【第29話 全部救うという無茶】
地下水路の水が、逆流していた。
薬房の石床の隙間から、濁った水がじわじわと浮き上がる。
青白い光を帯びた水だった。
ただの水ではない。
欠片の力が混じっている。
流れは細く、けれど確実に広がり、床に刻まれた紋様をなぞるように薬房全体へ染み渡っていく。
棚に並んだ薬瓶が震えた。
中の液体が泡立ち、赤、紫、黒、青白い色が不気味に揺れる。
壁の金具が鳴る。
施術台の拘束具が軋む。
セラの腕に浮かぶ黒い筋が、強く脈打った。
「っ……あああああっ!」
セラの悲鳴が、地下の石壁に反響した。
ニナの姉。
薬を求めて、この場所へ来た少女。
今、その身体は薬師リゼットの実験に繋がれている。
アレックスの視界が揺れかけた。
走りたい。
今すぐ拘束具を斬り飛ばしたい。
セラを抱えて逃げたい。
だが、それをすれば壊れる。
リゼットが言った。
レクスターも確認した。
拘束具と導入器、欠片の中核片が接続されている。
乱暴に外せば、セラの身体へ反動が来る。
命に関わる。
だから、止まる。
助けるために、止まる。
それが、こんなにも苦しい。
「アレックス!」
レクスターの声が飛んだ。
「中核片を見てください! リゼットではなく!」
その声で、アレックスは視線を戻した。
白衣の女。
薬師リゼット。
彼女の手には、青白く脈打つ中核片がある。
普通の破片より濃い光。
小さいが、明らかに強い。
その光が薬房の紋様と繋がり、セラと汚染兵、床の罠、棚の薬瓶、すべてに命令を流している。
ここでリゼットを斬っても、中核片が暴走すれば終わる。
中核片を砕いても、接続されている人々が壊れる。
なら、奪う。
流れを切る。
支配だけを断つ。
また、難しい道だ。
黒外套が見ていたなら笑うだろう。
優しい王子様は、また難しい道を選ぶ。
けれど、選ばない理由にはならない。
「レクト!」
アレックスが叫ぶ。
「流れを見せてくれ!」
「言われなくても!」
レクスターは水の本を開いた。
地下水路の水が彼の周囲に集まる。
だが、その水には欠片の汚染が混じっている。
そのまま使えば危険だ。
レクスターは水を一度薄い膜に広げ、汚染の濁りを分離する。
青白い粒子が膜の外側へ押し出され、水だけが澄んでいく。
額に汗が浮いた。
疲労は限界に近い。
それでも、彼の指は止まらない。
「中核片から三方向!」
レクスターが叫ぶ。
「一つはセラへ! 一つは汚染兵へ! 一つは床の紋様へ!」
「どれから切る!」
「床です! 罠を止めなければ動けない!」
「分かった!」
アレックスが踏み込もうとした瞬間、汚染兵二体が動いた。
改良型。
先ほどよりも反応が速い。
痛みを恐れないだけではない。
動きに無駄が少ない。
リゼットが調整したのだ。
人を、人としてではなく、戦う道具として。
「邪魔だ!」
エイナが右から飛び込んだ。
短剣を抜く。
だが、刃を深く入れない。
汚染兵の服を切り、布を絡ませ、動きを止める。
彼女も、もう分かっている。
殺せない。
殺したくない。
それでも止めなければならない。
汚染兵の腕がエイナへ伸びる。
彼女は低く身を沈め、床を蹴って横へ滑る。
その動きは軽い。
けれど、焦りがある。
棚の奥には、子どもが二人いる。
床の罠が生きている。
セラは悲鳴を上げている。
リゼットは笑っている。
焦らない方が難しい。
「エイナ、下がりすぎるな!」
アレックスが叫ぶ。
「分かってる!」
「床の紋様!」
「見えてる!」
エイナの足元で、青白い光が走った。
床から棘のような光が伸びる。
彼女はぎりぎりで跳ぶ。
だが、袖が裂けた。
「っ!」
「エイナ!」
「平気!」
嘘だ。
腕に浅い傷がある。
だが、止まらない。
レクスターの声が響く。
