【第38話 選ぶ側にはならない】
布乾燥塔の前で、夜風が鳴っていた。
古い塔の上部に吊るされた布が、暗闇の中でゆっくり揺れている。
破れた白布。
色褪せた赤布。
水気を失い、硬くなった藍布。
それらが風に擦れ、しゃら、しゃら、と小さな音を立てていた。
鐘の音は、まだ遠くで続いている。
ごん。
ごん。
北鐘楼から響くその音は、町全体へ命令を流しているようだった。
裏市の者たちを呼び起こし、逃げ場を塞ぎ、息を潜める者たちの心臓を叩く。
その鐘の下。
布乾燥塔の入口に、黒外套が立っていた。
まるで最初からそこにいたように。
まるで、アレックスたちがここへ来ることを知っていたように。
黒い外套の奥で、表情は見えない。
けれど、笑っているのは分かった。
「こんばんは」
軽い声。
その声を聞いた瞬間、ニナの身体がびくりと震えた。
マーガレットが抱く腕に力を込める。
「大丈夫」
マーガレットが小さく言う。
「私がいるから」
「……うん……」
ニナは頷いた。
だが、声は震えている。
セラも、アレックスの腕の中で目を開けた。
まだ顔色は悪い。
呼吸も浅い。
それでも、黒外套の声には反応した。
薬房で直接会ったわけではない。
けれど、欠片の恐怖を知る者には、あの声がどこか同じ匂いを持っているのかもしれない。
人の痛みを、遠くから眺める声。
助けを求める声を、遊びのように扱う声。
アレックスは、セラを抱えたまま前へ出た。
雷の刃には手をかけない。
かけたい。
今すぐ抜きたい。
けれど、抱えているセラを揺らせない。
それに、抜いたところで黒外套は逃げる。
これまで何度もそうだった。
ラドナ村。
橋。
染物倉庫。
薬房。
いつも黒外套は現れ、言葉を投げ、こちらの心を揺さぶり、消える。
今も同じだ。
戦うより先に、聞かなければならない。
「そこをどけ」
アレックスが言った。
声は低い。
怒鳴らない。
だが、夜気が少し震えた。
黒外套は首を傾げる。
「嫌だと言ったら?」
「押し通る」
「セラちゃん抱えて?」
「必要なら」
「危ないなあ」
黒外套は笑った。
「優しい王子様なのに、ずいぶん荒っぽくなったね」
「お前の相手をしている暇はない」
「でも、僕は君に用がある」
「俺はない」
「ひどいなあ」
黒外套は塔の壁に背を預け、軽く手を広げた。
「せっかく、“選ぶ側”の話をしに来たのに」
その言葉で、空気が重くなる。
選ぶ側。
先ほど黒外套が言った言葉。
じゃあ次は、“選ぶ側”の話をしようか。
その意味を、アレックスはまだ掴めていなかった。
だが、嫌な予感だけはあった。
黒外套が選択を語る時、それは必ず誰かの痛みを伴う。
レクスターが水の本へ指を添えた。
顔色は悪い。
まだ完全には回復していない。
それでも、目だけは冷静に黒外套を見ている。
「時間稼ぎです」
レクスターが低く言った。
「追手を待っている可能性があります」
「分かってる」
アレックスは答えた。
「でも、進路を塞がれてる」
「別ルートは?」
エイナが周囲を見る。
布乾燥塔の周辺は、半壊した建物と細い道で囲まれている。
右手の路地は崩れた荷車で塞がっている。
左手は赤布の路地へ繋がる。
後方は追手が来ている可能性が高い。
布乾燥塔の中へ入るのが、もっとも安全なはずだった。
だが、その入口に黒外套がいる。
「……最悪」
エイナが吐き捨てる。
「いつも最悪なところにいるね、あんた」
「褒め言葉?」
「違う」
「残念」
マーガレットが前へ出ようとした。
ニナを抱えているため、完全には踏み込めない。
だが、その目は怒っている。
「ねえ」
マーガレットの声が低い。
「あんた、ニナちゃん見て笑ったよね」
「笑ったかな」
「笑った」
「そう見えた?」
「見えた」
マーガレットはハルバードを握りしめる。
「この子、怖がってるんだけど」
「だろうね」
「だろうね、じゃない」
石床が、かすかに軋んだ。
マーガレットの足元に力が入っている。
「この子に、もう二度と怖い思いさせたくないんだけど」
「優しいね」
「うん」
マーガレットは即答した。
