【第28話 地下水路の薬房】
地下水路の闇は、地上の夜よりも深かった。
石壁は湿り、苔が張りつき、ところどころから細い水が滴っている。
ぽたり。
ぽたり。
その音が、狭い通路の中で何度も反響した。
足元には浅い水が流れていた。
濁った水。
染料の名残なのか、場所によって赤黒く、場所によって青く濁っている。
そこへ混じる、あの匂い。
鉄のような。
血のような。
欠片の匂い。
アレックスは息を浅くした。
喉の奥に、嫌な冷たさが絡みつく。
地上のグレイルは、まだ町の形をしていた。
人が歩き、店があり、宿があり、表向きの生活があった。
けれど、地下へ降りた瞬間、その皮が剥がれた気がした。
ここが、本当のグレイルなのかもしれない。
見えない場所で人を運び。
見えない場所で薬を渡し。
見えない場所で欠片を馴染ませ。
見えない場所で、声を消す。
そんな町の底。
腐った根。
その中を、三人は進んでいた。
先頭はエイナ。
短剣を片手に、音を立てず歩く。
彼女の足取りは慣れている。
どの石が滑るか。
どの角に身を隠せるか。
どこで水音が大きくなり、足音をごまかせるか。
全部分かっているようだった。
その背中を見ながら、アレックスは思う。
この町で生き残るとは、こういうことなのだろう。
明るい通りだけを歩くのではない。
闇の中の道を覚える。
危ない路地を避ける。
誰が見張りで、誰が密告者で、どこに逃げ場があるかを知る。
そうして、息をしてきた。
彼女は強い。
でも、その強さは、傷の形をしていた。
「止まって」
エイナが小さく手を上げた。
アレックスは足を止める。
レクスターもすぐに止まり、水の本を胸元で開いた。
少し先の曲がり角。
そこから、低い話し声が聞こえる。
「……さっきの悲鳴、またか」
「今夜は多いな」
「リゼット様が急いでるんだろ」
「逃げたガキのせいか?」
「知らねえよ。余計なこと聞くと、次はこっちが薬の材料だ」
男たちの声。
二人。
いや、足音の反響から三人。
アレックスの拳が握られる。
悲鳴。
セラかもしれない。
ニナの姉。
助けを求めている誰か。
今も、苦しんでいる。
足が前へ出そうになった。
だが、その直前にレクスターの手が腕へ触れた。
強く掴むのではない。
ただ、止まれと伝えるだけの手。
アレックスは歯を食いしばる。
レクスターを見る。
レクスターは声を出さず、目だけで言った。
確認。
焦るな。
助けるために。
アレックスは、ゆっくり頷いた。
エイナが小声で言う。
「見張り三人。たぶん旧市場側からの入口番」
「音を出さずに無力化します」
レクスターが答える。
「さっきみたいに?」
「はい。ただし、ここは水場です。私の方が有利です」
「頼もしいね」
「油断は禁物です」
レクスターは水の本へ指を添えた。
足元の濁った水が、音もなく細く伸びる。
床を這い、壁の隙間を通り、曲がり角の先へ。
アレックスは呼吸を整える。
レクスターが目を閉じた。
水糸が、見張りの位置を拾っているのだろう。
「一人、壁にもたれている。二人、通路中央。右奥に鈴」
「鈴?」
アレックスが小声で聞く。
「警報です。踏み込めば鳴らされます」
「先に鈴を止める?」
「はい」
エイナが感心したように目を細める。
「ほんと便利」
「便利ではなく術式です」
「はいはい」
「返事が雑です」
「今それ言う?」
ほんの少しだけ空気が緩む。
でも、すぐに戻る。
レクスターの指が動いた。
曲がり角の奥で、何か小さな金属音がした。
鈴が水に包まれた音。
続いて、くぐもった声。
「ん?」
「どうし――」
アレックスが動いた。
水音に紛れて踏み込む。
一人目の首筋へ柄の一撃。
二人目の膝を刃の背で打ち、倒れたところを顎へ軽く入れる。
エイナが三人目の背後に回り、短剣の柄で意識を落とした。
数秒。
誰も叫ばなかった。
水路には、また水音だけが戻る。
「拘束します」
レクスターが言う。
「今は急いだ方が」
アレックスが言いかける。
レクスターの目が鋭くなる。
「逃げられたら背後を突かれます」
「……分かった」
「判断は早く」
「うん」
三人は倒れた見張りを壁際へ運び、水糸と帯で拘束した。
エイナが彼らの腰袋を確認する。
「鍵がある」