「アレックス、右の紋様! 床に雷を流してください。ただし広げすぎない!」
「了解!」
アレックスは雷の刃を床へ向けた。
斬るのではない。
流す。
床の紋様に沿って走る青白い線へ、細い雷をぶつける。
「雷糸」
雷が床を這った。
青白い紋様とぶつかり、火花が散る。
じゅ、と焦げた匂い。
床の一部が黒く焼ける。
青白い光が途切れた。
「一つ!」
レクスターが叫ぶ。
「左奥!」
アレックスは振り向く。
汚染兵が再び来る。
刃を使えば早い。
だが、深く斬らない。
肩、首、腰。
命令線を探る。
「右肩!」
レクスターの指示。
雷針。
汚染兵の片腕が落ちる。
「左膝!」
雷針。
動きが鈍る。
「首の裏!」
アレックスが踏み込み、背後へ回る。
汚染兵の呻き声が耳に刺さる。
痛みではない。
命令に抗えない苦しみ。
アレックスは奥歯を噛む。
「すぐ止める」
雷針。
汚染兵が崩れた。
呼吸はある。
生きている。
確認する時間はない。
「次!」
リゼットの声がした。
柔らかく、楽しそうではない。
淡々とした声。
「上手ね。けれど、処置が遅いわ」
彼女の手元で中核片が強く光る。
セラの身体が跳ねた。
「いやああああっ!」
エイナが叫ぶ。
「リゼット!」
「騒がないで。薬の回りが乱れる」
「ふざけんな!」
「ふざけていないわ」
リゼットは本当に穏やかだった。
「この子は助かるのよ。苦痛も、恐怖も、貧しさも、家族を守れない無力感も、全部薄くなる。命令を聞いていれば、何も考えなくて済む」
「それを助かるって言うな!」
エイナが踏み込む。
だが、レクスターが叫んだ。
「下がる!」
エイナは反射的に止まる。
彼女の目の前で、床から青白い輪が広がった。
踏み込んでいたら、巻き込まれていた。
エイナの顔が青ざめる。
「……っ」
「リゼットはあなたを誘っています」
レクスターが言う。
「感情で飛び込めば捕まる」
「分かってる……!」
「分かっていませんでした」
「今分かった!」
「なら良し」
アレックスは中核片を見る。
床の紋様は、まだ残っている。
セラへの線も太い。
汚染兵への線も動いている。
全部同時に止めなければ、どこかが崩れる。
自分だけでは無理だ。
レクスターの制御が必要。
エイナの案内と動きも必要。
マーガレットがいたら。
そう思った瞬間、アレックスは少しだけ苦笑した。
ここにマーガレットがいたら、きっとリゼットを殴りに行こうとして、レクスターに止められていただろう。
そして、それでも彼女は子どもたちを守っていたはずだ。
今は遠く離れた炭焼き小屋で、みんなを守っている。
なら、ここは自分たちがやる。
「レクト!」
「はい!」
「床を止めたら、セラの拘束具を外せるか!」
「中核片の流れを一時遮断できれば!」
「一時でいい!」
「十秒です!」
「十分!」
「十分ではありません!」
「でもやる!」
「でしょうね!」
リゼットが微笑む。
「仲がいいのね」
「黙ってて」
エイナが低く言う。
「あなたの声、聞いてると吐き気がする」
「あら、薬が必要かしら」
「必要ない」
エイナは短剣を握り直す。
「必要なのは、あなたを止めること」
「止めたところで、この町は変わらないわ」
リゼットの声は、どこまでも静かだ。
「私は求められたものを出しているだけ。痛みを消す薬。逆らわなくなる薬。働き続けられる薬。恐怖を忘れる薬。誰が望んだと思う?」
エイナの顔が険しくなる。
「黙れ」
「裏市? 警備隊? 貧しい親? 働けない者を抱えた商人? 逃げる気力すら奪ってほしいと願った買い手?」
「黙れ!」
「この町よ」
リゼットは微笑んだ。
「この町が、私を必要としたの」
その言葉に、薬房の空気が重く沈んだ。
エイナの手が震える。
怒りだけではない。
悔しさ。
否定しきれない痛み。
