【第31話 地下から抱えて帰るもの】
地下水路に、警報の鐘が響き続けていた。
カン、カン、カン――。
乾いた金属音が、石壁に跳ね返り、何度も重なって聞こえる。
ひとつの鐘ではない。
奥で鳴り、横道で鳴り、さらに遠くの通路で別の鐘が応える。
地下全体が、こちらの存在を知ったようだった。
薬房には、まだ青白い煙が残っている。
リゼットが逃げ際に撒いた薬煙。
甘く、喉に絡み、吸えば身体の力を奪うもの。
レクスターの水膜が広がり、その煙を押し返していたが、完全には消しきれていない。
床には割れた薬瓶。
焦げた紋様。
倒れた汚染兵。
施術台から外されたセラ。
棚の奥から抱き起こされた子どもたち。
そして、砕けた扉の向こうから聞こえる足音。
増援が来る。
それも、少なくない。
「急いで!」
エイナが叫んだ。
彼女は棚のそばでぐったりしている子どもを一人抱き上げていた。
もう一人の子どもは、マーガレットが片腕で支えている。
セラはアレックスの腕の中だった。
立てる状態ではない。
顔は青白く、呼吸は浅い。
それでも、彼女は意識を手放さないよう必死に唇を噛んでいた。
「……ニナ……」
「大丈夫」
アレックスは何度目か分からない言葉を返した。
「ニナは待ってる。必ず会わせる」
セラの指が、弱くアレックスの服を掴む。
ニナと同じだった。
離せば消えてしまうと思っているような手。
その感触が、アレックスの胸を締めつける。
背後では、リゼットが逃げた通路が青白い残滓を残していた。
追える。
今なら、まだ。
追えば、捕まえられるかもしれない。
薬師リゼット。
欠片を扱い、人を作品と呼んだ女。
セラを縛り、子どもたちを薬の実験台にし、汚染兵を作っていた女。
あの女を逃がせば、また被害者が出る。
また誰かが縛られる。
また誰かの名前が奪われる。
アレックスの足は、何度もそちらへ動きかけた。
けれど、その腕の中でセラが震えている。
子どもたちがいる。
倒れた汚染兵たちもいる。
ここで追えば、置いていくことになる。
それはできない。
「アレックス!」
レクスターの声が飛んだ。
「迷わない!」
「……分かってる」
「今は撤退です!」
「分かってる!」
その声は、少し荒かった。
自分への怒りも混じっていた。
分かっている。
でも、悔しい。
リゼットを逃がすことが。
追えない自分が。
それでも。
セラの体温が、腕の中にある。
助けると約束した命が、ここにある。
なら選ぶ道は一つだ。
「全員、出る!」
アレックスは叫んだ。
マーガレットが即座に返す。
「了解!」
彼女は子どもを片腕で抱え、もう片方の手でハルバードを握った。
普通ならあり得ない体勢だ。
だがマーガレットは、それを当然のようにこなしている。
ただし、表情は険しい。
子どもを抱えている以上、いつものように振り回せない。
力を使うほど、抱えた子に衝撃がいく。
彼女はそれを分かっていた。
「マーガレット、その子を揺らさないでください!」
レクスターが叫ぶ。
「分かってる!」
「本当に?」
「今は本当に!」
「信用度六割!」
「ちょっと上がった!」
「状況が状況なので!」
こんな時でも言い合う二人に、エイナが一瞬だけ目を丸くした。
「あなたたち、今それやる?」
「やります!」
マーガレットが答える。
「この方が落ち着く!」
「意味分からないけど、ちょっと分かる!」
エイナが苦笑しながら、子どもを抱え直した。
その瞬間、通路の奥から足音が近づいた。
複数。
いや、かなり多い。
水を蹴る音。
金属の擦れる音。
低い怒鳴り声。
「薬房だ!」
「侵入者だ!」
「リゼット様を逃がせ!」
「生きて捕らえろ! 素材が増える!」
その言葉に、マーガレットの目が一瞬で変わった。
「素材?」
低い声。
アレックスが思わず振り返る。
「マーガレット」
「分かってる」
彼女は笑わなかった。
「今は、子ども優先」
その声に、怒りと理性が同時にあった。
成長している。
戦うだけではなく、守るために怒りを抑えている。
アレックスはその横顔を見て、胸の奥に少しだけ力をもらった。
「レクト、道は」
