【第42話 鐘楼へ入る道】
北鐘楼は、近づくほど巨大だった。
遠くから見た時は、夜空に突き刺さる黒い影に見えた。
だが、倉庫街の隙間から回り込み、側面へ近づいていくと、その存在感は圧力に変わった。
石造りの塔。
古い市場鐘楼を増築し、交易組合の建物と繋げたもの。
壁には補修跡がいくつもあり、古い石と新しい石が不自然に重なっている。
上部には巨大な鐘。
その周りを囲む鉄柵。
赤い灯り。
見張り台。
下層部には荷の搬入口。
そこから木箱が運ばれ、男たちが出入りしている。
北鐘楼は、もはや鐘を鳴らすためだけの塔ではなかった。
金を集める場所。
命令を出す場所。
町を閉じる場所。
裏市の心臓。
アレックスは、その影を見上げながら、胸の奥が静かに冷えていくのを感じていた。
ここにバルザックがいる。
裏市の金主。
人買いも。
薬房も。
警備隊の腐敗も。
その金の流れを握る男。
ここを押さえれば、グレイルの闇に届く。
だが、ここで失敗すれば、全員が飲まれる。
「見張り、多いね」
マーガレットが小声で言った。
ニナを抱えたまま、倉庫の影に身を隠している。
普段なら前へ出たがる彼女も、今は声を抑えていた。
腕の中のニナが震えているからだ。
セラも、アレックスに支えられながら息を潜めている。
レクスターは壁に背をつけ、塔の側面を観察していた。
エイナは少し先で、昇降機へ繋がる搬入口を見ている。
「正面は無理」
エイナが戻ってきて言った。
「警備兵が六人。裏市の荒事担当が十人以上。さらに鐘楼内に何人いるか分からない」
「昇降機は?」
アレックスが聞く。
「使える」
「本当か」
「たぶん」
「たぶんか」
「でも、他よりはまし」
エイナは塔の側面を指した。
そこには古い木製の昇降機があった。
荷を上階へ運ぶための平台。
鎖と滑車で吊られ、壁沿いに上下する仕組みだ。
今は下に降りている。
平台の横には、積荷を検査する男が二人。
その奥に、昇降機を動かす巻き上げ装置。
さらに少し離れた場所に、見張りが一人。
「荷物に紛れて乗る?」
マーガレットが聞く。
「普通ならそう」
エイナが答える。
「でも、今は封鎖中。荷は全部確認される。箱に隠れるのは危ない」
「じゃあどうする」
アレックスが問う。
レクスターが静かに言った。
「確認役を一時的に外します」
「外す?」
「混乱を作る」
エイナが頷いた。
「近くに空の染料樽がある。あれを倒せば、検査役の注意が逸れる」
「音が出るだろ」
「鐘と騒ぎで、多少なら紛れる」
「その隙に乗る?」
「うん」
レクスターが付け加える。
「問題は昇降機を動かす方法です。手動なら、誰かが装置を操作する必要があります」
「私がやる」
マーガレットが即答した。
「力仕事でしょ?」
「力加減が必要です」
レクスターが言う。
「壊さないでください」
「分かってる!」
「本当に?」
「……たぶん!」
「不安です」
「でもやる!」
アレックスは昇降機を見る。
平台は大きい。
全員乗ることはできそうだ。
だが、動かす間、無防備になる。
途中で見つかれば、塔の壁沿いで狙われる。
下からも上からも。
セラとニナを抱えている以上、戦闘はさらに難しくなる。
「他に道は?」
アレックスが聞いた。
エイナは首を横に振る。
「今の状況なら、これが一番まし」
一番まし。
グレイルで何度も聞いた言葉だった。
安全ではない。
正解でもない。
ただ、他よりまし。
その選択を積み重ねて、ここまで来た。
「……分かった」
アレックスは頷いた。
「昇降機で行く」
セラが弱く声を出した。
「……私たち……置いていっても……」
「置いていかない」
アレックスは即答した。
セラは目を伏せる。
「でも……足手まといに……」
「ならない」
マーガレットが強く言った。
「セラちゃん、そういうの禁止」
「……」
「ニナちゃんも聞いてるよ」
セラははっとして、ニナを見る。
ニナはマーガレットの腕の中で、姉の服の裾を握っていた。
不安そうな顔。
自分たちは邪魔なのかと、そう思ってしまいそうな顔。
セラは唇を噛む。
「……ごめん、ニナ……」
「……セラ姉……」
