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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第30話 灯りは、まだ消えない】



 薬房の空気が、変わった。


 地下水路の湿った冷気。


 欠片の鉄臭い匂い。


 甘ったるい薬品臭。


 それら全部を押しのけるように、重い踏み込み音が響く。


 マーガレットだった。


 砕けた扉の木片を踏み越え、大地のハルバードを肩へ担ぎながら、彼女は薬房の中央へ立っていた。


 桃色の髪が揺れる。


 丸い瞳は、今だけは笑っていない。


 怒っていた。


 真正面から。


 隠さず。


 それを見た瞬間、薬房の空気に初めて“圧”が生まれた。


 リゼットですら、一瞬だけ目を細める。


「……増えたわね」


 リゼットが静かに言った。


 マーガレットは鼻を鳴らす。


「勝手に置いていかれたからね」


「マーガレット!」


 アレックスが叫ぶ。


 施術台の拘束具を外しながら。


「なんで来たんだ!」


「来るに決まってるでしょ!」


 マーガレットは即答した。


「レクスターから話聞いて、“地下に変な薬房あるかも”って聞いた時点で嫌な予感しかしなかった!」


「嫌な予感で来ないでください!」


 レクスターが怒鳴る。


 だが、その声には、ほんの少しだけ安堵も混じっていた。


「危険です!」


「知ってる!」


「なら止まっていてください!」


「無理!」


「でしょうね!」


 レクスターが頭を押さえる。


 だが、その直後、汚染兵が一体レクスターへ向かって飛び込んだ。


 改良型。


 床の紋様が半分止まったことで制御が乱れ、逆に暴走気味になっている。


 レクスターは水糸を動かしている最中だ。


 回避は間に合わない。


 だが。


「邪魔」


 マーガレットが、一歩前へ出た。


 ハルバードの柄が、空気を裂く。


 鈍い衝撃音。


 汚染兵の身体が横へ吹き飛び、石壁へ叩きつけられた。


 殺してはいない。


 だが、完全に動きを止めた。


 薬房の棚が揺れ、瓶が何本か落ちて砕ける。


 甘い薬臭がさらに濃くなる。


 マーガレットは鼻をしかめた。


「うわ、臭い」


「マーガレット!」


 アレックスが再び叫ぶ。


「加減!」


「してる!」


「今ので!?」


「かなり!」


 レクスターが即答した。


「今のはかなり加減しています!」


「レクトまで!?」


「事実です!」


 マーガレットはハルバードを構え直し、リゼットを睨んだ。


「で?」


 低い声。


「あんたが、人を薬にしてるやつ?」


 リゼットは穏やかな笑みを崩さない。


「薬にしているわけではないわ。苦痛から解放しているの」


「じゃあ質問」


 マーガレットは首を傾げた。


「なんで、この人たち泣いてんの?」


 薬房の奥。


 棚のそばに座り込む子どもたち。


 施術台のセラ。


 床に転がる改良型汚染兵。


 その全員が、苦しそうだった。


 呻き、震え、怯えている。


 その姿を見て、“解放”なんて言葉は出てこない。


 リゼットは少しだけ目を伏せた。


「治療には痛みが伴うものよ」


「嘘だね」


 マーガレットは言い切った。


「痛いの我慢してる顔と、怖いの我慢してる顔、違うもん」


 リゼットが初めて黙る。


 ほんの一瞬。


 その隙を、アレックスは逃さなかった。


「レクト!」


「今です!」


 拘束具の最後の金具へ、レクスターの水糸が絡む。


 アレックスは導入器の管を慎重に引き抜いた。


 青白い液体が逆流する。


 セラが苦しそうに息を呑む。


「っ……!」


「もう少し!」


 アレックスが支える。


 レクスターが水膜で導入器を包む。


「流れを遮断!」


 水膜の中で、青白い液体がじゅわりと音を立てた。


 欠片の命令線が切れる。


 セラの身体から力が抜けた。


「……終わった」


 アレックスが呟く。


 セラは涙を流しながら、浅く息をしていた。


「……ニナ……」


