【第36話 灯りを移す夜】
鐘の音が、グレイルの夜を叩いていた。
ごん。
ごん。
ごん。
間隔は一定ではない。
ひとつ鳴るたびに、町のどこかで灯りが増えた。
北側の鐘楼から始まった赤い光は、まるで血が血管を流れるように、路地、倉庫、見張り台、酒場の裏口、閉じた商館の窓へと広がっていく。
夜が起きる。
裏市が起きる。
グレイルの表に住む人々は、戸を閉ざし、窓の隙間から外を見ないようにしているのだろう。
だが、裏側に生きる者たちは違う。
鐘に従い、灯りを上げ、合図を返す。
誰かを探すために。
誰かを捕らえるために。
あるいは、誰かを差し出すために。
避難所の中では、小さな灯りが揺れていた。
油皿に灯された火は弱い。
それでも、その小さな明かりを囲むように、人々が動き始めていた。
老女の一声で、避難所は静かな混乱に包まれた。
「荷物は最小限だよ。毛布は一人一枚。水は持てる分だけ。足の悪い者を先に。子どもは泣かせるんじゃない、抱いてやりな」
老女の声は小さいが、よく通った。
長くこの町の暗がりで人を逃がしてきた者の声だった。
命令に慣れている。
恐怖に飲まれている者へ、何をすればいいかを渡すことに慣れている。
避難所の人々は、震えながらも動いた。
毛布をたたむ者。
水袋を探す者。
眠りかけていた子どもを抱き上げる者。
怪我人の足に布を巻く者。
誰も大声は出さない。
泣き出しそうな子どもの口元に、母親がそっと手を添える。
けれど、完全な沈黙ではなかった。
荒い息。
衣擦れ。
木箱を動かす音。
震える祈り。
そうした小さな音が重なり、避難所全体が怯えた生き物のように動いていた。
マーガレットは入口近くに立っていた。
大地のハルバードを手に、外の気配を探る。
いつもなら、彼女はすぐ前に出る。
敵がいるなら殴る。
壁があるなら壊す。
道がないなら作る。
だが、今は違う。
この避難所にいる人々の呼吸を背中に感じながら、彼女はただ立っていた。
出ていかない。
騒がない。
大地を割らない。
入口を守る。
それだけを、全身でやっていた。
その横に、アレックスが立つ。
雷の刃は鞘の中。
だが、右手はいつでも抜ける位置にある。
「外は」
アレックスが小声で聞く。
「足音、増えてる」
マーガレットは声を落とした。
「まだ近くはないけど、鐘が鳴ってから、空気変わった」
「うん」
「なんか、町全体がこっち見てるみたい」
「分かる」
アレックスも感じていた。
見られている。
直接ではない。
視線というより、網だ。
鐘の音で広がった見えない網が、町全体を覆い、逃げる者を絡め取ろうとしている。
この避難所も、まだ見つかっていないだけだ。
安全ではない。
今この瞬間にも、裏市の誰かが聞き込みをしているかもしれない。
エイナの名を出しているかもしれない。
セラとニナを探しているかもしれない。
「アレックス」
マーガレットが言った。
「うん」
「私、ちゃんと守れてるかな」
その問いは、いつもの彼女らしくなかった。
いつものマーガレットなら、任せて、絶対守る、と言い切る。
だが今の彼女は、守るものが多すぎることを知っている。
守るという言葉の重さを知っている。
だから、不安になっていた。
アレックスは、少しだけ彼女を見た。
「守れてる」
「ほんと?」
「うん」
「でも、薬房では勝手に行ったし」
「助かった」
「レクスターには怒られる」
「怒られるな」
「やっぱり」
マーガレットは困ったように笑った。
「でも、来てよかった?」
「よかった」
アレックスは迷わず答えた。
「マーガレットが来たから、セラを外せた。子どもたちも守れた。レクトも助かった」
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、怒られてもいいや」
「いいのか」
「いや、よくないけど」
彼女はハルバードを握り直した。
「でも、必要だったならいい」
