【第34話 待っていた名前】
夜のグレイルは、静かすぎた。
さっきまで鳴っていた警報の鐘は、もう聞こえない。
裏市の追手たちの怒号も、遠くへ沈んでいる。
路地には松明の赤い光も少ない。
ただ、暗い。
ただ、冷たい。
ただ、どこかで誰かが息を潜めている気配だけがある。
アレックスは、エイナの後を追って倉庫街の裏道を進んでいた。
足音を殺す。
外套の端が壁に擦れないようにする。
雷の刃には手を触れない。
抜けば、すぐに気配が変わる。
今は戦うためではない。
ニナを迎えに行くためだ。
ただ、それだけのために進む。
だが、その“ただそれだけ”が、この町ではひどく難しい。
「止まって」
エイナが短く言った。
アレックスは壁際に身を寄せる。
前方の路地を、二人の男が横切った。
革鎧。
短剣。
片方は腕に青白い石片を巻きつけている。
欠片武器ではない。
だが、欠片の護符のようなものだ。
男たちは小声で話していた。
「洗い場にはいなかった」
「薬房から出た連中だぞ。怪我人抱えて遠くへ行けるわけがねえ」
「エイナが絡んでる。隠れ場所は一つじゃねえ」
「あの女、今度こそ捕まるな」
「捕まればリゼット様が喜ぶ」
エイナの肩が、わずかに揺れた。
怒りか。
恐怖か。
あるいは、その両方か。
アレックスは彼女を見る。
エイナは何も言わない。
ただ、男たちが通り過ぎるまで息を殺していた。
やがて、足音が遠ざかる。
エイナはゆっくり息を吐いた。
「……行こう」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど、止まれない」
その答えは、ひどく正直だった。
アレックスは頷く。
「分かった」
「聞かないんだ」
「話したくなったら聞く」
エイナは少しだけ振り返った。
暗がりの中、その目がほんのわずかに揺れる。
「そういうところ、ほんとずるいね」
「また言われた」
「言われるでしょ」
「よく言われる」
「だろうね」
エイナは小さく笑い、また前を向いた。
裏道はさらに細くなった。
倉庫の壁と壁の間を抜け、古い井戸の跡を回り、半分崩れた石塀の下をくぐる。
グレイルの町は、表の通りより裏の方がずっと複雑だった。
それは、逃げる者たちが作った道でもあるのだろう。
隠れたい者。
見つかりたくない者。
裏市から逃れたい者。
それでも逃げ切れなかった者。
そういう人たちの足跡が、細い道になって残っている。
アレックスは、その道の狭さに胸が痛んだ。
人が堂々と歩けない町。
息を潜めることが、生きる方法になっている町。
それがグレイルだった。
「染物倉庫までは?」
アレックスが小声で聞く。
「もう少し。だけど、近づくほど見張りが増えるかもしれない」
「ニナがいる場所は」
「地下保管庫。外から見ても分からない。けど、倉庫自体が監視されてたら厄介」
「中に汚染兵たちもいる」
「うん」
エイナは唇を噛んだ。
「あの人たちも動かせるなら動かしたい」
「動かす」
アレックスは即答した。
エイナが目を細める。
「またそうやって」
「置いていけない」
「分かってる。でも人数が多い。ニナだけでも危険なのに」
「それでも、確認する」
「……」
「全員連れていけるかは、見て決める」
エイナは少しだけ驚いた顔をした。
「今、見て決めるって言った?」
「うん」
「前なら、全員連れていくって言いそうだった」
「言いたい」
「だよね」
「でも、それで全員危なくなったら意味がない」
アレックスは少しだけ息を吐いた。
「レクトに何回も言われたから」
「学んでるんだ」
「少し」
「信用度、上がるんじゃない?」
「レクトなら七割くらいかな」
「八割は?」
「まだ遠いと思う」
エイナは声を殺して笑った。
「あなた、自分の評価が妙に冷静な時あるよね」