「来た道は危険です。増援が旧市場側から来ています」
「じゃあ?」
エイナが聞く。
「水路の下流へ抜ける」
「そこ、行き止まりじゃない?」
「地図上では行き止まりです」
「だめじゃん!」
「ただし、古い排水路が残っている可能性があります」
「可能性!?」
「今はそれに賭けるしかありません」
アレックスは頷いた。
「行こう」
「決断が早いですね」
「今、遅い方が危ない」
「正解です」
「褒めた?」
「褒めました」
「よし」
レクスターは水の本を開き、足元の水の流れを読む。
「下流は左。煙が残っています。水膜で覆います」
「レクトは歩ける?」
アレックスが聞いた。
「歩けます」
「本当に?」
「歩けます」
その返答が少し早すぎた。
アレックスは眉をひそめる。
だが今は問う時間がない。
レクスターの顔色は悪い。
水膜、拘束、命令線の解析、薬煙の処理、床紋様の遮断。
魔力と集中力を使いすぎている。
それでも彼は、最後尾に回ろうとしていた。
「レクト、前」
「私は後方を」
「前だ」
アレックスの声は強かった。
レクスターが目を細める。
「あなたに指示されるとは」
「今は俺がセラを抱えてる。マーガレットもエイナも子どもを抱えてる。水路を読めるのはレクトだけだ」
「……」
「前で道を見てくれ。後ろは俺が見る」
「あなたは抱えているでしょう」
「それでも見る」
「無茶です」
「でも、今はこれがいい」
短い沈黙。
レクスターは、ほんのわずかに息を吐いた。
「分かりました」
「ありがとう」
「無茶な指示ですが、合理性はあります」
「褒めた?」
「少し」
「よし」
「喜ばないでください」
四人は動き出した。
レクスターが先頭。
水の本を開き、足元の水を読んで進む。
次にエイナ。
子どもを抱えながら、裏道の感覚で横道を確認する。
その後ろにマーガレット。
抱えた子どもを守りながら、敵が来ればいつでも壁になる位置。
最後にアレックス。
セラを抱え、雷の刃を抜けるように右手を空けている。
走れない。
全力で逃げられない。
だから、進む。
水音を殺しながら。
薬煙を避けながら。
追手の足音を背に受けながら。
地下水路を進む。
背後で、薬房に増援がなだれ込んだ音がした。
「いないぞ!」
「下流だ!」
「追え!」
声が近づいてくる。
マーガレットが振り返りかける。
アレックスが言った。
「前へ」
「分かってる!」
だが、追手は早い。
彼らは地下に慣れている。
こちらは怪我人と子どもを抱えている。
距離は、少しずつ詰まる。
レクスターが低く言った。
「このままでは追いつかれます」
「止める?」
マーガレットが聞く。
「狭い場所で一度だけ足止めします」
「私?」
「はい。ただし、崩落させないでください」
「難しい注文!」
「あなたならできます」
マーガレットが目を見開く。
「今、信じた?」
「はい」
「あとでもう一回言って!」
「生きて出たら」
「絶対出る!」
数十歩先、通路が狭くなる場所があった。
両側の壁が迫り、天井も低い。
レクスターがそこを指す。
「そこで」
「了解!」
四人が通過した直後、マーガレットが振り返った。
抱えていた子どもを、エイナへそっと渡す。
「お願い!」
「任せて!」
マーガレットはハルバードを両手で握った。
追手の松明が見える。
五人。
いや、その後ろにもいる。
短剣。
棍棒。
欠片を埋め込んだ小型の刃。
全員、目が血走っている。
「いたぞ!」
「捕まえろ!」
「女を先に潰せ!」
マーガレットの足元が沈む。
「潰す?」
彼女は低く言った。
「それ、私の前で言う?」
ハルバードの石突が床を打った。
轟音。
だが、壁は崩さない。
床だけを割る。
石畳が波のように持ち上がり、追手の足元を崩した。
「うわっ!?」
「足場が!」
「転ぶな!」
先頭の男たちがまとめて倒れる。
後ろの者たちが詰まる。
狭い通路で、一瞬だけ渋滞が起きた。
マーガレットはそれを見て、にっと笑う。
「今の私、かなり上手くない?」
レクスターが遠くから叫ぶ。
「上手いです! 早く戻ってください!」
「褒めた!」
