【第45話 三つ目は、仲間で作る】
北鐘楼が、軋んだ。
重い金属音が壁の奥を走る。
赤い光が、帳簿部屋の奥の金庫から漏れ出していた。
じわり。
じわり。
まるで、鉄の腹の中に火が灯ったように。
金庫の扉の隙間から、赤い線が走る。
その中には、まだ帳簿がある。
レクスターが抱えているものだけではない。
棚から選び取った数冊だけでは足りない。
この町で消えた名前。
売られた者。
買った者。
金を受け取った者。
見逃した者。
薬房へ送られた者。
警備隊へ流れた金。
それらが、まだ金庫の中に残っている。
燃える。
消される。
もう一度、名前が奪われる。
その一方で。
下層から轟音が響いた。
石床を伝って、衝撃が上がってくる。
マーガレットの声が聞こえた。
「アレックス!!」
その声は、怒鳴り声というより、必死に届かせようとする声だった。
何かが起きている。
セラとニナがいる下層で。
マーガレットが守ると言った場所で。
アレックスの足が、そちらへ動きかけた。
同時に、バルザックが笑う。
「さて、王子」
太い声。
油を含んだような響き。
「帳簿か。仲間か。私か」
赤い光が金庫から強くなる。
バルザックは後ずさり、奥の扉へ向かっていた。
逃げる気だ。
アレックスが彼を追えば、帳簿は燃える。
帳簿を守れば、バルザックは逃げる。
下へ向かえば、その両方を失う。
選べ。
そう言われている。
黒外套と同じだ。
いや、違う。
黒外套は楽しむために選ばせる。
バルザックは逃げるために選ばせる。
どちらも、人を選択肢にしている。
アレックスの拳が震えた。
目の奥が熱くなる。
怒り。
焦り。
恐怖。
全部が同時に来る。
マーガレットは大丈夫か。
セラは。
ニナは。
帳簿は。
バルザックは。
頭の中で声が重なる。
だが。
「アレックス!」
レクスターの声が響いた。
鋭く、冷静で、いつものように容赦がない声。
「止まらないでください!」
その声で、アレックスの意識が戻る。
レクスターは帳簿を抱えている。
顔色は悪い。
それでも目は逸らしていない。
「選択肢を分解します!」
「分解……!」
「はい!」
レクスターは金庫を見る。
「金庫の焼却は私が抑えます!」
「できるのか!」
「やります!」
エイナが即座に言った。
「じゃあ私はバルザック!」
「待ってください」
レクスターが止める。
「一人で行けば危険です」
「でも!」
「下層へも対応が必要です」
アレックスは短く息を吸った。
選ぶな。
分けろ。
三つ目を作る。
それは一人では作れない。
仲間がいる。
だからできる。
「レクト、帳簿!」
「はい!」
「エイナ、バルザックの足止め!」
「任せて!」
「俺は下へ行く!」
レクスターが即座に言う。
「下層確認後、すぐ戻ってください!」
「分かった!」
「追いすぎない!」
「分かってる!」
「信用度七割!」
「今はそれで十分!」
エイナがバルザックへ走る。
アレックスは扉へ向かった。
その瞬間、バルザックが叫ぶ。
「させるか!」
彼が指輪を掲げる。
青白い光。
まだ動ける汚染護衛の一体が、床から無理やり立ち上がった。
完全には止まっていなかったのか。
あるいは、バルザックが残った命令線を強制的に繋いだのか。
護衛の身体が軋む。
人としての限界を超えて動かされている。
「お前……!」
アレックスが足を止めかける。
だが、エイナが叫んだ。
「行って!」
「エイナ!」
「こっちは私が止める!」
汚染護衛がエイナへ向かう。
彼女は短剣を構え、真正面から受けない。
横へ。
低く。
足元へ滑り込む。
「リクの名前も覚えられない奴に」
エイナの声が震えていた。
けれど、強かった。
「これ以上、誰の名前も踏ませない!」
短剣の柄が、護衛の膝裏へ入る。
護衛の動きが鈍る。
その隙にアレックスは走った。
階段へ。
下層へ。
マーガレットの声がした場所へ。
背後でレクスターの声が響く。
「水膜展開――焼却線を遮断!」
金庫の赤い光と、水の術式がぶつかる音がした。
