表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/101

【第36話 灯りを移す夜】



 鐘の音が、グレイルの夜を叩いていた。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


 間隔は一定ではない。


 ひとつ鳴るたびに、町のどこかで灯りが増えた。


 北側の鐘楼から始まった赤い光は、まるで血が血管を流れるように、路地、倉庫、見張り台、酒場の裏口、閉じた商館の窓へと広がっていく。


 夜が起きる。


 裏市が起きる。


 グレイルの表に住む人々は、戸を閉ざし、窓の隙間から外を見ないようにしているのだろう。


 だが、裏側に生きる者たちは違う。


 鐘に従い、灯りを上げ、合図を返す。


 誰かを探すために。


 誰かを捕らえるために。


 あるいは、誰かを差し出すために。


 避難所の中では、小さな灯りが揺れていた。


 油皿に灯された火は弱い。


 それでも、その小さな明かりを囲むように、人々が動き始めていた。


 老女の一声で、避難所は静かな混乱に包まれた。


「荷物は最小限だよ。毛布は一人一枚。水は持てる分だけ。足の悪い者を先に。子どもは泣かせるんじゃない、抱いてやりな」


 老女の声は小さいが、よく通った。


 長くこの町の暗がりで人を逃がしてきた者の声だった。


 命令に慣れている。


 恐怖に飲まれている者へ、何をすればいいかを渡すことに慣れている。


 避難所の人々は、震えながらも動いた。


 毛布をたたむ者。


 水袋を探す者。


 眠りかけていた子どもを抱き上げる者。


 怪我人の足に布を巻く者。


 誰も大声は出さない。


 泣き出しそうな子どもの口元に、母親がそっと手を添える。


 けれど、完全な沈黙ではなかった。


 荒い息。


 衣擦れ。


 木箱を動かす音。


 震える祈り。


 そうした小さな音が重なり、避難所全体が怯えた生き物のように動いていた。


 マーガレットは入口近くに立っていた。


 大地のハルバードを手に、外の気配を探る。


 いつもなら、彼女はすぐ前に出る。


 敵がいるなら殴る。


 壁があるなら壊す。


 道がないなら作る。


 だが、今は違う。


 この避難所にいる人々の呼吸を背中に感じながら、彼女はただ立っていた。


 出ていかない。


 騒がない。


 大地を割らない。


 入口を守る。


 それだけを、全身でやっていた。


 その横に、アレックスが立つ。


 雷の刃は鞘の中。


 だが、右手はいつでも抜ける位置にある。


「外は」


 アレックスが小声で聞く。


「足音、増えてる」


 マーガレットは声を落とした。


「まだ近くはないけど、鐘が鳴ってから、空気変わった」


「うん」


「なんか、町全体がこっち見てるみたい」


「分かる」


 アレックスも感じていた。


 見られている。


 直接ではない。


 視線というより、網だ。


 鐘の音で広がった見えない網が、町全体を覆い、逃げる者を絡め取ろうとしている。


 この避難所も、まだ見つかっていないだけだ。


 安全ではない。


 今この瞬間にも、裏市の誰かが聞き込みをしているかもしれない。


 エイナの名を出しているかもしれない。


 セラとニナを探しているかもしれない。


「アレックス」


 マーガレットが言った。


「うん」


「私、ちゃんと守れてるかな」


 その問いは、いつもの彼女らしくなかった。


 いつものマーガレットなら、任せて、絶対守る、と言い切る。


 だが今の彼女は、守るものが多すぎることを知っている。


 守るという言葉の重さを知っている。


 だから、不安になっていた。


 アレックスは、少しだけ彼女を見た。


「守れてる」


「ほんと?」


「うん」


「でも、薬房では勝手に行ったし」


「助かった」


「レクスターには怒られる」


「怒られるな」


「やっぱり」


 マーガレットは困ったように笑った。


「でも、来てよかった?」


「よかった」


 アレックスは迷わず答えた。


「マーガレットが来たから、セラを外せた。子どもたちも守れた。レクトも助かった」


「……そっか」


「うん」


「じゃあ、怒られてもいいや」


「いいのか」


「いや、よくないけど」


 彼女はハルバードを握り直した。