「戻ってください!」
「はい!」
マーガレットが駆け戻る。
その顔は、少し嬉しそうだった。
こんな状況で喜ぶなとレクスターなら言うだろうが、今の一撃は本当に見事だった。
壊しすぎず、殺さず、足止めだけ。
それは彼女にとって、ただ殴るよりずっと難しいことだった。
アレックスは横を通り過ぎる彼女に言う。
「すごかった」
「でしょ!?」
「うん」
「もっと言って!」
「後で!」
「みんな後でって言う!」
足止めは成功した。
しかし、長くは持たない。
追手は倒れた仲間を蹴り飛ばしながら起き上がり、再び追ってくる。
鐘の音はまだ鳴っている。
地下全体が敵になっているようだった。
しばらく進むと、水路が広くなった。
中央に濁った水が流れ、両側に細い歩道がある。
天井は低い。
空気はさらに湿っていた。
奥から冷たい風が吹いてくる。
「風」
アレックスが言う。
「出口が近い?」
エイナが顔を上げる。
「排水路が生きてるかも」
レクスターが頷く。
「可能性が上がりました」
「やった!」
マーガレットが声を上げる。
だが、その瞬間、足元の水が青白く光った。
レクスターの表情が変わる。
「止まって!」
全員が止まる。
水の中で、何かが動いた。
細い線。
蛇のような光。
欠片の命令線が、水流に沿って漂っている。
「水そのものが罠です」
レクスターが言う。
「触れたら?」
「命令線が絡む可能性があります」
「水路なのに水に触れないって無理じゃない!?」
マーガレットが叫ぶ。
「だから面倒なのです!」
追手の足音が近づく。
前には汚染水。
後ろには敵。
時間がない。
レクスターは水の本を両手で開いた。
ページが激しくめくれる。
「私が道を作ります」
「できるのか」
アレックスが聞く。
「やります」
「レクト」
「今止められても困ります」
「倒れるな」
「努力します」
「それ、俺が言うと怒るやつだ」
「あなたほど信用度は低くありません」
「でも」
「前を見てください」
レクスターの声が鋭くなる。
「私は道を作る。あなたは抱えて進む。マーガレットは横を守る。エイナは子どもを離さない」
「了解!」
マーガレットが答える。
エイナも頷く。
「分かった!」
レクスターが息を吸った。
水の本から、澄んだ水の膜が広がる。
汚染された水を左右へ押し分ける。
足場だけを露出させる。
青白い線が、水膜に絡もうとする。
レクスターの指が震える。
それを、彼は無理やり抑え込んだ。
「今!」
三人が進む。
セラを抱えたアレックス。
子どもを抱えたエイナ。
もう一人を抱えたマーガレット。
細い足場。
左右には青白い水。
踏み外せば終わる。
アレックスは一歩ずつ進んだ。
走りたい。
だが走れない。
腕の中のセラが苦しそうに息をする。
「……ニナ……」
「もう少し」
アレックスは言う。
「もう少しで戻れる」
「……ごめん……ニナ……」
「謝らなくていい」
「……私……守れな……」
「守った」
アレックスは、はっきり言った。
「ニナは逃げられた。君が逃がした」
セラの目がわずかに開く。
「……ほんと……?」
「うん」
「……よかった……」
その一言が、アレックスの腕に重く沈んだ。
こんな状態で、彼女は妹の無事を喜んでいる。
それを見て、リゼットを逃がした悔しさがまた燃える。
だが、今は違う。
この命を戻す。
それが先だ。
背後で怒号。
「いたぞ!」
「水を越えろ!」
「構うな、突っ込め!」
追手が汚染水へ踏み込んだ。
次の瞬間、青白い線が彼らの足へ絡む。
「ぐあっ!?」
「なんだこれ!」
「足が……!」
敵の何人かが倒れる。
しかし、そのうち数人は欠片武器を水に叩きつけ、命令線を無理やり散らしながら進んできた。
レクスターが舌打ちする。
「欠片武器持ちです」
「厄介?」
「非常に」
「じゃあ急ぐ!」
マーガレットが子どもを抱え直す。
「レクスター、あとどれくらい!?」
「出口まで五十歩ほど!」
「遠い!」
「現実です!」
その時、エイナが足を滑らせた。
濡れた石に靴底を取られたのだ。
「っ!」
抱えている子どもを守るため、彼女は自分の体勢を崩した。