「そうかな」
「うん」
笑いはすぐ消えた。
前方に、染物倉庫の屋根が見えてきたからだ。
夕方に黒外套が現れ、汚染兵たちと戦った場所。
古い壁。
染料の染み。
閉ざされた入口。
通りから少し奥まった場所に建つその倉庫は、夜の中で沈黙していた。
窓に明かりはない。
人の気配も薄い。
だが、それが逆に不自然だった。
エイナは物陰にしゃがみ、倉庫の周囲を観察する。
アレックスも隣に膝をついた。
「見張りは?」
「見える範囲ではいない」
「それは良いこと?」
「グレイルでは、見えない時ほど悪いことがある」
「だよな」
アレックスは倉庫の屋根を見た。
黒外套の影が、まだ残っている気がした。
あの軽い声。
優しい王子様。
どこまで優しいままでいられるかな。
その言葉が、頭の奥にこびりついている。
ここに来ることも、見られているのかもしれない。
ニナを助けることさえ、試されているのかもしれない。
そう考えると、胸が冷える。
だが、それでも進むしかない。
ニナは待っている。
セラも待っている。
約束した。
「裏口から入る」
エイナが言う。
「正面は使わない。蝶番が鳴る」
「分かった」
二人は低く姿勢を保ちながら、倉庫の壁沿いを進んだ。
地面には染料の染みが残っている。
乾いて黒くなったもの。
雨で流れて薄くなったもの。
その中に、青白い残滓が混じっていないか、アレックスは注意して歩いた。
裏口に着く。
小さな木戸。
エイナが耳を当てる。
中の気配を探る。
アレックスも息を止める。
聞こえるのは、風の音。
遠くの水音。
そして――。
「……う……」
かすかな声。
中からだ。
ニナか。
それとも汚染兵の誰かか。
エイナの顔が険しくなる。
「開ける」
彼女は短剣の先を使って、古い留め金を外した。
音はほとんどない。
扉が細く開く。
中から、染料と焦げた欠片の匂いが流れ出した。
アレックスは先に入った。
倉庫の中は、夕方とは別の場所のように静まり返っていた。
床には戦いの跡が残っている。
砕けた木箱。
割れた染料樽。
焦げた床板。
倒れた棚。
雷の焦げ跡。
水の術式で湿ったままの床。
ここで、殺さず止める戦いをした。
その記憶が、まだ空気に残っている。
アレックスは奥を見る。
地下保管庫の入口。
床板の一部が動くようになっている場所。
そこへ近づこうとした瞬間、エイナが手を伸ばして止めた。
「待って」
「何かある?」
「床」
彼女が示した先。
保管庫へ向かう床板の上に、細い粉が撒かれていた。
暗くて見えにくい。
だが、月明かりにかすかに白く浮いている。
「薬粉?」
「たぶん」
エイナの声が低くなる。
「誰か来た」
アレックスの胸が冷える。
「ニナは?」
「分からない」
焦りが足を動かそうとする。
だが、アレックスは止まった。
確認。
焦るな。
助けるために。
レクスターの声が、頭の中で響いた。
「水はあるか」
アレックスが聞く。
エイナが彼を見る。
「水?」
「レクトなら、水で固める」
「……なるほど」
エイナは倒れた染料樽の中を確認した。
水分が少し残っている。
染料混じりだが、使えないことはない。
「これ、いける?」
「やってみる」
アレックスは布切れに水分を含ませ、薬粉の上へそっと置いた。
粉が舞わないように。
ゆっくり。
布で押さえ込み、湿らせる。
白い粉が泥のように固まった。
エイナが少し目を丸くする。
「レクスターみたいなことするじゃん」
「真似だけだ」
「でも助かった」
「まだ分からない」
粉を固めてから、二人は床板を開けた。
地下保管庫へ続く狭い階段。
中は暗い。
アレックスは小声で呼んだ。
「ニナ」
返事はない。
胸が強く鳴る。
「ニナ」
もう一度。
今度は、奥で小さな物音がした。