確かに、この町は腐っていた。
誰か一人の悪で済ませられるほど単純ではない。
裏市があり、買う者がいて、見逃す者がいて、諦めた者がいる。
その上でリゼットの薬房は成り立っている。
だからこそ、彼女は笑っている。
自分だけが悪ではないと。
町そのものが望んだのだと。
アレックスは、静かに言った。
「それでも、お前がやった」
リゼットの目が、初めて少しだけ動いた。
「何?」
「町が腐ってるのは分かった」
アレックスは刃を構える。
「裏市があるのも、見逃す人がいるのも、怖くて黙る人がいるのも、全部分かった」
セラの呻き声。
子どもたちの震える息。
エイナの怒り。
レクスターの荒い呼吸。
全部を聞きながら、アレックスは言う。
「でも、今セラを縛っているのはお前だ」
リゼットの微笑みが薄くなる。
「この子たちに薬を入れているのはお前だ」
「……」
「人を作品と言ったのもお前だ」
アレックスの声は荒くない。
けれど、薬房の空気が震えた。
「町が腐っていても、それはお前の罪が消える理由にはならない」
リゼットは黙った。
ほんの一瞬だけ。
その一瞬で、エイナが息を呑む。
レクスターが小さく言った。
「今です」
アレックスが動いた。
リゼットの言葉に、彼女自身がわずかに揺れた瞬間。
中核片の光がほんの少し乱れた。
その隙を、レクスターは逃さなかった。
「床を抑えます!」
地下水路の水が、一斉に紋様を覆った。
汚染された水ではなく、レクスターが濾過した澄んだ水。
床の青白い線が、水膜の下で鈍る。
「アレックス!」
「分かってる!」
雷糸。
床の紋様へ。
一つ。
二つ。
三つ。
青白い線が断たれていく。
薬房全体の光が揺らいだ。
リゼットが眉をひそめる。
「余計なことを」
彼女が中核片を握り直す。
だが、エイナが飛び込んだ。
正面ではない。
棚を蹴り、横から。
短剣を投げる。
狙いはリゼットではない。
リゼットの足元に置かれていた薬瓶。
それが割れ、白い煙が上がった。
リゼットが一歩退く。
「エイナ」
「あなたの薬、嫌いなんだよ」
エイナが低く言う。
「匂いも、名前も、使い方も全部」
「悪い子ね」
「悪い子でいい」
エイナは棚の子どもたちの前に立った。
「この子たちに触るな」
リゼットは一瞬、エイナを見た。
その目に、興味が浮かぶ。
「あなたも昔はよく薬を欲しがっていたわね」
エイナの表情が固まった。
アレックスがそれに気づく。
レクスターも。
「弟のためだったかしら」
リゼットが微笑む。
「咳が止まらない、小さな弟。薬が欲しくて、何度も裏の扉を叩いていた」
「黙れ」
「間に合わなかったわね」
「黙れ!」
エイナが踏み出しかける。
レクスターが叫ぶ。
「エイナ!」
その声で、エイナは止まった。
止まった。
唇を噛み、血が滲むほど噛み、それでも止まった。
リゼットは少しだけ残念そうに目を細める。
「成長したのね」
「あなたのおかげじゃない」
エイナの声は震えていた。
「絶対に違う」
アレックスは、その背中を見た。
エイナもまた、傷を抱えていた。
この町で失ったものがある。
助けられなかった人がいる。
それでも、彼女は止まった。
子どもたちを守るために。
感情で飛び出せば、リゼットの罠にかかると分かっていたから。
「エイナ」
アレックスが言う。
「ありがとう」
「今言う?」
「言いたかった」
「ほんと、変な人」
エイナは震える声で笑った。
「でも、悪くない」
「セラを外します!」
レクスターが叫んだ。
「十秒!」
床の紋様がほぼ止まった。
中核片からセラへの線が弱まる。
今しかない。
アレックスは施術台へ向かった。
汚染兵が一体、立ちふさがる。
改良型。
さっき止めきれなかった方だ。
アレックスは刃を構えた。
殺さない。
でも退かない。