「私は優しいよ。だから、優しくないやつをぶっ飛ばすの」
黒外套は楽しそうに笑った。
「いいね。君も面白い」
「私は面白くない」
アレックスと同じ返しだった。
黒外套は、くすくすと笑う。
「似てるね、君たち」
「似てない!」
マーガレットが即座に言う。
アレックスは少しだけ苦笑した。
「そこ否定するのか」
「え、だって、アレックスはちゃんと考えるし」
「マーガレットも考えてる」
「考えてるけど、たまに殴った方が早いなって思う」
「正直だな」
「うん」
黒外套を前にしても、そのやり取りが出る。
緊張は切れていない。
けれど、空気が完全には黒外套へ渡らない。
そのことに、レクスターはわずかに目を細めた。
マーガレットの強さは、そこにもある。
相手の作った空気を、強引に変える。
恐怖だけの場に、呼吸を作る。
だからこそ、ニナは彼女の腕の中で少しだけ震えを弱めた。
黒外套は、そんな様子を見ていた。
観察するように。
試すように。
「ねえ、王子様」
黒外套が言う。
「君はさっき、優先順位を選べるようになった」
「……」
「リゼットを追わずに、セラちゃんを運んだ。汚染兵を残して、ニナちゃんを迎えに来た。悲鳴が聞こえても、今は行かなかった」
アレックスの胸が痛む。
見られていた。
やはり、見られていた。
黒外套は、彼らの選択をずっと見ている。
そして、その痛い場所だけを言葉にする。
「成長したね」
黒外套の声は軽い。
「全部を助けたいって言うだけの子どもから、選べる人間になった」
「黙れ」
アレックスの声が低くなる。
「お前に言われることじゃない」
「でも事実でしょ?」
「……」
「選んだよね」
黒外套は一歩、前へ出た。
「追わないって選んだ。残すって選んだ。聞こえた悲鳴を後回しにした。セラちゃんとニナちゃんを優先した」
セラの指が、アレックスの服を弱く握る。
ニナもマーガレットの胸元へ顔を埋めた。
黒外套の言葉は、二人にも刺さっている。
自分たちが助けられたせいで、誰かが後回しにされたのではないか。
そう思わせる言葉だった。
アレックスは、それに気づいた。
怒りが湧く。
だが、それ以上に、守るべき言葉があった。
「セラ」
アレックスは、腕の中の彼女へ声をかけた。
「ニナ」
マーガレットの腕の中で、ニナが顔を上げる。
「君たちは、助けられていい」
黒外套へではなく、二人へ言った。
「誰かを後回しにしたとしても、それは君たちのせいじゃない」
セラの目が揺れる。
「……でも……」
「違う」
アレックスははっきりと言った。
「君たちが生きていることは、誰かの犠牲じゃない」
「……」
「俺たちが選んだんだ」
その言葉に、黒外套が少しだけ首を傾げる。
アレックスは続けた。
「俺たちが、君たちを助けると決めた」
「……アレックス、さん……」
「だから、君たちは生きていい」
セラの目から涙がこぼれた。
ニナも唇を震わせる。
マーガレットが小さく頷いた。
「そうだよ」
彼女はニナを抱きしめる。
「ニナちゃんが悪いんじゃない。セラちゃんが悪いんじゃない。悪いのは、悪いことしたやつ」
その言い方は単純だった。
でも、今はその単純さが必要だった。
複雑な構造。
町の腐敗。
裏市。
金。
薬。
選択。
そういうものがどれだけあっても、目の前の子どもに背負わせていい理由にはならない。
レクスターが静かに言う。
「黒外套。あなたの言葉は論理ではなく誘導です」
「へえ」
「罪の所在を曖昧にし、救われた者へ罪悪感を移そうとしている」
「難しい言い方をするね」
「簡単に言えば、卑劣です」
黒外套は笑った。
「言うねえ」
「事実です」
レクスターの声は冷たい。
疲労している。
それでも、言葉の刃は鈍っていない。
「選択が必要になる状況を作った者が、選んだ者を責める資格はありません」
黒外套の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「……本当に君、邪魔だな」
「よく言われます」
「言われるんだ」
「はい」
マーガレットが小声で言う。