布が擦れる音。
誰かが息を呑む音。
「……だれ……?」
かすれた声。
アレックスは、ゆっくり息を吐いた。
「アレックスだ」
「……アレックス……?」
「うん」
暗がりの奥で、小さな影が動いた。
ニナだった。
古い毛布を抱え、膝を抱えて座っている。
目は泣き腫らして赤くなっていた。
腕の黒い筋は、レクスターの処置のおかげで薄くなっている。
だが、彼女の顔は恐怖で強張っていた。
「……戻って……きた……?」
「戻った」
アレックスは階段を下り、ニナの前で膝をついた。
「待たせてごめん」
ニナの唇が震えた。
泣きそうになって、それでも必死に堪えている。
「……セラ姉は……?」
「助けた」
その瞬間、ニナの目が大きく開いた。
「……ほんと……?」
「本当」
「……生きてる……?」
「生きてる」
「……会える……?」
「会える」
ニナの顔が崩れた。
声にならない泣き声が漏れる。
彼女はアレックスの胸へ飛び込もうとして、途中で止まった。
自分が汚れているからか。
腕の黒い筋を気にしているのか。
触れていいのか分からない、そんな顔だった。
アレックスは自分から手を伸ばした。
毛布ごと、ニナの肩を包む。
「怖かったな」
その一言で、ニナは泣いた。
「……こわ……かった……」
「うん」
「ずっと……声がして……戻れって……セラ姉が……泣いてる気がして……」
「うん」
「でも……待ってろって……言われたから……」
「待っててくれてありがとう」
「……う、うう……」
ニナは、ようやく泣いた。
小さな身体を震わせて、声を押し殺しながら。
それでも、泣いた。
アレックスは急かさなかった。
外は危険だ。
早く移動しなければならない。
分かっている。
それでも、この数秒は必要だった。
待っていた子どもが、約束が守られたと知るための時間。
その涙を途中で切り捨てることはできなかった。
エイナも何も言わなかった。
ただ、階段の上で見張っている。
その顔は、少しだけ柔らかかった。
「ニナ」
アレックスは、静かに声をかけた。
「セラのところへ行こう」
「……うん……」
「歩けるか?」
「……歩ける……」
そう言って立ち上がろうとしたニナの膝が崩れた。
ずっと恐怖で固まっていたのだ。
身体に力が入らない。
アレックスはすぐに支えた。
「抱える」
「……重い……」
「重くない」
「……でも……」
「命は重い。だから落とさない」
ニナは、目を見開いた。
その言葉をセラにも言ったことを、彼女は知らない。
けれど、何かが伝わったのかもしれない。
ニナは震えながら頷いた。
「……お願いします……」
アレックスはニナを抱き上げた。
軽い。
軽すぎる。
セラよりもさらに軽い。
胸の奥で、また怒りが沈む。
こんな軽さを作った町。
こんな恐怖を子どもに抱えさせた裏市。
それでも、今は怒りを前に出さない。
戻る。
まず、戻る。
「汚染兵たちは?」
エイナが奥を見た。
地下保管庫には、夕方に止めた汚染兵たちが横たわっていた。
数人。
全員、まだ呼吸はある。
レクスターの応急処置が効いている。
だが、動かせる状態ではない。
アレックスは奥歯を噛んだ。
「……今は、連れていけない」
その言葉を口にするのは、痛かった。
だが、言わなければならない。
ニナを抱えている。
エイナと二人だけ。
外には追手。
全員を動かせば、誰も助からない可能性がある。
アレックスは、膝をつき、眠る汚染兵の一人へ視線を落とした。
「戻る」
小さく言った。
「必ず、戻る」
エイナが彼を見た。
「また約束?」
「うん」
「守れる?」
「守る方法を考える」
エイナは少しだけ息を吐いた。
「いい答えになってきたね」
「レクトに言われ続けたから」
「じゃあ、戻ったら褒めてもらえるかも」