その横顔を見て、アレックスは思った。
マーガレットも変わっている。
ただ前へ出るだけではない。
ただ殴るだけではない。
自分の行動が誰を守り、誰に負担をかけたのかを考えている。
天真爛漫なまま。
脳筋なまま。
でも、確かに強くなっている。
「マーガレット」
「なに?」
「頼りにしてる」
彼女は、一瞬だけ目を丸くした。
そして、頬を少し赤くする。
「……そういうの、今言う?」
「今言いたかった」
「ずるいなぁ」
「ずるい?」
「うん。頑張るしかなくなる」
「じゃあ、言ってよかった」
「ほんとずるい」
マーガレットは、でも嬉しそうに笑った。
その笑顔が、一瞬だけ避難所の空気を柔らかくする。
だが、すぐに奥からレクスターの声がした。
「二人とも、話し込む余裕はありません」
振り返ると、レクスターが椅子から立ち上がっていた。
顔色はまだ悪い。
三十分休むはずが、鐘で中断された。
それでも、少しだけ呼吸は整っている。
眼鏡をかけ直し、水の本を片手に持っていた。
マーガレットがすぐに眉を寄せる。
「レクスター、まだ休んでない」
「鐘が鳴りました」
「でも」
「状況が変わりました」
「でも!」
「マーガレット」
レクスターの声が、少し柔らかくなる。
「休むために動きます」
「……?」
「ここに留まれば休むこともできません。安全な場所へ移動してから、改めて休みます」
「ほんと?」
「本当です」
「約束?」
「……約束です」
マーガレットの目が大きくなる。
レクスターが、自分から約束と言った。
それだけで、彼女は少し安心したように頷いた。
「なら、信じる」
「ありがとうございます」
「うん!」
レクスターはアレックスへ視線を向けた。
「状況を整理します」
「うん」
「北鐘楼の鐘により、裏市関係者が招集されています。現時点でこの避難所が発見されたわけではありませんが、エイナの名と薬房襲撃の情報から、候補地は絞られるでしょう」
「どれくらい時間がある」
「短ければ半刻以内」
「短いね」
マーガレットが顔をしかめる。
「長くても夜明け前には危険」
レクスターは続ける。
「避難者を三手に分けます。一つは老女と怪我人、子ども中心。二つ目は動ける大人。三つ目は私たちとセラ、ニナ、エイナ」
「セラとニナは一緒?」
マーガレットが確認する。
「はい。離すと精神的な負担が大きい」
「よかった」
「ただし、負担を考えるなら本来は動かしたくありません」
「でもここにいられない」
「その通りです」
老女が近づいてきた。
手には古い鍵束。
腰には小さな袋。
年老いた身体だが、動きは迷いがない。
「一手目は私が連れていく」
「行けるんですか」
アレックスが問う。
老女は鋭い目で彼を見る。
「若いの。年寄りを舐めるんじゃないよ」
「すみません」
「謝るのも早いね」
「よく言われます」
「だろうね」
老女は鍵束をエイナへ投げた。
エイナが受け取る。
「二番倉庫、古布置き場、裏井戸の鍵。あんたは三手目だろう。なら、二手目はロイに任せる」
壁際にいた怪我をした若い男が顔を上げた。
「俺ですか」
「足は?」
「歩けます」
「なら行けるね」
「でも、俺は」
「怖いかい」
ロイと呼ばれた青年は黙った。
老女は少しだけ声を落とした。
「怖くない奴なんて、ここにはいないよ」
「……」
「怖くても、誰かの手を引けるなら引きな」
ロイは唇を噛み、ゆっくり頷いた。
「……やります」
「よし」
避難所の人々が、彼を見た。
不安。
期待。
恐怖。
それらの視線が集まる。
ロイは震えていたが、逃げなかった。
アレックスはその姿を見て、トマを思い出した。
怖いと言いながら、ミナを守った少年。
守る者は、いつも強いから立つわけではない。
怖くても、そこにいる誰かを置いていけないから立つ。
それだけなのだ。
「ロイさん」
アレックスが声をかける。
ロイが驚いたように見る。
