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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第39話 三つ目の道】


 汚染水が、青白く光っていた。


 布乾燥塔の地下。


 古い石壁に囲まれた水路は、かつて染物の排水を流すために使われていたのだろう。


 壁には赤や藍の染みが残っている。


 年月を経て黒ずみ、苔に覆われ、ひび割れた石の隙間から冷たい水が滲み出していた。


 そこへ、欠片の光が混じっている。


 ただの水ではない。


 触れれば身体の内側へ入り込み、命令線のように絡みつく水。


 リゼットの薬房で見たものと同じ。


 人を、人ではないものへ変えようとする光。


 その水路の前に、アレックスは立っていた。


 右手には雷の刃。


 左側にはレクスター。


 少し後ろにエイナ。


 そして背後の階段からは、追手たちの足音が迫っている。


「いたぞ!」


「こっちだ!」


「逃がすな!」


 松明の赤い光が、地下階段の上から揺れて降りてくる。


 鐘の音は遠くなった。


 けれど、完全には消えていない。


 ごん。


 ごん。


 地上の夜から響く音が、石壁を伝って、地下の空気を震わせていた。


 アレックスは、右の狭い石穴へ目を向ける。


 そこにはもう、マーガレットたちの姿はない。


 セラとニナを抱えたマーガレットは、安全だと黒外套が言った狭い道へ入った。


 もちろん、本当に安全とは限らない。


 それでも今、あの二人を守れるのはマーガレットだ。


 アレックスは彼女に託した。


 託すしかなかった。


 その事実が、胸の奥を締めつける。


「アレックス」


 レクスターが言った。


「はい」


「今、右の道を気にする余裕はありません」


「分かってる」


「分かっていません」


「……分かろうとしてる」


「なら、前を」


 レクスターの声は冷静だった。


 だが、その顔色は悪い。


 短い休息を挟んだとはいえ、限界に近い状態で水を操り続けている。


 それでも彼は、汚染水路へ視線を向けたまま、淡々と術式を組み立てていた。


「汚染水は、水深が浅い。足首程度です」


「それなら飛べる?」


 エイナが聞く。


「距離があります。途中で足をつけば終わりです」


「じゃあ?」


「私が水を左右へ押し分けます」


「できるの?」


「やります」


 エイナは眉をひそめた。


「それ、できるって意味じゃないよね」


「今は同じです」


「同じじゃない気がする」


「同じにします」


 レクスターは水の本を開いた。


 地下水路の湿気が揺れる。


 ページがめくれ、青白い汚染水の表面へ細い水糸が伸びる。


 だが、すぐに反発が起きた。


 汚染水の中から、欠片の命令線が蛇のように跳ね上がる。


 レクスターの水糸へ絡もうとする。


 彼の眉がわずかに動いた。


「……やはり、通常の水より抵抗が強い」


「いけるか」


 アレックスが問う。


「短時間なら」


「どれくらい」


「二十秒」


 エイナが目を見開く。


「短っ」


「これでも長い方です」


「じゃあ、二十秒で抜ける」


 アレックスが言う。


「はい」


「追手は?」


「あなたが止めてください」


「分かった」


「ただし、殺さずに」


「分かってる」


「信用度は六割」


「今は?」


「七割」


「上がったな」


「状況判断が少し安定しています」


「少し」


「少しです」


 そのやり取りを聞いて、エイナが小さく笑った。


「あなたたち、ほんと変」


「よく言われる」


 アレックスが返す。


「でも、悪くない」


 エイナは短剣を構えた。


「私は真ん中を走る。もし足場が崩れたら、先に飛ぶ」


「無茶はしないでください」


 レクスターが言う。


「誰に言ってるの?」


「全員です」


「自分も入ってる?」


「……状況次第です」


「入ってないじゃん」


「急ぎます」


 背後の階段から、最初の追手が姿を見せた。


 松明。


 棍棒。


 欠片を埋め込んだ短剣。


 人数は五。


 だが、その後ろにまだ影がある。


「いたぞ!」


「王子だ!」


 その言葉に、アレックスの目が鋭くなった。


 王子。


 もう、裏市側には情報が回っている。


 黒外套が流したのか。


 リゼットか。


 あるいはバルザックか。


 どちらにしても、身元を隠す段階は終わりつつあった。


「捕まえろ!」


「バルザック様の前に引きずり出せ!」


「女どもも逃がすな!」


 エイナの表情が冷える。


「バルザック、やっぱり本気だね」


「好都合です」


 レクスターが言った。


「向こうが動けば、構造も見える」


「その前に捕まったら?」


「捕まりません」


 アレックスが一歩前へ出た。


「捕まらない」


 雷の刃が、地下の空気を震わせる。


 追手たちが一瞬、足を止めた。


 だが、彼らも裏市の荒事に慣れた者たちだ。


 恐怖より命令が勝つ。


 あるいは、失敗した時の処分を恐れているのかもしれない。


「行け!」


 一人が叫び、三人が同時に飛び込んできた。


