【第43話 帳簿のある部屋】
北鐘楼の階段は、狭かった。
石で作られた螺旋階段。
壁には赤い灯りが一定の間隔で吊るされている。
その火は普通の炎ではなかった。
油の匂いがしない。
芯も見えない。
小さな硝子玉の中で、赤い光だけがじっと揺れている。
欠片ではない。
だが、欠片に似た嫌な気配があった。
アレックスは、その灯りの横を通るたびに、胸の奥がざらつくのを感じた。
グレイルの夜を支配する赤。
北鐘楼から広がった合図の色。
その内側へ、自分たちは入っている。
背後には、マーガレットがいる。
セラとニナを守るため、二階の布置き場に残った。
マーガレットなら大丈夫だ。
そう思っている。
信じている。
それでも、完全には安心できない。
この塔は敵の腹の中だ。
下からも、上からも、どこから敵が来るか分からない。
アレックスの足が少しだけ鈍る。
すぐ横から、レクスターの声がした。
「後ろを気にしすぎです」
「……出てた?」
「足音に出ています」
「顔じゃなくて足音か」
「顔もです」
「やっぱりか」
エイナが前を見たまま、小さく笑った。
「ほんと分かりやすいね」
「今は直す」
「今だけ?」
「今は特に」
レクスターが淡々と言う。
「マーガレットを信じてください」
「信じてる」
「信じることと、心配することは別です」
「分かってる」
「分かっていません」
アレックスは苦笑した。
それでも、少しだけ呼吸が整う。
マーガレットを信じる。
彼女は守ると言った。
なら、守る。
自分は前へ進む。
ここで迷えば、マーガレットが残った意味も、セラとニナを連れてきた意味も薄くなる。
上へ。
バルザックのいる場所へ。
帳簿のある場所へ。
石階段の上から、男たちの声が聞こえてきた。
「西側はどうなった」
「欠片運搬庫は燃えてる。誰がやったのか分からん」
「黒外套だろ」
「またあいつかよ」
「バルザック様は?」
「上だ。帳簿を移す準備をしてる」
その言葉に、三人の足が止まった。
帳簿。
やはりある。
そして、移す準備をしている。
時間がない。
エイナが目を細める。
「聞いた?」
「ああ」
アレックスが答える。
レクスターは低く言った。
「上階へ急ぐ必要があります。ただし、焦れば発見されます」
「難しいな」
「いつものことです」
エイナが短剣を抜いた。
「上の踊り場に二人。話してる。通路は狭い」
「音を出さずに止める」
アレックスが言う。
「任せて」
エイナが先に動いた。
影のように階段を上がる。
赤い灯りの下をすり抜け、踊り場の端へ身を寄せる。
男二人は、まだ話していた。
「王子って本当に元王族なのか?」
「知るか。捕まえれば金になるって話だ」
「女二人も?」
「一人は怪力の女だとよ。見つけたら距離取れって」
「なんだそりゃ」
エイナの短剣の柄が、一人目の首筋へ落ちた。
男が声を出す前に崩れる。
二人目が振り返る。
その口を、レクスターの水膜が塞いだ。
アレックスが踏み込み、柄で腹を打つ。
男は呻き声すら出せず、膝から落ちた。
「手早い」
エイナが小声で言う。
「慣れてきた」
アレックスが返す。
「慣れすぎないでください」
レクスターが言った。
「慣れるべきことではありません」
「……そうだな」
アレックスは倒れた男たちを壁際へ寄せた。
殺していない。
だが、起き上がるには時間がかかる。
レクスターが水糸で手足を縛る。
エイナが見張りの腰袋を探り、小さな鍵束を取り出した。
「鐘楼の中、けっこう鍵多いから助かる」
「持っていこう」
「うん」
階段の先は、通路になっていた。
そこから塔本体と交易組合の上層部が繋がっているらしい。
石造りの壁から、急に木の床へ変わる。
赤い灯りが減り、代わりに高価なランプが置かれていた。
床には絨毯。
壁には町の地図。
商路。
倉庫。
門。
水路。
それらに赤や黒の印が付けられている。
レクスターが立ち止まり、地図を一瞥した。
「……これは」
「何?」
アレックスが聞く。
「封鎖網の配置図です」
エイナが息を呑む。
「本当に?」
「はい。町門、水路、倉庫街、赤布路地、旧市場跡。全て印がある」
「じゃあ、この地図も証拠?」
「もちろんです」
レクスターは壁から地図を外そうとした。
だが、その手が止まる。
紙の端に細い金属線が繋がっている。
「罠です」
「外したら?」
「警報でしょう」
「面倒」
エイナが顔をしかめる。
「バルザックらしい。金も情報も罠付き」