じゅう、と焦げるような音。
レクスターが歯を食いしばる気配。
エイナの短剣が金属とぶつかる音。
バルザックの怒声。
すべてを背に、アレックスは螺旋階段を駆け下りた。
下層。
布置き場。
そこへ向かう階段は、赤い灯りに染まっていた。
足音が響く。
息が荒い。
胸が痛い。
だが止まらない。
「マーガレット!」
叫ぶ。
返事はすぐに来なかった。
代わりに、轟音。
石壁が震える。
そして、マーガレットの声。
「来ないでって言ったでしょぉぉぉ!!」
怒っている。
生きている。
アレックスは少しだけ息を吐きそうになった。
だが、その直後、ニナの悲鳴が聞こえた。
「セラ姉っ!」
血の気が引く。
アレックスは階段を飛ぶように下りた。
布置き場の扉は半分壊れていた。
中には、倒れた男が数人。
壁には大きな亀裂。
布の山は崩れ、古い布が床に散乱している。
その中央で、マーガレットが立っていた。
ハルバードを両手で握り、肩で息をしている。
額に汗。
腕に浅い傷。
だが、倒れていない。
彼女の背後にはニナ。
そのさらに奥に、セラ。
セラは苦しそうにうずくまっていた。
腕の黒い筋が、再び強く光っている。
「セラ!」
アレックスが駆け寄る。
ニナが泣きながらセラの手を握っていた。
「セラ姉、痛いって……! また、光って……!」
マーガレットが振り向く。
「アレックス、ごめん!」
「何があった!」
「こいつらが来た! セラちゃんを連れてけって!」
倒れた男たち。
そのうち一人がまだ意識を保っている。
胸元に小さな欠片。
そいつが、歪んだ笑みを浮かべていた。
「バルザック様の……命令だ……薬房の素材は……回収……」
マーガレットの足元が揺れた。
「素材って言うな」
低い声。
男が怯えるほど低い声だった。
だが、今はその男よりセラだ。
アレックスはセラの腕を見る。
黒い筋が脈打っている。
薬房で抑えたはずの侵食が、再び動いている。
「レクトがいないと……」
アレックスが呟く。
レクスターは上で帳簿を守っている。
今すぐ呼べば、金庫が燃える。
だがセラを放置すれば危険だ。
また選択。
また。
アレックスは歯を食いしばった。
セラが苦しそうに言う。
「……だい、じょうぶ……です……」
「大丈夫じゃない」
「……上……行って……ください……」
「セラ」
「……帳簿……燃えたら……私たちみたいな人……また……」
セラは痛みに震えながら、それでも言葉を続けようとした。
「また……消えちゃう……」
ニナが泣く。
「やだ……セラ姉……」
マーガレットも顔を歪める。
「でも、セラちゃんも!」
アレックスは、セラの手を取った。
冷たい。
震えている。
でも、彼女はアレックスを見ていた。
恐怖の中で。
痛みの中で。
それでも、誰かの名前が消えることを恐れている。
自分だけじゃない。
自分たちだけじゃない。
もう、彼女はただ助けられるだけの人ではなかった。
守ろうとしている。
自分にできることを。
アレックスはゆっくり息を吸った。
「マーガレット」
「うん!」
「セラを支えて。黒い筋が強くなったら、俺の雷で一時的に命令線だけ焼く」
「できるの?」
「レクトほどじゃない。でも応急なら」
「分かった!」
「ニナ」
ニナが涙で濡れた顔を上げる。
「セラに声をかけ続けて」
「……声……?」
「そう。名前を呼んで」
アレックスは言った。
「セラが戻れるように」
ニナは震えながらも頷いた。
「セラ姉……セラ姉……!」
その声に、セラの目が少しだけ動く。
「……ニナ……」
「ここにいるよ……! いなくならないよ……!」
マーガレットがセラの肩を支える。
「セラちゃん、私もいる!」
「……マーガレット……さん……」
「うん! いる!」
アレックスは雷を指先へ集めた。
刃を使わない。
直接、細く。
首筋ではない。
腕の黒い筋の流れ。
レクスターがやっていたことを思い出す。
見る。
焦るな。
強すぎるな。
命令線だけを焼く。
「雷針」
小さな雷が、黒い筋へ触れる。
セラの身体がびくりと震えた。