アレックスは静かに言った。
「守るって決めた」
「……」
「だから、連れていく」
セラの目に涙が滲む。
「……はい……」
レクスターが横から言う。
「ただし、動ける範囲では協力してください」
「レクスター」
マーガレットが少し驚いたように見る。
セラも顔を上げた。
「協力……?」
「はい」
レクスターは淡々と言う。
「あなたは今、怪我人であり保護対象です。しかし、何もできないわけではない」
「……私に……できること……」
「ニナを落ち着かせること」
セラの目が揺れる。
「それは、あなたにしかできません」
ニナがセラを見る。
セラは震える手を伸ばし、妹の指に触れた。
「……ニナ」
「……うん」
「一緒に……行こう」
「……うん……」
レクスターは続けた。
「それだけで十分です」
セラは泣きそうな顔で頷いた。
「……はい……」
マーガレットが小声で言う。
「レクスター、優しい」
「事実を述べただけです」
「それが優しいんだよ」
「解釈は任せます」
「またそれ」
短いやり取り。
その間にも、鐘楼の周囲では人が動いていた。
赤い灯りが増えている。
封鎖の指示が飛び交う。
荷車が動く。
男たちの声が交錯する。
「南門は閉じた!」
「西水路も塞げ!」
「薬房の連中はまだ捕まらないのか!」
「黒外套はどこだ!」
「バルザック様がお怒りだ!」
エイナが低く言った。
「混乱してるけど、長くは続かない」
「今しかないな」
アレックスが言う。
「うん」
作戦は短く決まった。
エイナが染料樽を倒して注意を逸らす。
アレックスが検査役を必要なら無力化。
レクスターが水糸で昇降機周辺の鈴や警報を封じる。
マーガレットが巻き上げ装置を動かす。
セラとニナは平台へ。
全員が乗ったら上階へ。
失敗すれば、即座に別ルート。
ただし別ルートはほぼない。
「結局、失敗できないってことだね」
マーガレットが言う。
「はい」
レクスターが答える。
「分かりやすい!」
「分かりやすくはありません」
「でもやることは分かった!」
「それで十分です」
エイナが軽く息を吐く。
「じゃあ、行くよ」
アレックスは頷いた。
「頼む」
エイナは影から影へ走った。
音を立てない。
低く。
速く。
グレイルの裏道を生きてきた彼女の動きだった。
倒れた壁の裏を通り、空の染料樽が積まれた場所へ近づく。
彼女が短剣の柄で小さな留め木を外す。
樽が一つ、ゆっくり傾く。
転がる。
がらん。
最初の音は小さかった。
だが、次の樽にぶつかり、さらに次の樽を巻き込む。
がらがらがらっ!
乾いた樽の音が、鐘楼の側面へ響いた。
「なんだ!?」
検査役の男二人が振り向く。
「おい、そっち見ろ!」
「風か?」
「こんな時に!」
見張りの一人もそちらへ向かう。
その瞬間、レクスターが水糸を走らせた。
昇降機の横に吊るされた小さな警報鈴。
水膜がそれを包む。
音を封じる。
「今です」
アレックスが走る。
セラを支えながら。
マーガレットがニナを抱え、続く。
レクスターは最後尾。
エイナも樽の陰から戻ってくる。
平台まであと数歩。
だが、見張りの一人が振り返った。
「おい!」
見つかった。
アレックスはセラを平台へ押し上げる。
「マーガレット!」
「分かってる!」
マーガレットがニナを平台へ乗せる。
セラが震える手でニナを抱き寄せた。
「ニナ……!」
「セラ姉……!」
見張りが剣を抜く。
「侵入者――!」
叫ぼうとした瞬間、アレックスが踏み込んだ。
雷の刃の背で腹を打つ。
男の声が潰れ、膝から崩れる。
殺していない。
だが、立てない。
「乗れ!」
エイナが叫ぶ。
レクスターが平台へ飛び乗る。
アレックスも続く。
マーガレットは巻き上げ装置の前に立っていた。
太い鎖。
古い歯車。
人力で動かすには重すぎる。
だが、彼女なら動かせる。
「マーガレット!」
アレックスが叫ぶ。
「上げろ!」
「いくよ!」
マーガレットが鎖を掴んだ。
全身に力を込める。
ぎぎぎ、と歯車が軋む。
平台がわずかに揺れた。
動かない。
「重っ……!」
「壊さないで!」
レクスターが叫ぶ。
「分かってる!」