 アレックスは迎え撃つ。


 刃ではなく、背で。


 最初の男の手首を打つ。


 短剣が落ちる。


 二人目の膝裏を払う。


 三人目の棍棒を受け流し、そのまま柄で鳩尾を突く。


 声を上げさせない。


 殺さない。


 だが、確実に止める。


「甘いんだよ!」


 背後から欠片短剣を持った男が突っ込んでくる。


 刃が青白く光る。


 ただの刃ではない。


 触れれば命令線が流し込まれる可能性がある。


 アレックスは避ける。


 短剣が石壁を掠め、青白い火花を散らす。


 男が笑った。


「避けるしかねえだろ!」


「そうでもない」


 アレックスは雷を刃先ではなく、鞘に込めた。


 短剣が二度目に振られる瞬間、鞘で打ち上げる。


 金属音。


 欠片短剣が弾かれ、男の手から離れた。


「なっ――」


 次の瞬間、アレックスの柄が男の首筋へ入る。


 男は崩れた。


 レクスターが叫ぶ。


「今です!」


 水路が割れた。


 汚染水が左右へ押し開かれる。


 中央に、細い石床が現れる。


 青白い水が両側で震え、命令線が触手のように伸びようとする。


 レクスターの水膜がそれを押し返す。


 だが、彼の顔が一気に青ざめた。


「走って!」


 エイナが先に飛び出す。


 アレックスは後方を一閃して追手を牽制し、すぐ続く。


 レクスターは最後。


 水を押し分けながら、自分も進む。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 足元の石が滑る。


 両側の汚染水が、まるで意思を持つように跳ねる。


 エイナの足元へ青白い線が伸びた。


「エイナ!」


 アレックスが叫ぶ。


 エイナは跳んだ。


 ぎりぎりで避ける。


 だが、着地が乱れた。


「っ!」


 アレックスは腕を伸ばす。


 彼女の腕を掴む。


 引き戻す。


 エイナは息を吐いた。


「助かった」


「前へ!」


「うん!」


 背後で追手が叫ぶ。


「水路へ入ったぞ!」


「追え!」


 何人かが踏み込もうとする。


 だが、汚染水が足に絡んだ。


「ぐあっ!?」


「足が!」


「何だこれ!」


 裏市の者たちでも、全員が汚染水に耐えられるわけではない。


 欠片を使う者でさえ、扱いを誤れば飲まれる。


 その混乱が、アレックスたちにわずかな時間をくれた。


「残り十秒!」


 レクスターが叫ぶ。


「出口は!」


 エイナが前を見る。


「見える! あと少し!」


 前方に、壊れた水門があった。


 その向こうに暗い通路。


 黒外套が言っていた西の倉庫裏へ繋がる道かもしれない。


 だが、その水門の手前で、汚染水が一際強く光っていた。


 まるで、最後の門番のように。


 レクスターの表情が変わる。


「濃度が高い!」


「飛び越える!」


 エイナが叫ぶ。


「距離がある!」


「でも行く!」


 アレックスはエイナの背を押す。


「先に!」


 エイナが助走をつけ、跳んだ。


 壊れた水門の縁へ手をかける。


 滑る。


 だが、踏ん張る。


 身体を引き上げ、向こう側へ転がり込んだ。


「来て!」


 アレックスが続く。


 跳ぶ。


 着地。


 ぎりぎり。


 汚染水が足元を掠める。


 靴底が青白く焦げたように光るが、身体には届かない。


「レクト!」


 レクスターは水を押し分けたまま走っていた。


 だが、限界だった。


 水膜が乱れる。


 汚染水が中央へ戻り始める。


 青白い線が、彼の足首へ伸びた。


「レクスター!」


 アレックスが手を伸ばす。


 だが距離がある。


 エイナも身を乗り出す。


「掴んで!」


 レクスターは跳んだ。


 しかし、足が一瞬遅れた。


 青白い線が、靴の端へ絡む。


 レクスターの顔が歪む。


「っ……!」


 アレックスは雷の刃を投げるように伸ばした。


 斬るのではない。


 雷を糸にして、命令線だけを焼く。


「雷糸!」


 青白い線が弾けた。


 レクスターの身体が前へ飛ぶ。


 アレックスとエイナが同時に腕を掴み、引き上げた。


 三人は水門の向こう側へ転がり込む。


 直後、水膜が崩れた。


 汚染水が一気に元へ戻る。


 青白い波が、石床を飲み込んだ。


 追手たちの怒声が遠ざかる。


 水路の向こうから、誰かが叫ぶ。


「回り込め!」


「西側だ!」


「鐘楼へ知らせろ!」


 アレックスは荒い息を吐いた。


 レクスターは地面に片膝をついている。


 エイナも壁にもたれ、肩で息をしていた。


「……生きてる?」


 エイナが聞く。


 レクスターが息を整えながら答える。


「少なくとも、現時点では」


「その言い方、怖いね」


「正確です」


「足は?」


 アレックスが聞く。


 レクスターは自分の足元を見る。


 靴の端に、青白い焦げ跡が残っていた。


「接触は浅い。侵食はありません」


「本当に?」


「本当です」


「嘘じゃないな?」


「嘘をつく体力が惜しい」


「それは信用できる」


 エイナが苦笑した。


「よかった。変な信用の仕方だけど」


 その時、右手の狭い通路の方から、小さな音が聞こえた。


 石を踏む音。