「どいてくれ」
もちろん返事はない。
汚染兵が拳を振る。
アレックスは真正面から受けず、肩をずらして流す。
同時に雷針を三箇所へ撃つ。
首。
肩。
脇腹。
動きが鈍る。
だが完全には止まらない。
「時間がありません!」
レクスターの声。
「分かってる!」
アレックスは一歩踏み込む。
雷の刃を逆手に持ち替え、柄で汚染兵の胸を押す。
倒すのではない。
ずらす。
半歩。
それでいい。
セラへの道が開いた。
アレックスは施術台へ届く。
セラの目が彼を見た。
恐怖。
痛み。
それでも、微かな希望。
「……ニナ……」
「無事です」
アレックスは言う。
「待っています」
セラの目から涙が落ちた。
「……よかっ……た……」
「今、外します」
拘束具を見る。
金属の輪。
そこに青白い線。
レクスターの声が飛ぶ。
「右腕から! 次に左脚! 胸の導入器は最後!」
「了解!」
雷を使えない。
強すぎる。
ここは手で外す。
金具が硬い。
鍵はない。
アレックスは刃の先を使い、金具の隙間へ差し込む。
こじ開ける。
力任せではなく、角度を探る。
右腕が外れる。
「次!」
左脚。
セラが痛みに息を詰める。
「大丈夫」
アレックスは言った。
「もう少し」
「……はい……」
その返事に、胸が詰まりそうになる。
こんな状況で、彼女は返事をした。
信じようとしてくれている。
なら、裏切れない。
「五秒!」
レクスターが叫ぶ。
左脚が外れる。
胸の導入器。
細い管が、セラの胸元の金具へ繋がっている。
そこから青白い液体が流れている。
リゼットが動く。
中核片を握り、再接続しようとする。
エイナが短剣を構えるが、距離がある。
レクスターは床を抑えていて動けない。
アレックスは導入器から目を離せない。
その時。
薬房の入口側から、重い音がした。
どん。
どん。
どん。
誰かが、扉を叩いている。
いや、叩き壊している。
リゼットが眉をひそめた。
「何……?」
次の瞬間、薬房の扉が内側へ吹き飛んだ。
砕けた木片が床に散る。
全員が振り向く。
そこに立っていたのは。
大地のハルバードを肩に担ぎ、息を荒くしたマーガレットだった。
「――見つけた」
彼女の声は低かった。
怒っていた。
ものすごく怒っていた。
アレックスが目を見開く。
「マーガレット!?」
「ごめん、来ちゃった!」
マーガレットはにっと笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「炭焼き小屋は大丈夫。トマたちも隠した。ザイルが吐いた道を辿ってきた」
レクスターが叫ぶ。
「勝手に来ないでください!」
「怒るのあと!」
「当然です!」
「今は?」
マーガレットはリゼットを見た。
そして、セラを見た。
子どもたちを見た。
汚染兵を見た。
床の紋様を見た。
すべてを見て、ハルバードを握り直した。
「守ればいいんだよね?」
アレックスは、一瞬だけ笑った。
この声。
この明るさ。
この圧。
今、この地下に一番足りなかったもの。
「うん」
アレックスは言った。
「守ってくれ」
「任せて」
マーガレットが踏み込む。
薬房の床が震えた。
リゼットの表情から、初めて余裕が少し消える。
マーガレットは笑った。
「人を作品とか言ったの、あんた?」
リゼットは目を細める。
「あなたは?」
「マーガレット」
大地のハルバードが、青白い光を受けて鈍く輝く。
「覚えなくていいよ」
彼女は低く言った。
「絶対、ぶっ飛ばすから」
薬房の空気が変わった。
アレックスは導入器へ手をかける。
レクスターが床を抑える。
エイナが子どもたちを庇う。
マーガレットが汚染兵とリゼットの間に立つ。
四人になった。
守る力が増えた。
救うための戦いが、ここからさらに熱を帯びていく。