「急いで、でも壊さず!」
「注文多い!」
マーガレットが歯を食いしばる。
腕に力が入る。
大地の力を借りるように、足元を踏み締めた。
石床がわずかに沈む。
だが、割らない。
鎖が動く。
ぎぎぎぎっ。
平台が上がり始めた。
「動いた!」
ニナが小さく声を上げる。
セラが彼女を抱きしめる。
「大丈夫……大丈夫……」
その声は、ニナへ向けたものでもあり、自分へ向けたものでもあった。
下では、樽の音に気づいた男たちが戻ってきていた。
「昇降機だ!」
「止めろ!」
「侵入者だ!」
怒号が上がる。
見張りたちが集まってくる。
矢が飛んだ。
アレックスが雷の刃で弾く。
一矢。
二矢。
レクスターが水膜を張り、平台の端を守る。
矢が水膜に飲まれ、床へ落ちる。
「上階まで何秒!」
エイナが叫ぶ。
「この速度なら二十秒以上!」
レクスターが答える。
「長い!」
「マーガレット次第です!」
「私!?」
マーガレットは鎖を引き続ける。
「これでも頑張ってる!」
「頑張ってください!」
「やってる!」
さらに矢が飛ぶ。
アレックスが弾く。
だが、平台は揺れる。
ニナが悲鳴を上げかけ、セラが口元へ手を添えた。
「ニナ、大丈夫……私いる……」
「……うん……」
「目を閉じて……」
「……セラ姉も……」
「うん……」
二人は抱き合う。
マーガレットがそれを横目に見て、さらに力を込めた。
「怖がらせんなぁ!」
鎖が一気に動いた。
平台がぐんと上がる。
レクスターが叫ぶ。
「急加速しすぎです!」
「ごめん!」
「でも助かりました!」
「どっち!?」
「両方です!」
下の男たちが怒鳴る。
「上へ回れ!」
「二階で止めろ!」
「鐘楼に知らせろ!」
アレックスは上を見た。
昇降機は二階の搬入口へ近づいている。
だが、そこにも人影が見えた。
待ち伏せ。
「上にもいる」
エイナが短剣を構える。
「何人」
アレックスが聞く。
「三人。たぶんもっと奥にいる」
「突破する」
「うん」
レクスターが低く言う。
「平台が到着した瞬間が危険です」
「分かってる」
「マーガレットは鎖から離れた直後、右を」
「了解!」
「エイナは左」
「任せて」
「アレックスは中央」
「分かった」
「セラとニナは伏せて」
セラが頷く。
「……はい……」
平台が二階の搬入口に近づく。
あと少し。
上の男たちが剣を抜く。
「来たぞ!」
「落とせ!」
鉄棒が振り下ろされる。
平台が停止する前に叩き落とすつもりだ。
アレックスは踏み込んだ。
平台がまだ揺れている。
足場は不安定。
それでも、前へ。
雷の刃で鉄棒を弾く。
火花。
男がよろめく。
エイナが左から入り、短剣の柄で男の手首を打つ。
マーガレットが右へ飛び、ハルバードの柄で相手の足を払う。
レクスターは水糸で奥の警報鈴を止める。
一瞬の連携だった。
だが、完璧ではない。
奥からさらに二人が飛び出してくる。
一人は欠片武器を持っていた。
青白い刃。
見ただけで嫌な気配がする。
「下がれ!」
アレックスが叫ぶ。
欠片武器の男が突進してくる。
「王子を捕まえろ!」
その声が搬入口に響く。
周囲の男たちの目が変わる。
王子。
その言葉は、もう餌になっていた。
捕まえれば、何かが得られる。
金か。
地位か。
バルザックの褒美か。
アレックスは刃を構えた。
「捕まらない」
短く言い、踏み込む。
欠片武器の刃を真正面から受けない。
角度をずらし、雷で弾く。
青白い光と雷がぶつかる。
嫌な音。
刃が軋む。
男が歯を剥く。
「お前一人のせいで、町中大騒ぎだ!」
「俺一人のせいじゃない」
アレックスは低く返す。
「この町が隠してきたものが、表に出ただけだ」
男の顔が歪む。
「知った口を!」
再び刃が来る。
アレックスは避け、柄で男の肩を打つ。
欠片武器が落ちる。
レクスターの水糸が即座にそれを包み、遠ざける。
「触らないでください!」
「分かってる!」
マーガレットが別の男を押さえつけながら答える。
「マーガレット、あなたに言いました!」
「私!?」
「はい!」
「触らない!」
エイナが最後の男を蹴り倒し、搬入口の奥を見る。
「奥、階段!」