「薬房の?」
「たぶん外扉用。あと、これ」
彼女は小さな青白い石片を取り出した。
布に包まれている。
欠片の破片だ。
アレックスの表情が変わる。
「見張りにも持たせてるのか」
「お守り代わりか、脅しだね」
エイナが言う。
「これを持ってると、リゼットの命令に逆らいにくくなるって噂がある」
「実際は?」
レクスターが石片を確認する。
「命令線の中継具として使える可能性があります。持ち主の精神にも影響するでしょう」
「じゃあ危ない」
「はい」
レクスターは水膜で石片を包み、布袋へ入れた。
「回収します。触らないように」
アレックスは頷いた。
通路の奥から、また声が聞こえた。
今度は、泣き声だった。
子どもではない。
若い女性の声。
押し殺している。
泣くなと命じられて、それでも漏れてしまうような声。
アレックスの呼吸がわずかに乱れる。
セラかもしれない。
ニナの姉かもしれない。
いや、そうでなくても。
誰かが泣いている。
ここで。
地下で。
「進みます」
レクスターが言った。
「焦らずに」
「分かってる」
「今は少し分かっています」
「少し?」
「少しです」
「それでも前よりはいい」
「はい」
エイナが先へ進む。
通路は、やがて二つに分かれた。
左は水音が強い。
右は薬品の匂いが濃い。
エイナは迷わず右へ向かう。
「薬房はこっち」
「どうして分かる」
アレックスが聞く。
「匂い」
「薬品?」
「薬品と、腐った甘い匂い。リゼットの薬は、いつも変に甘い」
レクスターが低く言う。
「神経を鈍らせる類の薬かもしれません」
「痛み止め?」
「それだけなら良いのですが」
「違う?」
「痛み、恐怖、抵抗、判断力。そういうものを鈍らせる薬でしょう」
エイナの顔が歪む。
「だから、逃げられなくなるんだ」
「可能性が高い」
アレックスは奥を見た。
青白い光が、さっきより強い。
壁の隙間から漏れている。
そこに人の声が混じる。
呻き。
咳。
泣き声。
そして、低い女の声。
「落ち着きなさい。暴れると薬が回らないわ」
柔らかい声だった。
優しい声に聞こえた。
だが、その言葉の内容は、ぞっとするほど冷たい。
「お姉さんを助けたいのでしょう? なら、いい子にしていなさい」
アレックスの足が止まった。
お姉さん。
セラではない。
別の誰かか。
それとも、セラへ向けた言葉か。
声の主は、おそらくリゼット。
薬師。
レクスターが小声で言う。
「近い」
「中の人数は?」
「最低五。うち一人は施術台の上。二人は拘束。見張りが二。リゼットと思われる人物が一」
「セラは?」
「判別不能」
「入る?」
エイナが聞く。
レクスターは即答しなかった。
水の本をかざし、周囲の流れを読む。
「罠があります」
「どこ」
「扉の前。床下に薬粉。踏むと拡散する仕組みです」
「吸ったら?」
「動きが鈍る。最悪、意識を失う」
「回避は?」
「可能です。水で固めます」
レクスターは床の隙間へ水糸を流し込んだ。
じわり、と湿った音がする。
薬粉が水に包まれ、泥のように固まる。
「これで一つ」
「一つ?」
「他にもあるでしょう」
アレックスは扉を見る。
古い木の扉。
その向こうに声がある。
誰かがいる。
泣いている。
助けを待っている。
でも、罠がある。
黒外套が見ている可能性もある。
リゼットは人質を使うかもしれない。
ここで焦れば、全員が危険になる。
アレックスは、ゆっくり息を吸った。
「レクト」
「はい」
「合図をくれ」
「分かりました」
「俺が走り出しそうなら」
「足を止めます」
「頼む」
「頼まれました」
エイナが短剣を握り直した。
「私は右から回る。扉を開けたら、見張り一人を止める」
「無理に攻撃しないでください」
レクスターが言う。
「分かってる」
「あなたも無茶の気配があります」
「この二人といると、私が普通に見えない?」
「見えません」
「即答」
アレックスが少しだけ笑う。
その笑いは、緊張をほどくためのものだった。
レクスターが扉の取っ手へ水を這わせる。
金具の構造を探る。
「鍵はありますが、見張りから回収したものが合います」
エイナが鍵を差し込む。
小さく回す。
音を殺して。
かちり。
扉が開く。
