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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第41話 鐘楼の影】


 地下通路は静かだった。


 静かすぎるほどに。


 さっきまで追手の怒号が響いていたとは思えない。


 湿った石壁。


 天井から落ちる水滴。


 靴底が浅い水を踏む音。


 それだけが続いている。


 アレックスたちは慎重に進んでいた。


 誰も急がない。


 急ぎたい。


 だが、急げない。


 セラはまだ本調子ではない。


 ニナも疲れている。


 レクスターは消耗している。


 マーガレットだって薬房からずっと走り続けている。


 だからこそ、今は無理に速度を上げない。


 倒れたら終わる。


 それを全員が理解していた。


「……静かだね」


 マーガレットが小さく呟いた。


 ニナを抱いたまま周囲を見る。


「逆に怖い」


「同意します」


 レクスターが答える。


「追跡の気配が急激に減っています」


「黒外套のせい?」


 エイナが聞く。


「可能性が高い」


「欠片運搬庫襲撃の話?」


「はい」


 レクスターは歩きながら続けた。


「裏市が本気で封鎖を始めたタイミングで別の事件が起きた」


「偶然じゃない」


 アレックスが言う。


「まずないでしょう」


「でも意味わかんない」


 マーガレットが首を傾げる。


「私たちの敵なんだよね?」


「敵です」


「でも裏市も邪魔してる」


「しています」


「どっちなの?」


 レクスターは少しだけ考えた。


 そして静かに言う。


「おそらく」


「うん」


「彼は、どちらの味方でもない」


 沈黙。


 誰もすぐには返せなかった。


 それが一番厄介だからだ。


 敵なら分かる。


 味方なら分かる。


 だが、どちらでもない存在は読めない。


「……嫌だな」


 エイナが吐き捨てた。


「そういう奴」


「私もです」


「レクスターも?」


「はい」


「珍しい」


「何がですか」


「嫌いって言うの」


 レクスターは少しだけ黙った。


「……正確には」


「うん」


「信用できません」


「なるほど」


 それはレクスターらしい表現だった。


 好き嫌いではない。


 分析の結果。


 信用できない。


 それだけだ。


 通路はゆっくり上り坂になっていた。


 地下水路から地表近くへ出る道なのだろう。


 空気が少し変わる。


 湿った匂いの中に、煙の匂いが混ざり始めた。


 グレイルの夜の匂い。


 人が生きる匂い。


 争いの匂い。


「出口近い」


 エイナが小声で言った。


「どこへ出る?」


 アレックスが聞く。


「西倉庫街の外れ」


「鐘楼からは?」


「徒歩十分くらい」


 十分。


 短い。


 だが今の状況では遠い。


 封鎖された町。


 増え続ける見張り。


 北鐘楼へ集まる裏市の人間。


 そこを抜ける必要がある。


 前方に微かな光が見えた。


 出口だ。


 全員が自然と足を止める。


 エイナが先行する。


 石壁の隙間から外を確認する。


 数秒。


 長い数秒だった。


 やがて彼女は振り返る。


「今は大丈夫」


 全員が出口から外へ出た。


 夜風が頬を撫でる。


 地下の重い空気から解放される。


 だが、安心はできない。


 グレイルの夜は、さらに騒がしくなっていた。


 遠くで怒号が聞こえる。


 どこかで荷車が倒れる音。


 走る足音。


 鐘。


 角笛。


 そして――。


 赤い光。


「……燃えてる」


 マーガレットが呟いた。


 西側の空が赤い。


 欠片運搬庫襲撃の影響だろう。


 煙が上がっている。


 人影も多い。


 裏市の人間たちが慌ただしく走り回っている。


「完全に混乱してる」


 エイナが言う。


「黒外套、本当に何したの……」


 アレックスは燃える空を見ていた。


 助けているようにも見える。


 だが違う。


 たぶん違う。


 あいつは誰かを助けるために動いていない。


 何かを見ている。


 人が追い詰められた時、何を選ぶのか。


 誰が残るのか。


 誰が裏切るのか。


 そんなものを。


 だからこそ不気味だった。


「移動します」


 レクスターが言った。


「騒ぎが大きい今なら紛れられます」


「賛成」


 エイナが頷く。


「今が一番見つかりにくい」


 倉庫街を進む。


 壁沿い。


 影沿い。