「今のレクスター、かっこいい」
「声量」
「ごめん」
黒外套はレクスターを見て、肩をすくめた。
「まあいいや。じゃあ本題」
「まだあるのか」
エイナが短剣を構える。
「あるよ」
黒外套は塔の入口を指さした。
「この塔の中に、逃げ道がある」
全員が一瞬、黙る。
「……何?」
エイナが眉を寄せる。
「布乾燥塔の地下。古い水門に繋がってる。そこを抜ければ、西の倉庫裏へ出られる。追手はしばらく撒ける」
「なぜそれを教える」
レクスターが問う。
「必要だから」
「あなたにとって?」
「うん」
「何が目的です」
「選んでほしいんだよ」
黒外套の声が少し弾んだ。
「この塔の逃げ道は、二つに分かれてる。一つは安全。でも狭い。二人しか通れない」
マーガレットの顔が険しくなる。
「もう一つは?」
「広い。でも、汚染水が流れてる。大人なら何とか通れるけど、弱ってる子たちは危ない」
アレックスの胸が冷える。
セラ。
ニナ。
子どもたち。
黒外套はまた、選択を突きつける。
「追手はすぐ来る」
黒外套は言う。
「安全な道へ二人だけ逃がす? それとも危険な道をみんなで進む?」
「ふざけるな」
エイナが低く言う。
「ふざけてないよ」
「塔の中に何を仕掛けた」
「さあ?」
「答えろ!」
エイナが踏み込もうとする。
レクスターが制した。
「挑発です」
「分かってる!」
「分かっているなら止まってください」
「……っ」
エイナは歯を食いしばる。
黒外套は楽しげに手を叩いた。
「いいね。みんな少しずつ我慢を覚えてる」
「お前が言うな」
アレックスが言った。
「それで?」
黒外套は首を傾げる。
「君ならどう選ぶ?」
アレックスは答えない。
塔を見る。
入口は黒外套の背後。
中は暗い。
逃げ道があるという言葉を信じていいのか。
罠かもしれない。
いや、罠だろう。
だが、追手は迫っている。
後ろから足音が聞こえ始めている。
松明の光も、遠くの角に揺れた。
時間はない。
安全な道に二人。
危険な道に全員。
選べ。
そう言われている。
だが。
アレックスは、ゆっくり息を吸った。
「選ばない」
黒外套が止まった。
「……何?」
「お前の用意した選択肢からは選ばない」
「でも、道は二つだよ?」
「三つ目を作る」
マーガレットの目が光った。
レクスターが、ほんのわずかに笑った。
エイナが呆れたように息を吐く。
「……出た」
黒外套は黙っていた。
アレックスは続ける。
「安全な道に弱ってる二人を通す」
「それだと他は?」
「危険な道を安全に変える」
「どうやって?」
アレックスはレクスターを見る。
「汚染水を抑えられるか」
「短時間なら」
「マーガレット」
「うん!」
「道を広げられるか」
「壊しすぎないように?」
「うん」
「やる!」
「エイナ」
「分かってる」
エイナは短剣を握り直した。
「追手の足止めと案内」
「頼む」
「頼まれた」
黒外套は、しばらく沈黙した。
そして、ふっと笑った。
「無茶だね」
「そうだな」
「失敗したら?」
「その時考える」
「考える時間なんてないよ」
「なら、考えながら動く」
「いいね」
黒外套の声が、少しだけ低くなる。
「そういうの、好きだよ」
「俺はお前が嫌いだ」
「知ってる」
黒外套は、ゆっくり入口から横へ退いた。
「じゃあ見せて」
その瞬間、後方から怒号が響いた。
「いたぞ!」
「塔の前だ!」
「逃がすな!」
追手が来た。
松明の光が増える。
人数は十を超えている。
欠片武器を持つ者もいる。
レクスターの表情が険しくなる。
「時間がありません」
「行く!」
アレックスが叫ぶ。
黒外套は笑いながら、塔の影へ溶けるように消え始めた。
「またあとで」
「待て!」
マーガレットが叫ぶが、追う余裕はない。
黒外套は最後に、アレックスへ言った。
「三つ目を作れるなら、作ってみなよ。優しい王子様」
青白い光が弾ける。
姿が消える。
残ったのは、塔の暗い入口と、迫る追手。
アレックスはセラを抱え直した。
「塔へ!」
エイナが先頭へ走る。
マーガレットがニナを抱えたまま続く。
レクスターが水の本を開く。
