表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/101

【第33話 再会の声】


 グレイルの裏道は、夜になるほど細くなっていくようだった。


 昼間には見えていたはずの道が、暗がりに沈む。


 布を干すための木枠が頭上に張り出し、狭い路地にさらに影を落としている。


 壁と壁の間には、風すら通りにくい。


 染料の匂い。


 古い水の匂い。


 油の切れた戸口の匂い。


 そして、どこかから流れてくる酒と煙草の匂い。


 グレイルは眠っていなかった。


 だが、起きている者たちは、皆、息を潜めていた。


 遠くではまだ怒号が聞こえる。


 裏市の追手たちが、排水路や古い洗い場の周辺を探っているのだろう。


 松明の赤い光が、時折、建物の隙間からちらつく。


 そのたびに、エイナは足を止め、手で合図を出した。


 止まれ。


 伏せろ。


 進め。


 声を出すな。


 彼女の指示は短く、正確だった。


 アレックスはセラを抱えたまま、息を殺してその後を追う。


 セラの体温は低い。


 けれど、さっきよりは呼吸が落ち着いていた。


 レクスターの応急処置が効いているのだろう。


 それでも、彼女の腕に浮かぶ黒い筋は完全には消えていない。


 薄くなっただけだ。


 まだ、内側に残っている。


 そのことが、アレックスの腕に重さを増していた。


「……ニナ……」


 セラが、眠るように呟いた。


 アレックスは低く返す。


「もう少しだ」


「……私……ちゃんと……帰れる……?」


「帰れる」


「……ニナ……泣いてる……?」


「泣いてるかもしれない」


 セラの指が、アレックスの服を弱く握る。


「……怒ってる……かな……」


「怒ってるかもしれない」


「……」


「でも、それは君に会えるからだ」


 セラは涙をこぼした。


「……うん……」


 その小さな返事が、路地の暗がりに消えた。


 マーガレットは後方を歩いていた。


 片腕で子どもを支え、もう片方の手でハルバードを持っている。


 普段なら、彼女はもっと前へ出る。


 敵が来るなら真っ先に飛び込む。


 だが今は、違う。


 抱えた子どもを揺らさないように、足運びを慎重にしている。


 背後の気配を探りつつ、壁に子どもの足が当たらないよう身体をずらす。


 それでも、敵が来ればすぐ動ける位置を保つ。


 その姿は、ただの脳筋ではなかった。


 力があるからこそ、力を抑える。


 壊せるからこそ、壊さないように守る。


 マーガレットは、それを必死にやっていた。


 レクスターはその隣を歩いている。


 いや、歩いているというより、歩かされているに近かった。


 マーガレットが肩を貸している。


 本人は何度も「歩けます」と言ったが、マーガレットは聞かなかった。


「歩けるのと、倒れないのは別!」


 そう言われ、レクスターは珍しく反論できなかった。


 実際、顔色は悪い。


 呼吸も深い。


 水の本は抱えているが、指先の震えはまだ残っている。


「レクスター」


 マーガレットが小声で言う。


「大丈夫?」


「その質問には、もう何度も答えました」


「でも聞く」


「大丈夫ではありません」


 あまりにも正直な答えに、マーガレットが一瞬止まりかけた。


「……やっぱり相当やばいじゃん」


「だから、あなたが肩を貸しているのでしょう」


「うん」


「なら、役割を果たしてください」


「うん!」


 マーガレットは少しだけ嬉しそうに頷いた。


 頼られている。


 そう感じたのだろう。


 レクスターは横目でそれを見て、ため息をついた。


「なぜそこで嬉しそうなのですか」


「だって、レクスターが頼ってくれた」


「状況的に仕方なくです」


「でも頼った」


「……」


「あとでちゃんと休んでね」


「状況次第です」


「だめ。約束」


「また約束ですか」


「アレックスばっかり増やすのずるい」


「ずるいという問題ではありません」


「じゃあ、私とも約束」


 マーガレットは真剣だった。


「ちゃんと休むって」


 レクスターは、しばらく黙った。


 路地の暗がりの中、彼の眼鏡に遠くの松明の光がかすかに映る。


「……分かりました」


「ほんと?」


「十分」


「短い!」


「十五分」


「三十分!」


「十五分」


「二十分!」


「……二十分で」


「よし!」


 マーガレットは小さく拳を握った。


 レクスターは疲れた顔で言う。


「交渉力が上がっていますね」


「成長してる?」


「変な方向に」