足が汚染水へ落ちかける。
「エイナ!」
アレックスは動けない。
セラを抱えている。
マーガレットも距離がある。
その瞬間、レクスターの水糸がエイナの腰へ絡んだ。
ぐい、と引き戻す。
エイナは歩道へ倒れ込み、子どもを抱えたまま息を吐いた。
「……助かった」
「油断しないでください!」
レクスターの声が荒い。
「ごめん!」
「謝罪は後です!」
「怒ってる?」
「怒っています!」
「珍しく感情出すじゃん!」
「今それを言いますか!」
レクスターの水膜が揺れる。
限界が近い。
アレックスは前を見る。
暗い通路の奥に、わずかな風の流れ。
出口。
排水路。
そこへ向かうしかない。
「あと少しだ!」
アレックスが言う。
「全員、前へ!」
マーガレットが応える。
「うん!」
エイナも立ち上がる。
「行ける!」
レクスターは何も言わなかった。
ただ、水膜を維持する。
彼の足元が少しふらつく。
アレックスは見ていた。
だが今は、支えに行けない。
だから言葉を投げる。
「レクト!」
「はい!」
「戻ったら寝ろ!」
「命令ですか!」
「お願いだ!」
「……検討します!」
「今はそれでいい!」
出口が見えた。
石格子が半分壊れた排水口。
外へ続いている。
ただし狭い。
一人ずつしか通れない。
しかも、格子の一部が残っている。
マーガレットが目を輝かせた。
「壊していい?」
レクスターが即答する。
「静かに!」
「難しい!」
「でもやってください!」
「任せて!」
マーガレットは子どもをエイナへ一瞬預け、ハルバードを握った。
大きく振らない。
石突を格子の根元へ当てる。
力を一点へ。
ぎし。
金属が歪む。
ぎぎ。
根元が割れる。
「んんん……!」
マーガレットの腕に力がこもる。
だが、音は最小限。
ばきん。
格子が外れた。
「できた!」
「素晴らしいです!」
レクスターが叫ぶ。
「今の聞いた!?」
「聞きました! 早く!」
「はい!」
まずエイナが子どもを抱えて出る。
次にマーガレットがもう一人を抱えて続く。
アレックスはセラを抱えて格子をくぐる。
狭い。
セラに当たらないよう、身体を捻る。
冷たい外気が頬に触れた。
地上ではない。
町の外縁にある排水路の出口だ。
外には細い水路と、廃材置き場のような場所が広がっている。
夜風。
久しぶりの空気。
地下の薬臭さから解放された瞬間、セラが小さく咳き込んだ。
「大丈夫」
アレックスは彼女を支える。
「もう外だ」
最後にレクスターが出ようとした。
だが、その背後から欠片武器を持った男が迫る。
「逃がすか!」
刃が振り下ろされる。
「レクト!」
アレックスが叫ぶ。
レクスターは振り返り、水の本を構えた。
だが、足元が揺れる。
疲労で反応がわずかに遅れた。
刃が迫る。
その瞬間、マーガレットが格子の外から腕を伸ばした。
「掴まって!」
レクスターの襟首を掴む。
「え」
「せーの!」
力任せに引っ張った。
レクスターの身体が排水口から外へ引きずり出される。
同時に、欠片武器の刃が空を切った。
レクスターは地面へ転がり、眼鏡がずれた。
「……マーガレット」
「助けた!」
「雑です!」
「でも助かった!」
「助かりました!」
「やった!」
アレックスは思わず笑いかけた。
だが、すぐに排水口の奥から怒号が響く。
「外へ出たぞ!」
「回り込め!」
「上に知らせろ!」
エイナが周囲を見回す。
「ここから離れる! すぐ!」
「どこへ!」
アレックスが聞く。
「銀兎亭は危険。染物倉庫も見られてる。いったん、古い洗い場へ!」
「安全?」
「安全じゃないけど、追手の目は薄い!」
「十分!」
レクスターが立ち上がろうとして、膝をついた。
「レクト!」
アレックスが駆け寄る。
「問題ありません」
「ある!」
「少し、魔力を使いすぎただけです」
「それを問題って言う!」
マーガレットが即座にレクスターの腕を取った。
「肩貸す!」
「歩けます」
「貸す!」
「……お願いします」
珍しく、レクスターが素直に言った。
マーガレットの顔が一瞬だけ強張る。
それほど限界なのだと分かったからだ。