「でも、必要だったならいい」


 その横顔を見て、アレックスは思った。


 マーガレットも変わっている。


 ただ前へ出るだけではない。


 ただ殴るだけではない。


 自分の行動が誰を守り、誰に負担をかけたのかを考えている。


 天真爛漫なまま。


 脳筋なまま。


 でも、確かに強くなっている。


「マーガレット」


「なに?」


「頼りにしてる」


 彼女は、一瞬だけ目を丸くした。


 そして、頬を少し赤くする。


「……そういうの、今言う?」


「今言いたかった」


「ずるいなぁ」


「ずるい?」


「うん。頑張るしかなくなる」


「じゃあ、言ってよかった」


「ほんとずるい」


 マーガレットは、でも嬉しそうに笑った。


 その笑顔が、一瞬だけ避難所の空気を柔らかくする。


 だが、すぐに奥からレクスターの声がした。


「二人とも、話し込む余裕はありません」


 振り返ると、レクスターが椅子から立ち上がっていた。


 顔色はまだ悪い。


 三十分休むはずが、鐘で中断された。


 それでも、少しだけ呼吸は整っている。


 眼鏡をかけ直し、水の本を片手に持っていた。


 マーガレットがすぐに眉を寄せる。


「レクスター、まだ休んでない」


「鐘が鳴りました」


「でも」


「状況が変わりました」


「でも!」


「マーガレット」


 レクスターの声が、少し柔らかくなる。


「休むために動きます」


「……?」


「ここに留まれば休むこともできません。安全な場所へ移動してから、改めて休みます」


「ほんと?」


「本当です」


「約束?」


「……約束です」


 マーガレットの目が大きくなる。


 レクスターが、自分から約束と言った。


 それだけで、彼女は少し安心したように頷いた。


「なら、信じる」


「ありがとうございます」


「うん!」


 レクスターはアレックスへ視線を向けた。


「状況を整理します」


「うん」


「北鐘楼の鐘により、裏市関係者が招集されています。現時点でこの避難所が発見されたわけではありませんが、エイナの名と薬房襲撃の情報から、候補地は絞られるでしょう」


「どれくらい時間がある」


「短ければ半刻以内」


「短いね」


 マーガレットが顔をしかめる。


「長くても夜明け前には危険」


 レクスターは続ける。


「避難者を三手に分けます。一つは老女と怪我人、子ども中心。二つ目は動ける大人。三つ目は私たちとセラ、ニナ、エイナ」


「セラとニナは一緒?」


 マーガレットが確認する。


「はい。離すと精神的な負担が大きい」


「よかった」


「ただし、負担を考えるなら本来は動かしたくありません」


「でもここにいられない」


「その通りです」


 老女が近づいてきた。


 手には古い鍵束。


 腰には小さな袋。


 年老いた身体だが、動きは迷いがない。


「一手目は私が連れていく」


「行けるんですか」


 アレックスが問う。


 老女は鋭い目で彼を見る。


「若いの。年寄りを舐めるんじゃないよ」


「すみません」


「謝るのも早いね」


「よく言われます」


「だろうね」


 老女は鍵束をエイナへ投げた。


 エイナが受け取る。


「二番倉庫、古布置き場、裏井戸の鍵。あんたは三手目だろう。なら、二手目はロイに任せる」


 壁際にいた怪我をした若い男が顔を上げた。


「俺ですか」


「足は?」


「歩けます」


「なら行けるね」


「でも、俺は」


「怖いかい」


 ロイと呼ばれた青年は黙った。


 老女は少しだけ声を落とした。


「怖くない奴なんて、ここにはいないよ」


「……」


「怖くても、誰かの手を引けるなら引きな」


 ロイは唇を噛み、ゆっくり頷いた。


「……やります」


「よし」


 避難所の人々が、彼を見た。


 不安。


 期待。


 恐怖。


 それらの視線が集まる。


 ロイは震えていたが、逃げなかった。


 アレックスはその姿を見て、トマを思い出した。


 怖いと言いながら、ミナを守った少年。


 守る者は、いつも強いから立つわけではない。


 怖くても、そこにいる誰かを置いていけないから立つ。


 それだけなのだ。


「ロイさん」


 アレックスが声をかける。


 ロイが驚いたように見る。


「お願いします」


「……あんたに言われると、断れないな」