「待ってる」


 アレックスが言う。


「無事だ」


 セラの肩が震える。


 安堵なのか。


 痛みなのか。


 その両方なのか。


 分からない。


 だが、少なくとも、もう青白い液体は流れていなかった。


 リゼットの目が細くなる。


「やるじゃない」


「褒められても嬉しくない」


 アレックスはセラを支えながら立ち上がる。


 だが、その瞬間。


 薬房の奥で、低い唸り声が響いた。


 改良型汚染兵。


 先ほどマーガレットが吹き飛ばした個体が、また立ち上がっていた。


 首が不自然に傾いている。


 腕も震えている。


 なのに、止まらない。


 中核片からの命令線が、まだ繋がっている。


「しつこいなぁ!」


 マーガレットが踏み出す。


 だが、レクスターが叫んだ。


「待ってください!」


「え!?」


「中核片の流れが変わりました!」


 リゼットが、中核片を胸元へ引き寄せている。


 その光が、薬房全体ではなく、改良型汚染兵へ集中し始めた。


 青白い脈動が強くなる。


 筋肉が膨らむ。


 目の焦点が完全に消える。


 人間らしさが、さらに薄れていく。


 エイナが息を呑んだ。


「……あれ、まずい」


「暴走型へ移行しています」


 レクスターの声が低くなる。


「欠片負荷を無理やり上げた。もう人間として保たないつもりです」


「止める!」


 アレックスが言う。


「殺さずに!」


「難易度が跳ね上がっています!」


「でもやる!」


「でしょうね!」


 マーガレットがハルバードを回した。


「じゃあ、私が抑える!」


「潰さないでください!」


「そこは頑張る!」


「信用度ゼロです!」


「ひどい!」


 暴走型汚染兵が、床を砕いて突っ込んできた。


 速い。


 さっきまでとは比べ物にならない。


 マーガレットが真正面から受ける。


 大地のハルバードと拳がぶつかり、薬房全体が震えた。


「っ……!」


 マーガレットの足元の石床が割れる。


 だが、押し返した。


「重っ!」


「マーガレット!」


 アレックスが叫ぶ。


「右肩! 命令線!」


「見えない!」


「レクト!」


「胸部深層へ移動しています!」


「それって!」


「非常に面倒です!」


 レクスターは水糸を走らせる。


 暴走型の身体へ絡みつかせ、筋肉の動きを読む。


「左脇腹に副接続!」


「了解!」


 アレックスが横へ回る。


 暴走型の腕が振るわれる。


 避ける。


 だが、風圧だけで棚が吹き飛ぶ。


 瓶が割れ、薬液が飛び散る。


 床から煙が上がる。


 毒だ。


「触るな!」


 エイナが叫ぶ。


 彼女は子どもたちを庇いながら、布を投げて薬液を覆った。


 床の罠。


 毒薬。


 暴走型。


 セラ。


 中核片。


 薬房の中は、すでに戦場だった。


「アレックス!」


 マーガレットが叫ぶ。


「今!」


 彼女がハルバードの柄で暴走型の顎を跳ね上げる。


 一瞬、首元が見えた。


 アレックスが雷針を撃つ。


 ばちん!


 青白い線が弾ける。


 だが、止まらない。


「浅い!」


「もう一つあります!」


 レクスターが叫ぶ。


「背中!」


 アレックスが回り込もうとした瞬間、リゼットが指を鳴らした。


 床の紋様が再点灯する。


 まだ全部は止まっていなかった。


 青白い輪がアレックスの足元へ広がる。


「アレックス!」


 エイナが叫ぶ。


 間に合わない。


 そう思った瞬間。


 大地の壁が割り込んだ。


 マーガレットだった。


 彼女は片手でハルバードを振り抜き、石床を抉り上げる。


 砕けた石が壁のように盛り上がり、青白い輪を遮断した。


 光が石へぶつかり、爆ぜる。


 衝撃でマーガレットの身体が揺れた。


「っ……!」


「マーガレット!」


「平気!」


 強がりだ。


 腕が痺れている。


 それでも彼女は笑った。


「アレックス、後ろ!」


 アレックスが振り向く。


 暴走型の背中。


 青白い脈動。


 そこへ、雷針。


 ばちん!