「上か下か」
アレックスが問う。
「上は鐘楼内部。下は倉庫階」
「帳簿は?」
レクスターが周囲を見回す。
「上階の可能性が高い。バルザックがいるなら、さらに上」
「じゃあ上」
「待って」
エイナが制した。
「セラとニナをこのまま連れて上へ行くのは危険すぎる」
沈黙。
その通りだった。
ここから先は、さらに戦闘が激しくなる。
鐘楼内部は敵だらけ。
セラとニナを抱えたまま進める保証はない。
だが、置いていく場所もない。
マーガレットがセラとニナを見る。
二人とも怯えている。
でも、アレックスたちを見ている。
置いていかれることを恐れている目。
アレックスは胸が痛くなった。
「近くに隠せる場所は」
エイナが搬入口の奥を見る。
「荷物用の布置き場があるはず。短時間なら」
「安全?」
「安全じゃない。でも、ここよりは隠れる」
レクスターが即座に言う。
「そこへ移します。マーガレット、あなたが護衛」
「私?」
「はい」
「また残る?」
「今回は短時間です」
マーガレットの顔が曇る。
行きたい。
戦いたい。
アレックスたちと一緒に上へ行きたい。
だが、ニナとセラがいる。
守るべき人がいる。
彼女はその葛藤を、もう何度も経験していた。
「……分かった」
今度は、前より早く頷いた。
「私が守る」
ニナがマーガレットの服を握る。
「……まーが……?」
「うん。私ここにいる」
「……アレックスは……?」
アレックスはニナの前に膝をついた。
「上へ行く」
「……また……いなくなる……?」
「戻る」
「……ほんと……?」
「ほんと」
「……約束……?」
「約束」
レクスターが小さく息を吐く。
「また増えましたね」
「増えた」
「守ってください」
「守る」
セラも、弱く言う。
「……気をつけて……ください……」
「うん」
「……バルザック……怖い人です……」
アレックスは目を細める。
「知ってるのか」
セラは小さく頷いた。
「薬房で……名前を聞きました……リゼットが……“バルザック様の注文”って……」
空気が変わった。
レクスターの目が鋭くなる。
「注文?」
「……はい……」
「何を注文したと?」
セラは震えた。
ニナが彼女の手を握る。
セラは妹を見て、勇気を出すように息を吸った。
「……子どもを……壊れにくくする薬……」
マーガレットの表情が消えた。
エイナが短剣を握る手に力を込める。
アレックスの中で、怒りが冷えていく。
熱ではない。
刃になる怒り。
「……そうか」
短く言った。
それ以上言えば、感情が溢れそうだった。
レクスターが低く言う。
「バルザックは、リゼットの研究を利用するつもりだった」
「子どもを?」
マーガレットの声が震える。
「壊れにくくするって、何それ」
「労働、売買、あるいは兵としての利用」
レクスターの声も冷たかった。
「いずれにせよ、許容できません」
「許せるわけない」
アレックスは立ち上がる。
「上へ行く」
その声には、迷いがなかった。
エイナが頷く。
「案内する」
レクスターが水の本を抱え直す。
「帳簿を押さえ、バルザックを止めます」
マーガレットは、セラとニナの前に立った。
ハルバードを握り、はっきりと言う。
「ここは私が守る」
ニナが小さく頷く。
「……まーが……」
「大丈夫」
マーガレットは笑った。
「私は強いよ」
その笑顔は、いつもの明るい笑顔だった。
けれど、その奥にある怒りは静かだった。
アレックスはマーガレットを見る。
「頼む」
「任せて」
短い言葉。
それだけで通じた。
アレックス、レクスター、エイナは階段へ向かう。
上へ。
北鐘楼の内部へ。
バルザックのいる場所へ。
背後ではマーガレットが、セラとニナを布置き場へ導いている。
守るために残る背中。
進むために離れる背中。
どちらも戦いだった。
階段を上がる。
石の螺旋階段。
壁には赤い灯り。
上からは人の声。
紙をめくる音。
金属の触れ合う音。
そして、低い男の笑い声。
アレックスは雷の刃に手を添えた。
ここから先は、グレイルの心臓だ。
灯りを守るために、闇の中心へ踏み込む。
その一歩を、彼は静かに踏み出した。