「だといいな」
その時。
上から、床板が軋む音がした。
エイナの表情が変わる。
「誰か来た」
アレックスはニナを抱え直す。
エイナが短剣を抜く。
階段の上。
倉庫の床。
足音が一つ。
軽い。
男の足音ではない。
だが、安心はできない。
アレックスは息を潜める。
エイナが階段の途中まで上がり、隙間から覗く。
数秒。
彼女の顔が歪んだ。
「……まずい」
「誰だ」
「黒外套」
空気が凍った。
上から、軽い声が降ってきた。
「こんばんは」
アレックスの背筋に冷たいものが走る。
黒外套。
また。
いつの間に。
なぜ、ここに。
ニナが腕の中で震えた。
「……やだ……」
アレックスはニナを強く抱えた。
「大丈夫」
上の床板が、きし、と鳴る。
黒外套は、地下保管庫の入口近くに立っているのだろう。
姿は見えない。
声だけが落ちてくる。
「ちゃんと戻ってきたんだね。偉いなあ、優しい王子様」
アレックスは答えない。
「リゼットは逃げたよ。怒ってる?」
答えない。
「薬房は潰せなかった。裏市もまだ生きてる。助けた人たちもまだ半分壊れかけ。大変だね」
エイナが歯を食いしばる。
「何が言いたいの」
「別に。ただ見に来ただけ」
「趣味悪いね」
「よく言われる」
黒外套は楽しそうだった。
アレックスは、ニナを抱えたまま階段へ向かう。
エイナが目で問う。
出るのか。
アレックスは頷いた。
ここに閉じこもっていても、逃げ場はない。
上へ出る。
ただし、ニナを守る。
階段を上がる。
一段。
また一段。
ニナの震えが腕に伝わる。
アレックスは小声で言う。
「目を閉じていていい」
「……うん……」
床上へ出た。
倉庫の中央。
月明かりが差し込む場所に、黒外套は立っていた。
顔は見えない。
外套の奥に、笑みだけがあるような気がする。
アレックスはニナを抱えたまま、雷の刃へ手を伸ばさなかった。
抜けば、ニナを支える腕が不安定になる。
今は挑発に乗らない。
黒外套が首を傾げる。
「斬らないの?」
「この子を連れて帰る」
「僕を逃がして?」
「今は、ニナが先だ」
黒外套は、少しだけ黙った。
その沈黙が、不気味だった。
「……へえ」
軽い声。
「優先順位を選べるようになったんだ」
エイナが短剣を構えた。
「そこをどいて」
「嫌だと言ったら?」
「刺す」
「怖いね」
黒外套は笑った。
だが、道を塞いだまま動かない。
アレックスは一歩前へ出る。
「どいてくれ」
「お願い?」
「警告だ」
「優しい王子様が?」
「この子を怖がらせるなら、優しくはしない」
倉庫の空気が変わった。
黒外套の笑みが、少しだけ深くなる。
「いいね」
彼は、ゆっくり横へずれた。
「今日は通してあげる」
エイナが眉をひそめる。
「何企んでるの」
「何も?」
「嘘」
「じゃあ、少しだけ」
黒外套はアレックスを見る。
「この町の中心へ行きたいなら、北鐘楼を見てごらん」
「北鐘楼?」
「裏市の王様が、そこから町を見てる」
エイナの顔色が変わる。
「バルザック……」
「そう。金を握る人。グレイルを買ったつもりでいる人」
黒外套は楽しそうに言う。
「でもね、そろそろ町が動くよ。薬房を荒らして、リゼットを逃がして、ザイルも消えて、橋も潰した。裏市は怒ってる」
「何が狙いだ」
アレックスが問う。
黒外套は答えない。
代わりに、ニナを見た。
ニナが小さく震える。
アレックスは彼女を庇うように身体をずらした。
「見ないでくれ」
「守るねえ」
「守る」
「全部?」
「守れるだけ」
「足りないよ」
「それでも」
「足りないものは、どうするの?」
黒外套の声が少し低くなった。
「君の手が届かない場所で、誰かが壊れる。君が一人助けてる間に、十人売られる。君が約束を守ってる間に、新しい約束が増える」