レクスターは水糸を伸ばし、金属線の周囲を確認する。
「解除に少し時間がかかります」
「取るべき?」
アレックスが問う。
「取りたいですが、帳簿が優先です。配置図は記憶します」
「覚えられるのか」
「覚えます」
即答だった。
レクスターは数秒、地図を見つめた。
印の位置。
線の流れ。
封鎖の穴。
すべて頭に入れていく。
「十分です」
「早いな」
「記録係なので」
エイナが小さく笑った。
「その肩書き、便利だね」
「はい」
三人は通路を進んだ。
その先から、低い話し声が聞こえる。
今までの荒事担当とは違う。
落ち着いた声。
商人の声だ。
「帳簿はどこまで移した」
「第三棚までは。残りは奥の金庫へ」
「急げ。今夜は騒ぎが大きすぎる」
「ですが、全て移すには時間が」
「燃やすものは燃やせ。名前が残るものは優先して隠せ」
アレックスの目が鋭くなる。
燃やす。
名前が残るもの。
人を数字にした帳簿を、証拠ごと消す気だ。
レクスターの声が低くなる。
「急ぎます」
「部屋は?」
エイナが覗く。
「広い。机がいくつもある。商人風が三人、護衛が四人。奥に金庫」
「バルザックは?」
「見えない」
アレックスは雷の刃に手を添えた。
「入る」
「待ってください」
レクスターが止める。
「何?」
「証拠を燃やされている可能性があります。火を消す必要がある」
「水か」
「はい」
レクスターは疲労した顔で水の本を開いた。
エイナが心配そうに見る。
「まだ使える?」
「使えます」
「それ、無理してる時の声」
「今は必要です」
「……倒れないでよ」
「努力します」
「それ信用できないやつじゃん」
アレックスも言う。
「レクト、限界なら言え」
「言えば止まりますか」
「……止まらないけど、支える」
「なら、必要になったら言います」
それだけ言って、レクスターは指を動かした。
通路の端に置かれていた水差し。
掃除用の桶。
ランプの下に置かれた花瓶。
そこから水が細く浮き上がる。
まるで糸のように集まり、扉の隙間へ滑り込む。
中で、小さな音がした。
「なんだ?」
商人の声。
次の瞬間、部屋の中の火が一斉に消えた。
「火が!」
「水だ!」
「侵入者か!」
「今!」
アレックスが扉を蹴り開けた。
部屋の中は広かった。
壁一面に棚。
机の上には帳簿。
床には木箱。
奥には鉄の金庫。
消えた火鉢から白い煙が上がっている。
商人風の男たちが驚愕の顔でこちらを見た。
護衛が剣を抜く。
「誰だ!」
アレックスは答えない。
踏み込む。
一人目の護衛の剣を弾く。
二人目の膝を打つ。
エイナが横から入り、商人の手から火打ち石を蹴り飛ばした。
「燃やさせない!」
レクスターが水糸で机の上の紙束を包む。
濡らしすぎない。
火から守るだけ。
その精度に、商人の一人が目を剥いた。
「こ、これは……!」
「帳簿、いただくよ」
エイナが低く言った。
「この町で消えた名前、返してもらう」
「貴様、エイナか!」
商人が叫ぶ。
「裏切り者め!」
エイナの目が冷える。
「最初から、あんたたちの味方じゃない」
護衛の一人がエイナへ突っ込む。
アレックスが間に入り、刃の背で剣を受ける。
「こっちだ」
「王子!」
護衛の目が血走る。
「本当にいたのか!」
「いた」
アレックスは静かに言う。
「そして、お前たちを止めに来た」
雷が刃に走る。
強くはない。
狭い部屋で暴発させるわけにはいかない。
だが、威圧には十分だった。
護衛が一瞬怯む。
その隙に、レクスターの水糸が足元を絡め取る。
男は倒れた。
「殺さないのか!」
商人が叫ぶ。
「甘いな!」
「甘くて結構」
アレックスは机の前へ進む。
「殺すために来たんじゃない」
「では何だ!」
「奪われた名前を取り返しに来た」
その言葉に、商人の顔が歪んだ。
「名前? 商品に名前など不要だ!」
部屋の空気が、凍った。
エイナの手が震える。
レクスターの目が細くなる。
アレックスの中で、静かな怒りが起き上がる。
商品。
その一言が、すべてだった。
彼らは、本当にそう見ている。
セラも。
ニナも。
ユミも。
トマも。
汚染兵になった人たちも。
名前を持つ誰かを、商品と呼ぶ。
「……もう一度言ってみろ」
アレックスの声が低く沈んだ。
商人は怯えながらも、虚勢を張る。
「な、何度でも言ってやる。貧民も孤児も借金持ちも、買い手がつけば商品だ! この町はそうやって回ってきた!」
「違う」
「違わん!」
「違う」
アレックスは一歩ずつ近づいた。