アレックスは最後に入りながら、後方へ雷を一閃させた。
地面を裂くほどではない。
だが、追手の足を止めるには十分な閃光。
「ひるむな!」
「追え!」
怒号が背後に迫る。
塔の中は暗かった。
古い布の匂い。
乾いた埃。
湿った石。
そして、下から上がる汚染水の匂い。
階段は螺旋状に下へ続いていた。
黒外套の言った通り、地下へ降りる道がある。
「急いで!」
エイナが叫ぶ。
「下に分岐があるはず!」
マーガレットがニナに声をかける。
「ちょっと怖いけど大丈夫!」
「……うん……」
ニナは必死に頷く。
セラはアレックスの腕の中で苦しそうに息をする。
「……ニナ……」
「一緒にいる」
アレックスが言う。
「離さない」
地下へ降りる。
一段。
また一段。
鐘の音は遠ざかる。
代わりに、水音が近づく。
やがて、塔の地下に出た。
そこには、確かに二つの道があった。
右は狭い石穴。
大人が屈んでようやく通れるほど。
空気は比較的澄んでいる。
左は広い水路。
しかし、床一面に青白い水が流れている。
汚染水。
黒外套の言葉通りだった。
レクスターがすぐに確認する。
「右は二人ずつなら通れます。ただし時間がかかる」
「左は?」
「汚染濃度が高い。素足で触れれば命令線が絡む可能性があります」
「なら」
アレックスは即断した。
「セラとニナは右」
「誰が付き添う?」
エイナが聞く。
「マーガレット」
アレックスが言う。
「え」
マーガレットが驚く。
「私?」
「ニナを頼む。セラも支えてほしい」
「でも、左の広い道は私が壊すんじゃ」
「それはあとで合流してからでいい」
レクスターが補足する。
「狭い道の出口で合流可能なら、マーガレットが先に弱者を逃がすのは合理的です」
「でも」
マーガレットはアレックスを見る。
「アレックスたちは?」
「左を通る」
「危ないじゃん!」
「レクトが水を抑える。俺が支える。エイナが道を見る」
「でも!」
マーガレットの声が揺れた。
ニナを抱いたまま、彼女は動けずにいる。
アレックスたちを置いていくことが怖いのだ。
「マーガレット」
アレックスは、はっきりと言った。
「頼む」
その言葉に、マーガレットの顔が変わる。
頼む。
守ってほしい。
そう言われた。
彼女は唇を噛む。
行きたい。
残りたい。
両方ある。
でも、ニナが腕の中で震えている。
セラがアレックスの腕の中で苦しんでいる。
自分が守れば、この二人は安全な道を進める。
「……分かった」
マーガレットは頷いた。
「私、二人を連れてく」
「ありがとう」
「でも、絶対あとで合流」
「うん」
「遅かったら、迎えに行く」
「分かった」
「ほんとに行くからね」
「知ってる」
マーガレットはニナを抱え直し、セラを支える準備をする。
アレックスはセラをそっとマーガレットへ預けた。
セラは不安げにアレックスを見る。
「……アレックスさん……」
「先に行って」
「……でも……」
「ニナと一緒に」
ニナがセラへ手を伸ばす。
「セラ姉……」
「ニナ……」
マーガレットは二人を包むように抱えた。
「大丈夫。私がいる」
その言葉に、セラは涙を浮かべながら頷いた。
「……お願いします……」
「任せて」
その瞬間、背後から追手の声が響いた。
「地下だ!」
「降りろ!」
レクスターが水の本を開く。
「時間切れです」
「行け!」
アレックスが叫ぶ。
マーガレットは、セラとニナを抱え、狭い右の石穴へ入った。
身体を低くし、二人を守りながら進む。
「すぐ行く!」
彼女の声が狭い道の奥へ消えていく。
アレックスは左の汚染水路へ向き直った。
レクスターが隣へ立つ。
エイナが短剣を構える。
追手が階段を下りてくる。
「さて」
レクスターが静かに言った。
「無茶な三つ目を作りますか」
アレックスは雷の刃を抜いた。
「ああ」
汚染水が青白く光る。
追手の松明が赤く揺れる。
狭い地下で、二つの色がぶつかる。
アレックスは一歩前へ出た。
「選ぶ側にはならない」
彼は言った。
「選ばされる道を、斬り開く」
雷が、刃の上で静かに鳴った。




