【第37話 逃がすための戦い】
「……誰だ?」
男の声が、狭い裏路地へ響いた。
松明の赤い光が揺れる。
石壁に影が伸びる。
湿った地面に、男たちの靴音が近づいてくる。
距離は、もう遠くない。
エイナの肩がわずかに沈む。
レクスターが水の本へ指をかける。
マーガレットはニナを抱いたまま、ハルバードを握り直した。
アレックスは、セラを抱えたまま動かなかった。
動けなかったわけではない。
考えていた。
ここで戦えばどうなる。
狭い路地。
後ろは暗い細道。
前方には追手。
こちらはセラとニナを抱えている。
レクスターは回復途中。
マーガレットも両手が自由ではない。
長引けば、鐘を聞いた別の連中が集まる。
つまり――。
ここで必要なのは勝利ではない。
突破だ。
「……待って」
男の一人が目を細めた。
「その女……エイナじゃねえか?」
空気が変わった。
エイナが小さく舌打ちする。
「最悪」
「やっぱりだ!」
男が叫びかける。
その瞬間だった。
アレックスが動いた。
雷の刃を抜く。
青白い光が、狭い路地を裂いた。
だが、斬らない。
雷を地面へ落とした。
閃光。
轟音。
男たちの視界が一瞬白く潰れる。
「うわっ!?」
「目が――!」
「走る!」
アレックスが叫ぶ。
エイナが即座に先頭へ飛び出した。
「こっち!」
マーガレットがニナを抱えたまま駆ける。
レクスターが最後尾へ下がり、水糸を放った。
細い水が地面を走り、追手の足へ絡みつく。
「なっ――!」
「転ぶなよ」
レクスターが低く呟いた瞬間、男たちの足元が滑った。
湿った石畳。
雷で散った水。
勢いのまま、二人が転倒する。
松明が地面へ落ちた。
火が散る。
「追え!!」
後方から怒声。
しかし、その間にアレックスたちは細道へ飛び込んでいた。
狭い。
息苦しいほど狭い。
両側の壁が肩に擦れる。
頭上には洗濯紐。
古布が顔へ当たる。
それでも止まれない。
セラが苦しそうに息を呑む。
「ごめん……っ」
「謝るな!」
アレックスは走りながら言った。
「舌噛むぞ!」
後ろで、ニナが小さく震えていた。
マーガレットが必死に支える。
「大丈夫! 落とさないから!」
「……う、うん……!」
ニナの声が震える。
怖いのだ。
暗い。
揺れる。
怒鳴り声が追ってくる。
鐘も鳴っている。
薬房の恐怖が蘇っているのかもしれない。
マーガレットは走りながら、できるだけ声を柔らかくした。
「ニナちゃん、息して」
「……っ」
「吸って、吐いて」
「……ひゅ……っ」
「うん、上手」
マーガレット自身も息が上がっていた。
だが、ニナの恐怖を少しでも抑えたかった。
アレックスは前を走るエイナを見る。
「どこへ!」
「水路脇へ抜ける!」
「行き止まりじゃないのか!」
「途中に崩れた壁がある!」
背後で足音が増えた。
追手はまだ来る。
しかも増えている。
鐘で集まった連中が動き始めているのだ。
グレイル全体が、狩り場になっていく。
「左!」
エイナが急旋回する。
アレックスたちも続く。
その瞬間、前方の窓が開いた。
中から男が顔を出す。
「おい、今の音――」
エイナが即座に短剣を投げた。
男の帽子を掠める。
「ひっ!?」
「見てない!」
エイナが叫ぶ。
「窓閉めて!」
男は真っ青になって窓を閉めた。
マーガレットが目を丸くする。
「脅し方うまい」
「グレイル育ちだから」
「こわ」
「今さら?」
エイナは走りながら笑った。
だが、その目は笑っていない。
緊張で呼吸が浅い。
追われ慣れているからこそ、追われる恐怖も知っている。
「前!」
レクスターの声。
細道の出口に、別の男たちが現れた。
松明。
棍棒。
裏市の腕章。
「いたぞ!!」
挟まれる。
アレックスは瞬時に判断した。
「マーガレット!」
「うん!」
「壁壊せるか!」
マーガレットの目が鋭くなる。
彼女はニナを片腕で抱え直した。
そして、反対の手でハルバードを構える。
「ちょっと揺れるよ!」
「……っ」
「ごめんね!」
次の瞬間。
マーガレットが石壁へハルバードを叩き込んだ。
轟音。
古い壁が砕ける。
粉塵。
石片。
狭い裏路地が一瞬で白く染まった。
「行けぇ!!」
壁の向こうは、崩れた中庭だった。
アレックスがセラを抱えたまま飛び込む。
エイナが続く。
レクスターは最後尾で水流を放ち、崩れた石を追手側へ流した。
「うおっ!?」
「くそ、通れねえ!」
「回れ!」
怒号。
その隙に、アレックスたちは中庭を横切った。
そこは昔、住居だった場所らしい。
今は半壊している。
井戸は枯れ、草が伸び、窓は割れ、壁は崩れていた。
だが、隠れるには都合がいい。
「止まって」
エイナが低く言う。
全員が崩れた壁の陰へ滑り込む。
呼吸を殺す。
追手の声が近づく。
「どこ行った!?」
「こっちだ!」
「いや、向こう!」
混乱している。
マーガレットの破壊が効いた。
進路を読ませなかったのだ。
しかし、完全には撒けていない。
足音はまだ周囲を動いている。