「お願いします」
「……あんたに言われると、断れないな」
「無理はしないでください」
「今の状況で?」
「できる範囲で」
ロイは少しだけ笑った。
「分かった。できる範囲で、死なないように頑張る」
「それで十分です」
レクスターが地図の代わりに、木箱の上へ簡単な線を引いた。
古布置き場。
裏井戸。
二番倉庫。
北鐘楼。
避難所。
追手の想定経路。
水路。
赤布の路地。
彼は短時間で動線を組み立てていく。
「鐘が鳴ってから、裏市は北側から南側へ網を張るはずです。つまり、今すぐ北へ向かうのは危険」
「でも北鐘楼は北だよね」
マーガレットが言う。
「はい。だから避難者は東と南へ逃がします。私たちは西を回り、鐘楼へ向かう経路を後で探る」
「今すぐ鐘楼へは行かない?」
「行けば避難者を置いていくことになります」
レクスターの言葉に、アレックスは頷いた。
「まず灯りを移す」
「はい」
「その後、鐘楼」
「その順です」
エイナが腕を組む。
「でも、鐘楼の招集が終わったら、バルザックは動く。帳簿を移すかもしれない」
「可能性はあります」
「遅れると証拠を消される」
「早まると人を失う」
レクスターは冷静に言った。
「選択の問題です」
アレックスは目を伏せた。
選択。
この言葉が、グレイルへ来てから何度も重くなる。
リゼットを追うか、セラを運ぶか。
ニナを迎えに行くか、汚染兵を残るか。
鐘楼へ行くか、避難者を逃がすか。
全部は選べない。
全部を一度に救えない。
でも、ひとつずつ選ぶ。
その選択の積み重ねで、少しずつ届かない場所へ近づくしかない。
「避難者を逃がす」
アレックスは言った。
「帳簿はそのあと」
「同意します」
レクスターが答える。
「私も」
マーガレットが頷く。
「人が先」
エイナも小さく息を吐いた。
「分かってた。あなたたちはそう言う」
「嫌か?」
アレックスが問う。
「嫌じゃない」
エイナは、避難所の中を見る。
「むしろ、そう言ってほしかったのかも」
その言葉は小さかった。
けれど、アレックスには届いた。
エイナは、できる範囲で人を逃がしてきた。
でも、いつも何かを諦めなければならなかった。
証拠よりも命。
復讐よりも命。
今も、その選択をした。
彼女は自分一人では選びきれなかったのかもしれない。
だが、今は一緒に選ぶ者がいる。
「よし」
老女が手を叩いた。
小さな音。
だが、それで避難所の全員が顔を上げた。
「一手目、私についてきな。足の遅い者を真ん中へ。子どもは抱け。声を出すんじゃないよ」
ロイが立ち上がる。
「二手目は俺が」
「南の古布置き場だ。途中の角で二度止まれ。赤布の路地へは入るな」
「分かりました」
エイナはセラとニナの元へ向かった。
「二人とも、動ける?」
セラは起き上がろうとしたが、すぐに顔を歪めた。
アレックスが支える。
「無理しない」
「でも……」
「俺が運ぶ」
ニナがセラにしがみつく。
「セラ姉……」
「ニナは私が」
マーガレットが言った。
ニナが振り返る。
「……まーが……」
「うん。私が抱っこする。怖かったら、ぎゅってしていいよ」
ニナは少しだけ迷い、やがて小さく頷いた。
「……うん……」
マーガレットは、そっとニナを抱き上げた。
力強い腕。
でも、優しい抱え方。
「大丈夫」
マーガレットが言う。
「絶対落とさない」
「……うん……」
その横で、アレックスがセラを抱き上げる。
セラは申し訳なさそうに目を伏せた。
「……重く……」
「命は重い」
アレックスが言う。
「だから落とさない」
セラは、泣きそうな顔で頷いた。
レクスターは水の本を閉じ、外套の内側へしまう。
まだ疲れている。
だが、歩ける状態には戻っている。
マーガレットがじっと見る。
「レクスター」
「何ですか」
「ふらついたらすぐ言って」
「分かりました」
「ほんと?」
「約束しましたから」
「よし」
その言葉に、マーガレットは少し安心した。