 暴走型の動きが鈍る。


「まだ!」


 レクスターが叫ぶ。


「胸部中核!」


「深すぎる!」


「なら外側から崩す!」


 アレックスは暴走型の正面へ回った。


 目が合う。


 焦点のない目。


 だが、その奥に、かすかな苦しみが見えた気がした。


 助けて。


 そう言っているように見えてしまう。


「……止める」


 アレックスは低く言った。


「今、止める」


 雷を絞る。


 強くしすぎれば壊れる。


 弱ければ届かない。


 その境界を探る。


 難しい。


 でも、やるしかない。


 レクスターが水糸で胸部の流れを示す。


「中央ではなく右!」


「了解!」


 マーガレットが暴走型の腕を押さえる。


「早く!」


「分かってる!」


 アレックスは踏み込んだ。


 雷の刃を逆手に持ち替える。


 刺すのではない。


 押し込む。


 命令線だけへ。


「雷糸――断て」


 細い雷が、暴走型の胸部へ走る。


 青白い脈動とぶつかる。


 じゅっ、と焦げる音。


 暴走型の身体が大きく震えた。


 そして。


 崩れ落ちた。


 静かに。


 糸の切れた人形みたいに。


 薬房へ、荒い呼吸だけが残る。


 マーガレットがその場へ座り込む。


「はぁっ……重かったぁ……」


 レクスターも壁へ手をついた。


 水の本を持つ指が震えている。


 限界が近い。


 アレックスは暴走型の呼吸を確認した。


 生きている。


 止めた。


 壊さずに。


「……やった」


 その声は小さかった。


 リゼットが、その様子を見ていた。


 彼女の微笑みは、もう少し薄くなっている。


「本当にやるのね」


「やる」


 アレックスが立ち上がる。


「全部救う」


「傲慢」


「そうかもしれない」


「壊れるわよ」


「それでも」


 アレックスは雷の刃を向けた。


「見捨てるよりいい」


 リゼットは黙った。


 そして、ふっと息を吐く。


「……変な子たち」


 その時だった。


 地下水路のさらに奥。


 薬房の裏側から、鐘の音が響いた。


 カン、カン、カン――。


 警報。


 エイナの顔色が変わる。


「まずい」


「何ですか」


 レクスターが問う。


「裏市の増援呼んでる」


 マーガレットが顔をしかめる。


「増援って何人くらい?」


「多いと二十以上」


「多っ!?」


「しかも欠片武器持ちが来る可能性ある」


 レクスターの視線が鋭くなる。


「長居は不可能ですね」


「でもリゼットが」


 アレックスが言いかける。


 その瞬間。


 薬房の灯りが、一斉に落ちた。


 青白い光だけが残る。


 視界が暗転する。


「っ!」


 エイナが短剣を構える。


 マーガレットが立ち上がる。


 レクスターが水膜を展開。


 そして、暗闇の中で。


 リゼットの声だけが響いた。


「今日はここまで」


 次の瞬間。


 青白い煙が薬房へ広がった。


「煙!」


「吸わないでください!」


 レクスターが叫ぶ。


 水膜が広がる。


 だが、完全には防ぎきれない。


 アレックスは咳き込みながら、前へ出た。


「リゼット!」


 煙の向こう。


 白衣の影が、地下水路の奥へ消えていく。


 逃がす。


 ここで追えば、セラと子どもたちを危険へ晒す。


 追わなければ、リゼットは逃げる。


 選ばなければならない。


 アレックスの拳が震えた。


 その時。


 セラの弱い声が聞こえた。


「……ニナ……」


 アレックスは、ゆっくり目を閉じた。


 数秒。


 そして開く。


「……追わない」


 悔しそうに言った。


「今は、みんなを連れて出る」


 レクスターが小さく頷く。


「正解です」


 エイナも息を吐く。


「増援来る前に逃げよう」


 マーガレットがハルバードを担ぎ直した。


「じゃあ、全部抱えて帰ろっか」


 アレックスは笑った。


 苦い。


 悔しい。


 でも、少しだけ安心した笑いだった。


 リゼットは逃げた。


 黒外套も、まだいる。


 終わっていない。


 それでも。


 セラは助けた。


 子どもたちも生きている。


 暴走型も止めた。


 灯りは、まだ消えていない。


 地下薬房の闇の中で。


 四人は、救い出した命を抱えながら、地上への道へ走り出した。

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