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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第32話 古い洗い場の灯り】


 古い洗い場には、夜の湿気が溜まっていた。


 半分崩れた屋根。


 苔の生えた石床。


 使われなくなった石槽。


 壁際に積まれた割れた桶と、朽ちかけた木箱。


 かつては染物職人たちが布を洗い、染料を落とし、声を交わしていた場所なのだろう。


 だが今は、誰も使っていない。


 水路から細く水が流れ込み、石槽の底で静かに揺れているだけだった。


 その小さな廃墟の奥で、アレックスたちは身を潜めていた。


 外では、裏市の追手が動いている。


 遠くから、怒号が聞こえる。


 松明を持った者たちの声。


 路地を走る足音。


 金属が擦れる音。


 時折、犬の吠える声も混じる。


 グレイルの夜は、完全にこちらを追い始めていた。


 だが、今は逃げるだけでは足りない。


 セラを処置しなければならない。


 子どもたちを落ち着かせなければならない。


 レクスターを休ませなければならない。


 マーガレットの状況も確認しなければならない。


 エイナの隠れ道も、次の行き先も必要になる。


 やることは多すぎた。


 時間は、あまりにも少なかった。


「セラ、聞こえるか」


 アレックスは石槽の横に膝をつき、セラの肩を支えていた。


 セラは古い布の上に横たえられている。


 顔色は悪い。


 唇も白い。


 腕には黒い筋が残っている。


 だが、薬房にいた時より、呼吸は少しだけ落ち着いていた。


 それでも、まだ安心できる状態ではない。


「……はい……」


 セラは弱く答えた。


 その声は細く、少しでも強い音を立てれば消えてしまいそうだった。


「寒くないか」


「……少し……」


「マーガレット」


「はい!」


 マーガレットがすぐに動いた。


 自分の外套を外し、セラの身体へかける。


 その手つきは驚くほど丁寧だった。


 普段なら勢いのまま動く彼女が、今は毛布の端が傷に触れないよう、ゆっくり、そっと布を整えている。


「これでちょっとは温かい?」


 マーガレットが声を柔らかくする。


 セラは薄く目を開け、彼女を見た。


「……ありがとう……ございます……」


「うん。いいよ。今は喋らなくて大丈夫」


「……でも……」


「大丈夫。ニナちゃんに会うまで、体力残しておこう」


 その名前に、セラの目が揺れた。


 ニナ。


 妹。


 薬房から逃がした妹。


 その名だけが、セラをこの場所に繋ぎ止めているようだった。


「……ニナ……怒ってるかな……」


 セラが小さく呟く。


 マーガレットは一瞬だけ目を丸くした。


 そして、泣きそうな顔になりながら、無理やり笑った。


「たぶん怒るよ」


「……やっぱり……」


「でもね、怒るってことは、会えたってことだから」


 セラの目から、涙が一筋こぼれた。


「……会いたい……」


「会える」


 アレックスが言った。


 短く。


 強く。


 セラは、アレックスを見た。


「……ほんとうに……?」


「うん」


「……約束……して……くれますか……?」


 その言葉に、レクスターが顔を上げた。


 彼は少し離れたところで、水の本を開き、セラの黒い筋を確認していた。


 顔色は悪い。


 明らかに限界が近い。


 それでも、彼はその言葉を聞き逃さなかった。


「また約束を増やす気ですか」


 声は弱い。


 けれど、いつもの調子を保とうとしている。


 アレックスはレクスターを見た。


「増やす」


「でしょうね」


「怒るか?」


「怒る体力が惜しいので、後回しです」


「じゃあ、今は許されたことにする」


「許可はしていません」


 マーガレットが小さく笑った。


「レクスター、いつも通りで安心する」


「安心しないでください。かなり無理をしています」


「それ自分で言うの、相当やばいやつじゃん!」


「だから、余計な会話は控えたいのですが」


「ご、ごめん!」


 そんなやり取りの中で、セラの表情がほんの少しだけ緩んだ。


 痛みの中でも、誰かが言い合っている。


 殺伐とした地下ではなかった空気。


 それが、彼女にとっては現実感を取り戻すものになったのかもしれない。


 アレックスは改めてセラへ向き直る。


