【第40話 閉じる町、進む灯り】
角笛の音が、グレイルの夜を裂いていた。
ぶおおおおお――。
低い。
腹の底へ沈むような音だった。
鐘とは違う。
北鐘楼の鐘が“呼び集める音”だとするなら、この角笛は“閉じる音”だった。
逃げ道を塞ぐ音。
町を囲う音。
狩り場を完成させる音。
布乾燥塔地下の水門通路に、その音が重く響いている。
石壁が震える。
湿った空気が揺れる。
誰もすぐには動かなかった。
アレックス。
マーガレット。
レクスター。
エイナ。
そしてセラとニナ。
全員が、その音の意味を感じ取っていた。
「……始まった」
エイナが小さく呟く。
彼女の顔色は悪い。
グレイル育ちだからこそ分かるのだろう。
この音が鳴った夜に、何が起きるのか。
どれだけの人が消えたのか。
どれだけの灯りが潰されたのか。
「町門を閉じるだけじゃない」
エイナは続けた。
「裏市の連中が、それぞれの持ち場に散る。橋、水路、倉庫、抜け道、隠れ家……全部に人を置く」
「つまり」
レクスターが静かに言う。
「グレイル全体が監視網になる」
「そう」
「厄介ですね」
「かなり」
マーガレットがニナを抱えたまま顔をしかめる。
「そんなの、町全部敵みたいじゃん」
「実際そういう夜もある」
エイナの声は苦かった。
「裏市が本気になった時、この町は“普通の町”じゃなくなる」
アレックスは、遠くで響く角笛を聞いていた。
閉じる音。
だが同時に思う。
閉じるということは、向こうも焦っている。
薬房が壊れた。
リゼットが逃げた。
ザイルも消えた。
人買いの帳簿も一部流れた。
セラとニナも取り戻された。
裏市側にとっても、想定外が続いているのだ。
だから、閉じる。
逃げられる前に。
広がる前に。
壊される前に。
「北鐘楼」
アレックスが言った。
全員が彼を見る。
「行くしかない」
沈黙。
その沈黙は重かった。
分かっているからだ。
危険だと。
無茶だと。
でも、もうそこしかない。
逃げ続ければ、いずれ包囲される。
避難所も潰される。
老女たちも危ない。
帳簿が移されれば、裏市の証拠も消える。
なら、向かうしかない。
闇の中心へ。
「……うん」
最初に頷いたのは、マーガレットだった。
ニナを抱きしめたまま。
怖くないわけではない。
彼女だって疲れている。
薬房からずっと走っている。
それでも、頷いた。
「行こう」
レクスターも短く答える。
「賛成です」
「エイナ」
アレックスが見る。
エイナは壁にもたれ、しばらく目を閉じていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……ほんと、変」
「また言ったな」
「だって普通、逃げる」
「逃げたいよ」
アレックスは正直に言った。
「でも、逃げ切れない」
「……」
「だったら、閉じてる奴を止めるしかない」
エイナはアレックスを見た。
優しい顔だ。
怒鳴らない。
威圧しない。
でも、折れていない。
ラドナ村で最初に見た時より、ずっと前を向いている。
選ばされるだけだった男が、自分で選ぼうとしている。
エイナは少しだけ笑った。
「案内する」
「ありがとう」
「ただし」
エイナの目が鋭くなる。
「北鐘楼へ真正面から行くのは無理」
「裏道か」
「うん。水路沿いを通って、西側の積荷搬入口へ行く」
「入れるのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「裏市の連中でも、あそこ全部把握してる奴は少ない。昔の水運路だから」
レクスターが頷く。
「合理的です」
「でも、途中に見張りいるかも」
「突破する」
アレックスが言う。
マーガレットが小さく笑った。
「シンプル」
「難しく考えても、結局突破するなら同じだ」