「っ……!」
「ごめん」
「……だい……じょうぶ……」
脈動が少し弱くなる。
完全ではない。
でも、悪化は止まった。
アレックスはもう一度雷を細くする。
「ニナ、もっと呼んで」
「セラ姉! セラ姉、聞こえる!? 私、ここにいるよ!」
「セラちゃん、戻って!」
マーガレットも声を重ねる。
セラの呼吸が少しずつ整っていく。
黒い筋の光が薄れる。
アレックスは三度目の雷針を入れた。
青白い脈動が弾け、弱まった。
「……止まった」
マーガレットが息を吐く。
「止まった……?」
「応急だけど」
ニナがセラへしがみつく。
「セラ姉……!」
「……ニナ……」
セラは涙を流しながら妹を見た。
「……ごめん……心配……かけて……」
「いい……いいから……!」
アレックスは立ち上がる。
「マーガレット」
「うん」
「ここは?」
「守る」
即答だった。
「でも、さっきみたいにセラが」
「今のやり方、見た」
マーガレットは真剣な目で言った。
「私、雷は使えない。でもニナちゃんに名前を呼ばせることはできる。セラちゃんを支えることもできる。時間稼ぎもできる」
「……」
「だから、上行って」
マーガレットは笑った。
怖いはずなのに。
腕に傷があるのに。
それでも笑った。
「帳簿、守って」
アレックスは唇を噛んだ。
「頼む」
「任せて」
「絶対戻る」
「うん」
「約束だ」
「知ってる」
マーガレットはハルバードを構えた。
「約束、増えすぎだから。ちゃんと全部守ってよ」
「ああ」
アレックスはもう一度セラとニナを見る。
「戻る」
ニナが涙の中で頷いた。
「……うん……」
セラも弱く言う。
「……お願いします……」
アレックスは再び階段へ走った。
上へ。
帳簿部屋へ。
赤い光はさらに強くなっていた。
焦げ臭さが階段にまで流れてくる。
戻った時、帳簿部屋は混乱の中だった。
レクスターが金庫の前で水膜を張っている。
赤い焼却光と水がぶつかり、白い蒸気が上がっている。
エイナは汚染護衛と交戦しながら、バルザックの逃げ道を塞いでいた。
バルザックは怒鳴っている。
「どけ! 下賤が!」
「どかない!」
エイナの声が返る。
「ここで逃がしたら、リクに顔向けできない!」
レクスターの膝が震えている。
限界だ。
だが、水膜を解かない。
帳簿を燃やさないために。
「レクト!」
アレックスが叫ぶ。
「下は!」
「応急で止めた!」
「では、こちらを!」
「分かった!」
アレックスは金庫へ走った。
「何をすればいい!」
「赤い焼却線の根元を断ってください!」
「どこ!」
「金庫右側、歯車の裏!」
アレックスは金庫の側面を見る。
赤い線。
金属の管。
その奥に、焼却機構の核がある。
雷で強く撃てば爆ぜるかもしれない。
弱すぎれば止まらない。
ここでも加減。
ここでも、細さ。
「雷糸」
刃先から雷が伸びる。
金属管の隙間へ入り込む。
赤い線へ触れる。
熱い。
雷が弾かれかける。
アレックスは歯を食いしばった。
「止まれ……!」
雷が赤い線を焼き切る。
ばちん。
金庫の赤い光が一瞬揺らぐ。
「まだです!」
レクスターが叫ぶ。
「左下にも予備線!」
「くそっ!」
アレックスは反対側へ回る。
バルザックが焦る。
「させるな!」
汚染護衛がアレックスへ向かう。
エイナが飛び込む。
「行かせない!」
短剣で受けるのではない。
足を狙う。
体勢を崩す。
それだけでいい。
護衛の剣がエイナの肩を掠めた。
血が散る。
「エイナ!」
「止めて!」
エイナは叫ぶ。
「帳簿を!」
アレックスは振り返らない。
振り返りたい。
でも、今は振り返らない。
エイナが作った一瞬を無駄にしない。
左下の予備線。
赤い光。
雷糸。
狙う。
断つ。
ばちん。
金庫の赤い光が消えた。
焦げ臭さだけが残る。
レクスターが水膜を解き、膝をつきかけた。
アレックスが支える。
「レクト!」
「……帳簿は」
「無事だ」
「確認を」
「先にお前」
「帳簿」
「分かった!」
アレックスは金庫を開ける。
中の帳簿は、端が少し焦げていた。