アレックスも、ほんの少しだけ笑う。
レクスターが自分の限界を認め、約束を守ろうとしている。
それだけでも大きい。
外で、また鐘が鳴った。
ごん。
避難所の人々が一斉に肩を震わせる。
老女がすぐに言う。
「大丈夫だよ。鐘は人を殺さない。殺すのは、鐘を聞いて動く連中だ」
その言葉が、妙に現実的で、逆に人々を少し落ち着かせた。
「だから、連中より先に動く」
老女は扉の前へ立つ。
「灯りを消しな」
小さな油皿の火が、一つずつ消される。
避難所の中が暗くなる。
最後の灯りが消える時、ニナが小さく息を呑んだ。
マーガレットが彼女を抱く腕に力を込める。
「大丈夫。暗いだけ」
「……くらいの……こわい……」
「うん。怖いよね」
マーガレットは声を柔らかくした。
「でも、私がいる」
「……うん……」
「セラちゃんもいる」
「……うん……」
「アレックスも、レクスターも、エイナもいる」
「……うん……」
「だから、一緒に行こう」
ニナは、マーガレットの服を握りしめた。
暗闇の中で、誰かが息を殺す。
老女が扉を細く開けた。
外の夜が流れ込む。
冷たい風。
遠い鐘。
赤い灯り。
グレイルの闇。
「行くよ」
老女が低く言った。
一手目が先に出る。
老人。
子ども。
怪我人。
老女に導かれ、裏路地へ消えていく。
足音は小さい。
だが、確かにある。
次に、ロイ率いる二手目。
動ける大人たちが、荷物を背負い、互いに支え合いながら出ていく。
ロイは出る前にアレックスを見た。
「……じゃあ」
「気をつけて」
「そっちも」
「はい」
ロイは頷き、暗闇へ消えた。
最後に、アレックスたち。
アレックスがセラを抱き、マーガレットがニナを抱き、エイナが先導し、レクスターが後ろを見る。
避難所は空になっていく。
さっきまで泣き声と小さな灯りがあった場所。
そこが、ただの暗い倉庫に戻っていく。
アレックスは一度だけ振り返った。
灯りを守るというのは、場所を守ることではない。
灯りを抱えて、移し続けることなのだ。
「行こう」
アレックスが言う。
四人は外へ出た。
倉庫街の裏道は暗い。
しかし、遠くの北鐘楼だけは赤く光っていた。
鐘はまだ鳴っている。
町中の闇を呼び起こすように。
エイナが先に進む。
「西へ抜ける。二手目と合流しない。追手を分散させる」
「了解」
アレックスが答える。
マーガレットはニナを抱えたまま、小さく言う。
「ニナちゃん、揺れるかも」
「……大丈夫……」
「怖かったら言ってね」
「……うん……」
セラもアレックスの腕の中で、弱く妹を見る。
「ニナ……」
「セラ姉……」
「大丈夫……?」
「うん……まーが、あったかい……」
マーガレットの顔が一瞬で緩んだ。
「かわいい……」
「声」
レクスターが小声で注意する。
「ごめん」
それでも、少しだけ空気が柔らかくなる。
その直後だった。
前方の路地の角に、赤い光が揺れた。
エイナが即座に手を上げる。
全員が止まる。
足音。
複数。
松明。
裏市の追手だ。
まだ距離はある。
だが、こちらの進路上。
エイナが舌打ちする。
「早い」
「回避は?」
レクスターが問う。
「右は赤布路地。左は行き止まり」
「戻る?」
マーガレットが聞く。
「後ろも来る可能性が高い」
アレックスはセラを抱えたまま、前方の光を見た。
人数は五人。
いや、その奥にも影がある。
逃げ道は狭い。
戦うには、人を抱えている。
しかし、止まれば見つかる。
鐘の音が、遠くでまた鳴った。
ごん。
その音に合わせるように、前方の男の一人がこちらを向いた。
「……誰だ?」
空気が凍る。
マーガレットがニナを抱きしめる。
レクスターが水の本に手を伸ばす。
エイナが短剣を抜く。
アレックスは、セラを抱えたまま、静かに雷の刃へ指をかけた。
灯りを移す夜は、まだ終わらない。
そして、最初の追手が、ついに彼らの前に立ちはだかった。