「褒めてる?」


「半分」


「もう半分は?」


「面倒です」


「いつもの!」


 前を歩くエイナが、振り返らずに小さく言った。


「あなたたち、本当にこの状況でよく喋れるね」


 アレックスが苦笑する。


「たぶん、喋らないと沈むんだと思う」


「沈む?」


「うん。黙ると、重さが全部くる」


 その言葉に、少しだけ沈黙が落ちた。


 確かにそうだった。


 セラを抱えている腕の重さ。


 子どもたちの呼吸。


 レクスターの疲労。


 逃げたリゼット。


 追ってくる裏市。


 炭焼き小屋で待つニナたち。


 黙れば、そのすべてが胸にのしかかる。


 だから、少しだけ言葉を交わす。


 軽口を叩く。


 生きていると確かめる。


 エイナは、少しだけ笑った。


「……分かる」


 その声は、小さかった。


 彼女も、長くそうやって生きてきたのだろう。


 冗談を言い、軽く笑い、痛みをその場で全部見ないようにして。


 それでも、進むために。


「止まって」


 エイナが手を上げた。


 全員が足を止める。


 前方の路地。


 赤い布が二枚、低く垂れている。


 女将が言っていた印。


 見張りの印。


 入れば財布か命か情報のどれかを取られる路地。


「ここは使わない」


 エイナが言う。


「でも、遠回りになる」


 レクスターが低く返す。


「はい。ただし、この人数で赤布の下を通るのは危険です」


「見張りは?」


「いる」


 エイナが顎で示す。


 路地の奥。


 荷車の陰に、男が一人座っている。


 眠っているように見える。


 しかし、足元には笛。


 手は外套の中。


 おそらく武器を握っている。


 さらに二階の窓にも、人影がある。


 ここを通れば確実に見つかる。


 マーガレットが小声で言った。


「倒す?」


「だめ」


 エイナが即答する。


「赤布の見張りは一人倒すと、周囲に一気に知らせが飛ぶ」


「面倒」


「そう。面倒」


 レクスターが地図を頭の中で組み立てるように目を細める。


「別路は?」


「右の洗濯路を抜ける。狭いけど、抜ければ倉庫街の裏に出る」


「セラを抱えて通れる?」


「ぎりぎり」


「子どもたちは?」


「抱えたままなら」


 アレックスは頷いた。


「行こう」


 右の細道へ入る。


 そこは本当に狭かった。


 壁と壁の間に、身体ひとつ分の幅しかない。


 頭上には洗濯紐が何本も張られ、湿った布が垂れている。


 そこをかき分けるように進む。


 セラを壁にぶつけないよう、アレックスは身体を斜めにした。


 腕が痛む。


 肩が重い。


 だが、下ろすわけにはいかない。


「……重い、ですよね……」


 セラがかすれた声で言った。


「ごめん……なさい……」


「謝らなくていい」


「でも……」


「命は重い」


 アレックスは短く言った。


「だから、落とさない」


 セラの目がわずかに開いた。


「……」


「重いのは、悪いことじゃない」


 セラは言葉を失った。


 そして、静かに涙を流した。


 その涙が、アレックスの袖に落ちる。


 温かかった。


 生きている涙だった。


 細道を抜けると、古い倉庫街の裏手に出た。


 ここは南区の端に近いらしい。


 通りよりもさらに暗い。


 石造りの倉庫が並び、扉の多くは錆びた鎖で閉ざされている。


 空気は冷たく、人気は少ない。


 だが、完全な無人ではない。


 遠くで、荷を運ぶ音がした。


 深夜にも関わらず、倉庫が使われている。


 裏市の荷かもしれない。


 エイナは一番奥の倉庫ではなく、その隣にある小さな木戸の前で止まった。


「ここ」


「ここが安全な場所?」


 マーガレットが聞く。


「正確には、私の隠れ場所の一つ」


「一つ?」


「この町で一つしか逃げ場がない人間はすぐ死ぬ」


 エイナは短く答え、木戸を叩いた。


 こん、こん。


 少し間を置いて。


 こん。


 中から、かすかな音がした。


 木戸の小窓が開く。


 暗がりから、老女の目が覗いた。


「……誰だい」


「エイナ」


「合言葉」


「赤布の下に兎は寝ない」


「続き」


「銀の兎は、濡れた石を跳ぶ」


 小窓が閉じる。


 数秒後、扉が内側から開いた。


 中にいたのは、小柄な老女だった。


 白髪を布でまとめ、杖をついている。


 背は曲がっているが、目は鋭い。


 彼女はエイナを見て、それからアレックスたちを見た。


 セラ。


 子どもたち。


 レクスター。


 マーガレット。