だが、大半は残っている。
名前が残っている。
証拠が残っている。
「残ってる!」
アレックスが叫ぶ。
レクスターはそれを聞いて、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
その声は、本当に小さかった。
バルザックの顔が歪む。
「貴様ら……」
彼は後ずさる。
逃げ道はエイナが塞いでいる。
護衛は倒れた。
焼却機構は止まった。
帳簿は残った。
バルザックの余裕が、完全に消えた。
「私を誰だと思っている!」
彼は叫んだ。
「この町を動かしているのは私だ! 金を流し、商いを回し、愚民どもに仕事を与えてきた!」
「違う」
アレックスは帳簿を一冊手に取った。
焦げた端。
だが残った名前。
「この町を動かしていたのは、ここに名前を書かれた人たちだ」
「何?」
「働いて、運ばれて、奪われて、それでも生きていた人たちだ」
アレックスは一歩ずつ近づく。
「お前じゃない」
バルザックの顔が赤くなる。
「黙れ!」
「お前はその人たちの上に座っていただけだ」
「黙れと言っている!」
バルザックが懐から小型の欠片銃を抜いた。
青白い光。
アレックスが構えるより早く、銃口がレクスターへ向く。
帳簿を守るレクスターへ。
「なら、その帳簿ごと――」
その瞬間。
エイナの短剣が飛んだ。
銃口を逸らす。
青白い光弾が壁を穿つ。
レクスターの頬を掠め、壁の帳簿棚が砕けた。
バルザックが驚愕する。
「貴様……!」
「リクの名前を忘れたあんたに」
エイナが血の滲む肩を押さえながら言った。
「これ以上、誰の名前も消させない」
アレックスが踏み込んだ。
雷の刃の背で、バルザックの手首を打つ。
欠片銃が落ちる。
続けて腹へ柄。
バルザックの巨体が崩れた。
床へ膝をつく。
「ぐ……っ」
アレックスは刃を向けた。
殺さない。
だが、逃がさない。
「終わりだ、バルザック」
バルザックは荒く息をしながら、顔を上げた。
その目には、まだ憎悪があった。
悔しさではない。
反省でもない。
ただ、奪われたことへの怒り。
自分のものだと思っていた町を、崩された怒り。
「終わらん……」
彼は呻く。
「私を倒しても……町は変わらん……人はまた売られる……金が流れれば……また誰かが……」
「だから帳簿を持っていく」
レクスターが言った。
ふらつきながらも立ち上がる。
「構造を壊すために」
エイナも短剣を拾った。
「名前を返すために」
アレックスは刃を下ろさない。
「そして」
低く言う。
「もう一度、人を商品って言わせないために」
バルザックは笑おうとした。
だが、その笑いは続かなかった。
遠くで、鐘が乱れた音を立てた。
ごん。
ごんごん。
ごん――。
不規則な鐘。
北鐘楼全体が揺れる。
レクスターの目が上を向く。
「何ですか、これは」
エイナが顔色を変える。
「鐘の制御室……?」
その時。
天井の方から、軽い拍手が聞こえた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
アレックスの背筋が冷える。
黒外套の声が、上から降ってきた。
「すごいね。三つとも取った」
帳簿。
仲間。
バルザック。
全部。
黒外套は笑っていた。
「じゃあ、最後の鐘を鳴らそうか」
天井の赤い灯りが、青白く変わった。
北鐘楼の鐘が、狂ったように鳴り始める。
ごん。
ごん。
ごん。
それは、封鎖の鐘ではない。
招集の鐘でもない。
もっと嫌な音。
レクスターが青ざめる。
「欠片の共鳴音……!」
「何が起こる!」
アレックスが叫ぶ。
「町中に撒かれた欠片が反応します!」
エイナの顔から血の気が引く。
「じゃあ、汚染された人たちが……!」
下層で、セラの悲鳴が聞こえた。
「ニナ……っ!」
アレックスの目が見開かれる。
黒外套の笑い声が響く。
「まだ終わらないよ、優しい王子様」
鐘が鳴る。
町中の欠片を呼び起こしながら。
グレイルの夜は、最悪の形で次の幕を開けようとしていた。