「約束する」


「……」


「ニナのところへ連れていく」


「……はい……」


「だから、今は生きることだけ考えてくれ」


 セラの唇が震えた。


「……生きて……いいんですか……」


 その言葉で、古い洗い場の空気が止まった。


 マーガレットの顔が固まる。


 エイナが目を伏せる。


 レクスターの指先が、わずかに止まる。


 アレックスは、セラの手を見る。


 細い手。


 薬房で拘束され、欠片を入れられ、恐怖と痛みに晒された手。


 その手が、自分の生きる権利すら疑っている。


 怒りが湧いた。


 だが、それ以上に悲しかった。


「いいに決まってる」


 マーガレットが先に言った。


 声が震えていた。


「そんなの、いいに決まってるじゃん」


 セラはマーガレットを見る。


 マーガレットは拳を握りしめていた。


「セラちゃんは、生きていいよ。ニナちゃんに怒られていいし、泣いていいし、ご飯食べていいし、寝ていいし、笑っていいよ」


「……」


「誰かが勝手に、もう無理とか、使えないとか、作品とか、素材とか、そんなふざけたこと言ったって、関係ない」


 マーガレットの瞳が潤んでいた。


 だが、声は強かった。


「生きていいに決まってる」


 セラは声もなく泣いた。


 泣く体力もないはずなのに、涙だけがこぼれていく。


 エイナが後ろで小さく息を吐いた。


「……ほんと、まっすぐだね」


「まっすぐすぎて危なっかしいですが」


 レクスターが言う。


「でも、今は正しい」


 マーガレットがレクスターを見た。


「今、褒めた?」


「褒めました」


「え、もう一回」


「処置中です」


「あとで!」


「生き残ったら」


「そればっかり!」


 それでも、マーガレットは少し笑った。


 セラも、ほんの微かに目元を緩めた。


 アレックスは、その小さな変化を見逃さなかった。


 救うというのは、身体を運ぶだけじゃない。


 薬を抜くだけでもない。


 生きていいと、もう一度思ってもらうこと。


 そこまで含めて、救うということなのかもしれない。


 レクスターが、セラの腕へ水糸を近づける。


「処置を再開します」


 その声で、空気が引き締まった。


「セラ。黒い筋の進行を一時的に抑えます。痛みは?」


「……あります……」


「どの程度ですか」


「……焼ける、みたいに……」


「分かりました」


 レクスターは水の本へ視線を落とす。


「薬房で入れられた液体は、欠片の適応促進剤のようなものです。体内魔力に無理やり馴染ませようとしている。幸い、導入量は途中で止められた」


「幸いって言っていいのか分からないね」


 エイナが低く言う。


「言うしかありません」


 レクスターは淡々と返した。


「完全に回っていれば、もっと悪かった」


「治せる?」


 アレックスが聞く。


 レクスターはすぐには答えなかった。


 沈黙。


 水音が小さく響く。


 外からは、まだ追手の声が遠く聞こえる。


「治す、とは言い切れません」


 レクスターは正直に言った。


「ただ、進行を抑えることはできます。薬房から持ち出せた瓶と、リゼットの器具の残留液を調べれば、より正確な対処法が分かる可能性もあります」


「持ち出せたの?」


 マーガレットが驚く。


 エイナが腰袋を叩いた。


「何本かね。逃げる時に、棚から掴めるだけ掴んだ」


「すごい!」


「褒めてくれるの?」


「もちろん!」


「じゃあ頑張った甲斐あった」


 エイナは少し笑った。


 けれど、その目は疲れていた。


 彼女もまた、無理をしている。


 子どもたちを抱え、道を案内し、リゼットと向き合い、過去を抉られた。


 それでも、立っている。


 グレイルの人間として。


 この町で失ったものを抱えた者として。


 アレックスは、その横顔を見て言った。


「エイナも、少し休んでくれ」


「無理」


 即答だった。


「追手が来る」


「分かってる。でも」


「私が道を知らないと、みんな詰む」


 エイナは苦笑する。


「だから休むなら、ここを出てから」


「みんな同じこと言うな」


「あなたも言うでしょ」


「そうだな」


「ほら」


 レクスターが低く言った。


「全員、休むべき状態で休まない。最悪です」


「レクスターも含めてね」


 マーガレットが言う。


「私は必要な処置をしています」


「その必要なやつ、ずっと続いてるよ?」


「……」