「うん」
彼女は声を少し柔らかくした。
「任せて」
アレックスはセラを抱え直す。
エイナは子どもを二人連れて前に出る。
全員、疲れている。
傷もある。
リゼットは逃げた。
裏市の追手はまだ来る。
それでも、地下から出た。
セラを連れ出した。
子どもたちも連れ出した。
レクスターも、マーガレットも、エイナも、ここにいる。
誰も置いてこなかった。
それが、今は何より大きかった。
夜のグレイルの裏路地を、四人と救出者たちは走った。
走ると言っても、速くはない。
抱え、支え、息を切らしながら進む。
廃材の影を抜け、細い路地を曲がり、染料の匂いが残る水路沿いを進む。
背後からは、まだ怒号が聞こえる。
松明の光も見える。
追手は諦めていない。
だが、グレイルの夜は複雑だ。
路地は入り組み、布が視界を遮り、水路が音を散らす。
エイナはその全てを使って進んだ。
「こっち!」
彼女が叫ぶ。
古い石段を下り、小さな洗い場へ出た。
かつて染物職人たちが布を洗っていた場所らしい。
今は使われておらず、半壊した屋根と石槽だけが残っている。
水は細く流れているが、地下ほど汚染されてはいない。
エイナは奥の扉を開けた。
物置のような小部屋。
「ここ!」
「一時避難ですね」
レクスターが息を切らしながら言う。
「長居はできません」
「分かってる!」
エイナは子どもたちを中へ入れる。
マーガレットがレクスターを座らせる。
アレックスはセラを石槽の横に寝かせた。
セラは荒く呼吸している。
顔色は悪い。
だが、地下にいた時よりは少しだけ楽そうに見えた。
「セラ」
アレックスが声をかける。
「聞こえるか」
「……はい……」
「ニナのところへ戻る。もう少しだけ待ってくれ」
「……ニナ……泣いて……ましたか……?」
「君を心配してた」
「……そう……」
セラの目から涙がこぼれた。
「怒られる……」
「怒られる?」
「勝手に……薬をもらいに……行ったから……」
その言葉に、アレックスは胸が締めつけられる。
こんな状態で、彼女が気にしているのは妹に怒られることなのか。
生きている。
まだ、彼女は姉だ。
誰かを思える。
それが、どれほど尊いことか。
「大丈夫」
アレックスは言った。
「怒られても、会える」
セラは、涙を流しながら小さく笑った。
「……それなら……いいです……」
マーガレットが横で目元を押さえた。
「だめ、泣きそう」
「泣くなら後です」
レクスターが座ったまま言う。
「まず処置」
「分かってる!」
「あなたは水を」
「はい!」
マーガレットは慌てて動き出す。
アレックスはレクスターを見る。
「レクト、できるか」
「やります」
「できるかって聞いた」
「……短時間なら」
正直な答えだった。
アレックスは頷いた。
「俺にできることは」
「セラの身体を支えてください。エイナ、子どもたちの状態確認。マーガレット、水と布」
「了解!」
「分かった!」
「うん!」
小さな洗い場が、急ごしらえの処置場になった。
地上へ出たばかりなのに、休む暇はない。
でも、それでいい。
助けた命は、助けたあとも手を離してはいけない。
アレックスはセラの肩を支えながら、外の夜へ耳を澄ませた。
追手の声は少し遠い。
だが、完全に消えてはいない。
リゼットは逃げた。
黒外套も、どこかで見ているかもしれない。
裏市は動き出した。
グレイルの夜は、ますます危険になっている。
それでも。
セラはここにいる。
子どもたちもいる。
レクスターも、マーガレットも、エイナもいる。
地下から抱えて帰ってきたものは、重かった。
傷ついた命。
逃がした敵。
増えた約束。
悔しさ。
怒り。
そして、まだ消えていない灯り。
アレックスは、セラの弱い呼吸を聞きながら、静かに拳を握った。
この灯りを、必ず戻す。
ニナのもとへ。
炭焼き小屋へ。
名前を待つ人々のもとへ。
そのために、まだ倒れられない。
夜のグレイルで、追放された三人と一人の案内人は、束の間の隠れ場所に身を寄せた。
けれど、外ではもう次の足音が動き始めている。
裏市は、彼らを逃がす気などなかった。