「無理はしないでください」


「今の状況で?」


「できる範囲で」


 ロイは少しだけ笑った。


「分かった。できる範囲で、死なないように頑張る」


「それで十分です」


 レクスターが地図の代わりに、木箱の上へ簡単な線を引いた。


 古布置き場。


 裏井戸。


 二番倉庫。


 北鐘楼。


 避難所。


 追手の想定経路。


 水路。


 赤布の路地。


 彼は短時間で動線を組み立てていく。


「鐘が鳴ってから、裏市は北側から南側へ網を張るはずです。つまり、今すぐ北へ向かうのは危険」


「でも北鐘楼は北だよね」


 マーガレットが言う。


「はい。だから避難者は東と南へ逃がします。私たちは西を回り、鐘楼へ向かう経路を後で探る」


「今すぐ鐘楼へは行かない?」


「行けば避難者を置いていくことになります」


 レクスターの言葉に、アレックスは頷いた。


「まず灯りを移す」


「はい」


「その後、鐘楼」


「その順です」


 エイナが腕を組む。


「でも、鐘楼の招集が終わったら、バルザックは動く。帳簿を移すかもしれない」


「可能性はあります」


「遅れると証拠を消される」


「早まると人を失う」


 レクスターは冷静に言った。


「選択の問題です」


 アレックスは目を伏せた。


 選択。


 この言葉が、グレイルへ来てから何度も重くなる。


 リゼットを追うか、セラを運ぶか。


 ニナを迎えに行くか、汚染兵を残るか。


 鐘楼へ行くか、避難者を逃がすか。


 全部は選べない。


 全部を一度に救えない。


 でも、ひとつずつ選ぶ。


 その選択の積み重ねで、少しずつ届かない場所へ近づくしかない。


「避難者を逃がす」


 アレックスは言った。


「帳簿はそのあと」


「同意します」


 レクスターが答える。


「私も」


 マーガレットが頷く。


「人が先」


 エイナも小さく息を吐いた。


「分かってた。あなたたちはそう言う」


「嫌か?」


 アレックスが問う。


「嫌じゃない」


 エイナは、避難所の中を見る。


「むしろ、そう言ってほしかったのかも」


 その言葉は小さかった。


 けれど、アレックスには届いた。


 エイナは、できる範囲で人を逃がしてきた。


 でも、いつも何かを諦めなければならなかった。


 証拠よりも命。


 復讐よりも命。


 今も、その選択をした。


 彼女は自分一人では選びきれなかったのかもしれない。


 だが、今は一緒に選ぶ者がいる。


「よし」


 老女が手を叩いた。


 小さな音。


 だが、それで避難所の全員が顔を上げた。


「一手目、私についてきな。足の遅い者を真ん中へ。子どもは抱け。声を出すんじゃないよ」


 ロイが立ち上がる。


「二手目は俺が」


「南の古布置き場だ。途中の角で二度止まれ。赤布の路地へは入るな」


「分かりました」


 エイナはセラとニナの元へ向かった。


「二人とも、動ける?」


 セラは起き上がろうとしたが、すぐに顔を歪めた。


 アレックスが支える。


「無理しない」


「でも……」


「俺が運ぶ」


 ニナがセラにしがみつく。


「セラ姉……」


「ニナは私が」


 マーガレットが言った。


 ニナが振り返る。


「……まーが……」


「うん。私が抱っこする。怖かったら、ぎゅってしていいよ」


 ニナは少しだけ迷い、やがて小さく頷いた。


「……うん……」


 マーガレットは、そっとニナを抱き上げた。


 力強い腕。


 でも、優しい抱え方。


「大丈夫」


 マーガレットが言う。


「絶対落とさない」


「……うん……」


 その横で、アレックスがセラを抱き上げる。


 セラは申し訳なさそうに目を伏せた。


「……重く……」


「命は重い」


 アレックスが言う。


「だから落とさない」


 セラは、泣きそうな顔で頷いた。


 レクスターは水の本を閉じ、外套の内側へしまう。


 まだ疲れている。


 だが、歩ける状態には戻っている。


 マーガレットがじっと見る。


「レクスター」


「何ですか」


「ふらついたらすぐ言って」


「分かりました」


「ほんと?」


「約束しましたから」


「よし」


 その言葉に、マーガレットは少し安心した。


 アレックスも、ほんの少しだけ笑う。


 レクスターが自分の限界を認め、約束を守ろうとしている。