「レクスター」


 マーガレットの声が少し柔らかくなる。


「無理してるよね」


「していません」


「嘘」


「……」


「顔、白い」


「地下の照明のせいです」


「今、外だよ」


「……」


「手、震えてる」


 レクスターは、水の本を持つ指を見た。


 わずかに震えていた。


 隠せる程度ではない。


 自分でも分かっていたのだろう。


 彼は小さく息を吐いた。


「……処置が終わるまでです」


「終わったら休む?」


「状況次第です」


「だめ」


 マーガレットが即答した。


「終わったら休む」


「追手が」


「私が見る」


「あなた一人で?」


「アレックスもいる。エイナもいる。私もいる」


 マーガレットは、いつになく真剣だった。


「レクスターが倒れたら、みんな困る」


 アレックスが同じ言葉を聞いたことがある。


 前に自分がレクスターへ言った言葉だ。


 レクスターも覚えていたのだろう。


 一瞬だけ、言葉に詰まった。


「……分かりました」


 マーガレットの目が丸くなる。


「え、素直」


「騒がないでください」


「ごめん。でも素直」


「処置後、三分休みます」


「短い!」


「五分」


「まだ短い!」


「では七分」


「十!」


「……十で」


「やった!」


 マーガレットが小さく拳を握る。


 アレックスは思わず笑った。


 レクスターが十分快く譲歩したわけではない。


 でも、譲った。


 それだけで、この場に少しだけ温度が戻る。


 その間に、エイナは子どもたちの様子を見ていた。


 薬房の棚の奥にいた二人。


 一人は少年。


 年は八歳ほど。


 名前はまだ言えない。


 水を飲ませると、かすかに目を開けた。


 もう一人は少女。


 十歳前後。


 意識は混濁しているが、呼吸はある。


 腕に黒い筋は薄い。


 セラほど深くはない。


「この子たちは、まだ軽い」


 レクスターが確認して言った。


「薬を少量入れられた程度です。処置は間に合います」


「よかった……」


 エイナがその場に座り込みそうになり、慌てて踏みとどまった。


 アレックスはそれを見た。


「座って」


「だから」


「一分だけ」


「……一分?」


「一分」


「それなら」


 エイナは石壁に背を預けて座った。


 短剣は手放さない。


 座っても、目は外を見ている。


 休むというより、膝を折っただけだ。


 それでも、少しは違うはずだった。


「エイナ」


 アレックスが声をかける。


「何?」


「リゼットが言っていた弟のこと」


 エイナの表情が止まった。


 マーガレットも振り向く。


 レクスターは処置を続けながら、何も言わない。


 エイナは少し黙った。


 外の夜風が、崩れた屋根の隙間から入る。


 水面がわずかに揺れた。


「……聞く?」


「無理ならいい」


「無理って言うほどじゃない」


 エイナは短剣の柄を指でなぞった。


「弟がいた。リクって名前」


「リク」


 アレックスは繰り返した。


 エイナが少しだけ目を細める。


「名前、覚えるんだね」


「うん」


「そういうところ」


 彼女は苦笑した。


「危ないけど、嫌いじゃない」


 それから、ぽつりぽつりと話し始めた。


「咳が止まらなかった。ちゃんとした薬屋は高すぎて、買えなかった。母親はもういなかったし、父親は酒でだめだった。私が働いてたけど、足りなかった」


「……」


「その時、リゼットの薬の噂を聞いた。安い薬があるって。裏だけど効くって。私は、行った」


 エイナの声は淡々としていた。


 けれど、その淡々の裏側に、長く抱えてきた痛みがあった。


「薬は効いたよ。最初は。咳が少し治まって、リクは眠れるようになった。でも、次の薬が必要になった。もっと強い薬が必要になった。お金が足りなくなった」


「リゼットは?」


「笑ってた」


 エイナの指が、短剣の柄を強く握る。


「優しい声で、“なら手伝いをしてくれればいい”って。薬を運べ。名前を伝えろ。人を案内しろ。そうしたら弟の薬を出してあげるって」


「それで……」


「手伝った」


 エイナの声が小さくなる。


「何を運んでるか、最初は知らなかった。知らないふりをしてたのかもしれない。薬だと思ってた。人を助けるものだと思いたかった」


 沈黙。


「でも違った」


 アレックスが言う。


「うん」


「リクは?」