 アレックス。


 順に見て、深くため息をつく。


「また面倒事を拾ってきたね」


「今回は大物」


 エイナが苦笑する。


「薬房から」


 老女の目が険しくなった。


「リゼットか」


「うん」


「入れ」


 短い言葉。


 だが、その声には迷いがなかった。


 アレックスたちは中へ入った。


 そこは小さな倉庫のように見えたが、奥には人がいた。


 十人ほど。


 老人。


 女性。


 子ども。


 怪我をした若い男。


 皆、静かに息を潜めている。


 灯りは小さい。


 窓は塞がれている。


 壁には毛布や古布が積まれ、簡易の寝床がいくつも作られていた。


 ここは、ただの隠れ場所ではない。


 避難所だ。


 エイナが言っていた、小間使いとして助けてきた人たち。


 その一部がここにいる。


 マーガレットが小さく呟いた。


「……エイナ」


「何?」


「すごいね」


 エイナは少しだけ顔を逸らした。


「すごくないよ」


「すごいよ」


 マーガレットは譲らなかった。


「ちゃんと、灯り守ってたんだ」


 エイナの表情が揺れた。


 その言葉は、彼女には少し眩しすぎたのかもしれない。


 アレックスも静かに言った。


「ここがあったから、助かった人がいる」


「……」


「ありがとう」


 エイナは唇を噛んだ。


「礼を言われることじゃない」


「言いたかった」


「ほんと、そればっかり」


 老女が杖で床を軽く叩いた。


「礼は後だ。怪我人を寝かせな」


「はい」


 アレックスはセラを奥の寝床へ運んだ。


 老女が手際よく布を敷き、枕代わりの丸めた布を置く。


 マーガレットは抱えていた子どもをそっと寝かせる。


 エイナも、もう一人の子どもを降ろした。


 レクスターは入口近くで壁に手をついた。


 その瞬間、膝が少し折れた。


「レクスター!」


 マーガレットがすぐに駆け寄る。


「問題ありません」


「ある!」


「少し座ります」


「少しじゃなくて、ちゃんと!」


 マーガレットは彼を半ば強引に椅子へ座らせた。


 老女がレクスターを見て、眉をひそめる。


「その兄さん、顔が死んでるよ」


「死んでいません」


「死人はみんなそう言う」


「言いません」


「言うんだよ、こういう町じゃ」


 老女は水差しを持ってきた。


「飲みな」


「ありがとうございます」


「礼はいい。飲め」


 レクスターは素直に水を飲んだ。


 マーガレットが横でじっと見ている。


「全部飲んだ?」


「子どもではありません」


「でも確認する」


「飲みました」


「よし」


 アレックスはセラの横に膝をついた。


 セラは目を開けて、周囲を見回していた。


 見知らぬ避難所。


 知らない人々。


 暗い灯り。


 それでも、薬房ではない。


 拘束具もない。


 リゼットもいない。


「……ここは……?」


 エイナがそばへ来る。


「私の知り合いの隠れ家。今は安全。少なくとも、薬房よりは」


「……ニナ……」


「迎えに行く」


 エイナが言った。


「倉庫にいるんでしょ?」


 アレックスが頷く。


「染物倉庫の保管室に」


「なら、移す必要がある」


 レクスターが椅子に座ったまま言う。


「ここに?」


「はい。セラを動かすより、ニナを連れてくる方が安全です」


「追手は?」


 アレックスが聞く。


「現在は排水路と洗い場周辺へ集中しています。染物倉庫がまだ監視されている可能性はありますが、薬房脱出直後よりは動きやすい」


「誰が行く?」


 マーガレットが即座に手を上げる。


「私行く!」


「だめです」


 レクスターが即答する。


「なんで!」


「あなたは目立ちます」


「ぐっ」


「さらに、ここを守る戦力が必要です」


「でもニナちゃん」


「私が行く」


 エイナが言った。


「染物倉庫なら私が一番道を知ってる」


「一人は危険だ」


 アレックスが言う。


「じゃあ、アレックスが来る?」


「行く」


 レクスターが顔を上げる。


「待ってください」


「ニナを連れてくるだけだ」


「その“だけ”が危険です」


「分かってる」


「分かっていません」


「でも、セラに約束した」


「だからといって全てあなたが行く必要は」


「それでも行く」


 レクスターが言葉を止めた。


 アレックスの顔を見て、止めても無駄だと悟ったのだろう。


 深く息を吐く。


「……では、条件があります」


「何?」