中から、薬品の匂いが一気に流れ出した。
甘い。
吐き気がするほど甘い。
その奥に、欠片の鉄臭さが混ざっている。
アレックスは、目を細めた。
部屋は広かった。
地下に作られた薬房。
石壁に棚が並び、瓶が無数に置かれている。
透明な液体。
赤い液体。
黒い粉。
青白く光る小さな石片。
中央には施術台。
そこに、若い女性が縛られていた。
長い黒髪。
青ざめた顔。
腕に浮かぶ黒い筋。
彼女は弱々しく身をよじっている。
そのそばに、白衣の女が立っていた。
細い体。
薄い灰色の髪。
整った顔立ち。
落ち着いた微笑み。
彼女は、まるで病人を看る善良な薬師のように見えた。
ただ、その手に持っている注射器のような器具の先には、青白い液体が揺れていた。
女は振り返る。
驚いた様子はない。
まるで来ることを知っていたように、穏やかに微笑む。
「こんばんは」
柔らかい声。
「思ったより早かったわね」
エイナが低く吐き捨てる。
「リゼット……」
白衣の女。
薬師リゼットは、優雅に首を傾けた。
「エイナ。あなたも来たの。困った子ね」
「困ってるのはこっちだよ」
「そう? でも、困っている人に薬を与えるのが私の仕事よ」
アレックスの目が、施術台の女性へ向く。
「セラか」
女性のまぶたが震えた。
「……ニナ……?」
掠れた声。
アレックスの胸が締めつけられる。
セラだ。
生きている。
「ニナは無事です」
アレックスが言った。
セラの目に涙が滲む。
「……よかっ……」
「余計なことを」
リゼットが静かに言った。
声は柔らかいまま。
けれど、その目は笑っていなかった。
「患者を興奮させると、薬の回りが悪くなるの」
「患者?」
アレックスの声が低くなる。
「縛って、欠片を入れて、それを患者と呼ぶのか」
「ええ」
リゼットは微笑む。
「この子は病んでいるわ。貧しさに、恐怖に、無力さに。だから私が整えてあげるの」
「整える?」
「痛みを鈍らせ、余計な抵抗を削り、欠片に馴染ませる。そうすれば、もう苦しまなくて済む」
エイナが短剣を握る手に力を込める。
「ふざけるな」
「ふざけていないわ」
リゼットは本当に不思議そうに言った。
「この町では、苦しまないようになることが救いなのよ」
「違う」
アレックスが言った。
静かな声だった。
だが、薬房の空気が少し震えた。
「それは救いじゃない」
「では、何かしら」
「奪っているだけだ」
リゼットは目を細める。
「あなたが、黒外套の言っていた王子様ね」
「元、です」
「あら、丁寧」
「セラを解放しろ」
「それは無理」
「なぜ」
「途中だから」
リゼットは青白い液体の入った器具を持ち上げる。
「今抜くと、この子は壊れるわ」
アレックスの足が動きかけた。
レクスターが低く言う。
「止まって」
その一言で、アレックスは踏みとどまる。
見る。
確認する。
助けるために。
レクスターは薬房全体を観察していた。
施術台。
セラの拘束具。
床の紋様。
欠片の瓶。
見張り二人。
棚の奥に座り込んでいる子どもが二人。
意識があるのかないのか分からない。
そして、天井付近の青白い結晶。
「リゼット」
レクスターが口を開く。
「その器具を置いてください」
「嫌と言ったら?」
「止めます」
「怖いわね」
リゼットは微笑む。
「でも、止められるかしら」
彼女が指を鳴らした。
薬房の奥にいた見張り二人が動く。
ただの見張りではなかった。
首筋に黒い筋が浮かぶ。
汚染兵。
しかも、先ほどの倉庫の者たちより動きが安定している。
「改良型です」
リゼットが言った。
「痛みは薄く、命令は深く、でも壊れにくい」
「人を道具みたいに」
エイナが吐き捨てる。
「道具ではないわ」
リゼットは穏やかに言う。
「作品よ」
その瞬間、アレックスの中で何かが冷えた。
怒りが熱ではなく、刃になる。
「レクト」
「はい」
「セラの状態は」
「拘束具と欠片導入器が繋がっています。乱暴に外せば危険」
「助ける方法は」
「リゼットを止め、導入器の流れを遮断。私が制御します」
「分かった」
「汚染兵は?」
「殺さず止める」
「難易度が高い」
「やる」
「でしょうね」
エイナが横で息を吐く。
「私、棚の子どもたちを見る」
「単独で前に出すぎないでください」