アレックスの胸が軋む。
黒外套は続ける。
「ねえ、優しい王子様。いつまで耐えられる?」
沈黙。
倉庫の外で風が鳴った。
染布がどこかで揺れる音がした。
アレックスは、ニナの体温を感じながら答えた。
「耐える」
「……」
「届かない場所があるなら、近づく」
「……」
「十人売られるなら、売っている場所を潰す」
「……」
「約束が増えるなら、守る方法を考える」
黒外套が黙った。
エイナも息を呑む。
アレックスの声は荒くなかった。
怒鳴っていない。
でも、折れていなかった。
「俺は、全部を一度に救えるほど強くない」
アレックスは言った。
「でも、だからって目の前の一人を離す理由にはしない」
腕の中で、ニナが震えながらアレックスの服を握った。
黒外套はしばらく沈黙していた。
やがて、くすりと笑う。
「やっぱり面白い」
「俺は面白くない」
「面白いよ。すごく」
黒外套の輪郭が、薄く揺れた。
消える前兆。
エイナが短剣を構える。
「待て!」
「待たない」
黒外套は軽く手を振った。
「北鐘楼で、町が鳴るよ」
「どういう意味だ!」
「行けば分かる」
青白い光が弾ける。
黒外套の姿が薄れていく。
最後に、声だけが残った。
「ニナちゃん、よかったね。お姉ちゃんに会えるよ」
ニナが怯えてアレックスにしがみつく。
アレックスの目に怒りが宿る。
「二度と、その子に話しかけるな」
だが、黒外套はもういなかった。
倉庫には、沈黙だけが残った。
エイナが短剣を下ろし、低く息を吐く。
「……本当に嫌なやつ」
「うん」
「北鐘楼って言った」
「知ってるのか」
「ある。町の北側。昔は鐘で市場の始まりを知らせてた。今は交易組合の建物に取り込まれてる」
「バルザック」
「裏市の金主。たぶん、黒外套が言った“裏市の王様”」
「そこが次か」
「今は違う」
エイナは強く言った。
「今はニナを戻す」
アレックスは頷いた。
「うん」
「……今の、ちょっとレクスターっぽかった?」
「そうかもしれない」
「じゃあ成長だね」
エイナは少しだけ笑った。
アレックスはニナを見る。
「行こう」
「……うん……」
「セラが待ってる」
その名前に、ニナの目がまた潤む。
「……セラ姉……」
「会いに行こう」
アレックスとエイナは、染物倉庫を出た。
外の夜はまだ暗い。
けれど、来た時より、アレックスの足は少しだけ確かだった。
黒外套はまた逃げた。
新しい謎も残した。
北鐘楼。
バルザック。
町が鳴る。
その意味は分からない。
だが今は、腕の中のニナが先だ。
約束をひとつ、果たしに行く。
裏道を戻る途中、ニナは何度も同じことを聞いた。
「……セラ姉、ほんとにいる……?」
「いる」
「……怒ってる……?」
「たぶん」
「……泣いてる……?」
「たぶん」
「……会える……?」
「会える」
何度でも答えた。
そのたびに、ニナの震えは少しだけ弱くなった。
エイナは前を歩きながら、そのやり取りを聞いていた。
振り返らない。
けれど、少しだけ肩の力が抜けている。
やがて、避難所のある倉庫街の裏手へ戻った。
合言葉を言う前に、小窓が開いた。
老女の目が覗く。
「戻ったか」
「ニナを連れてきた」
エイナが言う。
老女はすぐに扉を開けた。
中の小さな灯りが、夜の隙間から漏れる。
アレックスはニナを抱えたまま中へ入った。
避難所の中では、マーガレットが入口近くで立っていた。
ハルバードを手に、ずっと待っていたらしい。
アレックスを見るなり、顔がぱっと明るくなる。
「戻った!」
「ただいま」
「ニナちゃん!」
マーガレットが声を上げかけ、すぐに口を押さえる。
静かに。
でも、嬉しさを隠しきれない顔で手を振る。
ニナはマーガレットを見て、少しだけ目を瞬かせた。
「……まーが……?」