 それだけでも大きい。


 外で、また鐘が鳴った。


 ごん。


 避難所の人々が一斉に肩を震わせる。


 老女がすぐに言う。


「大丈夫だよ。鐘は人を殺さない。殺すのは、鐘を聞いて動く連中だ」


 その言葉が、妙に現実的で、逆に人々を少し落ち着かせた。


「だから、連中より先に動く」


 老女は扉の前へ立つ。


「灯りを消しな」


 小さな油皿の火が、一つずつ消される。


 避難所の中が暗くなる。


 最後の灯りが消える時、ニナが小さく息を呑んだ。


 マーガレットが彼女を抱く腕に力を込める。


「大丈夫。暗いだけ」


「……くらいの……こわい……」


「うん。怖いよね」


 マーガレットは声を柔らかくした。


「でも、私がいる」


「……うん……」


「セラちゃんもいる」


「……うん……」


「アレックスも、レクスターも、エイナもいる」


「……うん……」


「だから、一緒に行こう」


 ニナは、マーガレットの服を握りしめた。


 暗闇の中で、誰かが息を殺す。


 老女が扉を細く開けた。


 外の夜が流れ込む。


 冷たい風。


 遠い鐘。


 赤い灯り。


 グレイルの闇。


「行くよ」


 老女が低く言った。


 一手目が先に出る。


 老人。


 子ども。


 怪我人。


 老女に導かれ、裏路地へ消えていく。


 足音は小さい。


 だが、確かにある。


 次に、ロイ率いる二手目。


 動ける大人たちが、荷物を背負い、互いに支え合いながら出ていく。


 ロイは出る前にアレックスを見た。


「……じゃあ」


「気をつけて」


「そっちも」


「はい」


 ロイは頷き、暗闇へ消えた。


 最後に、アレックスたち。


 アレックスがセラを抱き、マーガレットがニナを抱き、エイナが先導し、レクスターが後ろを見る。


 避難所は空になっていく。


 さっきまで泣き声と小さな灯りがあった場所。


 そこが、ただの暗い倉庫に戻っていく。


 アレックスは一度だけ振り返った。


 灯りを守るというのは、場所を守ることではない。


 灯りを抱えて、移し続けることなのだ。


「行こう」


 アレックスが言う。


 四人は外へ出た。


 倉庫街の裏道は暗い。


 しかし、遠くの北鐘楼だけは赤く光っていた。


 鐘はまだ鳴っている。


 町中の闇を呼び起こすように。


 エイナが先に進む。


「西へ抜ける。二手目と合流しない。追手を分散させる」


「了解」


 アレックスが答える。


 マーガレットはニナを抱えたまま、小さく言う。


「ニナちゃん、揺れるかも」


「……大丈夫……」


「怖かったら言ってね」


「……うん……」


 セラもアレックスの腕の中で、弱く妹を見る。


「ニナ……」


「セラ姉……」


「大丈夫……?」


「うん……まーが、あったかい……」


 マーガレットの顔が一瞬で緩んだ。


「かわいい……」


「声」


 レクスターが小声で注意する。


「ごめん」


 それでも、少しだけ空気が柔らかくなる。


 その直後だった。


 前方の路地の角に、赤い光が揺れた。


 エイナが即座に手を上げる。


 全員が止まる。


 足音。


 複数。


 松明。


 裏市の追手だ。


 まだ距離はある。


 だが、こちらの進路上。


 エイナが舌打ちする。


「早い」


「回避は?」


 レクスターが問う。


「右は赤布路地。左は行き止まり」


「戻る?」


 マーガレットが聞く。


「後ろも来る可能性が高い」


 アレックスはセラを抱えたまま、前方の光を見た。


 人数は五人。


 いや、その奥にも影がある。


 逃げ道は狭い。


 戦うには、人を抱えている。


 しかし、止まれば見つかる。


 鐘の音が、遠くでまた鳴った。


 ごん。


 その音に合わせるように、前方の男の一人がこちらを向いた。


「……誰だ?」


 空気が凍る。


 マーガレットがニナを抱きしめる。


 レクスターが水の本に手を伸ばす。


 エイナが短剣を抜く。


 アレックスは、セラを抱えたまま、静かに雷の刃へ指をかけた。


 灯りを移す夜は、まだ終わらない。


 そして、最初の追手が、ついに彼らの前に立ちはだかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