「町を回していたんじゃない」
商人が後ずさる。
「人を踏んでいただけだ」
雷の刃の柄が、商人の腹へ入った。
商人は声も出せず崩れた。
殺していない。
だが、しばらく立てない。
エイナは机の上の帳簿を開いた。
ページをめくる。
その手が止まる。
「……ある」
「何が」
アレックスが聞く。
「名前。金額。移送先。買い手。警備隊への支払い。薬房への手数料」
声が震えていた。
怒りか。
安堵か。
両方だろう。
「全部ある」
レクスターが近づき、帳簿を確認する。
「重要証拠です。持てるだけ持ち出します」
「全部は無理?」
「量が多い」
棚には何十冊もの帳簿。
全部を持つのは不可能だ。
アレックスは奥の金庫を見る。
「一番大事なのは?」
レクスターが即座に答える。
「現在進行中の取引記録。買い手一覧。賄賂帳簿。薬房関連」
「それを探す」
エイナが棚へ走る。
レクスターも帳簿を選別する。
アレックスは入口を守る。
外から足音が近づいていた。
「侵入者だ!」
「帳簿部屋だ!」
「バルザック様へ知らせろ!」
来る。
ここが見つかった。
だが、もう遅い。
帳簿は見つけた。
アレックスは雷の刃を構えた。
その時、部屋の奥の扉が開いた。
静かな音だった。
重い木の扉。
そこから、太った男が現れた。
上質な服。
指には宝石の指輪。
丸い顔。
油を塗った髪。
そして、濁った目。
護衛を二人従え、男は部屋へ入ってきた。
エイナの顔が強張る。
「……バルザック」
その名が、部屋に落ちた。
男は倒れた商人たちを見て、燃やされずに残った帳簿を見て、アレックスを見た。
そして、笑った。
「なるほど」
低く、太い声。
「君が噂の王子か」
アレックスは刃を構える。
「バルザック」
「そうだ」
男はゆっくり歩いた。
焦っていない。
帳簿部屋に侵入されても。
部下が倒されても。
証拠を見られても。
彼は笑っていた。
「困るな。勝手に私の財産を荒らされては」
「財産?」
アレックスの声が低くなる。
「人の名前を、金額に変えた紙が財産か」
「当然だろう」
バルザックは笑った。
「人も金も流れだ。止めれば腐る。動かせば価値になる」
「人は商品じゃない」
「若いな」
バルザックは楽しそうに言った。
「実に若い。王族らしい綺麗事だ」
「綺麗事でいい」
「綺麗事では町は回らんよ」
「人を売らないと回らない町なら、止める」
その言葉に、バルザックの笑みが少しだけ深くなった。
「止める?」
「ああ」
「君が?」
「ああ」
「この町で生まれたわけでもなく、商いを知るわけでもなく、金の流れも知らぬ追放王子が?」
バルザックは両手を広げた。
「傲慢だな」
アレックスは答えない。
バルザックは続ける。
「君は何人救った? 十人か? 二十人か? だが私は何百人を動かしてきた。食わせ、働かせ、売り、買い、町を保ってきた」
「壊してきただけだ」
「違う。支配してきた」
その言葉には、隠す気がなかった。
彼は悪びれていない。
自分が町を支配していることを誇っている。
エイナが短剣を握り締める。
「リクも、あんたの帳簿にいたの?」
バルザックがエイナを見る。
「リク?」
「私の弟」
「ああ」
バルザックは少し考えるような顔をして、すぐに興味を失った。
「覚えていないな。名までは覚えん」
エイナの表情が凍った。
アレックスの胸の奥で、怒りが音を立てた。
名までは覚えない。
それが、この男の本質だった。
名前を奪う側。
人を帳簿に変える側。
バルザックは、ゆっくり指を鳴らした。
奥の扉から、さらに護衛が現れる。
そして、その中に。
青白い筋を腕に浮かべた者たちがいた。
汚染兵。
だが、薬房のものとは違う。
鎧を着ている。
武器を持っている。
統制されている。
「リゼットの試作品だ」
バルザックが言った。
「完全ではないが、護衛としては十分使える」
「……お前」
アレックスの声が低くなる。
「人をどこまで」
「価値ある形にしているだけだ」
バルザックは笑う。
「さあ、王子。綺麗事で止めてみるがいい」
汚染護衛たちが前へ出る。
レクスターが帳簿を抱え、水の本を開く。
エイナが短剣を構える。
アレックスは雷の刃を握り直した。
背後には帳簿。
前にはバルザック。
そして、人として戻すべき者たち。
アレックスは深く息を吸った。
「止める」
静かに言った。
「名前を奪う商売は、ここで止める」
北鐘楼の帳簿部屋で。
グレイルの闇を支えてきた男との戦いが、始まろうとしていた。