 エイナはしばらく答えなかった。


 答えなくても、分かる気がした。


 でも、彼女は言った。


「死んだ」


 短い言葉だった。


 マーガレットが唇を噛む。


 レクスターの指先が止まりかけたが、すぐに処置を続ける。


「薬が切れたのか、薬が悪かったのか、病気が進んだのか、今でも分からない」


 エイナは笑った。


 笑ったが、まったく笑えていなかった。


「リゼットは言ったよ。“残念ね。でも、苦しみは終わったわ”って」


 マーガレットの拳が震えた。


「なにそれ」


「それから私は、リゼットのところを離れた。裏市からも離れようとした。でも、この町で完全に離れるのは無理だった」


「だから、小間使い?」


「うん」


 エイナは頷く。


「せめて、同じような人を少しでも逃がしたかった。全部は無理。でも、一人なら。手紙なら。遺言なら。子ども一人なら。そうやって、できる範囲だけやってた」


 彼女はアレックスを見る。


「でも、できる範囲だけじゃ足りなかったんだね」


「エイナ」


「リゼットはまだ薬房を持ってる。裏市はまだある。私が逃がした人より、捕まった人の方がずっと多い」


「それでも」


 アレックスは静かに言った。


「逃がした人はいる」


「……」


「手紙を届けてもらえた人もいる」


「……」


「誰かの最後の言葉を、消さずに済んだ人もいる」


 エイナの目が揺れた。


「それは、意味がある」


 アレックスは言った。


「小さくても。全部じゃなくても。意味がある」


 エイナは、俯いた。


 そして、小さく笑った。


「……ほんと、そういうのずるい」


「ずるい?」


「うん」


「ごめん」


「謝らないで」


 マーガレットがエイナの横にしゃがんだ。


「エイナはすごいよ」


「いきなり?」


「うん。だって、怖い町でずっと誰か助けてたんでしょ?」


「全部じゃない」


「全部じゃなくても」


 マーガレットはアレックスと同じように言った。


「助かった人はいるよ」


 エイナは二人を見た。


 そして、少しだけ困ったように笑った。


「あなたたち、似てるね」


 アレックスとマーガレットが同時に首を傾げる。


「そう?」


「そうかな?」


 レクスターが即答する。


「似ています」


「レクスター!?」


「え、どこが!?」


「根拠のない前向きさと、人の痛みに踏み込む距離感です」


「褒めてる?」


 マーガレットが聞く。


「半分」


「もう半分は?」


「危険性の指摘です」


「いつものだ!」


 エイナが声を殺して笑った。


 その笑いは、少しだけ本物だった。


 しかし、その時間は長く続かなかった。


 外で足音がした。


 近い。


 全員の空気が一瞬で変わる。


 マーガレットが立ち上がり、ハルバードを手に取る。


 アレックスはセラの肩からそっと手を離し、雷の刃へ手を添える。


 エイナはすぐに入口側へ移動した。


 レクスターも水の本を閉じかけ、しかしセラの処置を続ける。


「何人」


 アレックスが小声で聞く。


 エイナは壁の隙間から外を見る。


「……三人。いや、五人。松明なし。探ってる」


「裏市?」


「たぶん」


 外の声が聞こえた。


「この辺りだ」


「排水路から出たなら、洗い場を使うはずだ」


「女が案内してる。エイナだ」


「裏切り者か」


 エイナの顔がわずかに強張った。


 アレックスはそれに気づく。


「エイナ」


「平気」


「本当に?」


「平気じゃないけど、今は平気」


 彼女は短剣を握る。


「この場所、見つかるとまずい。隠し道はあるけど、セラたちを運ぶには時間がかかる」


「戦うしかない?」


 マーガレットが聞く。


 レクスターが処置を続けながら言った。


「大きな音を立てずに追い払う必要があります」


「難しい!」


「分かっています」


「でもやる!」


「はい」


 マーガレットは入口の影へ移動した。


 アレックスは反対側へ。


 エイナは中央で囮の位置。


 レクスターはセラの処置を続けながら、水糸を外へ伸ばす。


「私は動けません」


「分かってる」


 アレックスが言う。


「こっちは任せて」


「無茶は」


「しない」


「信用度」


「今は?」


 レクスターは一瞬だけアレックスを見た。


「七割」


 アレックスは小さく笑った。


「上がったな」


「下げないでください」


 外の足音が近づく。