「それはそう」
レクスターが静かに付け加える。
「ただし、今度は“突破後”も考えてください」
「……はい」
「成長はしましたが、まだ突っ込み癖があります」
「厳しいな」
「事実です」
エイナがくすりと笑う。
「なんか、そのやり取り見ると安心する」
「安心?」
マーガレットが聞く。
「うん。いつも通りって感じするから」
いつも通り。
その言葉に、少しだけ空気が緩む。
逃げている。
追われている。
町は封鎖され始めている。
それでも、いつも通りと言える瞬間がある。
その瞬間が、人を壊れきらせない。
「……あの」
小さな声がした。
ニナだった。
マーガレットの腕の中で、恐る恐る口を開く。
「きたかね……いくの……?」
北鐘楼。
彼女にも、その名前が怖い場所として響いているのだろう。
アレックスは膝を少し折り、ニナの目線へ近づいた。
「行く」
「……こわい……」
「うん」
「また、つかまる……?」
「捕まらない」
「……ほんと……?」
「ほんと」
ニナは少し黙った。
それから、小さく聞く。
「……アレックス、こわくないの……?」
その問いに、アレックスは少しだけ目を伏せた。
怖い。
もちろん怖い。
黒外套。
バルザック。
封鎖。
追手。
全部、怖い。
失うことが怖い。
守れないことが怖い。
でも。
「怖いよ」
アレックスは嘘をつかなかった。
「すごく怖い」
ニナが目を見開く。
マーガレットも、レクスターも、エイナも静かに聞いていた。
「でも」
アレックスは続ける。
「怖いから、守る」
「……?」
「怖くないから戦うんじゃない。怖いけど、大事なものを取られたくないから戦う」
ニナの瞳が揺れる。
「……だいじ……」
「うん」
アレックスは微笑んだ。
「ニナも、セラも、みんな大事だから」
セラが、アレックスを見た。
涙が溜まっている。
でも、泣くのを堪えていた。
「……ありがとう……ございます……」
その声は小さい。
けれど、確かに届いた。
マーガレットが、にっと笑う。
「私も怖いよ!」
ニナが少し驚く。
「……まーがも……?」
「うん! めっちゃ怖い!」
「そんな堂々と言うんですね」
レクスターが呆れたように言う。
「だって怖いもん」
「否定はしません」
「レクスターも怖い?」
「当然です」
「えっ」
マーガレットが目を丸くした。
「レクスター、怖いとかあるんだ」
「あります」
「ないと思ってた」
「何だと思われていたんですか」
「動く本」
「後で詳しく聞きましょう」
そのやり取りに、ニナが少しだけ笑った。
本当に小さい笑み。
でも、さっきより自然だった。
セラも、妹の顔を見て少しだけ表情を緩める。
エイナは、その様子を見ていた。
こんな空気を、グレイルで見たことがなかった。
追われながら。
封鎖されながら。
怖いと言いながら。
それでも、互いを落ち着かせる。
それは強さなのかもしれない。
少なくとも、裏市にはない強さだった。
「移動します」
レクスターが言った。
「角笛のあと、見張り配置が安定する前に動くべきです」
「行こう」
アレックスが立ち上がる。
エイナが先導し、水門通路の先へ進んだ。
地下通路は狭い。
頭上の石が低く、ところどころ崩れている。
湿った空気が肺へ重い。
遠くで水音が響く。
マーガレットはニナを抱えたまま歩いていた。
セラはアレックスが支えている。
レクスターは最後尾。
疲労しているはずなのに、常に後方を警戒していた。
「レクスター」
アレックスが小声で呼ぶ。
「何ですか」
「足、本当に大丈夫か」
「今は」
「今は、って便利な言葉だな」
「事実です」
「無理したら背負うぞ」
「遠慮します」
「なんで」
「あなたがセラを支えている時点で、負担過多です」
「でも」