ニナが震えた。
マーガレットが、そっと背を撫でる。
「大丈夫」
「……こわい……」
「うん」
「また……つれていかれる……?」
その言葉に、セラの顔が強張った。
アレックスは静かに答える。
「連れていかせない」
「……ほんと……?」
「うん」
ニナはアレックスを見る。
暗闇の中。
雷の残光がまだ少しだけ瞳に残っている。
その光を見ながら、ニナは小さく頷いた。
「……しんじる……」
その言葉が、アレックスの胸に重く落ちた。
信じる。
その言葉は、希望でもある。
同時に責任でもある。
守れなかった時、その信頼ごと壊れる。
だからこそ、絶対に離したくなかった。
エイナが耳を澄ませていた。
しばらくして、小さく息を吐く。
「……少し離れた」
「完全には?」
「まだ」
レクスターが壁へ背を預ける。
呼吸が浅い。
疲労が見える。
それでも、目は鋭い。
「追跡経路を変えます」
「どこへ」
「水路側ではなく、南西の布乾燥塔」
エイナが眉をひそめた。
「遠回り」
「ですが、鐘楼からの視線を切れる」
「……なるほど」
マーガレットが小声で聞く。
「布乾燥塔って?」
「昔の染物塔です」
レクスターが答える。
「高所で布を乾かすための建物。現在は半分廃墟ですが、内部構造が複雑で、一時的な潜伏に向いています」
「安全?」
「比較的」
「レクスターの“比較的”って怖い」
「グレイルで絶対安全な場所などありません」
「それはそうだけど!」
マーガレットはニナを抱え直した。
ニナが少し震えている。
「重くない?」
マーガレットが聞く。
「……ううん……」
「ほんと?」
「……あったかい……」
マーガレットの顔がまた緩んだ。
「かわいい……」
「声量」
レクスターが即座に言う。
「ごめん!」
そのやり取りを見て、セラがほんの少し笑った。
弱い笑み。
でも、確かに笑った。
アレックスはそれを見逃さなかった。
追われている。
命懸けだ。
それでも、笑える瞬間がある。
その瞬間が、人を壊さずに繋ぎ止めるのかもしれない。
遠くで、また鐘が鳴った。
ごん。
その直後。
別方向から悲鳴が聞こえた。
女の声。
短い。
すぐに消えた。
避難所にいた誰かではない。
知らない誰か。
だが、その一声だけで、全員の顔が強張った。
グレイルの夜が動いている。
裏市が狩りを始めている。
マーガレットが歯を食いしばる。
「……助けたい」
小さな声。
アレックスも同じだった。
胸が軋む。
今すぐ飛び出して確認したい。
でも。
今はセラがいる。
ニナがいる。
レクスターも限界だ。
エイナもいる。
ここで飛び出せば、全員が危険になる。
沈黙。
苦しい沈黙だった。
その沈黙を破ったのは、レクスターだった。
「……聞こえないふりをしろ、とは言いません」
低い声。
「ですが、今は優先順位を崩すべきではない」
アレックスは目を閉じる。
数秒。
そして、頷いた。
「……分かってる」
マーガレットも唇を噛みながら頷いた。
「うん……」
エイナは、その二人を見た。
少しだけ目を細める。
「苦しい?」
「苦しい」
アレックスは正直に答えた。
「でも、守る」
「……そう」
エイナは、小さく息を吐いた。
「やっぱり、変だね。あなたたち」
「褒めてる?」
マーガレットが聞く。
「半分」
「もう半分は?」
「見てて痛い」
その言葉に、アレックスは少し苦笑した。
痛い。
たぶん、本当にそうなのだろう。
全部を助けたいと思うのは、綺麗事だ。
でも、綺麗事を捨てきれないから、こうして走っている。
「移動します」
レクスターが言った。
「追手が再編する前に」
エイナが先に立つ。
「次は音を立てない。布乾燥塔までは一本道が多い。見つかったら面倒」
「了解」
再び動き出す。
崩れた中庭を抜け、古井戸の脇を通り、狭い石階段を下りる。
途中、何度も足音が聞こえた。
松明の光が壁を掠めた。
怒号が遠くを走った。
だが、そのたびにエイナが道を変えた。
裏道。
抜け穴。
半壊した建物。
人一人しか通れない隙間。
グレイルの裏側を縫うように進む。
やがて。
古い塔が見えてきた。
細長い石造りの建物。
上部には朽ちた木枠。
風に揺れる古布。
布乾燥塔。
夜空へ細く伸びるその塔は、まるで町の傷跡のようだった。
「着いた……」
マーガレットが小さく息を吐く。
だが、その瞬間。
塔の入口近くで、誰かが動いた。
黒い影。
松明ではない。
静かな立ち方。
こちらを待っていたように。
アレックスの目が細くなる。
影が、ゆっくり顔を上げた。
黒外套。
また。
彼は塔の入口にもたれ、軽く手を振った。
「こんばんは」
その声に、ニナが小さく震える。
マーガレットが抱く腕に力を込めた。
レクスターが鋭く目を細める。
エイナは即座に短剣を抜いた。
黒外套は、楽しそうに笑う。
「ちゃんと来たね」
鐘の音が、遠くでまた鳴った。
ごん。
その音に合わせるように、黒外套の笑みが深くなる。
「じゃあ次は、“選ぶ側”の話をしようか」