 一人が入口の影に立った。


「ここか?」


 男が中を覗き込もうとした瞬間。


 エイナがわざと姿を見せた。


「遅かったね」


 男たちが反応する。


「エイナ!」


「裏切り者が!」


「裏切ったつもりはないよ」


 エイナは短剣を構える。


「最初から、あんたたちの味方じゃなかっただけ」


 男が踏み込む。


 その足元に、水糸が絡んだ。


「なっ――」


 体勢が崩れた瞬間、アレックスが横から入る。


 柄で腹を打つ。


 声を出す前に意識を落とす。


 二人目が短剣を抜く。


 マーガレットが後ろから襟首を掴んだ。


「静かに」


 低い声。


 男は硬直した。


「騒いだら?」


 マーガレットがにっこり笑う。


「壁と仲良くなるよ」


 男は真っ青になった。


 それでも三人目が笛を取り出す。


 エイナの短剣が飛び、笛を弾き飛ばした。


「それはだめ」


 エイナが踏み込み、膝で男の腹を打つ。


 男が沈む。


 残る二人は後ずさった。


「くそっ」


「化け物どもが……!」


 マーガレットの眉が動く。


「化け物?」


 アレックスが横から言う。


「マーガレット」


「分かってる。今は静かに」


「えらい」


「あとで褒めて」


「うん」


 残る二人は逃げようとした。


 だが、レクスターの水糸が足元に絡む。


 処置をしながらでも、この精度。


 エイナが目を見張る。


「ほんとすごいね」


「今褒められても反応できません」


 レクスターが額に汗を浮かべながら答えた。


 五人は声を上げる暇もなく制圧された。


 だが、安心はできない。


 彼らが戻らなければ、また次が来る。


 エイナは息を整えながら言った。


「もうここは使えない」


「移動か」


 アレックスが問う。


「うん。セラは?」


 レクスターはセラの腕から水糸を外した。


「応急処置は完了。進行は抑えました。ただし、早くニナの元へ戻し、安静にする必要があります」


「レクスターは?」


 マーガレットが聞く。


「十分休む約束でしたが」


「今無理だよね」


「はい」


「じゃあ移動してから休む」


「そうしてください」


「自分で言ったからね!」


「……はい」


 マーガレットは満足げに頷いた。


 アレックスはセラを抱え直した。


 セラは少し意識がはっきりしてきたのか、弱く目を開ける。


「……ここは……」


「洗い場。薬房から出た」


「……出られた……?」


「うん」


「……ニナに……会える……?」


「会える」


 セラは涙を流した。


「……よかった……」


 その言葉を聞いて、アレックスは改めて思う。


 逃がしたものもある。


 リゼットは逃げた。


 裏市はまだ健在だ。


 黒外套も遠くで笑っているかもしれない。


 だが、取り戻したものもある。


 セラ。


 子どもたち。


 汚染兵たちの命。


 そして、エイナの心の奥に残っていた灯り。


 それらは確かにここにある。


 古い洗い場の外では、グレイルの夜がまだ牙をむいている。


 それでも、ここにいる者たちはもう完全な獲物ではなかった。


 アレックスは雷の刃に手を添えた。


「行こう」


 マーガレットが頷く。


「うん」


 レクスターは水の本を抱え、少しふらつきながらも立つ。


「次の隠れ場所へ」


 エイナが先に立った。


「ついてきて。今度はもっと深い裏道を使う」


「安全?」


 マーガレットが聞く。


「安全じゃない」


 エイナは振り返り、小さく笑った。


「でも、私の知ってる中では一番まし」


「十分」


 アレックスが答える。


 四人と救出者たちは、古い洗い場を後にした。


 外の路地は暗い。


 足音を殺し、息を潜め、抱えた命を守りながら進む。


 遠くで鐘が鳴っている。


 裏市の怒号が響いている。


 グレイルの闇は、さらに深くなっている。


 けれど。


 セラの弱い呼吸がある。


 子どもたちの小さな体温がある。


 レクスターを支えるマーガレットの手がある。


 道を示すエイナの背中がある。


 そして、アレックスの胸には、消えない約束がある。


 灯りは、まだ消えていない。


 なら、進める。


 夜のグレイルで、彼らはまた一つ、暗い路地を曲がった。

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