 布が擦れる音。


 マーガレットか。


 アレックスが顔を上げる。


「マーガレット?」


 返事はない。


 少し遅れて、声がした。


「……アレックス?」


 ニナの声だった。


 アレックスの胸が少し軽くなる。


「こっちだ!」


 暗い通路の奥から、マーガレットが姿を現した。


 ニナを抱え、セラを支えながら。


 服は埃まみれ。


 頬に擦り傷がある。


 だが、二人をしっかり守っていた。


「合流!」


 マーガレットが明るく言った。


 しかし、その声の裏に疲労がある。


 狭い道は、安全とは言えなかったのだろう。


「大丈夫か」


 アレックスが駆け寄る。


「私は大丈夫!」


「セラは?」


 セラは苦しそうだが、意識はある。


「……大丈夫……です……」


 ニナもマーガレットの腕の中で頷いた。


「……まーが、守ってくれた……」


 マーガレットの顔が緩む。


「守った!」


 レクスターが息を整えながら言う。


「狭い道に罠は?」


「ちょっとあった」


「ちょっと?」


「床が抜けかけたり、変な粉があったり、あと小さい虫がいっぱいいた」


「最後は罠ではありません」


「でも怖かった!」


「それは同意します」


 マーガレットはレクスターを見て、顔色を変えた。


「レクスター、また無理した?」


「必要な範囲です」


「それ絶対無理したやつ!」


「今は移動が先です」


「あとで休む約束」


「覚えています」


「ほんと?」


「はい」


「よし」


 アレックスは全員の顔を確認した。


 マーガレット。


 レクスター。


 エイナ。


 セラ。


 ニナ。


 全員いる。


 それだけで、胸の奥に熱が戻る。


 三つ目の道は、完全ではなかった。


 危険だった。


 無茶だった。


 だが、通れた。


 誰も置いていない。


「……やったな」


 アレックスが言う。


 マーガレットが笑う。


「うん!」


 エイナが肩をすくめる。


「無茶だったけどね」


 レクスターが淡々と付け加える。


「無茶でした」


「でも?」


 アレックスが聞く。


 レクスターは少しだけ間を置いた。


「成功です」


 その言葉に、マーガレットが小さく歓声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。


「やった!」


「声量」


「小さく言った!」


「まだ大きい」


「ごめん!」


 そのやり取りで、ニナが少しだけ笑った。


 本当に小さく。


 すぐに顔を伏せたが、確かに笑った。


 アレックスはそれを見て、心の中で息を吐いた。


 まだ、大丈夫だ。


 まだ笑える。


 なら、灯りは消えていない。


 だが、安心は長く続かなかった。


 水門の向こうから、別の音が響いた。


 金属を叩く音。


 追手の声。


 そして、さらに遠くから、鐘とは違う低い角笛の音。


 ぶおおおおお――。


 エイナの顔色が変わる。


「……まずい」


「何だ」


 アレックスが問う。


「裏市の封鎖合図」


「封鎖?」


「町門と水路出口を閉じる合図。逃げ道を潰すつもりだよ」


 レクスターの目が鋭くなる。


「つまり、我々を町内に閉じ込めるつもりですね」


「うん」


「なら、急ぐ必要があります」


「どこへ」


 マーガレットが聞く。


 エイナは一瞬迷った。


 そして、北側の壁の隙間から見える赤い灯りを見た。


 北鐘楼。


 遠くで、まだ赤く光っている。


「逃げるだけじゃ無理」


 エイナは言った。


「門も水路も閉じられるなら、どこかで封鎖を止めるしかない」


「つまり」


 アレックスが言う。


「北鐘楼へ行く」


 誰もすぐには答えなかった。


 セラとニナを抱えている。


 レクスターは疲労している。


 追手は増えている。


 町は封鎖される。


 それでも、向かう先はそこしかない。


 北鐘楼。


 バルザック。


 裏市の金主。


 黒外套が示した場所。


 アレックスは、静かに拳を握った。


「逃げ道を閉じるなら、開けに行く」


 マーガレットが頷く。


「うん」


 レクスターも息を整えながら言った。


「帳簿も、おそらくそこにあります」


 エイナが短剣を握り直す。


「案内する」


 ニナが小さく震えた。


「……また……こわいところ……?」


 アレックスは彼女を見る。


「怖い場所へ行く」


 嘘はつかなかった。


「でも、今度は一緒に行く」


 マーガレットが続ける。


「私が抱っこしてる」


 セラが弱く言う。


「……ニナ……大丈夫……」


 ニナは姉を見て、涙を浮かべながら頷いた。


「……うん……」


 遠くで、また角笛が鳴る。


 グレイルの夜が、出口を閉じ始めている。


 だが、アレックスたちはもう、逃げるだけではなかった。


 三つ目の道を作った。


 選ばされる道を拒んだ。


 なら次は。


 閉じられた町に、こちらから道を作る番だった。


 北鐘楼へ。


 闇の中心へ。


 灯りを抱えたまま、進むために。

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