「それに」
レクスターは少しだけ口元を緩めた。
「背負われるのは、少し悔しい」
アレックスは目を瞬かせる。
「レクトでもそういうのあるんだ」
「あります」
「意外」
「何だと思われていたんですか」
「動く本」
マーガレットが即答した。
「あなたは黙っていてください」
「えー!」
その時だった。
前を歩いていたエイナが、急に手を上げた。
全員が止まる。
通路の先。
薄暗い曲がり角の向こうから、複数の足音が聞こえた。
重い靴音。
鎧の擦れる音。
松明の火が壁へ揺れる。
エイナが低く呟く。
「……警備隊」
アレックスの目が細くなる。
裏市だけじゃない。
表の警備隊も動いている。
「こっちへ来る?」
マーガレットが小声で聞く。
「たぶん巡回」
エイナが答える。
「でも、見つかったら終わり」
通路は狭い。
隠れる場所も少ない。
しかも、セラとニナがいる。
レクスターが周囲を見た。
「右側に空洞があります」
崩れた石壁の隙間。
人が数人、身を寄せられる程度の空間。
「全員は無理」
エイナが言う。
「子どもと怪我人優先」
「ニナ、セラ、マーガレットが先」
アレックスが即断する。
「レクトとエイナは?」
「入口側で隠れる」
「アレックスは」
「最後」
マーガレットが不満そうな顔をする。
「また最後」
「囮じゃない」
「ほんと?」
「ほんと」
エイナが短剣を握る。
「来る」
足音が近づく。
鎧の音。
会話。
「北側は?」
「鐘楼の命令で封鎖だ」
「王子って本当にいるのか?」
「知らねえよ。でも、バルザック様が動いたんだ。大物なんだろ」
「面倒だな……」
声が近い。
もう曲がり角の向こうだ。
マーガレットがニナを抱きしめる。
セラも息を止める。
アレックスは、壁際へ身を寄せた。
警備隊。
表の顔。
でも、その実態は裏市と繋がっている。
この町は、本当に腐っている。
そんなことを思った瞬間だった。
通路の奥で、別の声が響いた。
「おい、そっちはいい! 北鐘楼から急報だ!」
警備兵たちが止まる。
「急報?」
「西側水路で、欠片運搬庫が襲撃された!」
エイナの目が見開いた。
「……何?」
レクスターも眉を動かす。
警備兵が舌打ちした。
「またかよ!」
「今日はどうなってんだ!」
「黒外套の仕業か!?」
その名が出た瞬間、地下通路の空気が変わった。
アレックスたちも、互いに顔を見る。
黒外套。
また動いている。
しかも、今度は欠片運搬庫を襲った?
「西側全員、応援へ回れ!」
「でも封鎖は!」
「鐘楼からの命令だ!」
足音が慌ただしく遠ざかっていく。
警備兵たちは、そのまま別方向へ走り去った。
通路に沈黙が戻る。
しばらく、誰も声を出さなかった。
やがて、エイナが小さく呟く。
「……黒外套、何考えてるの」
レクスターが静かに言う。
「我々だけを見ているわけではない、ということです」
「助けてる?」
マーガレットが聞く。
レクスターは即答しなかった。
数秒、考える。
「違います」
「じゃあ何」
「動かしている」
アレックスも同意だった。
黒外套は助けているわけではない。
かき回している。
壊している。
裏市も。
こちらも。
グレイル全体を。
何かを見ようとしているように。
「……嫌な感じ」
エイナが吐き捨てる。
「ほんと、全部あいつの掌みたい」
アレックスは静かに前を見た。
「だったら、掌ごと壊す」
エイナが少し笑う。
「言うね」
「本気だ」
「……知ってる」
地下通路の先には、まだ暗闇が続いている。
北鐘楼へ向かう道。
閉じていく町の中を、逆らうように進む道。
その先に何があるのか、まだ誰も知らない。
でも。
もう引き返せない。
アレックスたちは再び歩き出した。
灯りを抱えたまま。
閉じる町の中心へ向かって。




