い。
それでも、エイナの腰へ絡む。
「引きます!」
レクスターが叫ぶ。
「私も!」
マーガレットがセラを支えながら、片手でエイナの腕を掴む。
ニナも泣きながら叫ぶ。
「エイナさん!」
エイナは歯を食いしばる。
バルザックは縄の先で暴れている。
「離せ、下賤が!」
その言葉に、エイナの目が鋭くなった。
「下賤じゃない」
彼女は低く言った。
「私はエイナ」
縄をさらに引く。
「リクの姉だ!」
アレックスの手が、エイナの腕を掴んだ。
「掴んだ!」
「引け!」
レクスターが叫ぶ。
マーガレットが力を込める。
アレックスが引く。
エイナが引く。
バルザックが引き戻される。
全員の力で。
足場の上へ。
バルザックの巨体が鉄板に叩きつけられた。
「ぐえっ……!」
エイナもその場に倒れ込む。
アレックスが支える。
「大丈夫か!」
「……生きてる」
「無茶を」
「あなたたちに言われたくない」
「本当にそればっかりだな」
エイナは息を切らしながら笑った。
「だって本当だから」
レクスターが苦しそうに言う。
「全員、早く渡ってください……足場が持ちません」
見ると、亀裂が広がっていた。
バルザックが暴れたせいだ。
鉄板が軋む。
今にも外れそうだった。
「行くぞ!」
アレックスはバルザックの縄を短く持ち直し、無理やり立たせる。
「歩け!」
「貴様……!」
「歩け!」
アレックスの声に、バルザックが怯んだ。
殺意ではない。
だが、絶対に逃がさないという圧があった。
一行は亀裂を越え、渡り屋根へ出た。
その直後、背後の鉄板が外れた。
落下。
遠い音。
誰も言葉を発しなかった。
少しでも遅れていたら。
そう考えると、背筋が冷えた。
マーガレットがニナを抱いたまま座り込みかける。
「……こわかったぁ……」
「同感です」
レクスターが珍しく素直に言う。
「ほんとに?」
「はい」
「レクスターも怖かった?」
「何度も言わせないでください」
「ごめん」
ニナがマーガレットの服を握る。
「……まーが……落ちなかった……」
「うん」
「セラ姉も……」
「うん」
「エイナさんも……」
「うん」
「……よかった……」
ニナは泣いた。
マーガレットは彼女を抱きしめた。
「よかったね」
短い安堵。
しかし、まだ終わっていない。
下から追手の声。
別の階段から回り込む足音。
北鐘楼の外壁から降りても、地上へ出るまでは安全ではない。
渡り屋根の先には古い倉庫の屋根。
そこからさらに下へ降りる必要がある。
レクスターが息を整える。
「倉庫内へ入ります。そこで帳簿を一時的に分散して持つ必要があります」
「分散?」
アレックスが聞く。
「一人が全て持つと、奪われた時に終わります」
「なるほど」
マーガレットが言う。
「私も持つ!」
「ニナを抱えています」
「じゃあ少しだけ!」
「少しだけなら」
アレックスはバルザックを引きずるように歩かせた。
バルザックはもう大声を出さない。
だが、目はまだ諦めていない。
この男は最後まで逃げ道を探すだろう。
アレックスは縄を握る手に力を込めた。
「逃がさない」
低く呟く。
バルザックが睨む。
「私を町へ出せば、混乱するぞ」
「そうだろうな」
「帳簿を見せれば、もっと混乱する」
「だろうな」
「なら、なぜ」
バルザックの声には、苛立ちがあった。
「なぜ、わざわざ町を壊す?」
アレックスは彼を見た。
「町を壊すんじゃない」
夜風が吹く。
赤い灯りが揺れる。
遠くで人々のざわめきが広がっている。
「隠してきたものを、見える場所へ戻すだけだ」
バルザックは黙った。
その言葉を理解したのか。
それとも、反論できなかっただけか。
分からない。
渡り屋根の先、古い倉庫の屋根へ出る。
そこから下へ降りる梯子があった。
エイナが先に確認する。
「下は今のところ空」
「降りるぞ」
アレックスが言う。
一人ずつ降りる。
マーガレットがニナを抱えて器用に降りる。
セラはアレックスが支え、レクスターが下から補助する。
バルザックは縄で半ば引きずられるように降ろされた。
倉庫の中は暗かった。
古い木箱。
埃。
使われなくなった荷台。
だが、外よりは少しだけ安全だ。
全員が床へ降りた瞬間、誰かが大きく息を吐いた。
マーガレットだった。
「……降りた」
「降りましたね」
レクスターも息を吐く。
「まだ休めませんが」
「言うと思った」
エイナが倉庫の扉の隙間から外を見る。
その表情が、少し変わった。
「……外、様子がおかしい」
「追手?」
アレックスが問う。
「違う」
エイナは扉を細く開けた。
外から、ざわめきが流れ込んでくる。
怒号ではない。
恐怖だけでもない。
人々の声。
「鐘が止まったぞ」
「どういうことだ」
「バルザック様は?」
「帳簿部屋が襲われたって」
「帳簿?」
「人買いの……」
「まさか」
「うちの息子の名前があるって……」
ざわめき。
疑い。
恐怖。
期待。
いろいろな声が混ざっている。
黒外套の言葉が蘇る。
次は、町の人たちが何を選ぶか。
人は、自分の罪が見えると怖い。
その時が来ている。
アレックスは帳簿を見た。
バルザックを見た。
セラとニナを見た。
エイナを見た。
レクスターとマーガレットを見た。
ここから先は、ただ敵を倒すだけでは終わらない。
町に見せる必要がある。
隠されていた名前を。
売られていた人を。
支配者が倒れた姿を。
それを見た町が、何を選ぶか。
アレックスは、静かに雷の刃を鞘へ戻した。
「外へ出よう」
マーガレットが目を見開く。
「今?」
「うん」
レクスターが少しだけ考え、頷いた。
「混乱が広がる前に、こちらから情報を出すべきです」
「危険では?」
「危険です。ですが、遅れればバルザック側に情報を塗り替えられます」
エイナが短剣を握った。
「町に、見せるんだね」
「ああ」
アレックスは言った。
「帳簿と、バルザックを」
バルザックが顔を歪める。
「やめろ……」
その声には、明確な恐怖があった。
エイナは冷たく返す。
「遅いよ」
アレックスは倉庫の扉へ向かった。
外では、グレイルの人々がざわめいている。
裏市の者もいる。
普通の住民もいる。
警備兵もいる。
誰が味方で、誰が敵か分からない。
それでも、出る。
灯りを隠したままでは、闇は終わらない。
扉が開く。
夜の空気が流れ込む。
アレックスは、帳簿を抱えたレクスターと、バルザックを縛るエイナと、セラとニナを守るマーガレットと共に、グレイルの人々の前へ出た。
ざわめきが、一瞬止まった。
赤い灯りの下。
縛られたバルザック。
抱えられた帳簿。
傷ついたセラとニナ。
立つアレックスたち。
町の視線が、一斉に集まる。
その瞬間、グレイルの夜は新しい局面へ入った。
隠されていたものが、ついに人々の目の前に出たのだ。