「分かってる!」
「信用度四割」
「私も判定されるの!?」
「当然です」
リゼットは、そのやり取りを眺めていた。
楽しそうではない。
黒外套とは違う。
彼女は観察している。
冷静に。
医者が患者の反応を見るように。
「面白いわ」
リゼットが言った。
「あなたたち、まだ救えると思っているのね」
「思っている」
アレックスが返す。
「救う」
「壊れているものも?」
「戻せるなら戻す」
「戻せなかったら?」
「それでも捨てない」
リゼットは少しだけ笑った。
「綺麗な言葉」
「綺麗じゃなくていい」
アレックスは雷の刃を抜く。
「本当にそうする」
汚染兵二体が動いた。
一体はアレックスへ。
一体はレクスターへ。
リゼットの手が、セラへ向かう。
アレックスは踏み込んだ。
ただし、走りすぎない。
視界の端でレクスターを見る。
レクスターが頷く。
行け。
その合図で、アレックスは雷のように前へ出た。
一体目の汚染兵の拳を避け、刃の背で肩の命令線を探る。
青白い点が首筋にある。
「見えた」
「浅いです!」
レクスターの声。
雷針。
汚染兵の動きが鈍る。
だが止まらない。
改良型。
接続が一箇所ではない。
「複数あります!」
「なら全部止める!」
「簡単に言わないでください!」
レクスターは自分へ向かう汚染兵を水糸で絡め取る。
地下水路は彼の領域だった。
壁の水。
床の水。
薬瓶の中の液体。
全てが糸になる。
「右脚、左肩、首!」
アレックスは指示に合わせ、雷を細く撃つ。
ばちん。
ばちん。
ばちん。
一体目が膝をつく。
完全停止ではない。
だが、動きは鈍った。
その隙にエイナが棚の奥へ走る。
座り込んでいた子ども二人へ近づく。
「大丈夫? 聞こえる?」
一人は反応しない。
もう一人は、かすかに目を開けた。
「……みず……」
「すぐ」
エイナが水袋を出そうとした瞬間、床の紋様が青白く光った。
罠。
「エイナ、下がれ!」
レクスターが叫ぶ。
エイナが跳ぶ。
床から青白い棘のような光が伸びた。
彼女の足元を掠める。
「っぶな!」
「だから単独で前に出すぎないようにと言いました!」
「子どもがいたら行くでしょ!」
「気持ちは分かりますが!」
レクスターが珍しく声を荒げる。
同時に水糸で床の紋様を覆う。
「アレックス、リゼットを!」
アレックスは振り向く。
リゼットは、セラの腕へ器具を近づけていた。
青白い液体が針先で震える。
セラの目が恐怖で見開かれる。
「いや……!」
その声で、アレックスの足が動いた。
今度は迷わなかった。
ただし、確認はした。
レクスターの視線。
セラの拘束具。
リゼットの手元。
針だけを弾く。
雷の刃が閃いた。
リゼットの指先を斬らない。
器具の金具だけを弾き飛ばす。
青白い液体が床へ散った。
じゅ、と石床が焦げる。
リゼットは一歩下がり、目を細めた。
「器用ね」
「次は手元だけで済ませない」
「あら、優しい王子様なのに?」
「優しさは、止めない理由にならない」
アレックスは刃を構える。
「人を傷つけるなら、止める」
リゼットの笑みが、少しだけ深くなった。
「では、止めてみて」
彼女が懐から小さな欠片を取り出した。
先ほどまでの破片とは違う。
濃い青白い光。
薬房全体の脈動が、それに合わせて強くなる。
セラが苦しそうに叫んだ。
子どもたちが呻く。
汚染兵が再び立ち上がる。
レクスターの顔が険しくなる。
「中核片です!」
「壊せるか!」
「壊せば接続されている者に反動が出ます!」
「じゃあ奪う!」
「無茶です!」
「でもやる!」
「でしょうね!」
アレックスが踏み込む。
リゼットは逃げない。
むしろ待っている。
彼女の背後で、青白い光が渦を巻いた。
黒外套の気配が、一瞬だけ混じる。
リゼットの唇が動いた。
「さあ、王子様」
柔らかい声。
「救えるものなら、全部救ってみなさい」
薬房の奥で、地下水路の水が逆流し始めた。
欠片の光が膨れ上がる。
セラの悲鳴が響く。
エイナが子どもたちを庇い、レクスターが水の本を開き、アレックスが雷の刃を握る。
グレイルの地下で。
人を薬にし、命を実験に変える薬房で。
救うための戦いが、本当の形で始まろうとしていた。