「うん。マーガだよ」
マーガレットは膝をつく。
「おかえり」
その言葉に、ニナの目がまた潤んだ。
奥の寝床で、セラが身を起こそうとしていた。
「……ニナ……?」
その声が、避難所の空気を変えた。
ニナの身体がびくりと震える。
アレックスの腕から、降りようとする。
足元が危うい。
マーガレットが支えた。
「ゆっくり」
「……セラ姉……?」
ニナは、涙で濡れた目を大きく開いた。
セラも、震える手を伸ばす。
「ニナ……」
アレックスはニナをそっと床へ下ろした。
ニナは数歩、ふらつきながら歩いた。
セラも、身体を起こそうとして、すぐに倒れかける。
マーガレットが支えようとしたが、アレックスが手で制した。
行かせてやりたい。
ほんの少しだけでも。
二人の距離は短い。
でも、今の二人には長すぎる距離だった。
「セラ姉……」
「ニナ……ごめん……」
「ばか……」
ニナの声が震えた。
「ばか……ばか……っ」
「うん……」
「なんで……行ったの……」
「ごめん……」
「なんで……私だけ逃がしたの……」
「ごめんね……」
「こわかった……」
「うん……」
「でも……セラ姉の方が……もっと……」
そこで、ニナは言葉にならなくなった。
泣きながら、セラへ抱きついた。
セラは痛みに顔を歪めながらも、妹を抱きしめた。
弱い腕で。
震える指で。
絶対に離さないように。
「ニナ……」
「セラ姉……っ」
「生きてる……」
「うん……」
「生きてるね……」
「うん……っ」
二人の泣き声が、避難所の中に小さく広がった。
誰も声をかけなかった。
老女も。
エイナも。
マーガレットも。
レクスターも。
アレックスも。
ただ、その再会を見守った。
この町では、再会すら奇跡だった。
消えた人は戻らない。
連れていかれた人は帰らない。
裏市に飲まれた名前は、呼ばれなくなる。
それがグレイルの現実だった。
でも今、ニナとセラは再会した。
泣きながら。
怒りながら。
謝りながら。
抱きしめ合いながら。
それは、小さな勝利だった。
リゼットを逃がした悔しさも。
黒外套の不気味な言葉も。
裏市の包囲も。
全部、まだ残っている。
それでも、この瞬間だけは。
セラとニナが会えた。
約束が、ひとつ守られた。
マーガレットが鼻をすすった。
「……だめ、泣く」
レクスターが椅子に座ったまま、疲れた声で言う。
「泣くなら静かに」
「もう泣いてる」
「なら、なおさら静かに」
「レクスター、こういう時も冷静」
「泣く体力がありません」
「それほんと心配になるやつ!」
エイナは、二人の姉妹を見ながら、小さく呟いた。
「……よかった」
アレックスは、その声を聞いた。
短い言葉。
けれど、そこにはいろんなものが詰まっていた。
リクを助けられなかった過去。
逃がせなかった人たち。
届かなかった手紙。
消えた名前。
その全部を抱えた上で、今この再会を見ている。
アレックスは静かに言った。
「エイナ」
「何?」
「よかったな」
エイナは少しだけ笑った。
「うん」
その笑顔は、疲れていて、痛そうで、それでも本物だった。
避難所の小さな灯りが揺れている。
外ではまだグレイルの闇が動いている。
黒外套は北鐘楼を示した。
バルザックという名も出た。
リゼットは逃げた。
裏市は怒っている。
次に何が起きるか分からない。
それでも、今この場所には、確かに灯りがあった。
名前を呼び合う声。
再会の涙。
守られた約束。
アレックスはそれを見て、静かに拳を握った。
この灯りを、もう奪わせない。
そのために、次は町の中心へ踏み込む。
北鐘楼。
裏市の金主。
グレイルを腐らせた根。
そこへ向かう日が、近づいている。
けれど今だけは。
この小さな避難所で。
ニナとセラの泣き声を、誰も急かさなかった。