 積み上げられた木箱の裏。


 グレイルを知るエイナが先導し、全員がそれに続く。


 途中、何度も人影を見た。


 裏市の男たち。


 警備兵。


 商人。


 運び屋。


 皆、落ち着きがない。


「どこ行った!」


「西側を探せ!」


「鐘楼から命令だ!」


「いや運搬庫が先だ!」


「ふざけんな、封鎖維持しろ!」


 怒鳴り声が飛び交う。


 統制が乱れている。


 黒外套の一手が効いていた。


 マーガレットは小さく言った。


「なんか」


「うん?」


 アレックスが返す。


「敵が敵同士で喧嘩してる」


「そんな感じだな」


「ちょっとだけ助かる」


「ちょっとだけな」


 ニナがマーガレットの肩にもたれていた。


 眠そうだ。


 でも寝ていない。


 怖いのだろう。


 眠ったら置いていかれる。


 そんな不安があるのかもしれない。


「ニナ」


 マーガレットが声をかける。


「ん……」


「眠い?」


 小さく頷く。


「少し」


「寝てもいいよ」


 ニナは首を振った。


「……だめ……」


「なんで?」


「おきたら……いなくなる……」


 その言葉に、マーガレットの表情が変わった。


 アレックスも聞こえていた。


 セラも。


 エイナも。


 誰もすぐには言葉を返せない。


 ニナは経験してきたのだ。


 目を離した隙に人が消えることを。


 信じた相手がいなくなることを。


 だから眠れない。


「ニナ」


 マーガレットは優しく言った。


「私はいる」


「……」


「起きてもいる」


「……ほんと?」


「ほんと」


 少しだけ考えてから。


 マーガレットは笑った。


「だって重いもん」


「え?」


「置いていけない」


 ニナがぽかんとした。


「重いから?」


「うん」


「ひどい」


 セラが思わず笑った。


 弱々しい笑い。


 でも確かに笑った。


 ニナも少しだけ頬を膨らませる。


「……ひどい」


「ごめんごめん」


 マーガレットは笑う。


「でも本当だから」


 空気が少しだけ柔らかくなる。


 レクスターは前方を警戒しながら、その様子を横目で見ていた。


 守れている。


 まだ。


 完全ではない。


 安全でもない。


 だが守れている。


 それが少しだけ救いだった。


 やがて。


 エイナが足を止めた。


 全員も止まる。


 倉庫の隙間から、遠くを見上げる。


 そこにあった。


 北鐘楼。


 グレイルで最も高い建物。


 夜空へ突き刺さるような石塔。


 上部には巨大な鐘。


 赤い灯り。


 見張り台。


 そして周囲を囲む人影。


 予想以上だった。


「……多いな」


 アレックスが言う。


「うん」


 エイナが頷く。


「完全に本拠地になってる」


 塔の周囲には武装した男たち。


 運び込まれる木箱。


 見張り。


 連絡役。


 まるで小さな砦だった。


 マーガレットが眉を寄せる。


「正面は無理」


「当然です」


 レクスターが言う。


「正面から行く気だったの?」


「少しだけ」


「少しだけでも駄目です」


「はい」


 アレックスは苦笑した。


 その時。


 エイナの視線が動く。


「……あれ」


「どうした」


 アレックスが聞く。


 エイナは鐘楼の側面を指差した。


 そこには運搬用の昇降機があった。


 荷物を上へ運ぶためのものだろう。


 古い木製。


 鎖で吊られている。


「見える?」


「昇降機か」


「うん」


「何かあるのか」


 エイナは少し考えた。


 そして小さく言った。


「もしかしたら」


「うん」


「中に入れるかも」


 アレックスたちの視線が集まる。


 鐘楼正面は無理。


 だが側面。


 運搬経路。


 もし使えるなら。


 レクスターの目が細くなる。


「可能性はあります」


「でも危険」


「もちろんです」


「でも」


 アレックスは鐘楼を見上げた。


 巨大な塔。


 グレイルの闇の中心。


 その上で鐘が鳴っている。


 ごん。


 ごん。


 まるで町全体を支配するように。


 アレックスは静かに息を吐いた。


 ここまで来た。


 逃げるためじゃない。


 終わらせるために。


「行こう」


 誰に言うでもなく。


 でも全員に向けて。


 アレックスはそう言った。


 北鐘楼の影が、彼らの上へ落ちていた。

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