「戦闘を避ける。染物倉庫でニナを回収し、即座に戻る。黒外套やリゼットの気配があっても追わない」


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


「信用度は」


「今は?」


 レクスターはアレックスを見た。


 しばらく沈黙。


「七割」


「さっきと同じ」


「これ以上は実績が必要です」


「分かった」


 マーガレットが不満そうに唇を尖らせる。


「私も行きたい」


「ここを守ってほしい」


 アレックスが言う。


「セラ、子どもたち、レクスター、避難所の人たち。ここにいる」


 マーガレットはその言葉に黙った。


 行きたい。


 でも、守る場所がある。


 彼女はそれをもう知っている。


「……分かった」


 少し悔しそうに、でもしっかり頷いた。


「ここ守る」


「頼む」


「でも、遅かったら迎えに行く」


「分かった」


「ほんと?」


「うん」


「じゃあ、早く帰ってきて」


「戻る」


「約束?」


「約束」


 マーガレットは、少しだけ笑った。


「また増えたね」


「そうだな」


「ちゃんと守ってよ」


「うん」


 セラが、弱く手を伸ばした。


 アレックスはその手を取る。


「……ニナを……」


「連れてくる」


「……お願いします……」


「必ず」


 その言葉を聞いて、セラは目を閉じた。


 泣き疲れたように。


 でも、薬房にいた時とは違う。


 そこには、待つための呼吸があった。


 老女がアレックスへ視線を向ける。


「若いの」


「はい」


「この町では、約束は高くつくよ」


「分かっています」


「分かってない顔だね」


 アレックスは少し苦笑した。


「よく言われます」


「だろうね」


 老女は杖で床を叩く。


「でも、そういう顔をしたやつが来るのを、待ってた人間もいる」


 アレックスは老女を見る。


「行きな。子どもは待たせすぎると、心が冷える」


「はい」


 エイナが短剣を確認し、入口へ向かった。


「行こう」


 アレックスは雷の刃を腰に戻し、外套を整えた。


 マーガレットが背後から声をかける。


「アレックス」


「うん」


「ニナちゃん、怖がってると思うから」


「うん」


「名前、呼んであげて」


 アレックスは頷いた。


「そうする」


 レクスターも椅子に座ったまま言った。


「無茶はしない」


「しない」


「エイナの指示を聞く」


「聞く」


「困っている人を見ても、目的を忘れない」


「……努力する」


「そこです」


 マーガレットがアレックスを見る。


「でも、放っておけない時は?」


 レクスターが眉をひそめる。


「マーガレット」


「だって」


 マーガレットは真剣だった。


「アレックスがアレックスじゃなくなるのも嫌だよ」


 その言葉に、アレックスの胸が少しだけ温かくなる。


 レクスターはしばらく沈黙した。


 そして、諦めたように言った。


「では、判断してください」


「判断?」


「助けるなら、助ける。その代わり、生還経路を確保する。感情で飛び込まない。判断して飛び込む」


「それ、結局飛び込む前提じゃない?」


 エイナが言う。


「この人には、その方が現実的です」


「なるほど」


 アレックスは小さく笑った。


「分かった。判断する」


「信用度六割に下がりました」


「なんで」


「飛び込む可能性が上がったので」


「正直だな」


「現実です」


 そのやり取りを最後に、アレックスとエイナは避難所を出た。


 外の夜は、まだ冷たい。


 倉庫街の影は濃い。


 遠くの鐘は、もう鳴り止んでいた。


 だが、静かになったから安全というわけではない。


 むしろ、狩りの音が消えただけだ。


 裏市はまだ探している。


 黒外套はどこかで見ているかもしれない。


 リゼットも、逃げながら次の手を打っているだろう。


 それでも、今やることは一つ。


 ニナを連れてくる。


 セラの元へ。


 約束を、ひとつ守る。


 エイナが小声で言った。


「こっち」


 アレックスは頷き、彼女の後を追った。


 夜のグレイルの裏道へ、再び足を踏み出す。


 背後の小さな避難所には、守るべき灯りがある。


 前方の染物倉庫には、待っている子がいる。


 その間に、町の闇が口を開けている。


 だが、アレックスの足は止まらなかった。


 名前を呼ぶために。


 約束を果たすために。


 彼は、もう一度、闇の中へ進んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